あの日、私は大阪大学豊中キャンパスにいた。科学技術振興機構(JST)の戦略的創造研究推進事業 (RISTEX:社会技術研究開発)に採択された平田オリザさんを代表者とする「犯罪からの子どもの安全」のプロジェクト「演劇ワークショップをコアとした地域防犯ネットワークの構築」の2011年度の成果発表会に出席のためであった。ちょうど、私がタウンミーティングと称した、政策形成のための対話集会のあり方について話題提供をした際、東北地方太平洋地震が発生した。後に「東日本大震災」と呼ばれ、また特定非常災害に指定された大規模・広域。複合型の災害として、多くの被害と日常生活の問い直しを各地にもたらした。
当日のTwitterの投稿内容が今でも参照できる。2011年3月11日は41の投稿が行われている。タイムスタンプが、あの日の自分の行動に消印を押している。地震発生から約2時間後に、3/13朝5時のNHK教育テレビ(Eテレ)の「こころの時代」で放送される予定だった、大蓮寺・應典院の秋田光彦住職を取り上げた番組情報をリツイートしている。その時は、よもや3日以上にわたって報道特別番組の体制になるとは想像がつかなかった。少なくとも私の投稿の潮目が変わったのは、18:11、阪急梅田駅(当時)の改札を出た後に、JR大阪駅とのあいだの路上で配布されていた号外を目にして以降である。
あれから10年、今日は朝に自宅を出て、仙台空港から福島県の会津(福島県立博物館での企画展「震災遺産を考える ―次の10年へつなぐために―」鑑賞)・浜通り(とみおかプラス「富あかり2021」)へと訪れた。仙台空港でレンタカーを借り受け、南西へと車を走らせ始めると、カーラジオ(Date fm:エフエム仙台)から渡辺美里さんの「10 years」(後にスタジオ収録された2021Verが3月11日付でYouTubeに公開されていることを知った)が流れてきた。中学生の頃、この「10 years」と映画「Back to the Future」をモチーフに「10年後の同窓会」といったミニ演劇の脚本を書いたことがある。最近では「黒歴史」という言葉もあるが、恥ずかしさが前に立つ点では通じるところがあり、また、何らかの機会で、あの脚本において未来を想像しうるものになっていたか、訊ねてみたい。
現在(2021年3月11日)、復興庁によって「東日本大震災における震災関連死の死者数)都道府県別・時期別)」が公開されているが、2016年3月11日以降は微減を続け、この1年半は災害によって直接亡くなった方の人数に対して0という数値が続いている。これは、私の推察だが、「いつまでも関連づけられることの方が辛い」という心理も働いているのではなかろうか。あれから10年も、この先10年も、細くとも長く、丁寧な関係構築に努めていきたい。
10年目の14:46は県博の企画展の展示室内で(帽子を取る警備員さん・今村正治さんらと)
(iPhone 12 mini, 4.2mm< 35mm equivalent: 26mm>, f/1.6, 1/50, ISO320)