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2015年1月7日水曜日

「わかる」と「かわる」


「場に正面があるという空間は珍しいのではないか。」今日は朝から應典院で年始のお勤めがあった。冒頭の発言は秋田光彦住職の講話の一節である。宗教空間において御本尊を前に皆がお念仏を唱えることの意味について、逆に生活空間では「テレビの方を向いて集う」といった間の取り方に注意を向けてのお話だった。
 應典院でのお勤めの後、大学での講義の前に今年最初の英語のレッスンに向かった。今、通っているクラスではInternational New York Timesの記事をテキストに語り合うこととなっている。今日のテーマは米国の裁判制度における検察と警察の関係についてであった。昨年7月のニューヨーク州Staten Islandでの事件(違法タバコを販売していたとして捕らえ、窒息死)、8月のミズーリ州Fergusonでの事件(警察の指示に従わなかったと、射殺)、9月のノースキャロライナ州Charlotteでの事件(交通事故で近隣住民に助けを求めようとしたものの強盗と間違えられ、射殺)と、相次いで警察が故意故殺とされていく背景が扱われた。日本でも刑事事件に裁判員制度が導入されて久しいが、刑事と民事とも扱われる点、有罪か無罪かの評決のみ(量刑は扱わず、司法取引があることも一因だろう)を行う小陪審、起訴か不起訴かを評決する大陪審など、Tad先生の絶妙な進行もあって、内容の理解が深まった。
 英語を学んだ後は、立命館大学びわこ・くさつキャンパスでの「現代社会のフィールドワーク」の講義に向かった。この2ヶ月ほど重ねたフィールドワークの発表の回だった。5つのチームに分かれ、「人はなぜタバコを吸うのか?」、「なぜ関西人はノリがいいのか?」、「BKCの設備はどのように決まっているのか?」、「なぜ男性もKAWAIIと言われるようになったのか?」、「日本人は小心者か?」といったテーマを掲げてのフィールドワークがなされてきた。多様な人々に尋ね、映像も用いて実験がなされ、関係者に直接ヒアリングを行い、仮説を鍛え上げ、諸条件を変えて複数の調査を重ねるなど、精力的な動きからもたらされた結果を分かち合うことができた。
 この講義では脳味噌で理解する(understand)ことと経験的に実感する(realize)こと、2つの「わかる」を重ねて欲しいと伝えてきた。頭と身体、あるいは熟慮と脊髄反射、そうして理解と実感を重ねることで、結果としてある場面に対する行動様式を習得することができると考えたためである。ちなみに『「わかる」ことは「かわる」こと』という書物(養老孟司・佐治晴夫、河出書房新社、2004年)もある。脳味噌で考えているうちは、まだまだ「腑に落ちる」「膝を打つ」段階まで至っていない、そんなことを朝から考え、夕方には学生らの学習成果から感じる、そんな一日だった。

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