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2013年2月4日月曜日

の中では…

最近、というか、わりと長い間、気になっているのが「私の中では…」という言い回しである。私の疑問は、なぜ「私は」と、自分を主語にしないのか、ということだ。恐らく、「私の中」の人を引き合いに出し、自分の意見を客観化させているのだろう。そこには「本当の自分」というものがあって、「他人から、そう受け止められたい自分」でありたいという願いがあるのではなかろうか。

今日は夕方から、京都シネマでの打ち合わせであったのだが、その席で、この「私の中では」という語り口に見られる学生の「ハビット(習慣)」について、横地支配人と話題になった。京都シネマとは、立命館大学が協定を結んでいることもあって、各種の教育プログラムを展開しており、私が所属するサービスラーニングセンターによる地域参加型学習のプログラムでもお世話になっている。今日、劇場にお伺いしたのは、次年度にも受け入れを継続していただけるかの相談だったのだが、早急な判断をせず、この2年間の振り返りを、一人ひとりのエピソードを紐解いてくことにしたのだ。2時間10分ほど、互いにとって懐かしい風景を語り合う中で、「恥ずかしい」ということがわかっていないのではないか、との意見が合致した。

言うまでもなく、「できない」よりは「できた」方が、いわゆる自己肯定感は高い状態を保つことができる。そして、そうした自己肯定感の高さの背景には、何らかの成功体験が根ざしているだろう。ただ、その成功体験が、「失敗していない自分」に対する満足感であるとき、さらなる成長への伸びしろは、あまり期待できないような気がしている。むしろ、何らかの失敗を自覚し、その不全感を自らが引き取っているとき、むしろ、自分だけでなく、周りにも関心が向いていくように思う。

何より、学生らと接していて、小さな失敗を大きな挫折として受け止めてしまう傾向が強くなっているように感じてならない。エラーしたらフォローすればいい、それは野球のピッチャーがリリーフを迎える場面を想像すると、わかってもらえるのではないかと思うのだが、自分の中に「できる」という自信を持ちたいという衝動が、「できない」自分を自覚を困難なものにさせているのではなかろうか。一つ言えることは、困っている時に誰かに頼ることもできないとき、あるいは誰かが救援に向かっても事態が収拾できないときには、「中」も「外」もなく、ただ目の前に「炎上」という事が招かれるということである。