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2013年7月6日土曜日

語り、黙り、見つめなおす。

しゃべるのは好きだが、時々、黙るのも好きである。故事に「沈黙は金、雄弁は銀」がある。この概念に哲学の視点から考察したものとして、ドイツの哲学者・カーライルによる「衣装哲学(あるいは衣服哲学)」があるというが、未読なままだ。ともあれ、肯定と否定とのあいだを頻繁に往復する思考実験も好きなので、時にしゃべり、突然黙ることさえある。

そういう意味で私は、周りとも、また周りからも、「つきあいやすい/つきあいにくい」の評価が分かれるのではないかと思われる。昨日から参加しているアミタによる京北での「対話」の場でも、「住み応えを高めるよりも、いかに住み継ぐかを考えることができる人を」、「仏壇のある家が受容する他者性が重要」、「役職の設定よりも役割の創出を」、「覚悟を固めるステージを段階的に演出する」など、まあ、わかるようなわからないようなことを、時折語ってみた。それぞれに「何となく」わかるフレーズだが、結果として、何をどうしたらいいかは「する」人にしかわからない。自分が主体ではなく、対象になってしまっては、こうした言葉は、ただ、聞き流されて、「いろいろな話をした」で終わってしまう。

午後からはまた別の対話の場所に赴いたのだが、そこではなおのこと「語ること」と「黙ること」が重要とされた。茨木市豊川にあるコリア国際学園で開催された24時間サッカーの一環として実施された「哲学カフェ」に参加させていただいたためだ。「越境人になる」を理念に展開されている教育の現場に集った人々は、それぞれに「これまで」と「今」と「これから」をつなぐべく、口を開き、耳を傾け、目を向ける、とても尊い場が生まれていた。大阪大学の本間直樹先生が進行役を務めるグループに参加させていただいたのもあって、その進行の妙技にも改めて学びを得たのだが、それ以上に、コリア国際学園で学ぶ中学生から「いのちより大切なものはあるのか」、「なぜ人は働くのか」といった「なぜ」が問いかけられたときの場の緊張感に、いい意味で圧倒させられてしまった。

そんな心地よい緊張感もあってか、コリア国際学園にお伺いした後は、同じグループで出会ったご近所の方と共に、「大阪茨木モスク」にお邪魔させていただいた。詳細は省くが、茨木市豊川という地域が紡いできた多文化共生の歴史にどっぷり浸る経験を得た。あいにく、夜からはきょうとNPOセンターの次期中期経営計画の企画会議のため、それぞれに中途半端な関わりとなってしまったのだが、それでも、多様な人々の「違い」から始まる対話の意義を、十二分に見つめる半日となった。それゆえ、最後の会議では、「私は違うと思う」という「主張」に基づく「議論」あるいは「討論」の場に辟易としてしまい、「私は違うと立場を固定して主張を重ね続けることは、今日の趣旨とは違う」と、「違い」の我を張り合う結果になってしまったことを、小さく恥じている。

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