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2015年4月1日水曜日

伝統をもとに時代に応え、時代を越えて伝説となる。

新年度は雨の幕開けであった。お気に入りの折りたたみ傘の収納袋をなくしてから、極力、傘を持たずに済ませようと思うようになってしまった。それでも今日は傘を持たないわけにはいかない天気と服装だったので、昨年3月にヘルシンキ市の青少年課でいただいたオレンジの折りたたみ傘をお供にすることにした。薄暗い空の下ではあるが、頭の上に鮮やかなオレンジが広がっていると、何となく明るい気分になり、そうしたことをフィンランドの人たちも狙ったのではないか、などと思いながら目的地へと向かった。

今日は應典院も含めた大阪・浄土宗大蓮寺の関係組織の新年度の総会が行われた。私も一組織を統括する立場として出席し、年度当初にあたって運営方針などについて話をさせていただいた。冒頭の切り出しは、時代に応えて後にも語り継がれるのが伝説、時代を越えた価値を継承できると伝統、という比較であった。もちろん、こんなきれいに分けることはできないが、1997年の再建から10年を迎える直前の2006年、應典院の主幹に就いて10年目を迎えるにあたり、60周年を契機に始めた園舎リニューアル工事が竣工したパドマ幼稚園のスタッフの皆さんに何かを感じて欲しかったのである。短い時間の語りとなったが、締めのことばは、inとbyとthroughの3つの前置詞を紹介し、施設の「中で」なされること、施設の担い手「によって」なされること、そしてそうした施設が拠点として活かされる「ことを通して」世の中にもたらされる意味を大切にして欲しい、とした。

こうして多くの言葉を用いているものの、特に最近は言葉が過剰な気がしている。先般、大阪での打合せの折、ある方が「言葉の力を信じる、なんていう人がいるけど、僕はお金の力を信じているよ」と仰っていると知った。確かに、綺麗な言葉ばかりが並ぶと、まるで光が乱反射するかのように、互いの要素が相殺されると共に、その場での居心地は悪くなっていくだろう。ちなみに先の打合せでは、その言葉が紹介された後、別の方が「コミュニケーションっていうのは、摩擦に耐えるってことだと思う」と述べ、それぞれのメモ帳に書き留め、場を鎮める言葉の力を感じたように思う。

先般、写真家の齋藤陽道さんにより宮沢賢治さんの『春と修羅』が「写訳」されたことを知り、圧倒された。言葉も写真も、世界を表現するためにある。このところ、ノイズキャンセリングヘッドホンをつけて移動することが多いのだが、ノイズを機械的に排除するのではなく、ノイズの中でも澄み渡る(はずの)何かを探る、そんな姿勢が大切なのだろう。言葉にしきれない感情をできるだけ論理的に表現しようと努めてみたが、そうしたことを思う年度末から年度初めに、以前から探し歩いていた「伝統の」Mマウントを付けた「伝説の」レンジファインダーデジタルカメラ「R-D1」の改良版「R-D1s」の中古に巡りあうことができたので、風景を切り取る新しい道具に迎え、世の中を丁寧に見つめていくこととしたい。