先般、大失態をやらかしてしまった。私が管理職を務めている應典院での映画会において、である。應典院というお寺は、檀家制度によらず、NPOによる会員制度により各種事業の企画運営がなされているが、その会員さんの投げかけによって上映した映画とトークのイベントに対し、あまりに無様な集客数に止まってしまったのである。遠方より来場いただいた監督及び企画立案をいただいた会員の方には謹んでお詫び申しあげると共に、年の瀬の忙しいなかでご参加いただいた有縁の皆さまに深い謝意をお伝えさせていただきたい。
最近、つとに感じているのは、「ウケる」ことばと「響く」ことばは違うということである。正確に数えたことはないが、概ね年間で50本ほどの事業に携っている。そんなか、特に最近、体のいい「ウケねらい」のことばを吐き、結果として、響くことばを紡ぎ出せていないのかもしれない、という焦燥感に責めさいなまれることがあるのだ。その背景には、緻密、綿密、かつ継続的で集中的な情報発信が行えていないのではないかという反省がある。
惨憺たる結果を適切に受け入れようと深い悩みに浸っていたところ、昨日実施された應典院の月次会議にて、住職より『いきなりはじめるダンマパダ』がスタッフ全員に手渡された。この書物は、昨年度、應典院にて開催された原始仏典「ダンマパダ」を取り上げた仏教講座の内容が再構成されたものである。講座の講師であった釈徹宗師(大阪府池田市・如来寺住職)の著作だが、2008年の夏に出版の話が具体化し、12月には刊行されているという手際の良さに圧倒される。当時の講座風景の写真を提供すればよかったという後悔を携えつつも、一方で講座に参加された方々の熱心な姿勢は今でも容易に想い起こすことができるという、希有な学びの場であったことをここに記しておきたい。
振り返れば、今年の應典院はスタッフの底力で仕上げたコモンズフェスタに始まり、途中にチベット騒乱に関する講演会や恒例の演劇祭などを経て、明日、
自分感謝祭にて幕を閉じる。単なる年の瀬の感傷的な雰囲気に浸っているのではなく、改めて今年は何をなしえたのかを考えつつ、昨年、應典院で生まれ育った学びの場が一冊の本にまとめられていることに喜びを覚え、久しぶりにブログに書き込みを行ってみた。既に記したとおり、秋には應典院で結婚式も挙げさせていただいた。この年に出会い、またつながりなおした皆さまへの感謝とともに、重要なときに響くことばを持ち得なかった自分自身への懺悔(さんげ)の思いを携えて、再び私語りを始めていくことへの決意を表させていただきたい。
仏教の目指す理想の宗教的実存とは
自分自身との関わり、他者との関わり、さらには神との関わり。生と死を超えるものとの関わり、あるいはこの世界、社会を超えるものとの関わり。
その関わっている姿こそ自分自身そのものである、これを宗教的実存と言うことにしましょう。
では、仏教の目指す理想の宗教的実存とは何でしょうか。
それは、「成り切る」ことです。歩くときには歩くことに成り切る、坐るときには坐ることに成り切る、念仏すれば念仏そのものに成り切る。でもそのためには、自分のありのま(改ページ)まの姿をしっかりと自覚せねばなりません。
何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか。 ーー 世間は常に燃え立っているのに。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか。(一四六)
君のその笑い、その喜びはニセモノだ。世間は常に自分の都合で燃えるような焼け焦がされるようなニセモノの世界じゃないか。虚妄じゃないか。厳しくがぶり寄ってくるような偈です。
ここで語られる「暗黒に覆われている」とは、「無明」のことです。「自分自身のありのままの姿さえ見えていない」ことを表しています。君は闇の中にいるのだ、そのことに気づかないのか、というのです。どうして真の姿を求めないのか、それでいいのか、そのように第一四六番は迫ってきているのです。この文章を読んで、実存不安を感じる人はそうとうな宗教的実存派ですね。
この一四六番はたいへん迫力のある偈です。すごく力強い。ちょっとお疲れ気味のみなさんの宗教的実存を呼び起こそうとしているかのようです。
ちなみにここで出てくる燈明は、仏教の教え(で得た智慧)のことです。例えばみなさ(改ページ)んが真っ暗な部屋にただ一人居るとします。自分の手足さえ見えない、真っ暗闇です。それが私たちの今の現実存在なのかと第一四六番は語りかけています。どの方向へ向かって歩けばいいのかさえわからない。自分はどんな人間なのかさえわからない。そこへ、燈明がもちこまれます。一気に部屋の様子がわかります。自分の姿も見えるし、どの方向に出口があるかもわかる。そして、暗闇だと現れなかった自分の姿が黒々と、くっくりと出現します。この影は自分が抱える煩悩を表しています。そう、仏教の教えに会わなければ、煩悩も見えてこないんですよ。でも、大丈夫。煩悩があっても、燈明があります。燈明はものごとの実相を魅せてくれる智慧です。
仏道を歩む、仏教を実践するということは、暗闇の中に燈明を照らすことです。ですから、世界中の仏教はみんな明かり(ローソクとか)を荘厳しますね。明かりとお花、これは世界のどの仏教でも荘厳されます。明かりが智慧、お花が慈悲を表しています。
「『智慧』と『慈悲』の獲得と実践」、これぞ仏教が目指す理想です。
釈 徹宗 2008 いきなりはじめるダンマパダ:お寺で学ぶ「法句経」講座 サンガ(pp.269-271)