先般、「年賀状なんて面倒くさいもの、なくなればいいのに」という声を聞いた。しかし、面倒くさいと思うならばこそ、したほうがいいと、天の邪鬼な性格ゆえに投げ返してしまう。投げ返された方はたまったものではない。なぜなら、そもそも、そんな応答を望んでいるのではなく、ただ、思いを吐露しただけなのだから。
そもそも、「○○だから」と「○○だけど」が異なることは、よく対比的に語られているだろう。似たような論理で、「○○も」と「○○しか」の関係も、よく対比されるように思われる。いずれの組み合わせも、ポジティブ思考か、マイナス思考か、というように位置づけられるかもしれない。しかし、事はそんな単純ではなく、自分に向けての合理的な判断をしているか、他者に向けて倫理的な判断をしているか、そうした価値の置き所に違いがあるのではなかろうか。
少なくとも、年賀状については、自分が面倒くさいから(しない)、ではなく、自分は面倒くさいけど(する)、というものだと捉えたい。理由は、年賀状には必ず相手があるからだ。そのため、年賀状を出すか出さないかは、自分だけで決められる問題ではなく、宛名に掲げられる相手が自分をどのように思っているのか、一定の想像力を必要とする複雑な問題なのである。よって、ただ出せばいいわけでもなく、その反対に、ただ出さずに済ませられるわけでもない。
特にインターネットの普及に伴って、いよいよ年賀状の存在意義が問われている、などとも言われるのだろうが、そんな時代だからこそ、ネットワークのメンテナンスのためにも、年賀状は重要である。事実、自分に届く年賀状の中にも、また自分で送っている年賀状の中にも、「年賀状だけのつきあいになっているけど」という枕詞が暗黙の了解になっている人がいる。それでも、長年にわたって親交が続いているのは、一年に一度のことであるが、近況とあわせて最新の住所を伝え合っているからなのだ。このように、年賀状をことさら大事なものと捉えていながら、なかなかその手入れが追いつかず、新しい年になって数字が過ぎた今、後ろめたさを自筆の宛名書きで覆い隠して送っていることは、ここだけの話、である。