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2014年7月28日月曜日

ささやかでも長く確かな支援を

東北での3日間を終え、日常の暮らしに戻っている。最近の日常と言えば、会議や打合せの合間にメールを捌く、といった日々である。締切をとうに過ぎた原稿を抱えているものの集中して執筆するモードになれず、後手後手に回っている。瞬発的な集中力をいかに高めるかではなく、仕事まで捌くモードにならないようにせねば、と自省と自戒を重ねる日々である。

朝はサービスラーニングセンターの「主事会議」から始まった。名前こそ会議だが、機関としての意志決定の会議ではない。今回の議題は9月に予定されている学生スタッフ(学生コーディネーターと呼ばれている)の合宿と、2015年4月に迫る大阪いばらきキャンパス(OIC)開学に伴うサービスラーニングセンターの展開についてであった。2012年に「立命館スタンダード」という名のもとに、新しい教養教育のあり方が定められた。そのためサービスラーニングセンターではそのうちの「社会で学ぶ自己形成科目」(いわゆるC群)の科目をキャリア教育センターと共に展開しているが、(朱雀キャンパスでは学部教育が実施されていないため)衣笠キャンパスとびわこ・くさつキャンパス(BKC)の2キャンパスのみを射程に組み立ててきた前提が崩れることもあって、体制問題は組織の位置づけまで掘り返す議論が求められている。

朝の会議の後は教育開発推進機構の河井亨先生とのランチミーティングであった。衣笠キャンパスの東門を出て少し歩いたところにある「藤井」にお邪魔した。恐らく15年ぶりくらいの再訪だろう。今なお、時間的、空間的(そして、ちょっとだけ金銭的に)余裕のありそうな学生たちがあふれていて、なんだかうれしかった。

ランチミーティングでは夏休みの課題である「論文執筆の共著」を確認して、午後はOICの開設準備室で副室長を務めておられる服部利幸・政策科学部教授を話題提供者に招いたサービスラーニングセンターの研究会(ボランティア・サービスラーニング研究会:VSL研究会)が開催された。学生スタッフの組織化、茨木市市民活動センターなど地域団体との関係、各学部(当面は政策科学部と経営学部)による地域連携の取り組み、3つの基本理念を実現するための展望、他キャンパスでの取り組みとの関連など、論点は多岐にわたった。そして夜は7月21日付けで常勤監事に就任されたことに伴い、立命館災害復興支援室長を退任される上田寛先生の謝恩送別会であった。合計9名のささやかなイタリアンナイトであったが、上田先生のあたたかいお人柄に触れ、ささやかでも確かな取り組みを重ねていこうと決意を固める一夜であった。

2014年7月27日日曜日

スピード感への広く・鋭い視点を


夏の1回目の東北往訪、3日目が最終日である。朝は「唐桑御殿つなかん」で、偶然宿泊日が重なった伊波敏男さんの一団と朝食の際に懇談させていただいた。しかも、7月5日から、料理長として今井竜介さんが働き始めたこともあって、朝食は牡蠣のオムライスという洒落たものを頂戴した。伊波さんたちを大漁旗をモチーフにした「福来旗」でお見送りし、出発までのあいだ、一代さんと竜介さんと、しばし「おじゃっこ」(茶飲み話)で盛り上がった。

気仙沼とのご縁、また「唐桑御殿つなかん」とのご縁は、糸井重里さんの事務所「ほぼ日」の皆さんとつながったことによる。今は立命館アジア太平洋大学の副学長となられた今村正治さんが、立命館災害復興支援室の担当部長でいらっしゃった頃、東京での「へんなミーティング」に招かれたことがきっかけで、その翌月の災害復興支援室による「後方支援スタッフ派遣プログラム」の第19便において気仙沼を行き先の一つに追加することにしたのである。ミーティングが5月16日、学生10名と教職員2名が訪れたのが6月6日から11日のうち9日と10日であるから、今思えば即断即決の物凄いスピード感だ。そして今、まさに「唐桑御殿つなかん」の隣の民地にて、東北ツリーハウス観光協会による「100のツリーハウスをつくろう」というプロジェクトの一つを、立命館が参画して形づくろうという運びになっている。

この1年ほどの関わりであるが、訪れるたびにささやかな変化を感じ、変わらずにあたたかく迎え入れてくださる方々の思いが深まり、物理的な距離に対する精神的な距離はますます近づいている気がする。もちろん、気がするだけであるから、一方的な感情移入を互いの共感であると勘違いしないようにせねばならない。それでも、わずかな時間の談笑の中で、女将の一代さんから「もう、親戚みたいなものだから」と仰っていただいたり、電話ではなんどかやりとりを重ねた料理長から「おもしろい方ですね」と言っていただけるだけで、また次の約束を結び、その日を心待ちにしたくなる。ちなみに竜介さんが入ったことで、「盛屋水産」と「唐桑御殿つなかん」がより一体感を増してきているようで、次に行くときは竜介さんに料理長以外の肩書(○○長)が並んでいるのだろう、などと夢想してしまった。

気仙沼からは南三陸を経由して名取の閖上に向かった。南三陸では防災対策庁舎で手をあわせ、さんさん商店街でENVISIの皆さんによる「きりこボード」の鑑賞と昼食休憩を取った。そして閖上では、いつものとおり長沼俊幸さんから震災当日から「これまで」と仮設住宅の「今」と住宅再建などの「これから」について、1時間半あまり、じっくりご案内をいただいた。今回長沼さんからは、地域の嵩上げが進む中、土地の買い上げの手続きはあっけないくらい簡単に済まされてしまったこと、facebookを通じて活動基盤を発展・拡張させている復興支援プロジェクト「STEP」があること、中学校の遺族会の方に亡くなったお子さんの名前が入ったコカコーラを探して届けておられる方がいること、何より地域の方にはあまり好評が得られていない慰霊碑が8月11日に除幕式を迎えることなどを伺い、3日間の東北滞在を終えるにあたって、また次の機会のための視点を広く、鋭くいただけたように思う。

2014年7月26日土曜日

沿岸部を縦走し力尽きる夜


この夏1回目の東北往訪、2日目は宮古から気仙沼へと移動する一日であった。岩手県から宮城県への126kmの移動である。しかし、単に移動するだけではなく、途中でいくつかのまちを訪れ、東北の「今」を見て回るのだ。そのため、朝8時に宿を出て、国道45号線を南に向かうものの、気仙沼の宿には19時頃に到着した。

朝食は宮古市内、魚菜市場でいただいた。昨日の夜に夏祭りの準備をしている高校生たちに出会ったが、魚菜市場でも同日にお祭りのようで、朝から設営と、楽しみを心待ちにいち早く足を運んだ方々で賑わっていた。市場で朝食をいただいた後に向かったのは、同じ宮古市ながら重茂半島であった。姉吉集落では「此処より下に家を建てるな」の文言で知られる大津浪記念碑を見て、千鶏集落では立命館大学の建築計画研究室(宗本晋作研究室)が建設した仮設集会所「ODENSE」にお邪魔した。

その後は本州最東端の魹ヶ崎がある重茂半島の奥にまで足を伸ばしたので、そのまま半島をぐるっと回る行程とし、牡蠣などの養殖いかだに太陽の光がまばゆく映る山田湾や、人波あふれる吉里吉里の海水浴場などを横目に見ながら、旧大槌町役場へと向かった。何度か足を運んでいる旧大槌町役場も、震災遺構として一部保存が決定されたことに伴い、4月10日から解体に着手がなされ、囲いの様子から拝察するに、玄関を含む正面部分を除いて撤去が進められた状況にあった。町長を含め40人が亡くなった場所で慰霊の祈りを捧げて、車窓から釜石の鵜住居地区など多くの悲劇が生まれた地域を通りながら、大船渡へと向かった。大船渡では仮設の飲食街(大船渡屋台村)で昼食をいただいたのだが、ここはお店どうしで互いに注文が可能という、相互連携の仕組みと仕掛けを置いている点が興味深い。

大船渡での昼食の後、陸前高田の「軌跡の一本松」に保存作業が終了してから初めて間近で見ることができたのだが、その脇の空間に渡されている嵩上げと高台移転のための土砂運搬のベルトコンベア「希望の架け橋」を間近で見た存在感にも圧倒させられた。続いて向かった八木澤商店はあいにく休日だったものの、河野通洋社長と偶然お目にかかることができ、少しだけ意見交換もさせていただいて、気仙沼へと向かった。気仙沼では既に定宿の一つ、「唐桑御殿つなかん」に今回もお世話になるものの、今回は先に「舞根森里海研究所」にお邪魔して、「森は海の恋人」の畠山信さん(お父さまは畠山重篤さんで、同NPOの理事長)と懇談をさせていただいた。夜は「つなかん」での地元食材を堪能する夕食の後、唐桑を愛するラグーンガイドツアーの千葉正樹さんと交流をさせていただいたものの、体力の限界で猛烈な睡魔に勝てず、なんとも失礼な態度となってしまったことを恥ずかしく思う、そんな一日であった。



2014年7月25日金曜日

再来のまちでの去り際の余韻

「ホームランを数えてるうちは四番にはなれない」。これは高校野球を題材に多角的な角度から人間関係を描いた漫画(などという仰々しいが)「タッチ」(あだち充)の中で出てくる台詞である。喫茶店によく置かれているサンデーコミックスなら23巻、私が揃えているワイド版であれば10巻に収められている「10割だよ」(全257話中227話)で描かれている。主人公(と言ってよいだろう)上杉達也(明青学園)との対戦に燃える相手高校(須見工)の新田明男が、後輩(5番の大熊)の問いかけに対して答えた言葉だ。

何かを狙っているわけではないのだが、岩手県宮古市に何回目になるかわからないがやってきた。前回お邪魔したのは7月12日の仮設集会所「ODENSE2」の感謝祭であり、そうして一つひとつを遡っていけば、通算何回目かは明らかになる。とはいえ、今回は立命館の業務モードではなく、改めて「今と人」に会うためにやってきた。旅のお伴は、インドネシアのジャワ島中部地震に伴う京都府国際課によるインドネシア・ジョグジャカルタへの支援でご一緒させていただいている香老舗・松栄堂の方々と、應典院のスタッフ、合計4名である。

朝6時に家を出て、8時15分の飛行機に乗って、田老の防潮堤に着いたのはほぼ16時であった。こうして改めて時間を記すと、関西からの距離を痛感させられるのだが、そうした距離があっても、あるいはそれだけの距離があるからこそ、足を運ぶことに意味がある。ふと、映画にもなった森山未來さんと佐藤江梨子さんらによる『その街のこども』の有名な台詞に「行かなだめなんです」を想い起こす。何度か宮古に足を運んできた者としては、この「それでも」行くということ、さらには何かをするのではなく、そこにいることが大切となることを、足を運ぶごとに実感してきた。

宮古では、宮古観光協会による「学ぶ防災」のガイド(今回は鈴木重男さんで、2012年の夏に仮設住宅での支援活動でご縁をいただいて以来、をお願いして防潮堤や嵩上げの工事が進んでいる今・現在の田老についてお話を伺い、その後は夕暮れの浄土ヶ浜を散策した。夜は浄土ヶ浜旅館・海舟で夕食を取り、宮古セントラルイン・熊安の隣にある土蔵を改装したカフェバーHAMACAにてマスターのセンスで出されるお酒を楽しんだ。はからずも、明日には宮古の夏祭りが開催されるようで、宮古市中央通商店街振興組合が協賛するビアガーデンにて振る舞われる「たこ焼き」の予行演習のため、山田高校の生徒2名がHAMACAにて鉄板と格闘していた。関西からやってきた我々の血が騒いでしまい、横から茶々を入れ、これでまた一つ宮古への思いが深まったと感じつつ眠りにつくのであった。(蛇足だが、『タッチ』の作者、あだち充さんが登場人物の現場の立ち去り方を特徴的に描くことを「あだち去」として着目した方がおられるのだが、まさに今日はそんな感じでカフェバーを去っていったような気がしてならない。)

2014年7月24日木曜日

ルールで縛らずルールを紐解く

NCISというドラマがある。米国の海軍・海兵隊にまつわる犯罪捜査チームを描いた作品だ。日本ではiTunes Storeでの取り扱いがなく、DVDもシーズン2までしか出ていないこともあって、あまり知られていないだろう。ちなみにFOXチャンネルでは2014年7月にシーズン11の初回放送が終わり、ラルフ・ウェイト(Ralph Waite)氏の追悼として、チームのリーダーであるリロイ・ジェスロ・ギブスの父、ジャクソン・ギブスの死にまつわるエピソードが涙を誘った。

NCISはチームワークと組織のマネジメントを考える上で絶好の作品である。中でも法律が重視される犯罪捜査であるにもかかわらず、リーダーは「ギブス・ルール」という独自の規律を自らと仲間に課し、白と黒のあいだに分け入っていく。ただ、ギブスには役柄として寡黙で威厳に満ちた佇まいが求められているため、ルールにまつわる背景や解説は、仲間たちの語りや回想によってあぶり出されている。今日は朝から應典院で執務をしていたのだが、應典院のみならず、私が全員が見えるところに座る、ふとした会話に突如絡んでいく、といった立ち居振るまいの一部は、このNCISから着想を得ているところがある。

ちなみに大学での講義が一区切りしている今、会議や研究会が目白押しである。今日も福島からの来訪を受けて打合せがなされ、夜には立命館大学「教学実践フォーラム」が開催された。なお、今夜のフォーラムのテーマは「Deepening Reflection 2」とされ、1月21日に実施の「Deepening Reflection」の続編であった。前回は経済学部の金井萬話題提供者であったが、今回は坂田謙司先生(産業社会学部)と石原一彦先生(政策科学部)の実践に対して、コメンテーターというお役をいただいた。

実践から何らかの知見を得るでは、現場を包み込むルールを紐解くことが欠かせない。今夜の「Deepening Reflection 2」でも、1月の「シリーズ1」での「いかにして失敗事例に目を背けず振り返るか」と「指導のために抱く怒りを感情的ではなく伝えるにはどうしたらいいか」という視点をもとに、「現場からのフィードバックと現場へのフィードフォワードのループを保つことの大切さ」を確認した上で、「共異体としての学びのコミュニティをどう維持・発展できるか」、「個々の学生のgenerality(一般性)を高めるよりも、学生間のgenerativity(世代継承性)をどう育むことができるか」、「プロジェクトを通じた学びであれば金銭面のマネジメントにも踏み込んではどうか」が今後の論点になるだろう、と発言をさせていただいた。果たして「シリーズ3」があるのかは不明だが、これだけ実践的な学びが展開される中で、通常、実践を縛る足かせのように捉えられるルールを、担い手の責任感や倫理観を規定するもの(英語で言えばnorm)として丁寧に紐解くことが殊更に大切になってきているだろう。とりわけまちづくりや復興の実践に携わっている者としては、秩序を重んじてルールを厳格化している「管理」としてのマネジメントではなく、よりよい関係を開くための「運営」としてのマネジメントのルールへの興味を禁じ得ないのである。

2014年7月23日水曜日

ファンとメンバーのあいだ


大阪の天王寺区の北の端にある應典院に職を得て、あと1年半で10年になる。静岡を出てくる際には、大阪で働くようになるとは思いもよらなかった。加えて僧侶の立場となるなど、想定外もいいところである。ボランティアの世界にどっぷりと使った大阪ボランティア協会の早瀬昇さんに対し、早瀬さんのお母さまが「お地蔵さんになったと思って」とお父さまに諭したという逸話があるのだが、これを大学時代には『基礎から学ぶボランティアの理論と実際』の冒頭部分で目にし、2010年12月の寺子屋トークで耳にし、それぞれに笑ったことをよく憶えている。

應典院の特徴は枚挙にいとまがないものの、その一つに開かれたお寺であり続けるために、事業部門を應典院寺町倶楽部というNPOが担うという構図がある。NPOと言ってもNPO法人ではない。お寺を支えたいと思ったとき、通常であれば宗教団体に「入信」するという手続きが必要となるのだが、應典院の場合は市民団体に「入会」すればよいのである。無論、別に入会しなくても多くの事業に参加することはできるので、各種事業を展開している組織に所属したいかどうかが、判断の分かれ目となる。

今日の午後、グランフロント大阪のナレッジキャピタルにある北館8階のカンファレンスルームタワーCで開催された「ふくしまから はじめよう。サミットin大阪」に参加させていただいた。蛇足だが、この「カンファレンスルームタワーC」は、JR大阪駅からの連絡デッキからでは辿り着くことがほぼ困難であり、複数ある2階のエレベーターを何機もさまよい、結果として諦めて帰ろうとしたとき、ちょうど1階ロビーにて案内されていた「生誕80周年記念 藤子・F・不二雄展」 のドラえもんをきっかけに、アクセスルートを発見することができた。ともあれ、このサミットでは、「経験したからこそできることがある」(元兵庫県庁・辻さん)、「技術があっても人がいなければどうしようもない」(三進金属工業・新井さん)、「チアリーダーがリードできるところがある」(クラップスチアリーダーズ・石河さん)、「福島はカタカナで語られ続けてしまっている」(内堀副知事)など、合点がいく発言が多かったが、特に後半のパネルディスカッションのコーディネーターを務められた福島大学の丹波史紀先生が、「関心人口」を増やさないといけないと議論を締めくくったのが印象的であった。「簡単に言えばファンです」という言葉もあわせて、である。

福島のサミット終了後、應典院での「仏教と当事者研究」プロジェクトの一環での読書会に向かった。北海道浦河町の実践に学ぶべく、『べてるの家の「当事者研究」』、『べてるの家の「非」援助論』と読み進めてきたシリーズは今回が区切りとなり、6月の現地でのフィールドワークを経て『技法以前』を深めるという機会であった。2時間あまりの議論の中で、最後には「べてるの家」のファンは「べてるの家」のメンバーの方々と関わりながら誰の何を支えていくのかという議論となり、転じて應典院寺町倶楽部が「ファン」であり「メンバー」によって支えられること、そして應典院というお寺を開く実践では「サポーター」が鍵となることを痛感した。必ずしもファンがサポーターとなり、サポーターがメンバーなるとは限らないからこそ、好意的な関心を寄せていただける方々が、実際に誰かの何かを支援する取り組みを通じて、場の担い手になっていく、そんな組織と事業の有り様を理想に掲げ、もう少しがんばってみたいと思う一日であった。

2014年7月22日火曜日

記録からのリマインダーと記憶からのリメンバー

既に学校は終業式を迎えたのだということを、こどもたちの駅のホームでの服装から実感した、そんな一日であった。私の学童期には「海の日」はなかったが、概ねその時期には夏休みを迎えていた。長嶋茂雄さんの逸話として、バースデーアーチを打つ選手をうらやましく思う、というものがあるのだが、さしずめ学校で誕生日を祝ってもらうことはなかった。もっとも、幼稚園の頃には同じ誕生月の園児たちのお誕生日会がなされたし、働き始めてからは「サプライズ」を用意いただいたこともあり、年に一度の特別な日に特別な時間をいただいてきた。

この数年はSNSの浸透もあいまって、誕生日にはキーボードに向かってお祝いコメントへのお礼を綴るのが一つの風物詩となってきた。しかし、いわゆる「SNS疲れ」ということも重なり、具体的にはfacebookでの基本データでは誕生日情報を公開しないことにした。そんな記念の日の今日は、朝から立命館大学びわこ・くさつキャンパスで打ち合わせ、そして衣笠キャンパスに移動して福島県いわき市で活動する学生たちの月次報告と相談の場を共に過ごした。それぞれのキャンパスのサービスラーニングセンターを使わせていただいたのだが、スタッフから「お誕生日おめでとうございます」と声を掛けていただき、少し気恥ずかしくもあり、やはり嬉しかったりするのであった。

ちなみに朝一番には遅れに遅れている8000字の原稿を1本書き上げた。にしても、最近は脱稿するのが本当に遅くなってきた。日々の時間が細切れになっていることが大きな要因なのだが、昔はそれでも合間でうまく仕上げてきていたように思う。そんなこともあって、あえて今日からは「いつでもどこでもオフィスになる」というフルスペックなノートパソコンを持ち歩かず、ささやかな物書きを重ねていくための道具をお供にすることにした。先週で大学の講義も終わり、情報や知識のアウトプットから、知識から知恵を紡ぎなおしていくアウトプットのためのインプットの機会を増やさねばいけないことも影響している。

そうした中、盟友から深夜にいち早くお祝いのメッセージが届き、その後も何人かからお祝いのことばが寄せられた。ふと、手書きのカードや電話をいただいた時代が懐かしく、それ以上にモノを求めていた時代を懐かしんだ。そして、今やモノよりも物語を大事にするようになり、SNSなど電磁的なリマインダーではなく、手帳や記憶からリメンバーして、祝いの言葉を届けていただいた皆さんに深謝をせずにはいられない。そして、そうしたあたたかい気持ちを自分も忘れずにせねば、と、地元で暮らす誕生日が1日違いの幼なじみな同級生のことを思うのであった。