出身の研究室の公開発表会という場に参加するのは2回目である。ちなみに私が学生だったころにはそうした機会はなかった。社会と大学が関わり合う(社学連携)、地域と大学が共に未来を創造する(地学協働)といった概念は、理念よりも実践が先立っていった時代だったからかもしれない。しかし、社学連携や地学協働という概念が大切にされている今、こうして成果を還元する場が丁寧に作られるべきなのだろう。
実践的な研究を進めていく現場のことを「フィールド」と言い、フィールドで調査・研究を進めることを「フィールドワーク」と言う。そして、フィールドワークに取り組む人は「フィールドワーカー」と呼ばれる。今日はその「フィールドワーカー」の視点で、活き活きと現場を語ることの意義、またその方法について、できるだけ具体的にコメントをしてきたつもりである。ちなみにプレゼンテーションの効果的な方法にも話は及んだ。
特に気になったのは、フィールドワーカーがフィールドに持ち込む内容や、フィールドワーカーがフィールドから持ち帰る内容に、あまりに貪欲でないということだ。研究と言うからには、何らかの発見がなされねば意味がない。しかもフィールドワークでは「確定した仮説」をただ「検証」するのではなく、調査・研究を進めるなかで「育つ仮説」を次第に「例証」していくのが流儀となる。だからこそ、現場に持ち込む抽象度の高いことばや、現場から持ち帰る歴史や文化にあふれたことばに貪欲になって欲しい。ちなみに今日の発表会に出て「里山」をもじった「里川」とそれに対して現場から寄せられた「カワト」ということばを獲得したのであるが、何よりこうしたことばに出会えるからこそ、休みであろうが恩師からの依頼であろうが、現場に出ることが楽しいのだ。
フィールドワーク:書を持って街に出よう
㈵ フィールドワークとは何か?(抜粋)
㈵ フィールドワークとは何か?(抜粋)
フィールドワークというのは、とてつもなく非効率で無駄の多い仕事です。この点で、フィールドワークは野良仕事に似ています。
畑に種をまいてから最後に収穫できるまでに長い時間がかかるように、調査地に入ってからそこに住む人々とコンタクトがとれ、ちゃんと口をきいてもらえるようになるまでは、気の遠くなるような時間がかかるかもしれません。まいた種の内のどれとどれがちゃんと育って豊かな実りをもたらしてくれるかは最後の最後まで分からないように、フィールドワークの場合も、現地の人々の内どの人が有用な情報をもたらしてくれる大切なインフォーマントになってくれるか、またそもそもその調査が見こみのあるものかどうか、調査が終わってみるまで分からないかもしれません。
農業にも色々な方法がありますが、一回やってそれで終わりという「ワンショット・サーベイ」などとよばれる単発式のアンケートやインタビューによる調査は、たとえていえば、非常に性能のいい耕運機(時にはブルドーザー)で手っとり早く土を起こし、強力な化学肥料や農薬を大量にばらまいて収穫を得ようとする方法だといえます。これに対して、フィールドワークは、鋤や鍬を使って丹念にうねを起こし、手で種をまき、間引きをし、こまめに雑草を取り除きながらひたすら作物の成長をまつような、そんなタイプの野良仕事に似ています。当然のことながら、そこには相当の無駄がつきものです。
佐藤(1992) pp.32-33
<1992年版>
<2006年増補版>
<1992年版>
<2006年増補版>