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2008年12月30日火曜日

mobile me

 iPhoneが、単なる電話と異なるのは、私にとって最適な情報ビューワーであるためだ。情報ビューワーとして都合がよいのは、画面の大きさだけではない。また、ペンのいらない操作性だけでもない。最大の理由は、MacOS機を常用しつつ、情報の一元化を図っていることにあろう。

 というのも、iPhoneは、同じくAppleから提供されているmobile meというサービスを使うことによって、グローバルな情報だけでなく、ローカルな情報、つまり個人情報との同期を図ることができるのである。予定表、アドレス帳、メール、それらの情報が一元化されるのだ。iPod Touchもまた、mobile meを使うことができる。しかし、iPhoneと決定的に異なるのは、(少なくとも私の場合は)softbankの3G回線がつながっていれば、いつでも、情報の同期を取ることができるのだ。別に取るに足らないこと、と思う人もいるかもしれないが、早くからPDA(Personal Digital Assistant)を使ってきた私としては、何の気兼ねもなくデータの同期が取れるということは、極めて画期的なことなのである。

 ガジェット好きな私は、以前、Apple社(当時、Apple Computer社)から出されていたNewton Message PadというPDAを使っていた。1998年のことである。日本語版はなかったものの、エヌフォーという会社が開発してたソフトを使って日本語化をして使っていた。残念ながら、その中に入れたデータの取り扱いに困り、Palm社の機種に乗り換え、Macと同期させて使っていた。

 皮肉なことに、Appleが作ったNewtonの個人情報は、同じ会社のMacとのあいだで同期が取れなかったが、Palmとのあいだでは、OSXの時代になっても、一手間をかければ容易に情報の一元化を図ることができた。しかし、一つだけ困ったのは携帯電話の番号を、着信履歴等とあわせて同期を取ることであった。最初はSymbianOSが動くモトローラのM1000という機種を購入し、その後、WindowsMobileが動くHTC Zという機種を應典院から支給していただき、それぞれに使っていたものの、操作性と日本語の扱いがうまくいかず、不満が募っていた。そこに出てきたAppleによるiPhoneとmobile meは、私にとって、かねがね望んでいたハードとソフトのパッケージなのであった。









2008年12月29日月曜日

iPhone

 今年一番の買い物は、iPhoneだったかもしれない。言うまでもなく、値段で、という意味ではない。結婚にあたっての衣装や旅行などは、iPhone何台分にあたるだろうか。とはいえ、それぞれに、お金の大小には代え難い、魅力や価値がある。

 とりわけ、iPhoneの何が一番かというと、ライフスタイルやワークスタイルが、この近年希に見るくらい変化したためである。その要因は、手の中にインターネットの世界が埋め込まれている、という点にある。無論、これまでも、NTTパーソナルの時代から、PHSで通信環境を整えてきたし、携帯電話はM1000というビジネスFOMA第一世代機から使ってきた。しかし、iPhoneほど、ただ「できる」だけでなく、何の気なしに通信を「する」ことを楽しませてくれた端末はなく、さらには活用「したい」と思わせる仕掛けを喜ぶことができるものはなかった。

 iPhoneが最も画期的なのは、単なる携帯電話の枠ではなく、携帯情報ビューワーとして最適化されているところにある、そう捉えている。すなわち、文字入力等もできるのだが、それ以上に、インターネットを通じて情報を吸い出し、目の前に表現してくれるという端末だ、ということだ。事実、私はこの12月から、職場・個人の全てのメールを、ほぼiPhoneで確認するようにしている。その他、電車の時刻などの確認等も、すべてiPhoneだ。

 ただ、不便なこともある。まず、1994年12月から使ってきたNTT DoCoMoでは困らなかった「圏外」に遭遇することが圧倒的に増えており、その最たる場所が自宅(の寝室)なのだ。その他、電池の持ちの問題などもあるが、それ以上に不便なのは、それだけiPhoneの使用がライフスタイルとワークスタイルに根付いているため、忘れた時に、情報から、また電話環境を失ってしまう、ということだ。実際、今日も演劇鑑賞等に出かけたのであるが、途中、住職からメールが送られており、お会いしてから「メールを送ったけど」と言われる始末であった……。







2008年12月28日日曜日

scansnap

 今日は應典院の仕事納めだった。例年、仕事納めの日は、個々の机周辺の清掃、エアコンのフィルターの清掃、ワックスがけ、が恒例となっている。ちなみに、昼食を全員で食べることも恒例行事の一つである。加えて、住職が「下座行だ」と仰いながら、たった一人で、全てのトイレを掃除をされるのも、恒例となっている。

 さて今年の大掃除、個々の机まわりの清掃は1時間の予定であったが、私だけが、遅々として片付かず、足並みを乱してしまった。無理もない。机の上は書類の山、山、山であったのだ。「雪崩」と揶揄されながらも、一つひとつ、思い出に浸りすぎないようにしながら、整理し、片付けていった。

 書類だらけの机上を整理するにあたって、極めて役立っているのが、富士通の子会社「PFU」から出ているscansnapという機械である。より一般的な名称で呼ぶなら「ドキュメントスキャナ」と呼ばれるものだ。A4サイズまでの紙を、最大50枚までセットでき、その後ボタンを押せば瞬時に読み込んでいってくれる。しかもそれは、PDF形式やJPG形式など任意の書式で保存ができる上、ファイルの容量を重視するのか、あるいは画質を重視するのか、など、ある程度の設定がパソコン上で可能となっているのである。

 とりわけ、パソコン関係の機械は「ガジェット」と呼ばれるが、私はそもそもガジェット好きな人間であるとよく言われている。このscansnapも、数あるモデルのなかでも「scansnap fi-5110EOX2」と「S500-W」と「S300M」の3つを所有しており、中でも應典院に置いている「S500-W」は、以前に探しに探して新品を購入した逸品なのである。と言うのも、「S500-W」は、発売5周年に出た「限定」モデルだったのだ。今でこそ、後継機種のS510はMac専用モデルとしてホワイトモデルが出ているが、「S500-W」は……などと、際限なく「モノ」について語ってしまいたくなる私、来年も「モノフェチ」の癖は直りそうにない。



  

 



2008年12月27日土曜日

祈り

 應典院の自分感謝祭が行われた。と、簡単に書いたが、なかなか伝えるのは難しい。應典院の年中行事の一つで、一年間を振り返り、次の一年を展望する音楽法要、と記したところで、なかなか伝わらないだろう。自分感謝祭は、秋田光彦住職、池野亮光事務局長など僧侶スタッフはもとより、城田邦生主務及び森山博仁主務ら技術スタッフと、さらには素晴らしいオルガン演奏を行っていただく藤田礼子さんと、玄妙な照明計画と技巧によって得も言われぬ場を創造していただくホシノ貴江さん、そして来場いただく方々の協創によるものである。

 應典院で働く者ゆえに身びいきとなるが、なかなかの催しである。音楽法要と言いながらも、まずは灯明をあげ、献花し、そして線香をあげる。その後、基本的に浄土宗の枠組みに沿っているが、どんなお宗旨の方でも読むことができる「般若心経」を中心にした読経が行われる。続いて住職による法話が行われ、最後に、今年の悔やみを記した「自分懺悔(さんげ)カード」を炊きあげる「浄焚」と、来年への展望を記した「自分感謝カード」を三宝に載せて誓いを立てるという儀式だ。

 ここで行われる住職の法話は、さしずめ、清水寺で行われる「今年の一文字」のような意味合いでもある。昨年は若くして癌で亡くなったJRの運転士(念のため、尼崎脱線事故の運転士ではないことを記しておく)のお話と「呼びかけ」ということをテーマにしたお話であった(ように思う)が、今年はホスピス病棟で亡くなった方の末期に向き合われたお話と秋葉原連続殺傷事件のことが話題に上った。端的にまとめるなら、「つながり」について取り上げた話であった。とりわけ、秋葉原事件の犯人は、犯行前、しきりにインターネットの掲示板へ事件発生に至るまでの経過を綴ったのは何故なのか、さらにそれに対して直接的に反応しなかったのはなぜか、それらを手がかりに、「つながり」についての問題提起が行われたのだ。

 要するに、今年の自分感謝祭では、私自身は生かされている存在であるということ、いわゆる「縁起」の教えが説かれた。その際に使われた「道具」の一つが、山尾三省の詩である。この詩は、先ほど少し触れた、ホスピス病棟で亡くなられた方に、秋田光彦住職が薦めた書籍の一つに掲載されていたものである。毎年12月26日の午後2時と午後6時から行われる催しであり、一年でたった2回の機会を得ていただかなければ、なかなかその醍醐味を堪能することができないのであるが、本日の法話で触れられた詩の全文を以下に示すので、追体験をしていただければ幸甚である。



永劫の断片としての私





人間とは何か

私とは何か という

日常世間から忘れられた問いを

正面に立て 生涯をかけて

どこまでも追っていくのが

お寺 という場の仕事であり 詩人の仕事でもあります



お寺には昔から

阿弥陀様という如来が 座っておられますが

人間とは何か

私とは何か



という問いと 阿弥陀様の間に

どんな関係があるのかといえば



人間というものは

また 私というものは

(私達を生み出した)この永劫宇宙の 断片であることが

昔から知られていたのです



阿弥陀様というのは

人格化された 永劫宇宙の姿であり



私達は どのように思考や文明を展開させたとしても

この永劫宇宙の

断片であることから

逃れることは できません



ですから ありのままに

その永劫宇宙の 断片としてあり



ありのままに

南無不可思議光仏 と

永劫宇宙を讃えることが

その断片としての私の

喜びとなり

知慧の完成ともなります



人間とは何か

私とは何か という

世間にあっては難しい問いを

正面に立て 生涯をかけて



どこまでも追っていくのが

お寺という場の仕事であり 詩というものの仕事です







山尾 三省 2002 祈り 野草社、 pp.121-124.

2008年12月26日金曜日

いきなりはじめるダンマパダ

 先般、大失態をやらかしてしまった。私が管理職を務めている應典院での映画会において、である。應典院というお寺は、檀家制度によらず、NPOによる会員制度により各種事業の企画運営がなされているが、その会員さんの投げかけによって上映した映画とトークのイベントに対し、あまりに無様な集客数に止まってしまったのである。遠方より来場いただいた監督及び企画立案をいただいた会員の方には謹んでお詫び申しあげると共に、年の瀬の忙しいなかでご参加いただいた有縁の皆さまに深い謝意をお伝えさせていただきたい。

 最近、つとに感じているのは、「ウケる」ことばと「響く」ことばは違うということである。正確に数えたことはないが、概ね年間で50本ほどの事業に携っている。そんなか、特に最近、体のいい「ウケねらい」のことばを吐き、結果として、響くことばを紡ぎ出せていないのかもしれない、という焦燥感に責めさいなまれることがあるのだ。その背景には、緻密、綿密、かつ継続的で集中的な情報発信が行えていないのではないかという反省がある。

 惨憺たる結果を適切に受け入れようと深い悩みに浸っていたところ、昨日実施された應典院の月次会議にて、住職より『いきなりはじめるダンマパダ』がスタッフ全員に手渡された。この書物は、昨年度、應典院にて開催された原始仏典「ダンマパダ」を取り上げた仏教講座の内容が再構成されたものである。講座の講師であった釈徹宗師(大阪府池田市・如来寺住職)の著作だが、2008年の夏に出版の話が具体化し、12月には刊行されているという手際の良さに圧倒される。当時の講座風景の写真を提供すればよかったという後悔を携えつつも、一方で講座に参加された方々の熱心な姿勢は今でも容易に想い起こすことができるという、希有な学びの場であったことをここに記しておきたい。

 振り返れば、今年の應典院はスタッフの底力で仕上げたコモンズフェスタに始まり、途中にチベット騒乱に関する講演会や恒例の演劇祭などを経て、明日、自分感謝祭にて幕を閉じる。単なる年の瀬の感傷的な雰囲気に浸っているのではなく、改めて今年は何をなしえたのかを考えつつ、昨年、應典院で生まれ育った学びの場が一冊の本にまとめられていることに喜びを覚え、久しぶりにブログに書き込みを行ってみた。既に記したとおり、秋には應典院で結婚式も挙げさせていただいた。この年に出会い、またつながりなおした皆さまへの感謝とともに、重要なときに響くことばを持ち得なかった自分自身への懺悔(さんげ)の思いを携えて、再び私語りを始めていくことへの決意を表させていただきたい。





仏教の目指す理想の宗教的実存とは




 自分自身との関わり、他者との関わり、さらには神との関わり。生と死を超えるものとの関わり、あるいはこの世界、社会を超えるものとの関わり。

 その関わっている姿こそ自分自身そのものである、これを宗教的実存と言うことにしましょう。

 では、仏教の目指す理想の宗教的実存とは何でしょうか。

 それは、「成り切る」ことです。歩くときには歩くことに成り切る、坐るときには坐ることに成り切る、念仏すれば念仏そのものに成り切る。でもそのためには、自分のありのま(改ページ)まの姿をしっかりと自覚せねばなりません。



 何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか。 ーー 世間は常に燃え立っているのに。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか。(一四六)



 君のその笑い、その喜びはニセモノだ。世間は常に自分の都合で燃えるような焼け焦がされるようなニセモノの世界じゃないか。虚妄じゃないか。厳しくがぶり寄ってくるような偈です。

 ここで語られる「暗黒に覆われている」とは、「無明」のことです。「自分自身のありのままの姿さえ見えていない」ことを表しています。君は闇の中にいるのだ、そのことに気づかないのか、というのです。どうして真の姿を求めないのか、それでいいのか、そのように第一四六番は迫ってきているのです。この文章を読んで、実存不安を感じる人はそうとうな宗教的実存派ですね。

 この一四六番はたいへん迫力のある偈です。すごく力強い。ちょっとお疲れ気味のみなさんの宗教的実存を呼び起こそうとしているかのようです。

 ちなみにここで出てくる燈明は、仏教の教え(で得た智慧)のことです。例えばみなさ(改ページ)んが真っ暗な部屋にただ一人居るとします。自分の手足さえ見えない、真っ暗闇です。それが私たちの今の現実存在なのかと第一四六番は語りかけています。どの方向へ向かって歩けばいいのかさえわからない。自分はどんな人間なのかさえわからない。そこへ、燈明がもちこまれます。一気に部屋の様子がわかります。自分の姿も見えるし、どの方向に出口があるかもわかる。そして、暗闇だと現れなかった自分の姿が黒々と、くっくりと出現します。この影は自分が抱える煩悩を表しています。そう、仏教の教えに会わなければ、煩悩も見えてこないんですよ。でも、大丈夫。煩悩があっても、燈明があります。燈明はものごとの実相を魅せてくれる智慧です。

 仏道を歩む、仏教を実践するということは、暗闇の中に燈明を照らすことです。ですから、世界中の仏教はみんな明かり(ローソクとか)を荘厳しますね。明かりとお花、これは世界のどの仏教でも荘厳されます。明かりが智慧、お花が慈悲を表しています。

「『智慧』と『慈悲』の獲得と実践」、これぞ仏教が目指す理想です。









釈 徹宗 2008 いきなりはじめるダンマパダ:お寺で学ぶ「法句経」講座 サンガ(pp.269-271)



2008年7月8日火曜日

遺影、撮ります。

 週刊朝日いう雑誌に、コメントが載った(2008年7月11日号 「縁起でもない」は過去の話 元気なうちに遺影を撮る人々)。しかし、雑誌は今日までの発売。恐らく、私の知る方の多くの方は手に取っていないだろうし、手に取っていたとしても注意して読んでいないのではないか、と考えてしまう。むしろ、私のことを知らない人たちが、私を知らない中でも読んでいただいているのではないかと、思いを馳せてみる。

 コメントの内容は、遺影に関するものであった。2007年の3月、10月に、相次いで、應典院にて開催された遺影に関連するプロジェクトの受け入れを担ったためである。かねてより應典院と縁のあったという阿古さんというライターからの取材により、掲載の運びとなった。ちなみに、時間の関係で電話取材のみということであったが、その後に不明な点を電子メールにて問い合わせをいただくなど、伝えることに対する丁寧な姿勢に好感を持った。

 私は、常々、遺影ということばが「残」ではなく「遺」ということばが使われていることに着目している。ちょうど、2008年3月に應典院で開催した写真展「好奇心星人の挑戦」のワークショップでも、ゴウヤスノリさんと共に「残るもの」と「遺すもの」という対比を行って、自分自身の生死を見つめるという機会を設けた。残る、というのは結果であり、遺す、というのは行為である。そんな風に捉えているのだ。

 「残る」もの「遺す」ものは、物体だけではない。いみじくも「遺された家族」ということばがある。つまり、結果として残ったもの、こと、ひとも、その人によって「遺された」行為の結実とも言えるのである。先のインタビューの補足では、「単に人と関わりたい、その思いから遺影を撮影するのではなく、『私が死んだ直後、私はどのような人に見送られるのだろう』、『その時に、どのような表情で迎え入れるのがいいのだろう』、そんな風に考えて、遺影を遺すという行為を選択したのだ、と考えている」とメールで綴ったのだが、そうしたやりとりを通じてまとめられた記事が、読み手に対して生死の意味を新たに紡ぎ出してもらえればうれしい。





遺影、撮ります。

76人のふだん着の死と生

あとがき(抜粋)




 二〇〇二年の秋に手書きしたA4の紙が一枚。「プロジェクト遺影ーーふだん着の死を見つめるーー/あなたの遺影を撮らせてください」と書きだしています。「時々、『この方は、この写真を使われて、喜んでおられるのかな』と思う場面に出合います。免許証の写真のようなお顔だったり、集合写真から引き伸ばしたようなぼけたものだったり」。小さな疑問は、根の深い願望から出てきたものです。「こうも思うのです。私が『遺影を撮る』と口にし、それを受け入れてくださる人なら�私の死�について語り合うことができるのではないか、と。日常の延長線上に、その時を見すえて、今、生きていることをいとしく思うーーそんな話を、〔改ページ〕本当は私はしたいのかもしれません(後略)。」

 そう、そんな話をしたかった私は、相手の体調が許せば数時間話し込み、大口あけて笑い、心の中でう゛う゛う゛と泣き、一緒に憤って、七六人の「生きてここにある実感」を綴っていきました。九五年の写真集『臨月』を見返してみると、撮影の仕方はほとんど変わっていなくて苦笑するばかりですが、あの頃より、糠漬けの腕もあがり、花の名もうんと覚え、将棋も俳句も話についていけるようになっています。PTAでもまれ、田舎の人づきあいも少しは体得しました。私自身の生き方、暮らし方が問われるインタビューだった、と思い返せば息苦しい。ガハガハと笑ってはいましたが、真剣でした。

 遺影を用意しようとする人は、自分のその時を見すえているということです。ただ、その時を見すえることと「死」にとらわれることとは違います。「死」を怖れないこととも「死」に立ち向かうこととも、違います。自分のその時を見すえるからこそ、生きることをいとおしむのです。今をよりよく生きようとするのです。



(野寺,2007, pp.163-164)



野寺 夕子 2007 遺影、撮ります。:76人のふだん着の死と生 圓津喜屋


2008年7月7日月曜日

「脱美術館」化するアートプロジェクト

 気づけば、アートな一日であった。今日は朝から、美術館に行き、夕方にギャラリーに行き、夜には劇場に行ったのだ。いずれも、場所は京都である。しかし、そんな内容は、絵画、写真、演劇と、内容は多岐にわたった。

 朝に訪れたのは、京都国立近代美術館である。開催中の「ルノアール+ルノアール」展にて実施された、あるプロジェクトの立ち会いをしたのだ。具体的には、あるガールスカウトの皆さんが集団で観賞する際に、あるNPOが支援する、というものだった。ちなみに、そのプロジェクトに、同志社大学大学院総合政策科学研究科ソーシャル・イノベーション研究コースの修了生と現役院生が関わっており、私は終了後に小粋な助言をする、というのがお役目だった。

 昼食と、食後のカフェに続いて訪れたのが、町家がギャラリーとなった境町画廊である。というのも、昨年度應典院で展覧会をしていただいた、野寺夕子さんによる「千人針」の写真展が開催されていたためだ。実は、先週金曜日に、既に一人で野寺さんのギャラリートークがある日に観賞させていただいた。改めて訪れたのは、このところ連日触れている、未来の連れ合いを野寺さんに紹介しつつ、本人も、写真を通じて受け止められるべき何かを感じて欲しい、という思いがあったためだ。

 よく行く和紙さんに寄り道して、四条河原町にてちょっとしたイタリアンのコースを食べてから急いで向かったのが、下鴨にあるアトリエ劇研である。現在、先ほど示した、ソーシャル・イノベーション研究コースの社会人院生が出演する演劇を鑑賞するためであった。団地、家族、若者、などなど、人間関係の希薄さを、濃密な演技を通して表現する、という作品だった。思えば、私に身近な皆さんがアートに関わっており、そこに私も、心地よく巻き込まれているのだ、と、大阪に帰る列車の中で感じ入ったところである。





社会とアートのえんむすび 1996-2000

つなぎ手たちの実践

序章 「脱美術館」化するアートプロジェクト(抜粋)



最近のアートプロジェクトは、ボランティアやワークショップという形式を採り入れることで住民に参加を促し、彼らの意見を作品に反映させようとする。そして、参加者が主体的に関わればかかわるほど美術家ー参加者のヒエラルキーが薄れ、〔改ページ〕誰のものでもない「みんなの作品」になっていく。そこでの目的は芸術性の追求より、しばしば「まちづくり」や「コミュニティの強化」といった民主的で公共的な価値の創出に主眼が置かれる。だから、一歩まちがえれば大衆迎合主義に陥りやすく、結果的に陳腐化しやすい面もあることをつけくわえておかねばならない。

 最後にもう一度「プロジェクト」という言葉に戻れば、これには「計画」「事業」の他に「投げ出す」「投影する」という意味もあった。すなわちアートプロジェクトとは、美術家だけでなくそれに関わる人それぞれが自分の思いを投げ出し、自らを映し出す装置だといえないだろうか。これはそのままボランティアやワークショップの考えに重なってくるはずだ。だから同じアートプロジェクトに参加しても、一人ひとりの見ているものは同じとは限らないし、その意味で結果としての作品はさして重要ではないともいえるのだ。

 しかし、ここで終わってはきれいごとにすぎるかもしれない。多くのアートプロジェクトは高い理想を掲げながらも、ひとたびプロジェクトが動き出せば「アート」の「ア」の字も話題にならず、人集めと資金集めに狂奔し、内部では骨肉の争いを演じてるところもあるのが現実なのだから。



(村田,2001, pp.18-19)








村田 真 2001 「脱美術館」化するアートプロジェクト ドキュメント2000プロジェクト実行委員会(編) 社会とアートのえんむすび1996-2000:つなぎ手たちの実践 トランスアート



2008年7月6日日曜日

ボランティアの知

 結婚について綴ったところ、多くの方からお祝いのことばを頂戴した。綴ることが知らせることになり、知らせることで伝わることがある。インターネットという媒体の特徴が、ブログには最大限に反映しているように思う。転じて、こうして読み手から簡単かつ直接に反応が得られるとき、ブログを継続して書くことに手応えを覚えるのだろう。

 先般は一切書かなかったが、私(たち)の「その日」のために、準備を進めている。今日は、新婦側の着物の生地選びとドレスの仮縫い、新郎側のスーツのサイズ合わせなどを行ってきた。ちなみに、仏前結婚式ということもあって、私は法衣での式となる。朝からそれなりにまとまった時間を取ることができたので、これらの服関係の前に、結納返しで誂えていただくことになった鞄屋さんにも伺ってきた。

 道すがら、式の次第、宴席の進行について話題となった。式については、世の倣いに従いつつも、一定、浄土宗としての作法があるので、私たちが考える余地は皆無に等しい。一方で、宴席は、創意工夫の幅があまりに広い。来週は、このあたりの考える時間をつくることにしよう。

 「野球は筋書きのないドラマだ」とは、巨人、西鉄、近鉄、ヤクルト等、プロ野球の監督歴任した三原脩さんのことばだ。筋書き(シナリオ)は無くても、人々の関わり合いの中にドラマ(物語)が生成されることは、常々実感しているつもりだ。だからと言って、一切の準備をせぬまま出来事に臨むのは、「即興」と「その場しのぎ」の混同である。「ええかっこしい」でその場をこなすのではなく、その場その場に誠実に向き合うことができるよう、適切な段取りを段取りをつけていくこととしよう。



注:三原監督が歴任した球団について、ご指摘をいただき、加筆修正しました。(2008.7.6, 21;22)





ボランティアの知

第二章 阪神・淡路大震災

二 セオライジング㈵ 集合的即興ゲーム




災害救援には、大筋でのストーリーはあっても、事の詳細を記したシナリオはない。阪神・淡路大震災での経験を振り返ってみても、発災直後から、人命救助を中心とする救急救命期、水・食料といった最低限の物資が必要となる緊急期、避難所等に入った被災者に対する救援物資やさまざまなケアが必要となる救援期、ライフラインが復旧していく復旧期、地域の復興に向けて動き出すとともに、被災者に対する息の長いサービスが要求される復興期、といった大筋の展開が見られたことはたしかである。しかし、各時期、各場所における活動内容には、そのときどきの参加者が臨機応変に対処すべき事柄が多く、あらかじめすべてを計画するのは不可能であった。ジャズの比喩〔改ページ〕に託すならば、曲調やコード進行は、ある程度あらかじめ決まっているけれども、それをいかに演奏するかという点は、事細かに規定されているわけではなく、演奏者は臨機応変に演奏するわけである。

(渥美,2001, pp.32-33)







災害救援の現場から得た「即興」という着想を、もう少し抽象化し、より一般的な考察を加えてみよう。ここでは、即興を「安定した規範が消失した後に、人々の織り成す集合性が帯びる様相」として捉える。

(渥美.2001, p.35)



一般に規範は、行為の妥当・非妥当を指し示す操作であった。妥当・非妥当を指し示す操作であった。妥当・非妥当の区別の集合を、ルールと呼んで動的性質をつかんでおこう。ルールを取り巻く行為の集合をゲームという。そして、このように規範が生生流転する事柄における諸集団の振る舞いを「集合的即興ゲーム(Collective Improvisation Game)」と呼んでみたい。

 集合的即興ゲームが始動するのは、安定した規範が消失したときである。災害は、その典型的な例であった。集合的即興ゲームのルールは、時々刻々と変化する規範に支えられ、一定不変ではない。集合的即興ゲームの継続には、次々と行為が連続していくことが求められる。

(渥美.2001, p.37)



集合的即興ゲームの要素は、ゲームの継続に寄与するかどうかという基準で決まる。ゲームの継続に寄与するものは要素の集合に入り、そうでないものは集合に属さない。集合的即興ゲームを演じている当事者は、ゲーム内部でルールを完全に知ることはない。集合的即興ゲームは、観察者から見たとき、そのつど規範を産出しているように見える。しかし、当事者の視点から見たとき、根底にルールなどというものはない。「ただ活動している」のである。

 以上のように、緊急救援活動を集合的即興ゲームの現場としてとらえてみれば、もはや救援活動のために緻密な計画を立てることや、参加者に共通の知識を与え、静的なルールを守ることを目指した活動だけでは、功を奏さないだろう。生生流転する規範のもとで、臨機応変に活動すること、そのこと自体に目を向けなければならない。

(渥美, 2001, p.38)







2008年7月5日土曜日

ハナミズキ

 もう、あの日から1週間が過ぎた。このブログの更新が滞ってから、ではない。ブログは最早、滞って6ヵ月、ちょうど半年が過ぎてしまっているのだ。一週間が経ったのは、ある手紙が届いてからだ。

 手紙が届いたのは、6月25日のことだった。ちょうど、同志社大学での講義に向かうため、職場の一つ、應典院から自宅に立ち寄ったとき、高校時代より思いを寄せていた同級生から葉書が届いていたのだ。結婚式場の写真に、手書きの文字が添えてあった。「甘酸っぱい」とは月並みな表現だが、そんな高校時代から大学入学後くらいまでの記憶に思いを馳せつつ、京都に向かった。

 ちょうど、その日の講義は「ボランティア」に関してのことであった。いてもたってもいられずに何かをすることがボランティアであって、その行為に対して、利他的か利己的かなど動機を整理することはできても、それは単に跡付けの意味づけでしかないことを伝えた。その「いてもたってもいられなさ」とはどんなものをかを伝える例として、講義前に「ハナミズキ」という曲を流した。「個人的なことですが、今日…」と、ここに掲げたエピソードを紹介して、である。

 折しも、この9月、仏前にて結婚式をする。手紙の主から招待を受けなかったように、私も招待するつもりはない。しかし、同じ学舎や塾で学び、またスキーやキャンプに行ったりと、同時代を生きた仲間ではある。こうして、便りが来ることに感謝しつつ、幸せを願いつつ、ブログを復活させてみることにしよう。「あなたと、あなたと好きな人が、100年、続きますように。」





「ハナミズキ」より



「君と好きな人が百年続きますように」



一青 窈









2008年1月4日金曜日

アーツ・マネジメント史〜「アーツ・マネジメント」

 今年の年賀状に、改めて、自分が担っている仕事を列挙してみた。実は初期バージョンには1つ、記すのを失礼してしまったのだが、それにしても、多くのご縁と期待をいただいているものだと感じ入るところであった。一方で、そうした役割に対して、充分な成果を遺すことができていないように思えてならない、という反省にも駆られた。今年こそはそうしたことのないよう、努めていきたい。

 そんななか、今日は新年早々、世話人と事務局長をさせていただいている「大阪でアーツカウンシルをつくる会」の合宿が行われた。場所は我が家で、である。インターネットが使えて、ゆっくりできるところ、その結果、我が家で行っていただくこととなったのだ。十分片付けができていなかったものの、参加いただいた皆さんのやさしさで、議論と鍋を堪能することができた。

 議論の中心は、「会員制」の組織ゆえに、会員のみなさんと、どのようにして共に活動を展開できるか、ということであった。実際、名前にも込められているように、アーツカウンシルが「できる」よう、ともに活動を「つくる」必要がある。今回の合宿で決まったのは、1月の大阪府知事選挙に出馬表明された方々への公開質問状を送付すること、2月に今年度の活動をまとめるためのワークショップを行うこと、そして3月には大阪市の文化行政担当者を招いた公開勉強会を行うこと、である。そうやって会員の皆さんと共に、時間と空間を共有すると共に、実際「できる」ためにどうしたらいいのかについて、鍋をつつきながらの議論は実に盛り上がった。

 もちろん、日頃から議論は行っているものの、どうしても時間的な制約があって、存分に語り合うことが難しい状況にあった。そこで今回合宿の運びとなったのだが、年始の気分もかさなりつつ、終了の時間を気にせずに、それぞれの思いを形にすべく語ることで、大いなる楽しみを味わうことができた。ちなみに、メンバーを知る人にとっては、ある意味驚きであり、ある意味納得かもしれないが、鍋の後にはカラオケに出掛けることとなった。そんな風にして密なるコミュニケーションも重なった「大阪でアーツカウンシルをつくる会」の2008年は、一層活動に厚みが増すことと確信している。



アーツ・マネジメント史

1.アート制度とアーツ・マネジメントの歴史(抜粋)




 近代アート制度は、アーティスト・アーティスト組織、彼らを援助する人々・組織・制度からなる。後者は、さらに直接的にサポートする人々と間接的にサポートする人々からなる。直接的に援助をするのは、個人的なパトロンやアーツカウンシル(芸術評議会)や芸術NPOなどの組織であり、間接的にサポートするのは、批評家や行政機関などの評価者、そして、美術・音楽・演劇などを観賞する鑑賞者などである。アートは、自由な自己表現に基づく産物であり、本質的に、近代的な官僚制的な制度とはなじまない性質の活動である。その意味で、近代的な資本主義経済−−勤勉な競争原理に基づく価値創出活動−−とも、なじみにくい性質を持つ。しかし、その一方で、社会が成熟していくにつれて、人々の求めるものが自己表現であり、自己実現であり、その究極の活動の一つが芸術活動でもある。近代社会の発展につれて、この一見矛盾する二つのプロセスが、一つの社会の中で同時に進行してきたのである。その結果、アーティストの数が大幅に増え、そのアートを観賞する人々の数も増大した。しかも、その一方で、アーティストやアーティスト集団を支える人々とその組織や制度が機能分化し、発展してきたのである。また、アーティストと鑑賞者を媒介する組織や制度も洗練、細分化してきた。それらの革新的な発展の多くは、西欧社会、特にイタリアやフランスなどの社会に端を発してきたのである。



川崎(2002, p.22)







川崎賢一 2002 アーツ・マネジメント史 川崎賢一・佐々木雅幸・河島伸子 アーツ・マネジメント 放送大学教育振興会  p.21-31.



2008年1月3日木曜日

Time goes by

 徳永英明の「VOCALIST」シリーズが売れている。既にシリーズは3作目だ。私も好んで聴いている。ちなみに、3作目で「打ち止め」とするらしい。

 徳永英明のみならず、デーモン小暮閣下による作品の他、さらには佐藤竹善や槇原敬之や甲斐よしひろなどの作品の一部の中にもあるように、男性シンガーが女性シンガーの歌を歌うことに違和感を覚える人もいるだろう。しかし、例えば一青窈の「ハナミズキ」を取り上げてみると、「僕」による私語りとなっている。もちろん、一青窈自身の作詞であるから、女性の歌ではある。とはいえ、歌そのものは男性のものであってもいいはずだ。

 ちょうど、今日は小学校の同窓会があった。昔なら、居酒屋の後はカラオケ、という展開が定石であったものの、さすがに大人になったものである。今日は居酒屋の後、パブに連れられていくこととなった。ちなみに、パブはラウンジよりもお手軽で、スナックよりもお上品なところ、という位置づけだとか。

 そんな同窓会の二次会で歌わせてもらったのが、「Time goes by」だった。Every Little Thingのボーカル、持田香織が澄んだ声で歌っていた(一説によると「歌えていた」)ころの歌を、朗々と歌い上げてしまった。まるでうんちくのようだが、この歌は当時のメンバー、五十嵐充による詞であり、男性によって構築された世界観をもとにしている。そんな風にして考えれば、男性の歌だとか女性の歌だとか、いちいちこだわる必要もなく、むしろ、その歌の世界観に浸りきることが大切なのではないかと、久々の再会を楽しみながら、雰囲気のある曲を朗々と歌い上げてしまったことを正当化してみたりするのである。





Time goes by



Wow wow wow…



きっと きっと 誰もが

何か足りないものを

無理に期待しすぎて

人を傷つけている



Wow wow wow…



会えばケンカしてたね

長く居すぎたのかな

意地を張れば なおさら

隙間 広がるばかり



Kissをしたり 抱き合ったり

多分それでよかった

あたりまえの 愛し方も

ずっと忘れていたね



信じ合える喜びも

傷つけ合う悲しみも

いつかありのままに

愛せるように

Time goes by…



都合 悪い時には

いつも言い訳してた

そうね そんなところは

二人よく似ていたね



安らぎとか 真実とか

いつも求めてたけど

言葉のように 簡単には

うまく伝えられずに



もう一度思いだして

あんなにも愛したこと

「アリガトウ」が言える

時がくるまで

Say good bye…



残された傷あとが 消えた瞬間

本当の優しさの

意味がわかるよ きっと



過ぎた日に背をむけずに

ゆっくり時間(とき)を感じて

いつかまた 笑って

会えるといいね

Time goes by…



Wow wow wow…



(Every Little Thing・詞:五十嵐充・曲:五十嵐充)

































2008年1月2日水曜日

自他法界同利益 共生極楽成仏道

 新年、あけましておめでとうございます。既に、何人かの皆さんから年賀状を頂戴いたしました。ありがとうございます。私の年賀状は、まだお手元に届くのに時間がかかりそうですので、その旨ご容赦願います。

 思えば1年前、毎日ブログを更新しよう!と決意しながら途中で断念してしまいました。論文執筆のためにも、書物を読み、そこからキーフレーズを略奪しようと心掛け、試みてみたものの、あえなく挫折をしてしまいました。それでも、途中、大阪市長選挙に関わり、その際の橋爪紳也さんのことばに感銘を受け、奇跡の(?)復活を遂げました。ともあれ、アクセス数を拝見すると、更新していないときでも、更新の確認のために訪問いただけていることが、心苦しくてなりませんでした。

 そして今年、2008年、また決意新たに、文字を綴らせていただきます。昨年は「書物を」という制約条件を付してしまいましたが、それが重荷になったわけではありません。生活のリズムに組み込まれていなかったことが問題だと思いました。そこで、毎朝、前日の分を更新することにしました。朝の「おしごと」にしよう、そんな趣向です。無論、それが果たしていつまで続くのか、読んでいただいている皆さんに、来年の正月に評価をいただくことにしましょう。

 浄土宗應典院と、キリスト教主義の同志社大学との二足のわらじを履く私ですが、2年連続で、「除夜の鐘」と「修正会(しゅしょうえ)」お手伝いで、年を越しました。應典院の本寺(ほんでら)である大蓮寺の檀家さんたちと共に日常勤行式を務めるわけですが、改めて、その中にある「総願偈」のお経の意味をかみしめています。とりわけ、「自他法界同利益 共生極楽成仏道」すなわち、「私もあなたも、またわれわれが意識せずにも存在する全てのことがらとも、同じくご利益(りやく)をわかちあって、この上ない安楽の世界に共に生き、同じ道を歩んでいきます」という部分は、昨年の行いを懺悔(さんげ)し、改めて今年の誓いを立てる上で、極めて重要だと通巻した次第です。何となくですが、今年は変わります、と昨年(まで)の非礼をお詫びしつつ、年頭のご挨拶です。



総願偈



衆生無辺誓願度 煩悩無辺誓願断 法門無尽誓願知

無上菩提誓願証 自他法界同利益 共生極楽成仏道