今年もまた、A4版両面のレジュメと、原始仏典(「ダンマパダ」と「スッタニパーダ」からの「ブッダの言葉」、「広辞苑第6版で読む阿弥陀如来」、法然上人源空の略年譜、親鸞聖人の略年譜と、合計で6ページにわたる資料が配られた。ただ、今年はA4版両面のレジュメで記された内容について、比較的割愛する部分がなく、最後までお話になられた。そして、事実を観る(あきらめる)ことと未来を勝手に観ない(あきらめない)となることが、他者に思いを馳せつつ、共に生きるということではないか、とされた。そのあいだに、例年どおり、共生というときの人間と自然との関係性についての問題提起も含まれていた。
とりわけ今回の法話を伺う中で、仏においての善悪と私にとっての損得とが混同、あるいは取り違えられる、といったお話が深く印象に残った。授業で地域参加の意義を説く中で、そのメリット・デメリットを自らの尺度で捉えて再整理する受講生の感想に触れる機会が増えてきていることによる。そこに客観的かつ絶対的な社会的価値を語っているようで、実は主観的で相対的な個人的価値を提示しているのでは、という指摘をすると、自分の意見を否定された、という抵抗や拒絶が示されることもある。一人ひとりの感想は尊重するが、意見に対しては批判を受け入れる姿勢を構えて欲しいのだが、なかなか簡単にはいかないようである。
ちなみに例年、新春法話の中盤で語られるのが、柳田國男先生が指摘されたという「先祖教」の4つの特色をもとにした現世での幸せを追求していく流れについてであり、信心の近代化と個人化に関する物語として興味深く拝聴している。日本人が無宗教と言われるのは、特定の教祖をもつ宗教を信じていないものの、生活文化として地域の宗教(送り火、精霊流し、門松、お年玉、たなばた、など)が形成され、江戸から明治にかけて仏壇が登場することで家の宗教(先祖供養)が根ざしていった、と説かれる。今年は昨年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻もあって、執着こそがいさかいの原因になるという観点での「愛は地球を救わない」という言葉が、より実感を伴って参加者に響いたように思われる。そうした情勢もあってか、山門をくぐると目に入る白砂壇には「めでたいことの起こるきざしとして現れる雲」を意味する(ゆえあってか、かつて大日本帝国海軍が水上偵察機の名前にも用いていた)「瑞雲」の字が描かれていた。
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