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2008年12月27日土曜日

祈り

 應典院の自分感謝祭が行われた。と、簡単に書いたが、なかなか伝えるのは難しい。應典院の年中行事の一つで、一年間を振り返り、次の一年を展望する音楽法要、と記したところで、なかなか伝わらないだろう。自分感謝祭は、秋田光彦住職、池野亮光事務局長など僧侶スタッフはもとより、城田邦生主務及び森山博仁主務ら技術スタッフと、さらには素晴らしいオルガン演奏を行っていただく藤田礼子さんと、玄妙な照明計画と技巧によって得も言われぬ場を創造していただくホシノ貴江さん、そして来場いただく方々の協創によるものである。

 應典院で働く者ゆえに身びいきとなるが、なかなかの催しである。音楽法要と言いながらも、まずは灯明をあげ、献花し、そして線香をあげる。その後、基本的に浄土宗の枠組みに沿っているが、どんなお宗旨の方でも読むことができる「般若心経」を中心にした読経が行われる。続いて住職による法話が行われ、最後に、今年の悔やみを記した「自分懺悔(さんげ)カード」を炊きあげる「浄焚」と、来年への展望を記した「自分感謝カード」を三宝に載せて誓いを立てるという儀式だ。

 ここで行われる住職の法話は、さしずめ、清水寺で行われる「今年の一文字」のような意味合いでもある。昨年は若くして癌で亡くなったJRの運転士(念のため、尼崎脱線事故の運転士ではないことを記しておく)のお話と「呼びかけ」ということをテーマにしたお話であった(ように思う)が、今年はホスピス病棟で亡くなった方の末期に向き合われたお話と秋葉原連続殺傷事件のことが話題に上った。端的にまとめるなら、「つながり」について取り上げた話であった。とりわけ、秋葉原事件の犯人は、犯行前、しきりにインターネットの掲示板へ事件発生に至るまでの経過を綴ったのは何故なのか、さらにそれに対して直接的に反応しなかったのはなぜか、それらを手がかりに、「つながり」についての問題提起が行われたのだ。

 要するに、今年の自分感謝祭では、私自身は生かされている存在であるということ、いわゆる「縁起」の教えが説かれた。その際に使われた「道具」の一つが、山尾三省の詩である。この詩は、先ほど少し触れた、ホスピス病棟で亡くなられた方に、秋田光彦住職が薦めた書籍の一つに掲載されていたものである。毎年12月26日の午後2時と午後6時から行われる催しであり、一年でたった2回の機会を得ていただかなければ、なかなかその醍醐味を堪能することができないのであるが、本日の法話で触れられた詩の全文を以下に示すので、追体験をしていただければ幸甚である。



永劫の断片としての私





人間とは何か

私とは何か という

日常世間から忘れられた問いを

正面に立て 生涯をかけて

どこまでも追っていくのが

お寺 という場の仕事であり 詩人の仕事でもあります



お寺には昔から

阿弥陀様という如来が 座っておられますが

人間とは何か

私とは何か



という問いと 阿弥陀様の間に

どんな関係があるのかといえば



人間というものは

また 私というものは

(私達を生み出した)この永劫宇宙の 断片であることが

昔から知られていたのです



阿弥陀様というのは

人格化された 永劫宇宙の姿であり



私達は どのように思考や文明を展開させたとしても

この永劫宇宙の

断片であることから

逃れることは できません



ですから ありのままに

その永劫宇宙の 断片としてあり



ありのままに

南無不可思議光仏 と

永劫宇宙を讃えることが

その断片としての私の

喜びとなり

知慧の完成ともなります



人間とは何か

私とは何か という

世間にあっては難しい問いを

正面に立て 生涯をかけて



どこまでも追っていくのが

お寺という場の仕事であり 詩というものの仕事です







山尾 三省 2002 祈り 野草社、 pp.121-124.