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2021年1月24日日曜日

開かれた場を開くということ

目は口ほどに物を言う、とはよく言ったものである。もちろん、目が雄弁に語るわけではない。てんとう虫コミックス版ドラえもん2巻に所収「オオカミ一家」で触れられる「目でピーナッツをかむ」のセリフではないが、目が口になることはない。ただし、目は口ほどに物を言うとは、こうして落語のくすぐりのように有り得ないことを言っているのではない。

今日もまた、夕方から立命館大学教養教育センターによるオンラインサロンが開催された。しかし、参加者は0だった。言うまでも無く、1時間半のうち、誰一人として来なかったのである。要は百聞は一見にしかず、という言葉があるが、Zoomの「参加者」の数字が終始「1」のままだった状態を終了時に見ると若干気が滅入るところがあるのだが、何より、誰も参加しなかったため、40分が経過すると何も動きがなかった時間(アイドルタイム)として自動終了されることになったのも、企画側として自らのセンスに鈍りや翳りがないかと内省を重ねてしまう。

かつて、大阪・天王寺の浄土宗寺院「應典院」にて、「チルコロ」と題したトークサロンを開催していた。毎月第3木曜日に開催されてきた「いのちと出会う会」と同じ曜日と同時刻に、何らかのテーマを掲げておけば、誰かやってくるのではないか、と企図したのである。「チルコロ(circolo)」とはイタリア語で、英語ではサークル(cirlcle)となる。龍谷大学で市民メディアをテーマに研究する松浦さと子先生の研究プロジェクトに参加させていただいて、イタリアに調査に訪れた折、ミラノの社会センターでcircoloと呼ばれる同好会が地域住民と公共(的)施設とのつながりを生み出している、ということに感化されたものであった。

應典院では「呼吸するお寺」と掲げていたこともあって、いかにして開かれたお寺であり続けるか、この問いに向き合い続けてきた。当然のことながら単に門が開いているだけでは、開かれたお寺ではなく、ただ開いているお寺、に止まる。開かれた状態を維持し、そこに集う人たちによって何らかの意味や価値が生み出されることが重要である、と捉えた。今回の立命館大学教養教育センターのオンラインサロンにも通じるところがあるのだが、26日火曜日まで、まずは門戸を開いて、それぞれの悩みや迷いが寄せられるのを待つことにしたい。


1999年に『「聴く」ことの力』に続き鷲田清一先生は2006に『「待つ」ということ』を刊行
(Nikon D40, 40mm, f/3.2, 1/6, ISO400)