この数年、1月1日は京都・鹿ヶ谷の法然院にお参りして、梶田真章貫主の新春法話に参加させていただいている。今年もまた、「共に生きる〜絆と縁、愛と慈悲」で、資料は2022年にいただいたものと同じセットであったが、毎年変わらず参加することにも大いに意味がある、と捉えている。それは一度聞いた楽曲や落語の演目が、その度ごとに異なった印象で受け止めている、という場面を想像すると理解してもらいやすいだろう。何より、聞くたびごとに受け止める印象が異なるという体験は、学問的な専門としている社会心理学の一分野であるグループ・ダイナミックスの観点に基づいても、仏教におけるダルマ(真理)・因縁生起(縁起)・無自性(むじしょう)・一切皆空に通じている「現象は実体として存在しない」という物語にも裏打ちされている。
今年の法話では、「自力作善」と「他力本願」との対比のもとで、お念仏の意味について力点が置かれていたように受け止めている。これは昨年の日記(https://nposchool.blogspot.com/2023/01/01.html)を読み返してみると、確信を持って言えることである。冒頭で日本社会における宗教の役割がどう変遷してきたか、という切り口から入っていくのはこの数年で共通する流れではあるものの、自らが向き合う対象に対する執着から離れる状態、つまり煩悩がどう安らいでいる「有り難い」状態、その状態に至るのが「悟りへの道」であるとして、自力と他力の区別が丁寧に語られていった。それが自ら功徳を積みながら悟るという自力作善と、阿弥陀仏の力を借りることによって悟りの世界で成仏する他力本願、という区別につながる、という展開へとつながった。
そして、梶田貫主は法然上人以前にも阿弥陀仏の信仰に基づく念仏があったことに触れられた。法然上人以前には、自力修行としての「観念の念仏」であり、道場で(例えば平等院鳳凰堂など、自ずと仏像と本堂を必要として)お釈迦さんを思いながら極楽往生する、とした。しかし、法然上人は天台宗の僧侶として「1つの戒は保てない」として、一切の衆生を成仏させるのが阿弥陀仏の本願であることから、「その本願に応えて念仏する」とした。その際、善導大師が説いた「称名念仏」の教えに基づくことで、自分が唱える声に従って往生できるという「決定心(けつじょうしん)」に向けて「唱える」ことを中心とした行いを法然上人らは広めていった、というのが、少なくとも私にとっての本日の法話のハイライトである。
ちなみに本日の法話は、梶田貫主のお話が1時間半で、その後30分あまり、参加者との対話が重ねられた。その中で、法然上人と親鸞聖人の教えの違い、転じて浄土宗と浄土真宗という教団の違いについて議論が及んだが、私にとっては特に『歎異抄』内での記述で広く知られている「悪人生起」について、「悪人とは自分の力で自分の力をコントロールできない人」で「自分で悟れない人」として「凡夫」を指していること、そして「仏の力を借りる凡夫が念仏を通じて往生できる」こと、と梶田貫主が整理されたことで、これまでが私が他者に語ってきた論理(浄土宗は一生唱えることによってお迎えが来るという「約束」に対する念仏、浄土真宗では既に往生が約束されていることへの「感謝」に対する念仏)について、もう一段、深く掘り下げることができた。法話の会場を後にして、山門前の白砂壇に描かれた今年の文字を拝見したところ、石川県での大地震の知らせが入った。白砂壇に描かれていたのは「暄風(けんぷう)」で、梶田貫主によれば「春のあたたかい風」とのことで、巡る季節の中で傷ついたもの・人・まちがきちんと整い、被災された方々が穏やかな暮らしが送られることを祈るところである。