「何学部の先生なのですか?」とよく訊ねられる。が、なかなか説明を理解してもらえない。私の所属は立命館大学共通教育推進機構である。学部を横断して講義を展開する教養教育を担当している、いわゆる「パンキョー(一般教養)」のセンセイなのだ。
学部に所属しない教員で、しかもサービスラーニング手法を用いた科目を担当しているために学期末試験によって評価を行わないのだが、学期末の試験の際には、学部単位で運営される監督体制の応援に駆り出される。今年は法学部による4つの科目の監督者を担った。ちなみに、昨年度まではびわこ・くさつキャンパス所属であったこともあって、スポーツ健康科学部の試験のお手伝いに声を掛けていただいた。その中で印象に残っているのは、長積仁先生による科目で、講義時に配付した「押印済(公認印、という言い方がわかりやすいかもしれない)」のA4版の色紙1枚のみ持ち込み可能、という条件がついたもので、それぞれが必死に準備して試験に臨んでいる様子を確認することができた、というものである。
私が担当したということは明らかとされていないが、試験時間割が公開されていること、また試験そのものが終了した今だから差し支えないと思われるので、今回、監督者となった科目に対する、ちょっとした雑感を記させていたくことにしよう。まず、7月29日の朝一番に行われた「政治学入門」は、圧倒的に論述への力点が高いと思われるものの、回答の書きはじめの位置を「インデント」してしまうと、結果として充分な論理展開を行えぬまま、記入欄が尽きてしまったのではないかと思われた。7月30日の午前に行われた「社会と福祉」も、語彙選択問題の後で2問の論述問題が設定されていたが、回答用紙の裏表をどのような配分で用いるか、あらかじめ目安がつけられていないと、2つの問いのあいだの理解度に差があることが歴然としてしまうのではないか、と思われた。こうした回答用紙の適切な使い方がさらに求められたのが7月30日の午後の「科学技術と倫理」で、フーコーから電子著作権まで、つまりは古典から現代のトピックスまで、幅広い事柄への理解ができていることを、単語レベル、文節レベル、そして文章レベル、それぞれに適切な分量でまとめる必要があった。
そもそも、試験によって問うことができる理解度には限界があるだろう。しかし、教員が設定する問題に対して、どのような回答がなされるのか、それによって、試験を通して問うことができる理解度というものがあることを、4科目の試験監督を担うことで再認識することができた。例えば、8月1日の「社会保障論」で「棄権」した学生は、論述問題には自らの経験をもとに手がつけられたものの、穴埋め問題には自らの知識が至らなかったのではないかと思われた。このように、試験というのは、「正解」を「解答」しなければならない問題によって絶対的に「合格・不合格」を験すことが可能であるが、それに加えて唯一の正解は存在しないものの設定された問題をどのように「回答」するかによって(極端な例だが、論述に対して散文で記しては、残念ながら緻密な論理を問う場合には不適切となるように)相対的な「優劣」が試されていくのであろう。
学部に所属しない教員で、しかもサービスラーニング手法を用いた科目を担当しているために学期末試験によって評価を行わないのだが、学期末の試験の際には、学部単位で運営される監督体制の応援に駆り出される。今年は法学部による4つの科目の監督者を担った。ちなみに、昨年度まではびわこ・くさつキャンパス所属であったこともあって、スポーツ健康科学部の試験のお手伝いに声を掛けていただいた。その中で印象に残っているのは、長積仁先生による科目で、講義時に配付した「押印済(公認印、という言い方がわかりやすいかもしれない)」のA4版の色紙1枚のみ持ち込み可能、という条件がついたもので、それぞれが必死に準備して試験に臨んでいる様子を確認することができた、というものである。
私が担当したということは明らかとされていないが、試験時間割が公開されていること、また試験そのものが終了した今だから差し支えないと思われるので、今回、監督者となった科目に対する、ちょっとした雑感を記させていたくことにしよう。まず、7月29日の朝一番に行われた「政治学入門」は、圧倒的に論述への力点が高いと思われるものの、回答の書きはじめの位置を「インデント」してしまうと、結果として充分な論理展開を行えぬまま、記入欄が尽きてしまったのではないかと思われた。7月30日の午前に行われた「社会と福祉」も、語彙選択問題の後で2問の論述問題が設定されていたが、回答用紙の裏表をどのような配分で用いるか、あらかじめ目安がつけられていないと、2つの問いのあいだの理解度に差があることが歴然としてしまうのではないか、と思われた。こうした回答用紙の適切な使い方がさらに求められたのが7月30日の午後の「科学技術と倫理」で、フーコーから電子著作権まで、つまりは古典から現代のトピックスまで、幅広い事柄への理解ができていることを、単語レベル、文節レベル、そして文章レベル、それぞれに適切な分量でまとめる必要があった。
そもそも、試験によって問うことができる理解度には限界があるだろう。しかし、教員が設定する問題に対して、どのような回答がなされるのか、それによって、試験を通して問うことができる理解度というものがあることを、4科目の試験監督を担うことで再認識することができた。例えば、8月1日の「社会保障論」で「棄権」した学生は、論述問題には自らの経験をもとに手がつけられたものの、穴埋め問題には自らの知識が至らなかったのではないかと思われた。このように、試験というのは、「正解」を「解答」しなければならない問題によって絶対的に「合格・不合格」を験すことが可能であるが、それに加えて唯一の正解は存在しないものの設定された問題をどのように「回答」するかによって(極端な例だが、論述に対して散文で記しては、残念ながら緻密な論理を問う場合には不適切となるように)相対的な「優劣」が試されていくのであろう。