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2016年10月12日水曜日

経験の価値と若さの価値と

 読書が苦手ながらマンガやラジオやテレビが好きだった私は、ことばに関心が向いてきた。読書では比較的長い表現が中心だが、マンガやラジオやテレビでは、単語や文節レベルで人々に何かが訴えかけられる。どうも、それが私の性に合ったらしい。日本語と同じ水準で多言語でも出来るといいが、それは難しい。

 水曜日の午前中は英語の時間である。以前、NHKラジオの「レッツスピーク」という番組にて、講師の岩村圭南先生による「英語の筋肉を鍛える」というフレーズが、今でも印象に残っている。ちょうど、仕事を始めて2〜3年、それまでの経験知だけでは底が見えると焦りを感じた頃に放送されていた。大学院に社会人入学をした時期と重なるのも無関係ではない。

 ラジオでの英語学習や大学院へと関心を向けて10年あまり、今日のお題は加齢と仕事がテーマだった。私も既に若者よりは中堅に位置づけられる年齢だ。今日の教材で、かつてAppleでモトローラ・IBMのプロセッサからインテルへの切り換えを担ったJ.K.シェインバーグ氏が、Apple Storeのジーニアスバーのスタッフ面接で落選とあった。要は、経験よりも優先される何かがある、ということだ。

 午後はBKCに向かった。先週リズムが取れなかった地域参加学習入門は、草津で活動するD.LIVE田中洋輔さんに参加頂いた。11月の街あかりイベントのチーム別会議では、今後の動きの見える化が行われた。自らの若く無さに向き合う今日この頃だ。

2016年10月11日火曜日

業を授けるということ

 授業とは業を授ける、と書く。業は「わざ」とも「ゴウ」とも読むことができる。今、教養教育の担当であることから、授けるわざとは知識ではなく認識、いわゆる物の見方である。転じて、ゴウを授けるとしたら、市民性を涵養する上での無知への気づきや、身体・発言・意志を通じた他者との交わりとなろう。

 そもそも大学の教員には免許状がない。その点でも、高校までと大学とでは、学校としてのあり方が違う。それゆえ、大学生らが自らを生徒と呼ぶことに相当の違和感を覚えている。だからこそ、学習者中心の教育を推進する立命館の教養教育を担う一人として、わざとゴウを授けていこうと、工夫を重ねている。

 今日の現代社会のフィールドワークは「教室に集まってもいいし、現地集合でもいいし、現地解散でもいいし、教室に戻ってきてもいい」と、グループでの判断を求める形態とした。先週、各グループで定めたテーマを掘り下げる時間としていたためだ。私は教室のデスクで、フィールドに行く、フィールドから戻る学生からの問いかけを待つ身である。そして、口を出す。

 6限のソーシャル・コラボレーション演習は、先週投げかけた問いに対して5名がプレゼンテーションを行った。言わば社会実験の計画案である。テキストに『イッシューからはじめよ』を指定しているので、そこに意識が向いている学生は、テーマの背景にある問題の根っこをつかもうと、リサーチを重ねている。授業後には美酒に浸った。

2016年10月10日月曜日

いざ研究モードへ

 再び九州大学に戻ってきた。日本グループ・ダイナミックス学会の第63回大会である。午前中のショートスピーチ「災害」に当たっていた。「被災地の定点観測における学習と活動の相即への身構え」と題した大阪大学の高森順子さんとの共同発表だ。

 この3年、グルダイ学会では「参加型学習を通じた災害経験の伝承に関する実践的研究」に通し番号を掲げて発表してきている。被災された方が遺した神戸の被災と復興過程の組写真に対し、その地を訪れて現在の様子を再撮影するという実践に、初年度は減災学習としての意義をまとめた。昨年度は当人が継続しえない活動を継承する意義に迫った。そして今年は、活動と学習の枠組みが定まる中でどのような工夫が求められるのかをまとめた。これらは私が筆頭者の共同研究発表であり、高森さんが筆頭の研究では別の観点が置かれている。

 今回、フロアから重要な示唆を得た。特に、京都大学の矢守克也先生から、である。端的には「語り部などのストーリーによらない伝承として、その深層に迫るべし」という具合に、だ。robustという単語も用いられた。また関西大学の近藤誠司先生からは「活動と学習の目的が共にハイブローなところにある」と前提の問い直しを頂いた。

 あいにく私大教員の宿命で夕方には授業で京都に戻っている必要があった。もっと示唆をいただけそうだったが、残念だった。とはいえ少人数だが深いセッションだった。いざ研究モードへ、である。


2016年10月9日日曜日

生まれる支え合いの輪

 学会を抜けて現場に、などと記すと、何か悪いことをしているようだ。しかし、今日は現場に行かねば、と決意して出張している。ちなみに立命館大学では出張命令決裁書を作成する必要があるが、資料収集、ゲストスピーカー、研究発表、学会一般参加、そして例に漏れず、その他がある。今回は資料収集と研究発表の合わせ技の出張である。

 今日の現場は熊本県西原村だ。熊本地震以降、概ね月1回の頻度でお邪魔してきた。とりわけ立命館災害復興支援室による支援として5月12日には7名、6月4日〜5日には17名、7月9日〜10日には5名でお邪魔し、農業を通じた生活再建のお手伝いを重ねてきた。大学院の後輩、兵庫県立大学の宮本匠先生の電話での呼びかけに応え、震源地の益城町の隣に通ってきた。

 今日は5月6日に開設された西原村農業復興ボランティアセンターを発展解消して立ち上がった西原村百笑応援団の設立にかかわり、農家さんらによるボランティア感謝祭が行われた。朝から芋掘り、午後からはパーティーだ。急な開催もあって、過去に参加した立命館の学生は1名に止まった。ただし、岡山大学におられる旧知の仲間、新潟・小千谷の塩谷に関わる学生、もとよりお世話になった農家さんたちと交流を重ねた。

 約半年、ボランティアは延べ2,500名を超えたという。前日には阿蘇山も噴火した。町長も農協の組合長も「負けない」と挨拶で述べた。これからも距離を越え、心を寄せて、支えの輪の中にいたい。

2016年10月8日土曜日

学会なる研究者コミュニティ

 研究者には学会というコミュニティがある。学術会議の略が学会であり、狭い意味では内閣総理大臣の所轄による日本学術会議の協力学術研究団体が学会に位置づけられる。要件を満たせば協力団体となるものの、全ての学会が協力団体となっているわけではない。むしろ、例えば江戸時代をはじめ町人学者という言葉で呼ばれる方々がいるように、市井の研究家らの類い希なる集団も多々ある。

 私もまた、いくつかの学会に所属している。初めて所属したのは日本環境教育学会であり、大学4回生の時に横浜国立大学で開催された第8回大会での発表が学会デビューであった。当時の指導教員である笹谷康之先生が「大学院に進学を希望しているなら、学会で発表せよ」という方針であったためだ。その時は学会の作法も知らず、ただただOHPを駆使して発表した。

 学会デビューから約20年が経った。発表もプロジェクターの使用が前提となり、国際学会などでは密な出会いと対話のためにポスター発表が効果的ではないかといった知恵もついてきた。今、国際ボランティア学会日本グループ・ダイナミックス学会の理事もさせていただいている。国際ボランティア学会では年次大会の長も経験した。

 今日は私のメイン学会、グルダイ学会の理事会だった。発祥の地、九州大学での年次大会を前に、である。院生の減少傾向ゆえ、財政は明るくないが、学会誌への関心の高さが明らかだった。終了後は一路、熊本へ足を伸ばした。

2016年10月7日金曜日

重い一日の終わりの晩餐

 昨晩は久しぶりに日付が変わる前まで懇親を重ねた。立命館災害復興支援室による旅費支援報告会の後、会場が以前の職場ゆえ、10年ぶりに近くのおでん屋さんにお邪魔した。口数少なくも愛想のいい大将から、愛嬌ある女将さんという印象をもたらしそうな方に変わっていた。カウンターだけの小さなお店だが、エイヒレを肴に酒を飲むといった嗜みは、このお店に連れてきていただいて覚えた。

 一夜明け、今日は災害復興支援室の定例会議だった。はからずも、今日は司会の役を仰せつかった。しかも今日は、建山室長と塩崎副室長も出席の上、この4月に公務研究科に着任した久保田崇先生が新たに参加、という日だった。会議は1時間、学園内の多くの部署をまたぐ会議ということもあり、普段よりも仕切りの緊張度が上がった。

 東日本大震災を契機に設立された立命館災害復興支援室は、当初の目途である5年が経過する中、この5月25日の常任理事会によって2021年3月までの継続が決まった。あわせて、平成28年熊本地震も支援の対象とされた。災害が相次ぐ中で、発災から時間が経過する東北、特に沿岸部にどう関わり続けるか。その道のりは、平坦ではない。

 今日の会議では「専門とする先生方のネットワークが重要だ」との指摘がなされた。正論である。一方で、その専門とは何で、どのような種類ネットワークを指しているのか。夜は近所のレストランでの夕食に舌鼓、ささやかな晩餐の中、重い一日を終えた。

2016年10月6日木曜日

今の若者でも

 「この人、散髪のとき、どんな風に言って切ってもらっているのっか」と考えてしまうときがある。もしかしたら私もその一人なのかもしれない。「いつもの」で通じる方とのつきあいを大切にしたいと思って、恐らく大学1回生のときから、同じ方にカットをお願いしている。振り返れば大学入学で実家を離れるまで、散髪は父親と同じ店に、ずっと通っていた。

 今日は朝から特別な予定がなく、出張明けに求められるいくつかの作業を重ねた。事務仕事もあるが、玄米の精米などにも出かけた。少しだけ贅沢な昼食を妻といただくことにもした。そして夕方を前に散髪に出て、京都駅で来週の熊本行の打合せとなった。

 夜はキャンパスプラザ京都にて、立命館災害復興支援室による夏の旅費支援の報告会だった。2014年度から実施している制度だが、支援対象者が一同に会する場づくりは初めてだった。大船渡、南三陸、女川、石巻、山元、郡山、楢葉、いわき、熊本で活動してきた面々、35人が集った。場の進行は今年度途中に起用したアシスタントスタッフが担った。前半は私が聞き手となって代表者のインタビュー、続いて5つのテーマでグループトーク、そして協定先の福島の物産を中心に交流会という流れとなった。

 報告会には来週お世話になる名門大洋フェリーさんにも参加いただいた。盛んに「今の学生は」との感嘆が重ねられた。通常は否定的に語られる言い回しである。が、倫理観の高い若者も多いのだ。

2016年10月5日水曜日

段取りと現場仕事のバランス

 先般、石巻の石ノ森萬画館の横で、遠藤興業さんの「段取七分で仕事が三分」という標語を見た。足せば1割なのだから、残りの9割は何なのか言いたくもなる。ただ「九分九厘、大丈夫」に、引き算すれば9割1厘はどうなのかと、下種につっこむのと同種のものでしかない。無論、大事なことは、実力の過信や慢心は禁物だということだ。

午前中、久々に英語のクラスに出席した。夏は東北への出張などが続き、参加が適わなかったのだ。今日の教材はフランスのビーチにおける1960年代のビキニと現代のブルキニ(イスラム教徒の女性が着用する水着)との対比だった。記事自体は通読していたが、フランスの文化に対しての理解が及んでおらず、学びを深めることができた。

 転じて午後、立命館大学びわこ・くさつキャンパスにて「地域参加学習入門」の授業だった。「近江・草津論」と呼んでいた2010年度から担当しているが、今期は239名の受講である。ただ、こちらの準備が至らなかった。授業資料印刷ルールの厳格化が図られ、先週の火曜日には印刷に出していたものの、事前準備の内容と当日の授業進行のリズムが合わなかったのだ。

 何より、一番前に座っていた学生の受講態度(スマホでゲーム、教職課程の内職…)に合点がいかず、注意を重ねのもペースを乱す要因となってしまった。ミニレポートへの指示もあいまいになってしまった。段取りと現場仕事の兼ね合いの難しさを痛感した。次週へ自省中である。




2016年10月4日火曜日

授業の勘を取り戻さねば

 前期と同じく、火曜日は立命館大学衣笠キャンパスで4コマの授業が続く。前期は4限が空きコマで、前半と後半というようなペースメイクができたが、後期は3限から6限まで、6時間ぶっ通しである。とはいえ、サービスラーニング科目ということもあって、ただただ語り続けるだけではない故、可能なのだ。

 3限と5限は「シチズンシップ・スタディーズI」という科目のチーム別会議である。これを立命館ではコアタイムと呼んでいる。学生たちには「部活動の部室のように活用を」と呼びかけている。学生が自らの立場を「学生」ではなく「生徒」と呼ぶことが多いのも、こうした比喩が響く理由なのかもしれない。

 一方で4限と6限は、教員の導きのもとで、受講生が主役となっていく授業である。4限は「現代社会のフィールドワーク」であり、15回のうちの半分を、グループで現場で問いを深めていくというものだ。6限は予め設定した課題から問題を抽出し、社会実験を重ねながら解決の糸口を探る「ソーシャル・コラボレーション演習」である。

 4限の講義の感想で、「話が長い」「抽象的」という批判が寄せられた。釈明するなら、「前回の代講内容を紐解きつつ、全体の流れを説明する必要があった」「方法論なら参考書に指定した本に書いてある」などだが、純粋に楽しんでもらえなかったのは、私の力不足である。そこで、6限は15人の連帯感を高めることに努めた。事実上の1週目、授業の勘をつかみたい。

2016年10月3日月曜日

○○としての最善を尽くす

 10月に入り、いよいよ下半期の授業が本格化する。立命館では後期、同志社では秋学期と呼ばれいる。立命館では先週に第1講を迎えたが、ニューオリンズ出張ゆえ、サービスラーニング科目の同僚に代講いただいた。そして同志社では今週が第1講で、昨年は未開講の「コミュニティ・デザイン論」の講師陣が揃い、話題提供を行った。

 先週はニューオリンズからの帰国後、自宅に1泊し、翌日は石巻で1泊、そして新潟に1泊した。災害復興学会に出席した後、新潟・小千谷での会議に出席のためだった。本来は石巻から大阪大学の渥美公秀先生と同行の予定だったが、ご家族の事情で石巻日帰りをなされ、新潟・長岡にて関西学院大学の関嘉寛先生と合流し、塩谷集落に向かった。会議では田植えと稲刈りに携わらせていただいた田んぼで、3大学あわせて9俵の収穫をどう扱うか議論した。

 朝の飛行機で新潟から戻ると、立命館で3つの会議が続いた。フィールドからデスクへ、モードの大転換である。夕方には朝の会議のフォローで、午後の会議のメイン会場とされた衣笠キャンパスから朱雀キャンパスへと戻った。そして15人が受講する同志社の講義へと向かった。

 同志社での講義の途中、災害復興学会で話題になった現場に関する議論に想いを馳せた。理論と実践のバランスを問われたためだ。研究者の存在と機能を鑑み「響く言葉を持つこと」と応えた。医者を例にすると『赤ひげ』の「としての最善」の姿勢である。

2016年10月2日日曜日

こういう状況でも働く

 石巻専修大学での日本災害復興学会で、改めて復興と言葉について考えている。特に昨日の分科会で話題提供をされた石巻日日新聞の武内宏之さんから、いくつか示唆を得た。例の6枚の壁新聞について「『ありがとう』ということばより、『見たよ、こういう状況でも働いている人がいる、私もがんばらないと』」という反応が意外で、うれしかったという。が、「資料的価値はあるが、今となって生活情報を中心に心をつなぐという方針がよかったか、むしろ現実とのギャップを広げてしまったのではないか?」と自問を重ねているという。

 初日の懇親会の前、武内さんと同じ分科会で話題提供された、せんだいメディアテークの北野央さんらと、武内さんが館長を務める石巻ニューゼにお邪魔した。6日わたり発行された壁新聞は、その後3セットが遺った。それぞれ米国の報道博物館に、横浜の新聞博物館に収められ、後の1つが石巻で常設展示されている。改めて自己紹介すると、ボランティアバスに向けて商店街の方々が掲げたボードをお持ちいただいた。

 「皆、ジャーナリストだった。」武内さんは言う。「メディアにはかっこいい言葉を言おうとする、しかしあのときは、時間をかけて正確に思い出す人たちばかりだった」と。自ずと記者も丁寧に聞き取る姿勢になったという。

 私の発表は2日目の午前に充てられた。果たして現場にうまく寄り添えているか。午後は新潟へ向かう。武内さんらの姿勢に背筋を糺したい。

2016年10月1日土曜日

凛とした姿に自らを省みる

 10月になった。20年余り前までは、再び学ランを着始める日だった。そうした衣替えという習慣も、徐々に薄れてきている気がする。気候の変化もあるが、そ個性や自己決定が尊重される風土が反映しているようにも思われる。

 夏、多くのまちにお邪魔した。8月中旬には、今の京都の暮らしでお世話になっている方のご縁で、北海道の当別町にも伺った。5月から7月には、毎月1回、熊本・西原村の農業復興ボランティアに学生らと参加した。同じく月1回のペースで、新潟県中越地震で被害を受けた小千谷市の塩谷集落にお邪魔し、8月の大船渡での盛町灯ろう七夕まつりでの支援活動に関連して7月中旬の奉納相撲にお招きいただくなど、伺うまちの多くは、何らかの災害に関係していることが多い。

 移動の多くが飛行機となって久しい。外国では、7月末にデンマークのオールボー、8月中旬には中国の内モンゴルに飛んだ。静岡県出身の私にとって、飛行機は遠い存在であった。9月の末日にアメリカのニューオリンズでの国際学会発表から帰った翌朝、石巻での学会発表のために、再び空港にいるなど、予想だにしていなかった。だからこそ、衣替えのその日、故郷の暮らしに想いを馳せている。

 小雨の大阪から仙台空港に向かう際、靴磨きに立ち寄った。これまた縁の遠いものだと思っていたが、身だしなみを整える大切さを学び、時折お世話になっている。今日は若き青年の手にかかった。凛とする姿に、自らを省みた。