視覚世界を言語で表現するのは難しい。逆に、言語の世界を視覚化することも、簡単なことではない。ただ、應典院での「コモンズフェスタ」では、1998年以来、アートとNPOによる総合芸術文化祭と標榜しているとおり、毎回、作家による視覚と言語の両面から、世界の表情に触れる機会を設け続けている。ただ、今年は言語と表現が特に密接に絡んでいるように思えてならない。
2012年度の應典院寺町倶楽部「コモンズフェスタ」の統一テーマ「とんちで越境!」のもと、その期間全般(2013年1月10日木曜日~1月24日木曜日)にわたって展示されているのが、前谷康太郎さんの「samsaara(輪廻転生)」である。もともと言語学を大学で修めた前谷さんは、新しい映像言語を模索する中で辿り着いた「映像言語」が、何もない瞬間でも、それが表現としても成り立つものを光の配列で成り立たせる、という手法だった。そして2011年、「オルタナティヴ・コマーシャル・ギャラリー」と掲げている大阪市此花区の「梅香堂」での「(non) existence」以来、各地で発表が重ねてこられた。今回、はじめてとなるお寺での展示あたり、サンスクリット語でsamは「相対」、saaraは「流れ」を意味する「samsaara」という作品名のもと、全ては流れるという「諸行無常」が、18台のビデオモニターの明滅によって表現されている。
会期2日目の本日、今回の企画の担当を担った應典院スタッフの小林瑠音の進行のもと、前谷康太郎さんと、梅香堂のオーナーである後々田寿徳さん、そして應典院の秋田光彦代表のトークが行われた。前谷さんからは、「青空」をモチーフに明滅のリズムによって日照時間を表現された作品であること、またその意図は墓地を見渡せるロビーで一ヶ所に集められたモニターの共時性の中から、生まれては死ぬという無常観を感じてもらいたいため、などが語られた。続いて後々田さんからは、長らく前谷さんの作品に触れてきた背景から、作風の特徴として、「どこでも実験をする」こと、そして「それが個性的で、美術的でない」こと、すなわち「理系的で、理詰めであること」、さらには「今回は明らかに三次元的に奥行きと高さを見せて配列させた」ものの、「バランスの悪いところが彼の持ち味」であり、加えて「昼間と夜とで全く感じ方が違うので、環境に左右されることによる印象の違い」を見て欲しい、と、厳しくも温かいコメントが返された。前谷さんの口から後々田さんを「師匠」と呼ぶ場面があったことからも明らかなように、確固たる信頼関係に結ばれた二人の対話がある程度重ねられた後、秋田住職から、「色や灯りに溢れた現代において、修行を体験したものしか出会えない風景がある」こと、「應典院が捉え続けているのは宗教とアートが近似的な存在であり、そこには生と死をつなぐ媒介物として表現がある」こと、「明治以降の日本では、世界が急速に言語化され、わかりにくいことがわかりやすくと翻訳、翻案されて、情報として加工されてきた」こと、などと評された。
1時間ほどのトークであったが、個人的には「社会化」に関する3者の視点が興味深かった。そのテーマが議論の俎上に載ったきっかけは、前谷さんの「普段は暗室のような場所での展示を行ってきたが、一番明るくて、場所性に対応できること作品を考えたら、この形となった」という語りで、そこに進行役の小林から「地域性」は関係ないのか、という問いを投げかけたことによる。そこに後々田さんが、「19世紀から20世紀のホワイトキューブでの展示に比較してみれば、宗教空間は洋の東西を問わず、展示する機能としての歴史を持ってきた」と前置きした上で、「ただし、そうした美術館やギャラリー以外での展示は、野外での展示も含めて、特別なことではなく、むしろ一般になってきた」こと、転じて「お魚屋さんの社会化」などが問われないように「それぞれに取ってあたりまえの風景になっていけば、社会化の意味などは問われない」と返されたのだ。「ソーシャルアート入門」と題した本が出版されるなど、とかくアートの社会的な意味が問われているところであるが、それが陳腐な有用性や、表面的な秩序を成り立たせしめるための道具として消費されるものとならないよう、空間に身を置き、時間の変化を思う、静かな営みが大切にされなければ、という思いに駆られた場であった。
2012年度の應典院寺町倶楽部「コモンズフェスタ」の統一テーマ「とんちで越境!」のもと、その期間全般(2013年1月10日木曜日~1月24日木曜日)にわたって展示されているのが、前谷康太郎さんの「samsaara(輪廻転生)」である。もともと言語学を大学で修めた前谷さんは、新しい映像言語を模索する中で辿り着いた「映像言語」が、何もない瞬間でも、それが表現としても成り立つものを光の配列で成り立たせる、という手法だった。そして2011年、「オルタナティヴ・コマーシャル・ギャラリー」と掲げている大阪市此花区の「梅香堂」での「(non) existence」以来、各地で発表が重ねてこられた。今回、はじめてとなるお寺での展示あたり、サンスクリット語でsamは「相対」、saaraは「流れ」を意味する「samsaara」という作品名のもと、全ては流れるという「諸行無常」が、18台のビデオモニターの明滅によって表現されている。
会期2日目の本日、今回の企画の担当を担った應典院スタッフの小林瑠音の進行のもと、前谷康太郎さんと、梅香堂のオーナーである後々田寿徳さん、そして應典院の秋田光彦代表のトークが行われた。前谷さんからは、「青空」をモチーフに明滅のリズムによって日照時間を表現された作品であること、またその意図は墓地を見渡せるロビーで一ヶ所に集められたモニターの共時性の中から、生まれては死ぬという無常観を感じてもらいたいため、などが語られた。続いて後々田さんからは、長らく前谷さんの作品に触れてきた背景から、作風の特徴として、「どこでも実験をする」こと、そして「それが個性的で、美術的でない」こと、すなわち「理系的で、理詰めであること」、さらには「今回は明らかに三次元的に奥行きと高さを見せて配列させた」ものの、「バランスの悪いところが彼の持ち味」であり、加えて「昼間と夜とで全く感じ方が違うので、環境に左右されることによる印象の違い」を見て欲しい、と、厳しくも温かいコメントが返された。前谷さんの口から後々田さんを「師匠」と呼ぶ場面があったことからも明らかなように、確固たる信頼関係に結ばれた二人の対話がある程度重ねられた後、秋田住職から、「色や灯りに溢れた現代において、修行を体験したものしか出会えない風景がある」こと、「應典院が捉え続けているのは宗教とアートが近似的な存在であり、そこには生と死をつなぐ媒介物として表現がある」こと、「明治以降の日本では、世界が急速に言語化され、わかりにくいことがわかりやすくと翻訳、翻案されて、情報として加工されてきた」こと、などと評された。
1時間ほどのトークであったが、個人的には「社会化」に関する3者の視点が興味深かった。そのテーマが議論の俎上に載ったきっかけは、前谷さんの「普段は暗室のような場所での展示を行ってきたが、一番明るくて、場所性に対応できること作品を考えたら、この形となった」という語りで、そこに進行役の小林から「地域性」は関係ないのか、という問いを投げかけたことによる。そこに後々田さんが、「19世紀から20世紀のホワイトキューブでの展示に比較してみれば、宗教空間は洋の東西を問わず、展示する機能としての歴史を持ってきた」と前置きした上で、「ただし、そうした美術館やギャラリー以外での展示は、野外での展示も含めて、特別なことではなく、むしろ一般になってきた」こと、転じて「お魚屋さんの社会化」などが問われないように「それぞれに取ってあたりまえの風景になっていけば、社会化の意味などは問われない」と返されたのだ。「ソーシャルアート入門」と題した本が出版されるなど、とかくアートの社会的な意味が問われているところであるが、それが陳腐な有用性や、表面的な秩序を成り立たせしめるための道具として消費されるものとならないよう、空間に身を置き、時間の変化を思う、静かな営みが大切にされなければ、という思いに駆られた場であった。