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2024年1月8日月曜日

朝焼けの雪化粧

朝起きると、周囲の屋根にはうっすらと雪が積もっていた。京都市内では平年より1ヶ月ほど早い初雪だという。こういうときは決まって報道各社は雪の金閣寺を狙いにヘリコプターを飛ばす。ただ、今日はその音があまり気にならず、明日から再開となる授業の準備や論文などの通読に時間を当てた。

令和6年能登半島地震から1週間が経った。京都でこれほどの寒さなら、現地は相当の寒さとなっているだろう。脱水症状で亡くなる可能性が高くなるという理由で発災から72時間が「ゴールデンアワー」と言われているが、今回の災害では「72時間の壁を越えました」などという報道を過去の災害よりも多くなった気がする。もっとも、インターネットで情報収集を続けるうちに、検索エンジンのキュレーションが効いた可能性もある。ただ、無意識のうちにデジタル思考で外形的な基準を求めているのではないか、という見立てもできそうだ。

地震の規模はもとより、その地震の発生した時間、季節、また地理的特性により、被害の程度は言うまでもなく、救援や復興の方法にも違いが出てくる。中でも今回は半島の内陸の直下型地震であり、震源も極めて浅かった。特に奥能登と言われるエリアが道路の寸断によって孤立しているという報道も相次いでいる。奥能登だけでなく、その手前の七尾などでもガソリンや給水(タンク)や(仮設)トイレ関係など、生活を支える各種資源の供給や配備が整っていないという声も複数確認できる。

東日本大震災の後、鷲田清一先生の著作「語りきれないこと」で、震災は震源地から遠く離れた都市生活の脆弱さを露呈させた、といった具合に述べている箇所があった。実際、新潟県中越地震で大きな被害を受けた小千谷市塩谷集落の方々との交流を通して、ペットボトルの水を購入することなく、裏の畑から旬の野菜をいただく、そんな場面に多く触れてきた身としては、都市生活が物流の恩恵に預かっていることを幾度となく痛感してきた。一方、今回の地震では井戸水のくみ上げができずに断水している地域も多いという。静岡で18歳まで過ごしてきた身としては、少しの雪で小さく盛り上がってしまうのが常だが、能登の現状を思うと、喜びよりも痛みに近い感情がこみ上げてくる。



2024年1月7日日曜日

3連休のまんなかで

3連休のまんなか、昨日からの放送大学の教材づくりは早めの午前で一段落した。そこで、午後には他の作業を進めつつ、連続ドラマを見ることにした。1話が50分で8話連続の作品である。計算すれば、早めの午後から見れば夜までに見終えることができるものの、そんなに焦って見ることもないだろう、などと思いつつ第1話を見てみたところ、作品の世界にどっぷりと浸ってしまった。

NHKオンデマンドにて一気呵成に鑑賞したのは2023年3月から5月にかけて、NHKのBSプレミアムで放送されていた「グレースの履歴」である。原作は小説で、2010年に単行本で出版された際には『グレース : Take me to the final destination』の書名だったものの、2018年に河出書房新社から文庫化された際にドラマと同名の『グレースの履歴』に改題された。後にWikipedaを閲覧したところ、ちなみに原作者の源孝志さんは立命館大学の卒業生(1984年、産業社会学部)とのことである。そして、過去に手がけた作品リストに、2021年に京都芸術劇場にて立川志の輔師匠による落語『中村仲蔵』に触れた後、これまたNHKオンデマンドで鑑賞した「忠臣蔵狂詩曲No.5 中村仲蔵 出世階段」があり、今作にも引き込まれたことに合点がいった。

「グレースの履歴」を見ることにしたのは、先日、高校時代の恩師をクラス会にお招きした際、「山口君は見たか?」と訊ねられたためである。というのも、そのタイトルにある「グレース」は、ホンダのS800(正確にはS800L)で、車好きなら必ずや見ているだろう、と踏んでいたのだが、私はドラマも小説も、まったくノーマークであった。先生は残念そうな表情を浮かべつつも、カレンダーを私に差し出した。なんと作中に出てくるS800Lを準備された車屋さんのもので、かねてより先生がお世話になっている店だという。

作品の内容は、Webで公開されているあらすじを見ていただくとして、あふれる感情のもとに記しておくと、S800Lの造形的な美しさに引き込まれたのは言うまでもなく、脚本、役者さんの演技も、またカメラワークも含めた演出全般の秀逸さにより、長く記憶に残る作品と確信している。また、S800L以外の小道具にも引き込まれる部分が多く、例えば夫婦の出会いのエピソードとして重要な要素になっているデジタルカメラが、最終話ではかけがえのない家族のつながりを視聴者に訴えかけるものとして用いられており、(S800Lがモノとしての主人公とすれば、人間としての)主人公の希久夫さんに過度なまでの感情移入をしてしまった。余韻に浸りつつ、素敵な作品を紹介していただいた先生に、お礼のメールを送らせていただいた。実は先生の出会いが、今の私が高校卒業時には予想だにしなかった仕事を手探りでも続けていられる背景にあることを、母校の100周年記念誌に寄稿させていただいたのだが、まだまだ先生の慧眼には遠く及ばない。




2024年1月6日土曜日

まちに出て連休を実感する

「休みでも休めない」ことを、「銀行の3時以降のようなものです」と説明することがある。銀行では顧客対応の窓口は午後3時で閉まるものの、その後も銀行内では多くの仕事が続いている、ということを指している。大学では授業がなくても、授業のための準備や、授業を経て成績評定のための評価資料の整理などを行う必要がある。銀行では残業なく定時で帰宅できる方もおられるかもしれないが、大学でも手際よく準備して日々の整理ができていて休みの日は休む方もおられるだろう。

今日は来週と再来週の授業準備に多くの時間を割いた。というのも、現在、2024年度から4年間開講される放送大学の授業のための事前準備が立て込んでいるためだ。長く国際ボランティア学会の役員を務めてきたこともあって、2024年度開設科目「情報社会と国際ボランティア活動」において、15回授業のうち3回を担当させていただくことになったためである。放送大学ではラジオ放送での授業とテレビ放送での授業と2種類があるが、今回はテレビ放送の授業のため、準備の勝手が普段の授業とは全く異なり、いつも以上に手際よく進められていない状況にある。

あまり根を詰めすぎても、ということで、お昼は街中へとリフレッシュに出かけた。年末も放送大学の授業準備を行っていたこともあって、おなじみのお店にご挨拶に行けなかったため、年明け早々のランチに行ってみよう、と思い立ったのだ。しかし、3連休の土曜日なのに、か、3連休の土曜日だから、か、いずれかは判然としないものの、お店は開いていなかった。そのため、近くのお店で軽く済ませつつ、晩ごはん用のお惣菜などをいくつか購入して帰宅した。

そもそもまちが三連休で賑わっている、ということを、まち歩きのグループが旧明倫小学校を活用した「京都芸術センター」を訪れている風景で気づいた次第である。確かに街中へと向かう際、北野天満宮を通るバスが大混雑だったが、それは受験が近づいているから、と思い込んでいた。ともあれ、そうしてまちを楽しむ方がおられる中、この3連休はひたすらパソコンに向き合う見込みである。ただ、根を詰めたからといってよいものが出来上がるわけではなく、適度に休みを入れてみることにしよう。



2024年1月5日金曜日

「を」と「が」

徐々にお正月モードから抜けつつあるような、しかしお正月だからこそ動いているような、そんな振れ幅の大きい一日だった。朝は立命館のお仲間の皆さんで年始の交流の場に参加させていただいた。メンバーの中では若輩になるものの、少なくとも学生との年齢差は開くばかりである。果たして今後どのような仕事の仕方が適切か、お仲間どうしだからのざっくばらんな会話の中で、互いに「退職までの過ごし方」が話題となった。

ただ、どんな場でも、どうしても令和6年能登半島地震が話題になる。午後には対面ではなくネットで、今後の復旧、復興についてのアイデアが交わされた。その中で、今回の地震では2004年の新潟県中越地震からの復興過程で生じた課題と、それらへの対応方法などから参考になる部分があるのではないか、という観点が示された。私は長らく新潟県小千谷市の塩谷集落の復興過程に携わってきたものの、本格的に関わり始めたのは仮設住宅での生活を終え、現地再建や集団移転などの選択を経た後ということもあって、ミクロとマクロの両面をつなぎあわせた上での現時点での支援のあり方については、即座に明快なアイデアを出すことができなかった。

そうした中、夜は大学を横断した知恵絞りの会にお誘いいただいて足を運んだ。その際、ふとしたところでレトリックの観点から、当事者の主体性にまつわる姿勢について問い直しが必要ではないか、という指摘をさせていただいたところ、その場にいた方々の多くに響いたようであった。例えば「人を集める」と「人が集まる」では、そうした状態に対する担い手や方法の捉え方が変わるのではなかろうか、という具合である。いずれの表現においても、客観的に社会を捉えているようで、どこかで他人事にしてしまっていないか、自分はどこにいるか、そんな具合に、構想や計画の立て方について、即興音楽を奏でるかのように、自由な発想と表現のもとで他者を立てつつ議論を重ねた。

自宅に戻る際、とうに閉門時間は過ぎていた北野天満宮に立ち寄った。毎年恒例の絵馬が高らかに掲げられていた。「開運」の字に、果たして伝統宗教が現世利益への道を開いていいのか、といった思いを抱いてしまった。一方で、Wikipediaに「宗教的ではないがスピリチュアル」という項目さえある今、現世利益はSBNR(Spiritual But Not Religious)のもとでのマインドフルネス、ウェルビーイングと同義なのかもしれない、などと考えながら家路に就いた。



2024年1月4日木曜日

母校

父の命日は実家に1泊した。弟と過ごした時間はわずかだったが、母からは細々とした作業を頼まれ、結果として話も多岐にわたった。中でも「お父さんが京都で就職することを猛反対した理由が今になってわかった」という言葉が印象的だった。改めて「長男」という立場は今なお重くのしかかっている、そんな気がした。

そして今日は母校の1つ、静岡県立磐田南高等学校に足を運んだ。2023年4月から新校舎での授業がなされ、思い出の旧校舎が取り壊しとなることもあって、である。新校舎の建設については私が在校しているあいだにも議論になっていたものの、国の特別史跡に指定されてる国分寺遺跡が隣接していることもあって、長きにわたって工事の計画が進められなかった。ただ、調査の結果、(旧)校舎の下には伽藍跡が確認されているため再建築は不可能なものの、グラウンド部分には遺構が確認されなかったため、テニスコートや第2体育館や弓道場を取り壊すことで用地を確保し、敷地内で移転されることになった、という。
(参考:中日新聞「老朽化懸案の磐田南高校舎 敷地内移転へ」2020年1月8日、https://www.chunichi.co.jp/article/47189

ちなみに今日、母校に足を運んだのは、1年時のクラスメートと恩師と共に、である。先生の人柄もあって、気の合うお仲間になっていったこともあって、2年に進級する際には「解散会」をしたクラスでもある。ご縁とは不思議なもので、私たちの担任だった先生と、現在の教頭とが以前、同じ高校で教えていたということもあり、新校舎内の案内もいただいた。高校時代にテニス部だった私は、その思い出の地が新たな歴史を刻んでいく建物となったことを不思議な思いで受け止めた。

こうしてクラスメートと恩師が集まったのも、4年に1度、オリンピック・パラリンピックの開催年に同窓会を、と、8年前に決めたためである。そのきっかけは、卒業20年の際に「学年同窓会」がなされ、さらに翌年、40歳を迎える年に「全体同窓会の当番をする」という役目が回ってくることであった。それらの行事が滞りなく終わったところで、全体同窓会を終えた最初の正月に1年次のクラス会をしよう、という動きとなり、今回で3回目のクラス会、となった。新旧校舎の見学の後は浜松まで繰り出し、校舎は見学しなかった新たなメンバーも合流しての小宴となり、「もう後期高齢者になっちゃったヨ」という恩師を囲み、4年後もまた元気に再会を誓った。




2024年1月3日水曜日

ひかり

2年前の1月3日、父が亡くなった。その時点で既に実家を離れて28年が経とうとしていた。そのため、最早、親元で過ごした時間よりも長い時間を関西で過ごしていたことになる。その数年前から入退院を繰り返していたこともあって、遠くないいつか「その日」がやってくるのかもしれない、という覚悟のようなものはどこかで抱いていた。

あの日の朝、「大変、お父さんが…」という母親からの電話で、いつか覚悟したことが現実となったことを察知した。その電話は救急車の車内からで、その電話を私は自宅近くのバス停で受けた。折しも実家に帰省するために、妻と向かうところであった。「とにかく最速で行く」と伝えて、京都駅へと向かった。

車で行くことも検討したが、結果として予約していた「ひかり502号」で向かうのが最速と判断した。11時13分に浜松駅に着くと、弟から電話で「(心肺停止となった状態からの)処置をさっきやめてもらった」との報告を受けた。搬送先の病院に近いのはJR磐田駅で、そこからバスで向かうということもできたが、浜松駅からタクシーで向かった。「いち早く」という思いでタクシーで直行することにしたものの、安全運転に努める運転手さんだったこともあって、「運転を代わって欲しい」という思いさえ抱いた瞬間もあった。

「のぞみはありませんが ひかりはあります」ということばがある。河合隼雄先生が駅で耳にしたエピソードとして知られており、江田智昭さんが紹介する「お寺の掲示板」(例えば、https://diamond.jp/articles/-/182186)などを通じてより広く知られているのではなかろうか。あの日、「ひかり」で向った先に、生存の「のぞみ」はなかったものの、最期を迎えた救急救命センターには足を運ぶことができ、懸命の処置をしていただいたスタッフの皆さんにお礼を伝えることはできた。今思えば、安全運転で向かったタクシーは、電車やバスのように他者の目線や声、また案内のアナウンスなどから離れて、無の時間を過ごすことができたことで、穏やかな気持ちのもとで「その日」を迎えさせてくれたのだと、2年の月日をしみじみ思う。




2024年1月2日火曜日

年を取ったのか、ちょっとしたことで涙がこみ上げてくることがある。何より、今日は2024年の元日の能登半島での大規模地震により、これまでの思い出のいくつかが想い起こされて、集中力が必要な作業がままならかった。午前中からお昼過ぎまでは現地の情報収集に主な時間を割き、昼過ぎには今週末の予定もある程度は定まった。と同時に、自分が自由に動くことができる時間が少ないことに愕然とし、誰かが何かしたいという気持ちを支える、いわゆる支援者支援は確実にできるだけの精神的な余裕は持っておきたい、という思いを確かにした一日でもある。

そんな中、昼過ぎに、千葉県の柏の葉で行われた「全国高校サッカー選手権」の3回戦、千葉県代表の市立船橋高等学校と石川県代表の星陵高等学校との試合において、星陵側の応援団の一部が地震によって駆けつけることができないことを受け、2回戦で敗退した神奈川県代表の日大藤沢高等学校などがスタンドで応援した、というニュースに触れた。もう、涙腺崩壊である。しかも日大藤沢はスタジアムに駆けつけるにあたって、星稜が黄色のユニホームであることを鑑み、茅ヶ崎市のゴミ袋を持参し、それをかぶって声援した、という。それだけではなく、次の試合のために待機している岡山県代表の岡山学芸館高等学校も応援に合流、さらには対戦相手の市立船橋からも星稜側にメガホンが貸し出された、という。

こうして文字にするだけでも感極まるものがある。素材はネットニュースであるものの、そうした行動のきっかけはSNSでの情報収集を経て、チームのメンバーで相談した結果のようである。もっとも、その他の例ではNHKの番組「魔改造の夜」に挑戦する特に若手のメンバーの振る舞いや言葉で感極まってしまうことが多いことから、単に私が遠くなった青春時代をただ懐かしんでいるだけかもしれない。とはいえ、できることをする、それを支えるスポーツマンシップ、あるいはシチズンシップに、いたく感銘を受けていることは揺るぎのない事実、と捉えている。

そんななか、夕方には新たに衝撃的なニュースを目にすることになった。羽田空港での日本航空516便と海上保安庁機の衝突事故について、である。今日は雲のほとんどない夕焼けに目が向き、自宅のベランダから関西国際空港へと向かう飛行機雲を撮影した。爆発炎上した2つの機体のうち、全ての乗員乗客が助かった日本航空516便に対し、能登での地震の救援のために新潟空港に向かおうとした海上保安庁機では5人の犠牲が出たとのこと、謹んで哀悼の意を表すると共に、助かった方々とそのご家族、さらにはご遺族の方々に、平穏な日々が送られることを願ってやまない。



2024年1月1日月曜日

あたたかい風が吹くように

この数年、1月1日は京都・鹿ヶ谷の法然院にお参りして、梶田真章貫主の新春法話に参加させていただいている。今年もまた、「共に生きる〜絆と縁、愛と慈悲」で、資料は2022年にいただいたものと同じセットであったが、毎年変わらず参加することにも大いに意味がある、と捉えている。それは一度聞いた楽曲や落語の演目が、その度ごとに異なった印象で受け止めている、という場面を想像すると理解してもらいやすいだろう。何より、聞くたびごとに受け止める印象が異なるという体験は、学問的な専門としている社会心理学の一分野であるグループ・ダイナミックスの観点に基づいても、仏教におけるダルマ(真理)・因縁生起(縁起)・無自性(むじしょう)・一切皆空に通じている「現象は実体として存在しない」という物語にも裏打ちされている。

今年の法話では、「自力作善」と「他力本願」との対比のもとで、お念仏の意味について力点が置かれていたように受け止めている。これは昨年の日記(https://nposchool.blogspot.com/2023/01/01.html)を読み返してみると、確信を持って言えることである。冒頭で日本社会における宗教の役割がどう変遷してきたか、という切り口から入っていくのはこの数年で共通する流れではあるものの、自らが向き合う対象に対する執着から離れる状態、つまり煩悩がどう安らいでいる「有り難い」状態、その状態に至るのが「悟りへの道」であるとして、自力と他力の区別が丁寧に語られていった。それが自ら功徳を積みながら悟るという自力作善と、阿弥陀仏の力を借りることによって悟りの世界で成仏する他力本願、という区別につながる、という展開へとつながった。

そして、梶田貫主は法然上人以前にも阿弥陀仏の信仰に基づく念仏があったことに触れられた。法然上人以前には、自力修行としての「観念の念仏」であり、道場で(例えば平等院鳳凰堂など、自ずと仏像と本堂を必要として)お釈迦さんを思いながら極楽往生する、とした。しかし、法然上人は天台宗の僧侶として「1つの戒は保てない」として、一切の衆生を成仏させるのが阿弥陀仏の本願であることから、「その本願に応えて念仏する」とした。その際、善導大師が説いた「称名念仏」の教えに基づくことで、自分が唱える声に従って往生できるという「決定心(けつじょうしん)」に向けて「唱える」ことを中心とした行いを法然上人らは広めていった、というのが、少なくとも私にとっての本日の法話のハイライトである。

ちなみに本日の法話は、梶田貫主のお話が1時間半で、その後30分あまり、参加者との対話が重ねられた。その中で、法然上人と親鸞聖人の教えの違い、転じて浄土宗と浄土真宗という教団の違いについて議論が及んだが、私にとっては特に『歎異抄』内での記述で広く知られている「悪人生起」について、「悪人とは自分の力で自分の力をコントロールできない人」で「自分で悟れない人」として「凡夫」を指していること、そして「仏の力を借りる凡夫が念仏を通じて往生できる」こと、と梶田貫主が整理されたことで、これまでが私が他者に語ってきた論理(浄土宗は一生唱えることによってお迎えが来るという「約束」に対する念仏、浄土真宗では既に往生が約束されていることへの「感謝」に対する念仏)について、もう一段、深く掘り下げることができた。法話の会場を後にして、山門前の白砂壇に描かれた今年の文字を拝見したところ、石川県での大地震の知らせが入った。白砂壇に描かれていたのは「暄風(けんぷう)」で、梶田貫主によれば「春のあたたかい風」とのことで、巡る季節の中で傷ついたもの・人・まちがきちんと整い、被災された方々が穏やかな暮らしが送られることを祈るところである。