新年度もまた、金曜日は立命館の朱雀キャンパスに足を運ぶ日となった。用務は13時開始の災害復興支援室の会議である。多くの方の動きもあって、今年度から副室長が2名体制となり、多くの方の動きもあって、その1席に就かせていただくこととなった。東日本大震災を契機に設置された支援室は、学園における2020年までの長期計画の前半まで、すなわち2015年度までを目途に活動ということとされていたが、計画の後半部分でも課題の一つに据えられ、着実な取り組みが求められている状況にある。
グループ・ダイナミックスを専門としていることもあり、支援者の立場に関心が向き、支援の姿勢にこだわりを抱いてしまう。端的に言えば、何かの活動を構想、設計する際に、ユーリア・エンゲストロームの「活動理論」がちらついてしまうのだ。この理論では、主体と対象をつなぐ立場が明確に位置づけられ、この3者をとりまく関係性を適切に保つこと(主体と対象のあいだは道具、主体とつなぎ手のあいだは規則や規範、つなぎ手と対象のあいだは役割分担)が重要とされる。とかく、何らかの支援活動においては、支援するという主体が主役になってしまうことがあるが、特に復興支援においては、その主役は被災された方々であって欲しいと願ってやまない。
2013年の冬、立命館大学名誉教授の安斎育郎先生と科研費によるプロジェクトの打合せをさせていただいた折、9月の第125次IOC総会での
発言が話題となった。特に東京電力福島第一原子力発電所に対する「The situation is under control」と「O・Mo・Te・Na・Shi」というパフォーマンスについてである。今なお、オモテナシと言った後の合掌に、何とも言えない思いを抱き続けているが、ここでは立ち入らない。ともあれ、安斎先生は「表がないということは、裏ばかりなのだ」と、何とも言えないはにかみを浮かべながら例の口調で仰ったのだ。
2015年度の2週目の金曜日、夜に亀岡市役所の皆さんとご一緒した。大学コンソーシアム京都の在職中、リエゾン・オフィスの業務に就いていたときのご縁である。それから10年あまり、昨年度末に開催された龍谷大学の富野暉一郎先生の退職記念感謝祭で久々の再会となり、変わらずおつきあいをさせていただている(私は後輩ながら親友と呼んでいただいていて恐縮の…)同志と共に、懐かしい話、何気ない会話を楽しんだ。割り勘ゆえに(接待という意味での)おもてなしではないのだが、互いの仕事に払う<おもてなし>の場に浸りつつ、ちょっとしたウラバナシを裏も表もなく交わし合う夜であった。
グループ・ダイナミックスを専門としていることもあり、支援者の立場に関心が向き、支援の姿勢にこだわりを抱いてしまう。端的に言えば、何かの活動を構想、設計する際に、ユーリア・エンゲストロームの「活動理論」がちらついてしまうのだ。この理論では、主体と対象をつなぐ立場が明確に位置づけられ、この3者をとりまく関係性を適切に保つこと(主体と対象のあいだは道具、主体とつなぎ手のあいだは規則や規範、つなぎ手と対象のあいだは役割分担)が重要とされる。とかく、何らかの支援活動においては、支援するという主体が主役になってしまうことがあるが、特に復興支援においては、その主役は被災された方々であって欲しいと願ってやまない。
2013年の冬、立命館大学名誉教授の安斎育郎先生と科研費によるプロジェクトの打合せをさせていただいた折、9月の第125次IOC総会での
発言が話題となった。特に東京電力福島第一原子力発電所に対する「The situation is under control」と「O・Mo・Te・Na・Shi」というパフォーマンスについてである。今なお、オモテナシと言った後の合掌に、何とも言えない思いを抱き続けているが、ここでは立ち入らない。ともあれ、安斎先生は「表がないということは、裏ばかりなのだ」と、何とも言えないはにかみを浮かべながら例の口調で仰ったのだ。
2015年度の2週目の金曜日、夜に亀岡市役所の皆さんとご一緒した。大学コンソーシアム京都の在職中、リエゾン・オフィスの業務に就いていたときのご縁である。それから10年あまり、昨年度末に開催された龍谷大学の富野暉一郎先生の退職記念感謝祭で久々の再会となり、変わらずおつきあいをさせていただている(私は後輩ながら親友と呼んでいただいていて恐縮の…)同志と共に、懐かしい話、何気ない会話を楽しんだ。割り勘ゆえに(接待という意味での)おもてなしではないのだが、互いの仕事に払う<おもてなし>の場に浸りつつ、ちょっとしたウラバナシを裏も表もなく交わし合う夜であった。
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