無印良品というブランドは、私にとって究極のコラボレーションのお手本である。なぜなら、自分たちが掲げた思想に合う商品や企画があれば、それを「無印良品化」して、自らのブランドの中に取り込んでいるからだ。例えば、文房具にしても、自社開発のもの以外に、既に他社から発売されているものの色を変え、型番やブランド名を印刷せずに販売することがある。その他の無印良品の商品と並べて違和感のないものが、次々に無印良品の世界に取り込まれていくのだ。
私が関わっている内蒙古での沙漠緑化活動に無印良品の宣伝販促室の方(当時)来られたのも、改めて無印良品のブランド力に触れる機会となった。上司の指示であったと仰っていたが、「何か」が「そこ」にあると思って、文字通り「愚直」に、しかし「穏やか」かつ「奥ゆかしく」、多くの人のことばや、自らが触れる異文化に、関心を向けていたことが印象的だった。ちなみに、その出会いがご縁で、大学コンソーシアム京都での勤務の折、担当していた「コミュニティ・ビジネス&サービス講座」での企画商品(入浴剤使用可能シャワーヘッド、など)を、学生たちがプレゼンテーションさせていただいたこともあった。さらに言えば、内蒙古で宴席を重ねていくうちに、「いつかウチ(良品計画:無印良品を扱う会社の法人名)で働いてみませんか?」というリップサービスをいただいたこともあるのだが、もしも機会があるならぜひ、と本気で思ったのであった。
以前ワークショップに参加して改めて敬服した深澤直人さんをはじめ、サム・ヘクトやジャスパー・モリソンなど、世界で活躍するデザイナーを起用し始めたのも、私がさらに無印良品に興味を持たせる背景となった。無論、インハウス(社内)のデザイナーの、自社ブランドへのこだわりや貢献も見逃すことができない。何より、そうした多くの発想について調和を取り、一つのブランドを維持しているところに、NGO・NPOにおける問題解決能力向上のための知恵があふれているように思う。無知な人をただ取り込んでいくのではなく、関心のある人を巻き込みつつも関心のない人が関心を持つように光を充てていくこと、そうした啓蒙型から啓発型の問題解決の提案と実践に、NGO・NPOの実践家も学ぶべきところは多いだろう、と、これまた昨日の読書会で議論の遡上に上げたところである。
デザインのデザイン
第4章 なにもないがすべてがある(抜粋)
第4章 なにもないがすべてがある(抜粋)
無印良品が目指す商品のレベル、あるいは商品に対する顧客の満足度のレベルはどの程度のものなのだろうか。少なくとも、突出した個性や特定の美意識を主張するブランドではない。「これがいい」「これじゃなきゃいけない」というような強い嗜好性を誘発するような存在であってはいけない。幾多のブランドがそういう方向性を目指すのであれば、無印良品は逆の方向を目指すべきである。すなわち、「これがいい」ではなく「これでいい」という程度の満足感をユーザーに与えること。「が」ではなく「で」なのだ。しかしながら「で」にもレベルがある。無印良品の場合はこの「で」のレベルをできるだけ高い水準に掲げることが目標である。
「が」は個人の意志をはっきりさせる態度が潔い。お昼に何が食べたいかと問われて「うどんでいいです」と答えるよりも「うどんがいいです」と答えた方が気持ちがいいし、うどんに対しても失礼がない。同じことは洋服の趣味や音楽の嗜好、生活スタイルなどについても言える。嗜好を明確に示す態度は「個性」という価値観とともにいつしか必要以上に尊ばれるようになった。自由とは「が」に近接している価値観かもしれない。しかしそれを認める一方で、「が」は時として執着を含み、エゴイズムを生み、不協和音を発生させることを指摘したい。結局のところ人類は「が」で走ってきて行き詰まっているのではないか。消費社会も個別文化も「が」で走ってきて世界の壁に突きあたっている。そういう意味で、僕らは今日「で」の中に働いている「抑制」や「譲歩」、そして「一歩引いた理性」を評価すべきである。「で」は「が」よりも一歩高度な自由の携帯ではないだろうか。「で」の中にはあきらめや小さな不満足が含まれてるかもしれないが、「で」のレベルを上げるということは、この諦めや小さな不満足をすっきりと取りはらうことである。そういう「で」の次元を創造し、明晰で自身に満ちた「これでいい」を実現すること、それが無印良品のヴィジョンである。
無印良品が手にしている価値観は、今後の世界全体にとっても非常に有益な価値観でもある。それは一言で言うと「世界合理価値=WORLD RATIONAL VALUE」とでもいうべきもので、極めて理性的な観点に立った資源の生かしかたや、ものの使い方に対する哲学である。
原(2003) pp.108-109