2月最後の28日、昨日で「Make A Difference」のお役はご免となったが、2日目のシンポジウムの内容と登壇者に関心があったので、1964年の東京オリンピックで選手村となった「オリンピック記念青少年総合センター」に宿泊させていただき、プログラムの終了まで参加した。シンポジウムのテーマは「大学の新しい挑戦〜学ぶ力を育むギャップイヤー」で、昭和女子大学の興梠寛さんをコーディネーターに、立命館大学大学院文学研究科に在日コリアンによる文学研究のため留学中のアンドリュー・ハーディングさん、現在は復興庁の政策分析官を務める藤沢烈くん(ちなみに「ネット」ではなく「リアル」での再会はおよそ15年ぶりくらいである…)、グローバル社会における流動性・効率性・多様性などから秋入学が検討される中で俎上にのった「ギャップターム」を取り扱っている東京大学総長補佐の藤井輝夫先生、建学理念にも掲げられた「フロンティアスピリット」に基づいて展開されている名古屋商科大学学生支援部門の国際交流プログラム「ギャップイヤープログラム」担当の高木航平さん、そして「ギャップイヤー」が実現された折に企業はどのように受け入れるかについてのコメントをする立場で日本経済団体連合会広報本部長の井上洋さん、という布陣であった。中でも、高校時代に日本語を勉強し始め、3週間ほどの日本滞在経験の後に、英国から北海道の洞爺村に1年間住むというギャップイヤーを経験したハーディングさんの存在感は圧倒的であった。ハーディングさんは洞爺村での滞在中、Project Trustのプログラムにより、地域の小学校で英語を教えるかたわら、週1回の幼稚園での活動、さらにはリハビリ病院での国際交流なども経験したそうで、それによりロンドン大学の東洋アフリカ研究学院(the School of Oriental and African Studies:SOAS)にて飛び級もできたそうで、留学にあたって付きまとう「1年間を無駄にして…」とは真逆の話になった、という。
これはシンポジウムのまとめの部分で、口々に語られたところであるが、ハーディングさんも、烈くんも、一直線の人生ではないが、起伏に富んだ人生を物語る若者である。事実、烈くんは「ギャップイヤー」という言葉がない中で、2年連続で(親が重病ということで)休学をし、ミニコミ紙を創刊し、スポンサーを得て雑誌を発行し、ネットワークパーティーを企画し、サロンとなるバー「狐の木」を開店し、マッキンゼーでコンサルタントとなり、新たにベンチャー支援のプロジェクトを設立し、現在は東日本大震災で情報の分析を担っている。一方で、ハーディングさんはギャップイヤーと大学での比較文学研究の後、ロンドンで日系の人材派遣会社で働くも10ヶ月で離職し、貴重な経験を得るきっかけとなったプロジェクトトラストで2年間働き、日本とウガンダのプロジェクト担当した後、ロンドン大学の大学院に進学し、立命館に留学し、今に至っている。ただ、このように記すと烈くんは階段を登っているかのように思われるかもしれないが、烈くん曰わく、サロン「狐の木」はメディアでは盛り上がったものの、毎月赤字で、仲間も去り、経営に追われてネットワークをつくるという目的からも離れ、閉店し、そうして店を潰したものの、コンサルタントとなった後は休みのない日常の中で友人とも会えず、鬱状態の中でプレイステーションを購入してバイオハザードを正月にする、という具合に、「失敗ばかり」だったという。
シンポジウムでの話題提供者はハーディンさんが皮切り役だったが、そこでは「ギャップイヤー」における「意識的な学び」と「無意識的な学び」が区別されて話された。ハーディンさんによれば、自らの意志で、それまでとは違う世界に飛び込むギャップイヤーでの「同じ年頃の生徒たちを教える」という体験を通じて、time management、people maangement、creativityの3つを学んだという。一方で、帰国後に無意識に学んだこととして「文化を相対論で片付けていいのか」という点があり、「ものを客観的に見ること」がいかに大事であることに気付いたという。別の言葉だが、烈くんもまた、積極的な休学の期間を得たことによって、「スキルや経験」ではなく、「何かが起きた時に、それまでを捨てて飛び込める」こと、「率先して動く」こと、すなわち「とにかく集中してコミットする」ことで「変化に強くなる」という学びを得た、とのことだ。
ちなみに今、東京大学で検討されている「ギャップターム」が英国の「ギャップイヤー」と異なるのは、大学で「何を、なぜ、学ぶのか」の動機付けや目的意識を駆り立てられるように、入学者全員が約半年間にわたって偏差値や知識至上主義から離れる経験を得ることだと、藤井輝夫先生は語った。2013年度から、東京大学では初年次長期自主活動プログラム(FYYプログラム:Freshers Leave Year program)が始まるそうだが、日本経団連の井上さんによれば、企業で「経験者採用」が増えたことにより、「新卒採用」にも変化がもたらされ、経歴よりは個々の意欲や思考が重視されるようになってきたとのことである。ちなみに若かりし頃に蒸気機関車の撮影に熱狂した井上さんは、学生時代のラグビーの経験をもとに、「単線ストレートではなく、ジグザグのキャリア」を、「既成概念にとらわれず、主体性をもって」形成することを、ラグビー用語の「ストラクチャーとオフロードの繰り返し」による、と示した。それぞれに、語り口は違えど、キャリア形成とは「シームレス」ではない、ということを自らの歩んだ道を振り返りながら、夕方からの母校での打ち合わせに向かったのであった。
これはシンポジウムのまとめの部分で、口々に語られたところであるが、ハーディングさんも、烈くんも、一直線の人生ではないが、起伏に富んだ人生を物語る若者である。事実、烈くんは「ギャップイヤー」という言葉がない中で、2年連続で(親が重病ということで)休学をし、ミニコミ紙を創刊し、スポンサーを得て雑誌を発行し、ネットワークパーティーを企画し、サロンとなるバー「狐の木」を開店し、マッキンゼーでコンサルタントとなり、新たにベンチャー支援のプロジェクトを設立し、現在は東日本大震災で情報の分析を担っている。一方で、ハーディングさんはギャップイヤーと大学での比較文学研究の後、ロンドンで日系の人材派遣会社で働くも10ヶ月で離職し、貴重な経験を得るきっかけとなったプロジェクトトラストで2年間働き、日本とウガンダのプロジェクト担当した後、ロンドン大学の大学院に進学し、立命館に留学し、今に至っている。ただ、このように記すと烈くんは階段を登っているかのように思われるかもしれないが、烈くん曰わく、サロン「狐の木」はメディアでは盛り上がったものの、毎月赤字で、仲間も去り、経営に追われてネットワークをつくるという目的からも離れ、閉店し、そうして店を潰したものの、コンサルタントとなった後は休みのない日常の中で友人とも会えず、鬱状態の中でプレイステーションを購入してバイオハザードを正月にする、という具合に、「失敗ばかり」だったという。
シンポジウムでの話題提供者はハーディンさんが皮切り役だったが、そこでは「ギャップイヤー」における「意識的な学び」と「無意識的な学び」が区別されて話された。ハーディンさんによれば、自らの意志で、それまでとは違う世界に飛び込むギャップイヤーでの「同じ年頃の生徒たちを教える」という体験を通じて、time management、people maangement、creativityの3つを学んだという。一方で、帰国後に無意識に学んだこととして「文化を相対論で片付けていいのか」という点があり、「ものを客観的に見ること」がいかに大事であることに気付いたという。別の言葉だが、烈くんもまた、積極的な休学の期間を得たことによって、「スキルや経験」ではなく、「何かが起きた時に、それまでを捨てて飛び込める」こと、「率先して動く」こと、すなわち「とにかく集中してコミットする」ことで「変化に強くなる」という学びを得た、とのことだ。
ちなみに今、東京大学で検討されている「ギャップターム」が英国の「ギャップイヤー」と異なるのは、大学で「何を、なぜ、学ぶのか」の動機付けや目的意識を駆り立てられるように、入学者全員が約半年間にわたって偏差値や知識至上主義から離れる経験を得ることだと、藤井輝夫先生は語った。2013年度から、東京大学では初年次長期自主活動プログラム(FYYプログラム:Freshers Leave Year program)が始まるそうだが、日本経団連の井上さんによれば、企業で「経験者採用」が増えたことにより、「新卒採用」にも変化がもたらされ、経歴よりは個々の意欲や思考が重視されるようになってきたとのことである。ちなみに若かりし頃に蒸気機関車の撮影に熱狂した井上さんは、学生時代のラグビーの経験をもとに、「単線ストレートではなく、ジグザグのキャリア」を、「既成概念にとらわれず、主体性をもって」形成することを、ラグビー用語の「ストラクチャーとオフロードの繰り返し」による、と示した。それぞれに、語り口は違えど、キャリア形成とは「シームレス」ではない、ということを自らの歩んだ道を振り返りながら、夕方からの母校での打ち合わせに向かったのであった。