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2010年2月25日木曜日

こころ

 へこんでいる。というか、へこむことが多い。何でへこんでいるか、というのは、ここに残したくないのだが、とにかく、今、へこんでいる。そんな今日この頃である。
 へこむ、を変換すると、凹む、と出てくる。文字通り、形あるものの形が変わっていることを示す。文字から連想すれば、四角いものの真ん中がへこんでいるのだ。もちろん、形あるものすべて、真ん中がへこむわけではなく、よくあるのは角がへこんでしまう、ということだ。
 では、人が「へこんでいる」というとき、何がへこんでいるというのか。もちろん、皮膚の界面がへこんでいるわけでもなく、ましてや臓器の外形の一部が突発的に形を変えているわけでもなかろう。恐らく、「こころ」なるものの形が変わったことをあらわしているのだろう。しかし、われわれは肉体の中に「こころ」という臓器を内臓しているわけではない。
 私が専門とするグループ・ダイナミックスでは、「こころ」は人と人(あるいは何か)とのあいだにあると考える。つまり、時間的経過の中で、自らが誰かと(あるいは何か)との関連づけがうまくいっていない状態に浸っているとき、「こころ」が通っていないと捉えるのである。よって、こころがへこんでいる、という状態にあるとき、それは、自らが他者とのあいだで、ある時間において浸っていた心地よい雰囲気に比べて、納得できる関係性の只中にその身が置かれていないことに自覚的である状態を意味するのだろう。無論、そんな「かやの外」に自らが望んで行きたいはずもなく、自らが招いた結果として、自らの動きをつぶさに見つめ直したいと思っている。

こういう状況のときに、思い出深い歌を聴くと、グッとくる。例えば、Mr. Childrenの「Tomorrow Never Knows」の歌詞がふと口にでると、涙がこみあげてくる。「果てしない闇の向こうに 手を伸ばそう 癒える事ない傷みなら いっそ引き連れて…」このあたりは、「こころ」ではなく、心臓が痛くなる。