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2008年7月8日火曜日

遺影、撮ります。

 週刊朝日いう雑誌に、コメントが載った(2008年7月11日号 「縁起でもない」は過去の話 元気なうちに遺影を撮る人々)。しかし、雑誌は今日までの発売。恐らく、私の知る方の多くの方は手に取っていないだろうし、手に取っていたとしても注意して読んでいないのではないか、と考えてしまう。むしろ、私のことを知らない人たちが、私を知らない中でも読んでいただいているのではないかと、思いを馳せてみる。

 コメントの内容は、遺影に関するものであった。2007年の3月、10月に、相次いで、應典院にて開催された遺影に関連するプロジェクトの受け入れを担ったためである。かねてより應典院と縁のあったという阿古さんというライターからの取材により、掲載の運びとなった。ちなみに、時間の関係で電話取材のみということであったが、その後に不明な点を電子メールにて問い合わせをいただくなど、伝えることに対する丁寧な姿勢に好感を持った。

 私は、常々、遺影ということばが「残」ではなく「遺」ということばが使われていることに着目している。ちょうど、2008年3月に應典院で開催した写真展「好奇心星人の挑戦」のワークショップでも、ゴウヤスノリさんと共に「残るもの」と「遺すもの」という対比を行って、自分自身の生死を見つめるという機会を設けた。残る、というのは結果であり、遺す、というのは行為である。そんな風に捉えているのだ。

 「残る」もの「遺す」ものは、物体だけではない。いみじくも「遺された家族」ということばがある。つまり、結果として残ったもの、こと、ひとも、その人によって「遺された」行為の結実とも言えるのである。先のインタビューの補足では、「単に人と関わりたい、その思いから遺影を撮影するのではなく、『私が死んだ直後、私はどのような人に見送られるのだろう』、『その時に、どのような表情で迎え入れるのがいいのだろう』、そんな風に考えて、遺影を遺すという行為を選択したのだ、と考えている」とメールで綴ったのだが、そうしたやりとりを通じてまとめられた記事が、読み手に対して生死の意味を新たに紡ぎ出してもらえればうれしい。





遺影、撮ります。

76人のふだん着の死と生

あとがき(抜粋)




 二〇〇二年の秋に手書きしたA4の紙が一枚。「プロジェクト遺影ーーふだん着の死を見つめるーー/あなたの遺影を撮らせてください」と書きだしています。「時々、『この方は、この写真を使われて、喜んでおられるのかな』と思う場面に出合います。免許証の写真のようなお顔だったり、集合写真から引き伸ばしたようなぼけたものだったり」。小さな疑問は、根の深い願望から出てきたものです。「こうも思うのです。私が『遺影を撮る』と口にし、それを受け入れてくださる人なら�私の死�について語り合うことができるのではないか、と。日常の延長線上に、その時を見すえて、今、生きていることをいとしく思うーーそんな話を、〔改ページ〕本当は私はしたいのかもしれません(後略)。」

 そう、そんな話をしたかった私は、相手の体調が許せば数時間話し込み、大口あけて笑い、心の中でう゛う゛う゛と泣き、一緒に憤って、七六人の「生きてここにある実感」を綴っていきました。九五年の写真集『臨月』を見返してみると、撮影の仕方はほとんど変わっていなくて苦笑するばかりですが、あの頃より、糠漬けの腕もあがり、花の名もうんと覚え、将棋も俳句も話についていけるようになっています。PTAでもまれ、田舎の人づきあいも少しは体得しました。私自身の生き方、暮らし方が問われるインタビューだった、と思い返せば息苦しい。ガハガハと笑ってはいましたが、真剣でした。

 遺影を用意しようとする人は、自分のその時を見すえているということです。ただ、その時を見すえることと「死」にとらわれることとは違います。「死」を怖れないこととも「死」に立ち向かうこととも、違います。自分のその時を見すえるからこそ、生きることをいとおしむのです。今をよりよく生きようとするのです。



(野寺,2007, pp.163-164)



野寺 夕子 2007 遺影、撮ります。:76人のふだん着の死と生 圓津喜屋