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2013年9月17日火曜日

「やれよ/やるよ」と「する/しない」


朝から立命館の朱雀キャンパスで過ごした。朝一番はBKCの地域連携に対する教養教育の関わり方と、教学機関としてのサービスラーニングセンターにおける社会連携機能のあり方についての意見交換を、教学部の次長と行った。午後からはある学内研究資金についてのプレゼンテーションに、参加メンバーの一人として出席した。その後は夕方まで、台風18号による被害への立命館災害復興支援室の向き合い方について、情報収集と方針決定が断続的に行われることになった。

ちなみに、この間楽しみにしてきた『あまちゃん』がいよいよ佳境に入ったこともあって、起きると毎朝7時半からの「早あま」を楽しみ、さらに余裕のあるときには8時からの「朝あま」にて芝居の中で聞き取れなかった台詞を確認するために字幕付で見る、というともすれば奇妙な行動を続けている。見ていない人にはまったくわからないだろうが、今日のクライマックスは松田龍平さん扮する「ミズタク」こと水口琢磨が、橋本愛さんが演じる「ユイ」をけしかけ、震災以降の沈鬱な状況を打開するという部分である。余談だが、時に芝居なのか素なのかわからなくなるという点で、能年玲奈さんの「アキ」と共に、実に素晴らしい演技と演出がなされているのが『あまちゃん』の深みだ。今日は突如、北三陸(架空の市という設定であるが、ほぼ、久慈と置き換えて考えると合点がいく場面が多い)を突如訪問した地元系アイドルGMT5に対して、かつてはアイドル志望であったユイが散々の悪評(ベロニカだけは直接ではなく環境に対しての批判であった)を叩いた後を見計らい、ミズタクが「じゃあ、ユイちゃんだったら?」と問いかけ、アイドル活動の再開に向け「やりなよ」と差し向けたのを契機に、アキのおばあちゃん役の夏さん(若干、老いのしぐさが大げさなように思うが、宮本信子さんが好演している)が「やればいいのに」と言葉を重ね、最後にユイの兄役のヒロシ(イケメンキャラを劇中でいじられるという、何とも絶妙な設定を小池徹平さんが見事に演じている)が「やれよ」とたたみこむ、ホップステップジャンプ式の言葉のリズムと、そのリズムを生み出すタイミングとしてアキも含めたアイコンタクトのリレーが、見ていて心地よかった。

長らく抑えてきた思いが一気に解き放たれ、それまで密かに認めてきたアキとユイによるユニット「潮騒のメモリーズ」の活動再開へのシナリオ(ユイが手書きでノートに綴っていた)の存在も明らかにされ、私も「琥珀の勉さん」(塩見三省さんが実に深みのある芝居を重ねている)のように「やったー!」と叫びたい気持ちであった。しかし、虚構の世界で復興への展望が開かれていく中、現実の社会では多くの課題に直面している。朝一番の打合せは、意思決定への「筋」と「制度疲労」への次の一手を模索しなければならなかったし、午後のプレゼンテーションでは「実践的研究における実践的な意義は認められるが、果たしてそうした実践を研究として位置づけていくとき、何が壁となっているのか(転じて、我々の研究プロジェクトがどのようなブレイクスルーをもたらすのか)」が問われ、夕方からの台風18号災害への構えの整理では新たに知った事実に対する「緊急度」と今の状態で抱えている業務とのあいだで「重要度」を考慮し、誰と共に誰に対して、誰がどこまでどのように行動を起こすのか、まさにシナリオの検討が重ねられた。加えて、そのシナリオの検討のあいだ、ある学生からのビジネスプランコンペへの相談を受けたのだが、これが「起業への」相談ではなく、「アイデアの実現への」相談で、後は「やるか/やらないか」の問題であると結んでしまった。朝の『あまちゃん』に重ねるならば、「できるか/できないか」を自問する方には「やるか/やらないか」という問いへの姿勢を明確にしていただだかないと、企画書の精度が上がるだけで、そこに綴られた世界が現実のものとはならないのだ。

目の前に見ているものを他人事にしていては、物事を動かし出来事を起こすことはできない。価値を創出する際には、自他のあいだで価値の調整に時間と労力を割かなければならないのだ。ささやかだが、これから2年半かけて、そうした取り組みを4人の教員と3人の研究協力者と共に、東北で行っていく決意を固めている。無論、それと並行して、近くの被害にどう向き合うか、何を「する/しない」の判断は、9月18日の昼、なされる見込みである。