應典院に身を置き、大蓮寺の除夜の鐘のお手伝いをさせていただくようになり、決まって帰省は年明けになっている。この2年は京都住まいをさせていただいているが、その前の京都暮らしのときには、元旦に大家さんのお宅でお招きをいただき、夕方まで歓談を重ねることが慣例となっていた。あいにく、その大家さんとはお酒を交わすことがなくなってしまったが、年賀状や電話で、時には素敵な家を住み継いでいただいた友人を介し、近況を交わすことができている。
そして今、帰省する先は2つになった。一つは妻の、そしてもう一つは私の、である。かつて室生犀星は「故郷は遠きにありて思ふもの」と詠んだ。昔とは違い、物理的な距離の移動は容易になったが、精神的な距離には丁寧に向き合っていきたいものである。
私の家族も、妻の家族も、やはりそれぞれ年を重ねている。もちろん、我々も、だ。あと何回、こうして変わらず年を越し、共に新たな年を迎えられるか、そんなことを考えるようになってきた。一度、きちんと京都に招かないと、もしくは皆で共にどこかに出かけようか、今度きょうだいと相談してみようか、そんな思いにも駆り立てられる。
今日は京都で58年ぶりの大雪だったという。家を出て駅に向かう道は、一夜を経て所々アイスバーンとなっていた。約1時間遅れで到着した駅で見上げた空は、澄んだ青だった。視界いっぱいに広がる青と、暖かな日差しが、懐かしい記憶に包んでくれたような気もしている。遠くにありて思うのもまたよいのだが、やはり故郷に浸るのもまた、よいものである。