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2017年1月9日月曜日

まちの風情

 大学街の風情に憧れる。入学したのが郊外型のキャンパスであったこと、また初めて行った海外旅行でUCバークレーの雰囲気に魅せられたことが影響している。何度か関西学院大学の上ヶ原キャンパスにはお邪魔しているが、今日、初めて正門近くのトップ珈琲館にお邪魔した。3月の大学コンソーシアム京都によるFDフォーラムの分科会の打合せのためだった。
 午後からは関西学院会館で開催された復興制度研究所によるフォーラムで、映画「うつくしいひと」の鑑賞と行定勲監督の講演を拝聴した。上映から約3分でやっと会場が暗くなり、15分ほど経つと監督が怪訝な表情で席を立ち、音量が上がった。講演の冒頭で「ちゃんと見たい方は」と含み置き、4月にNHKのBSプレミアムで続編と併映と紹介された。オフシアターという表現があるが、映画には不向きな会場だった。
 ちなみに行定監督は熊本出身だと、熊本地震後のNHK「日曜討論」に出演回を観て存じていた。その回には渥美公秀先生も出られていた。むしろ郷土愛がない方だった監督が、県の支援でPR映画をと、ロケハンを重ねた結果生まれたのが本作という。完成して菊池映画祭で披露した翌月、前震と本震が起きた。
 「ドキュメンテーションとドキュメンタリーは違う。」以前、故・佐藤真監督の監督の言葉として聞いた。あえてフィクションにこだわるのが行定監督の姿勢と知った。目下編集中の次作が楽しみだ。

2017年1月8日日曜日

同窓会がきっかけに

 同窓会をきっかけに何かが始まるということ、これは何となくありそうな話である。実際、私もまた、40歳になる年に高校の全体同窓会の当番学年が回ってきて、その際に再会した同級生らと、改めて親交が深まっている。自己啓発系の知恵の中には「同窓会に行くな」と示されることもあるようだ。ただ、過去に囚われすぎるのではなく、出会い直しを通し、現在と未来をよりよくする手がかりにすることができればよかろう。
 今日の夕方、中学の同窓会をきっかけに結成されたバンドのライブにお伺いした。立命館災害復興支援室などでお世話になってきている今村正治さんがボーカルを務めておられるバンド「Q-Chews」である。豊中第九中学校の同級生が、久々に同窓会で再会して結成されたのが名前の由来という。今日は10周年記念で盛り上がっていた。
 振り返れば、高校までは公立の学校に通っていたこともあり、小学校から中学校にはほとんど同じ面々が進み、高校でも同じ中学出身が多かった。第二次ベビーブームの最後の世代ゆえ、小学校は5クラス、中学校は7クラス、高校は10クラス編成だった。そして高校の大きな同窓会が2年前に行われ、少し、動きが出た。中学、小学校もいつかなされるのかもしれない。
 今日は久々に雨の一日だった。お昼前には近所を散策した。地元の静岡・磐田よりも関西の暮らしの方が長くなった。はてさて、これからどう過ごしていくか、時に悩む。

2017年1月7日土曜日

賢くなってこそ、いのちを守る。

 間もなく「あの日」がやってくる。私にとっての「あの日」とは、たいがい1月17日のことである。そう、阪神・淡路大震災の起きた日だ。今年で22年を迎える。
 「あの日」の10日前、朝から人と防災未来センターにお邪魔した。「災害メモリアルアクションKOBE2017」の報告会に出席のためだ。今年度、ひょうご震災記念21世紀研究機構の高森順子さんのお誘いで、立命館大学から「減災×学びプロジェクト」が参加、一連の取り組みを受講生が発表したのだ。2012年度開始の「減災P」だが、今年は最初から少人数の上、途中離脱が2名、さらに全員が2回生ゆえ、成人式で帰省するメンバーが多く、今日の発表は1名が大役を担った。
 7団体の発表に続き、ディスカッションが行われ、河田惠昭センター長の講評という流れだった。河田先生は、この取り組みの意義は「人の文化にしみこませる大切さ」にあると語られた。この名前での取り組みは今年度で2年目だが、「あの日」から10年は「メモリアルコンファレンス・イン神戸」、その後「災害メモリアルKOBE」の名前で10年の歴史がある。災害は「人生のうちに何度経験するかわからない」からこそ「未災者」が対象とされる。
 続いて交流会が催された。そこでも河田先生が締め、「パソコンでデータを扱うのが防災ではない」と切り出した。そして、映画『シンデレラ』を引き合いに「防災とは賢くなることなのです」と。

2017年1月6日金曜日

嫌々よ…

 「いちろうさんの牧場で イーアイ イーアイ オー…」というフレーズがふと口についた。ボクジョウではなく、まきばと読ませるこの歌は、「Old MacDonald Had a Farm」というアメリカ民謡だ。日本語版では「ゆかいな牧場」で、マクドナルド爺さんはいちろうさんに名が変えられた。加えて2番はじろうさん、順に繰り上がって最後はろくろうさんが登場する。
 何でこのフレーズだったのか、それは「嫌々ヨー」な気分に浸ったためだ。10年あまり前、浄土宗に得度し、それまでよりは穏やかになったように思われるが、まだまだ至らないもようである。ちなみに、浄土宗では21世紀に入って「劈頭宣言」を発表しているが、「世界に共生を」願う前に「愚者の自覚」を促している点が常々意義深い。ともかく、自らに謙虚であることを忘れてはならない。
 閑話休題、冒頭に示した嫌々な気分に浸ったきっかけは、実家からお菓子や食品などが届いたことだった。早速荷をあけると、先日の実母の古希の祝いの宴に感謝する付箋紙がついており、最初は和やかな気分になった。それが一転したのは、荷物の到着と送付のお礼の電話を母に入れたことだった。どうにも会話がかみあわなかったのだ。
 年を取るほど我が強くなると聞いたことがある。それでも嫌々な会話はイライラを招いた。電話の後には台所から妻が、父からはメールで、それぞれやさしい言葉をかけてくれた。ゆかいな家族だ。

2017年1月5日木曜日

丁抹と書いてデンマーク

 3日目の静岡シリーズである。日差しは明るく、何となく懐かしい感じがする。お昼は持ち帰りの寿司をいただいたが、箱寿司や押し寿司が混ざず、握りのみ、というのも肌感覚に合っている。このところ、3日連続して静岡で過ごすことは稀となったことの証拠に、「帰る」よりも「行く」という言葉の方に合点がいく気がすることがある。
 静岡からは京都に「帰る」のではなく、新幹線で東へと向かった。4月から過ごすデンマーク生活のために、必要な手続きのために、である。あいにく、富士山には雲がかかっており、雄大な姿全体を仰ぐことはできなかった。また次に期待をかけよう。
 新幹線を品川で降りると、向かった先は代官山のデンマーク大使館である。山手線の恵比寿駅から歩いて20分ほど、ヒルサイドテラスの隣にある。デンマーク大使館では、guest researcherとしての1年間の滞在査証・在留許可証の申請に伴う手続きのために訪れた。デンマークは電子政府化が進んでいるために、ほとんどの手続きがウェブサイトで完結するのだが、最後の生体認証のみ、施設に足を運ぶ必要があるのだ。
 窓口ではパスポート、ウェブ提出完了通知メール、必要経費支払い完了通知メール、その3点セットが求められた。確認の後、顔写真をメガネ有無の両方で撮影、両手の親指以外の指紋登録、そしてサインの登録となった。係の方も、奥におられた大使も穏和だった。渡丁が楽しみだ。

2017年1月4日水曜日

ヤマハリゾート再訪

 齢、四十路を過ぎて、徐々に心身の変化を感じる今日この頃である。確実に代謝が落ちている。いよいよ以前のように飲食を重ねることができなくなってきた。子が加齢を実感するくらいだから、親はそれ以上の実感があろう。
 今日は実母の古希のお祝いで、葛城北の丸で会食した。昨日に続き、父、妻、そして弟夫婦とそのこどもたちが席を共にした。ゴルフ場の開業から2年後、北陸から古民家等を移築して1978年から営業しているのが葛城北の丸である。2002年のサッカーワールドカップの際にトルシエジャパンの合宿値になったことで良く知られている。
 時を経て、ヤマハリゾートも葛城ただ1つを残すのみとなった。大阪大学で渥美公秀先生のもとで学んでいた時に論文執筆に集中する「血祭り合宿」で訪れた「合歓の郷」も、家族でも友人たちとも何度も訪れた「つま恋」も、既にヤマハ系列から離れた。実家で見た2016年12月28日の静岡新聞朝刊によると「つま恋」の名前は今後も残るようだが、かつての雰囲気は徐々に薄れていくだろう。年を取るとはこういうことだ。
 そんな葛城北の丸には、父親以外、今日が初めての訪問だった。意外と言っては申し訳ないが、丁寧に運ばれてきた昼食には、いづれも舌鼓を打つものだった。雰囲気、接客、そして味と、何かと期待値が高い自覚があるが、高く満足できるものだった。必ずの再訪をと、駅まで送ってくれた弟の車内で決意した。

2017年1月3日火曜日

実家は遠くなりにけり

お NHKの連続テレビ小説、いわゆる「朝ドラ」の『あまちゃん』以来、地元ということばに敏感になった。劇中で「地元に帰ろう」と歌われるのだ。東海地震に警鐘が鳴らされてきた静岡県で18年過ごし、関西に住み始めた年に阪神・淡路大震災が起きた。未だ被災経験はないが、地元が変わり果てた姿になる日を想像するときが時々ある。
 三箇日の最終日、朝から地元に帰省した。昨年の今日は高校1年生のクラスの同窓会だった。その1年前には、高校全体の同窓会の当番年で、磐田市の合併10年を記念して作られた歌「ふるさと いわた」を覚え、皆で歌った。そんな故郷に、友人たちに日程を伝えずに帰省した。
 今日は父方の兄弟と母方の静岡県に住む兄弟、そして私の兄弟夫婦とこどもたちが実家に集まった。地元や実家、それらに「帰る」か「行く」か、歳を重ねるごとに、ささやかな迷うようにもなってきた。実際、今日は母から「いらっしゃい」と迎え入れられた気がする。昼の会食の後には懐かしい記憶を重ねながら散歩をしたが、まちの風景はやはり変わっている。
 出かける直前、この数日行方不明の小銭入れが見つかった。不注意を遺伝で片付けたくはないが、実家で過ごすと、何となく遺伝の要素もあるやに思う。中村草田男は昭和の時代を迎えるにあたって「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠んだ。私とっては「不注意や実家は遠くなりにけり」かもしれない。



2017年1月2日月曜日

それもまたご縁

 親戚づきあいが多い方ではないが、年始には決まって父が年頭参りに出ていたことを思い出す。振り返れば、道を覚えること、旅に出ること、客間に招かれて茶飲み話を楽しむこと、これらは年頭参りにお伴したことで身についたのかもしれない。カーナビやSNSのない時代に重ねられてきた習慣である。時代にとって代わられるのは、いささかしのびない気がする。
 今日は学生時代からお世話になってきたお宅にお伺いした。ただ、お年賀ではなく、お供えをお持ちさせていただいた。年末にご不幸があったためであった。お線香をあげて、在りし日を懐かしみ、思い出話に花を咲かせた。
 寺山修司さんのことばに「時計の針が前にすすむと『時間』に」「後にすすむと『想い出』に」ということばがある(『思い出さないで』(1971年、新書館)。昨日の法然院での法話では、梶田真章貫主が、人間には想像力や記憶力があるために、過去にしばられ、未来を心配しすぎてしまう、と仰っておられた。そこから、縁とは良縁ばかりではないことを説かれていた。ままならない世界(娑婆)に生きている私たちが、「運が悪かった」と回顧し「良い縁を」と期待するのは、業をさらしていることに他ならないのだろう。
 帰り道、上七軒界隈を散策した。北野天満宮の初詣で賑わっていた。昨日から小銭入れが見当たらないのだが、それもまた縁なのである。決して運が悪いのではない。


2017年1月1日日曜日

良い年・よき歳に

 「よいトシを」と「よいおトシを」、この2つの違いにはあまり関心を向けて来なかった。「お」を付けた方が丁寧という意味で、「よいお年を」という表現を用いてきてきたように思う。言葉にはこだわりがあるという自覚がある。しかし、そのこだわりは単語の語源や、単語間の接続などに関心を向けて来た。
 今年の元日は法然院にお詣りし、梶田真章貫主の法話に参加させていただいた。「共に生きる〜絆と縁、愛と慈悲〜」と題した法話を伺うのは約1年半年ぶりだった。そのときは應典院のスタッフ研修でのお邪魔だった。そのときと同じく、法然院という場の力と梶田貫主によって説かれる法の尊さに感じ入った。
 新年の法話は、冒頭の問いかけから始まった。梶田貫主によれば、両者には「来年があなたにとって良い年に」と「良い歳で過ごせるように」との違いがあるとする。そこから新年を祝うことの意義が改めて問われた。そして、柳田國男さんが仏教を先祖教と指摘した背景に迫られた。
 お寺は家の宗教を、神社が地域の宗教を担ってきたと梶田貫主は説く。そこから、解脱、無我、執着、諸行無常、生死一如、生老病死、諦観、彼岸、涅槃、菩提心、縁起、一切皆苦、他力、極楽、弔い、祀り手、参り手、これらの観点から専修念仏の意味が説かれていった。新たな「お年」を願う背景には、皆が同時に年齢を重ねる数え年の文化がある。言葉と意味、行為と文化に拘る一年にしよう。