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2021年3月16日火曜日

チャームにブルーム

朝は今年度最終の立命館大学の倫理倫理審査委員会だった。2018年度から委員をさせていただいており、来年度もまたお役目をいただいているものの、今年度で退任される方々も何人かおられた。そもそも、私が委員に就いたのも、どなたかが退任されたゆえのことであり、コンプライアンスが多方面で指摘される中、研究者の権利として与えられているもの(つまり、審査を受けることは義務ではない)がきちんと行使いただけるよう、お役に立てればと思っている。その一方で立命館では大学院の指導担当ではない私にとって、一連の審査において丁寧な確認が必要とされるということもあり、立命館の研究水準に触れることができる貴重な機会であると共に、自分自身の研究手法を見つめ直す機会にもなっている。

午後は大阪大学によるシンポジウムを聴講した。文部科学省委託事業「人文学・社会科学を軸とした学術知共創プロジェクト」 キックオフ・シンポジウム、という大きな看板が掲げられたものであり、「命に向き合う知のつながり―未来を構想する大学」というタイトルのものであった。中でも第1部「人文学・社会科学の可能性」での鷲田清一先生の講演「学問と社会 再論」がお目当てだった。鷲田先生は私が3年間の在籍をした直後に大阪大学の総長に就かれ、約2年前に京都市立芸術大学の理事長・学長を退任された後は大学を離れられたということもあって、「再論」という言葉が埋め込まれたのだろうと想像しつつ申し込んだものである。

2020年の7月18日、法然院で開催された第14回善気山文化塾の講演「使うこと、繕うこと」にて、久しぶりに鷲田先生の語りに触れたものの、その後、朝日新聞の「折々のことば」を休載されたこともあって、お身体を崩されたのかと案じていた。しかし、今日はZoom越しではあったものの、その独特の論理展開を楽しませていただいた。少なくとも私が最も興味が向いた点は、哲学者・カントによる「知性の公共使用」の観点を引き合いに出し、文部科学省による競争的資金獲得を煽動するかのごとくの政策動向は、結果として大学を社会に対して閉じた拠点化を推し進めることとなると共に、知性を自らの教育・研究の環境改善のために用いるという知性の私的使用に他ならず、学術研究の原点に立ち返る必要がある、と断言されたことである。この学術研究の原点とは、社会に関与せずに批評的な距離を保つことと、社会の抱え込んだ問題解決に責任を負うという、相反する2つのベクトルの中でこれから歩むべき道筋や方向性を個人・集団が見つけること、と示された。(ちなみに、そうした振る舞いに対して、オリエンテートとマッピングという語を当てたことを付記しておく。)

鷲田先生の講演は、現役世代に対して、伸びやかさとチャーミングさを忘れないで、とメッセージで締めくくられた。そして、学問と社会との関係構築では、大学からのアクションに対して市民からのリアクションを受け止める必要があるということ、すなわち大学は市民の学ぶ権利を支えることが重要、と言葉を重ねられた。こうした議論を支える理論として、ドゥルーズの「批評と臨床」を挙げ、クリティークとクリニックのバランスを取ることが、共犯関係に陥らないための重要な手がかりとなること、それゆえに特に人文学では問題解決策としてのソリューションよりも問題発見の過程において問いを立てることを大切にすべし、と示された。シンポジウムの終了は18時で、夕食はおなじみの街の中華料理のテイクアウトにしたので、改めてオーダーした品を取りにいく道すがら、やわらかい言葉ながら複雑に入り組んだ文脈のもとでの1時間の「鷲田節」を改めて味わい直してみた。

千本今出川の桜で人形浄瑠璃の義経千本桜を感覚的に想い起こしてしまうのでした
(iPhone 12 mini, 4.2mm< 35mm equivalent: 26mm>, f/1.6, 1/40, ISO640)