ブログ内検索

2017年1月2日月曜日

それもまたご縁

 親戚づきあいが多い方ではないが、年始には決まって父が年頭参りに出ていたことを思い出す。振り返れば、道を覚えること、旅に出ること、客間に招かれて茶飲み話を楽しむこと、これらは年頭参りにお伴したことで身についたのかもしれない。カーナビやSNSのない時代に重ねられてきた習慣である。時代にとって代わられるのは、いささかしのびない気がする。
 今日は学生時代からお世話になってきたお宅にお伺いした。ただ、お年賀ではなく、お供えをお持ちさせていただいた。年末にご不幸があったためであった。お線香をあげて、在りし日を懐かしみ、思い出話に花を咲かせた。
 寺山修司さんのことばに「時計の針が前にすすむと『時間』に」「後にすすむと『想い出』に」ということばがある(『思い出さないで』(1971年、新書館)。昨日の法然院での法話では、梶田真章貫主が、人間には想像力や記憶力があるために、過去にしばられ、未来を心配しすぎてしまう、と仰っておられた。そこから、縁とは良縁ばかりではないことを説かれていた。ままならない世界(娑婆)に生きている私たちが、「運が悪かった」と回顧し「良い縁を」と期待するのは、業をさらしていることに他ならないのだろう。
 帰り道、上七軒界隈を散策した。北野天満宮の初詣で賑わっていた。昨日から小銭入れが見当たらないのだが、それもまた縁なのである。決して運が悪いのではない。


0 件のコメント:

コメントを投稿