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2014年3月30日日曜日

向き合うこと・寄り添うこと


悪友の結婚式に招かれた。祝宴なので喜ぶべき機会なのだが、正直、ささやかな驚きを携えての出席でもあった。彼とは小学校から高校までの同窓である。しかし、単に同じ学校を卒業した、というだけに留まらず、多くの場を共にしてきた。

彼の立ち位置はある種、独特である。単純なリーダーでないが、かといって、漫然としたフォロワーでもない。今日の式でも「自転車、スキー、オートバイと、スピードを求めていった」と紹介されていたが、彼は「その先の世界」と、「その先への世界観」に浸ることができるよう、周りを巻き込んでいく。巻き込むというと良いイメージを抱かないかもしれないので、場を包み込んでいく、という表現を用いることにしよう。

彼の場の包み方は、ある種、独特である。例えば、小学校のときには給食用のエレベーターに乗りたいと言い、中学校のときには放送委員会の委員長として創りたい番組を創りたいと言い、私たちを巻き込んでいった。しかし、巻き込まれていった側には、いや、少なくとも彼が導く雰囲気へと包み込まれた私にには「させられた」感覚は残らず、むしろ「ちょっとした悪巧みに荷担した」ことの冒険心と罪悪感とが交錯し、思い出深い物語が遺ることとなった。今日の祝宴では、そんな挿話を交えつつ、高校時代の友人と二人で、当時の「塾の自習室から学び合う関係づくりをもたらしたい」という彼のやんちゃっぷりを紹介させていただいた。

折しも、式場に向かうまでは雨に降られ「雨降って地固まる」という常套句が似合う天候となったが、実は彼には「ぬかるみにこそつっこんでいく」性分がある。実際、報道の仕事を続けている彼の趣味の一つにオートバイがあるのだが、何かを伝える報道も、何処かに走らせていくオートバイも、自分を基点に何か(あるいは誰か)へと関心や行動が向けられる。要するに、何かを伝える、何処かに向かう、そうした「一方通行の矢印」の世界を生きてきた彼を悪友と思うからこそ、人生の伴侶となる方に、まるで「取扱説明書」のごとくに、「彼に向き合う」のではなく「彼と寄り添う」暮らしを送って欲しいとの願いをことばにさせていただいた。「私を見て」ではなく、「共に何かを見ていく」、そうした場を共にすることができれば、晴れの日の心地よさに浸るだけではなく、雨の日のぬかるみをもがくこともまた楽しめるのではいか、と思いながら、二人の末永い幸せを祈らずにはいられなかったのである。