この夏、韓国旅行をする予定だったのですが、同行する方のご都合なども重なって「コリアタウン」で納涼会を行うことになりました。ちょっとディープなまちの探検を行い、その後は奥深い味付けの料理を堪能しました。一人ではなかなか行かないところにみんなで行くと楽しみも膨らみます。まさにそんな日の象徴のような一日で、「まさに典型的な大阪のおっちゃん」みたいな方も交えて、大変盛り上がった夜でした。そんなコリアタウンに向かう間に目にした、「自動車置場」なる駐車場の名前にも、まちのディープさを感じました。
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2005年8月30日火曜日
encolleged activity
どんな小さな放送局でも、放送法上「番組審議会」をしなければなりません。全国初のNPOによる放送局「京都三条ラジオカフェ(FM79.7MHz)」も例外ではありません。ただ、杓子定規な会議ではおもしろくないということで、毎回審議の対象とする番組の制作者の方をゲストにお招きしています。この日は全盲の方(無職)が精力的に取り組んでいる「がんばれイラク市民ラジオ」を取り上げました。そうして実直な取り組みには一定の評価がかえって来るという実感を携え、上町台地で取り組んでいる「上町マップ」の現場に向かいました。
2005年8月29日月曜日
summer-seat : floored
京都の夏の風情、納涼床の一席にあずかることができました(そして、眼下には鴨川名物の等間隔カップルを見ることができました)。研究会の後に研究会での議論を肴にしつつ、他地域からの出席者の方と楽しいときを過ごしました。ちなみに今日は休みをいただき、京都文化博物館でやっていた戦後60年特集の映画上映へも足を運んだのですが、「私は貝になりたい」を満員の映像ホールで鑑賞し、昭和36年当時の製作者の意図から平和を実現することへの痛切な叫びを感じ取りました。そうした感覚も抱きながら、納涼床の後はアイリッシュパブで玄妙なスコッチを口にし、若輩者ながら話の合うみなさんと世相を斬る夜を楽しみました。
2005年8月28日日曜日
autumn-fish : saury
秋の味覚、サンマを今年初めて食しました。ちょっと小粋な料理屋さんに、大学時代の友人と訪れたのですが、そこで鯖を注文したところ、返ってきたのが「鯖よりも秋刀魚がおすすめ」とのこと。まだまだ夏と思いきや、季節は移ろいゆくもので、ちょくちょく自宅でやっている「七輪で秋刀魚を焼く会」の開催に思いを馳せてみたりしました。ちなみに年齢の移ろいを感じたのが、深夜1時まで続けたカラオケでして、肺活量に衰えに近いものを認めざるをえなくなってしまいました(が、これは鍛えれば何とかなると思われるので、ガンバリマス)。
2005年8月26日金曜日
really fixed?
肌身離さず持ち歩いている秘書代わりのPalmが(も)壊れ、実は修理に出しておりました。しかしながら戻ってきた端末、電源が入らずに悶絶し、さんざん調べてわかった原因が「電池の液漏れ」で、幸いにして電極金具は生きていたので、適当に清掃して事なきを得ました。というのも、このところ、FOMA M1000を持ち歩いていますが、このPIM機能(スケジュールやアドレス帳など)が全く使いにくく、さらには充電池の持ちがそれほど良くないので、改めて乾電池Palmのよさに浸っていたのですが、なんと今のPalmの修理方法は「交換修理」というもので、新品に近い在庫品を交換品として送り返すことで修理対応を行うというものであり、つまりは電池入れっぱなしで相当期間眠っていたものが修理品として届いたのでした。ちなみにPalmも素晴らしいのですが、Apple社のNewtonに優るものはないと実感しております(が、1999年に2000upgradeを1年ほど使用:オートバイの振動により液晶のタップ機能に不具合が起き修理費13万円の請求に無言となって文字通りお蔵入り中)。
2005年8月25日木曜日
who owned?
余裕のあるときには多くのものに出会うことができます。この日見かけたのが「出世稲荷邸新築工事」の看板です。確かに、何らかの建物を新築するのでしょうが、せっかくパソコン等で名称用の素材を作成するのであれば、「邸」の部分まで工夫してもよかったのでは、と思ってしまいました。もちろん、出来合の看板を流用することを否定するつもりはないのですが、何だかピンと来ないというか、逆に笑えてくると言うか…。一国一城の主、ということばがありますが、まさに立身出世すれば、「邸」が建てられるということで、一つ掛詞の魅力をネタとして見出せてよかった、と変に納得しておきましょう。
2005年8月24日水曜日
cleaned
朝からの打ち合わせで使う資料が準備できておらず、思いっきり早い出勤をしてみました。普段は人と車の波を自転車で全力疾走しながら職場に向かうのですが、いつもとは違う風景を楽しんでみました。そうすると、地元(と思われる)方が、二条城のあたりをおひとりで清掃されている風景に出会いました。こうした方の心持ちが、地域の人たちが誇りに思えるまちを創りだしていくのではないか、と少し感動して、気持ちよく出勤し、そして資料も準備でき、心地よい始業時間を迎えたのでした。
creativity
代々木ゼミナールに、とある映画の撮影協力の仲介者として訪問しました。そこでは、以前から注目している創造力あるポスターが随所に貼られていました。この夏は、「夏の間に力をつける」ということで、夏という漢字を上下2つの部分に分け、力という漢字が挿入されています。さしづめ、この夏の私の生活は「夏の間に肉がついた」ということで、もまもなく終わりですが、夏という漢字を上下2つの部分に分け、肉という漢字が挿入されたような、そんなイヤ〜な想像をしてしまいました。
2005年8月22日月曜日
renewal
運転免許、有効期限の最終日に更新です。それと同時に、ゴールド免許からおさらばすることになり、順調にいけば次回再び復活となります。ちなみに、最終日まで引っ張ったのも、一日でも長くゴールドのままでいたかった、という思いがあるのですが、中越地震の被災地で先般周辺自治体と合併した山古志村長島前村長は、情熱大陸という番組の最後に「ゴールド免許に更新できて、あと5年間は山古志村の名前が手元に遺る」ことのよろこびを語っていたことをよく思い出します。ちなみに、私の免許証には「小特」も所有していることがあるので少し誇り高いのですが、逆に不名誉なこととして、免許の枝番が「3」、つまり3回再発行している記録が遺っているのです。
jizo bon
京都をはじめ、関西を中心に根付いている風習に「地蔵盆」があります。もともとは地蔵菩薩の縁日、8月24日のあたりに行われるお祭りだったとのことですが、今ではお盆明けの都合のよい日、特に土日に行われる、子どものためのお祭りです。(仏教の)僧侶による読経や数珠まわし、おやつの配布、福引き、そしてお供えのお下がりの配布など、年に一度の風物詩となってきていますが、最近は子どもが減ってきたこともあって、どこのまちでも簡素化が進んでいるようです。我が町内では、お地蔵さんのお飾りを我が家(正確には、お借りしている大家さん)の土蔵でお預かりさせていただいていることもあって、出来る限り休みを取って参加してきたのですが、なんと今年から一日で開催する圧縮日程になり、その上、家でいくつか作業をしていたことも重なって、充分に地蔵盆の雰囲気を感じ得ぬまま、片づけの時間を迎えてしまいました。
2005年8月21日日曜日
Kyoto Tower
内蒙古の沙漠緑化には通算5回行っているのですが、当時学生だった皆さんは、就職するなどして、それぞれの近況が気になり始めているようです。そして、今日、インターネットを通じたやりとりを通して、集まりましょう、ということになりました。残念ながら、あいにく予定の調整がつかなかった方も多かったのですが、それでも昔話に花が咲き、さらには自分が沙漠に植えてきた草木の様子、ひいてはそれぞれの将来について、それぞれに話題や意見を引き出し合い、楽しいお食事会になりました。そんななか、学生時代を京都で過ごした人も多かったので、あえてみんなで上ったのが京都タワーで、改めて京都のまちを見下ろしながら、来年で完了しそうな内蒙古の地、そして学生時代を送った京都のまちに思いを馳せたのでした。
2005年8月20日土曜日
settings
新たに入手したM1000、電話しかできなかったM1に比べると、まさに1000倍くらい機能が盛りだくさんで、操作を習得するのが大変です。今回購入に踏み切った理由の一つに、パソコンを持ち歩かなくても一定の通信環境のもとでメールやインターネットブラウズが出来るということがあります。そのため、WiFiという規格の無線インターネットの設定を行い、外出先でも条件さえ整えば、普段使っている、いわゆるPCメール/パソコンメールと呼ばれる、POP3/IMAP4メールの読み書きが出来るようになりました。これで肩こりなどに悩まされていたパソコン携帯生活には区切りをつけられそうですが、M1000のPIM(Personal Informaiton Manager)と呼ばれる、日程、住所録、備忘録、雑記の類の機能は、PalmOSというもので動作するPDAに遠く及ばず、両者を持ち歩きながらの生活が続きそうです。
M1000にはBluetoothという技術も搭載されており、これでパソコンとのやりとりができるため、職場のiMacG5のOSを10.4にアップグレードしました(画面中央に映っている時計はApple社の本社があるカリフォルニア州クパチーノの現地時間、そしてiMacG5の上に乗っかっているのが、誕生日に頂いた「なまけたろう」くんです)
M1000にはBluetoothという技術も搭載されており、これでパソコンとのやりとりができるため、職場のiMacG5のOSを10.4にアップグレードしました(画面中央に映っている時計はApple社の本社があるカリフォルニア州クパチーノの現地時間、そしてiMacG5の上に乗っかっているのが、誕生日に頂いた「なまけたろう」くんです)
2005年8月19日金曜日
secret langage
久々に、「なんじゃこりゃ」というまちの表示に出会いました。言うまでもなく「重点パトロール区域」を略しているのですが、既に「略語」ではなく「隠語」の世界であるように思えます。さらにはこれは誰に向かって言っているのでしょう?犯罪を犯しそうな方に「ここは重点的にパトロールがされていますよ」と伝えようとしているのか、被害に遭いそうな方に「重点的にパトロールをしなければならないくらい、やや危ないところですよ」と伝えようとしているのか、はたまた警察官等に「重点的にパトロールすべきである」と伝えようとしているのか、なんとも謎は深まります。
こちらは「パト」ならぬ「ハト」で、時には親も子のもとを離れるなど、着々と育っております(が……いつかに続く)
こちらは「パト」ならぬ「ハト」で、時には親も子のもとを離れるなど、着々と育っております(が……いつかに続く)
2005年8月17日水曜日
arrival
9月末入荷予定と伺っていたM1000、何と次の日に「入荷しました」という連絡が入りました。全国的な品不足のなかでも、ここまで早かったのは、NTTドコモのPHSの乗り換えということで発注したためではなかったかと思います。このPHSもモトローラ製(311M)で、モトローラづくしの生活を送っていた(道具として、またそれ以上に愛してやまないMacintoshも、もともとCPUはモトローラ製)のですが、このPHS、実は1年ほどまえに風呂場で話をしていて、うっかり手をすべらして水没させて以来、基本料金だけが引き落とされていたものです。携帯電話を10年、PHSを5年という契約のなか、結果として今回最適と思われる契約として見出したのは、まずPHSを解約し、2年以上の使用の優待料金でM1000を購入し、MOVAからFOMAへの乗り換えでM1000を用い、さらにデュアルネットワークサービスを契約してムーバMを現役で(も)使えるようにする、というもので、興味のない方にとっては呪文とも聞こえるような、若干複雑な整理をして、「元の番号で元の機種をつかいながら新たな機種を使う」という荒技を成功させたのでした。
Bon festival
お盆、それは日本の宗教行事の一つです。そして京都のお盆と言えば、五山の送り火ということで、以前同じ職場に勤めていた方からのご招待を受け、ちょっとしたパーティーに参加させていただきました。マンションの屋上は、五山のうち4つが見えるという好環境で、いつもより少し照明が落とし気味ように思えるまちの眺望を堪能しつつ、順に点火されていく山々を見、夏の風情に浸りました。そして、階下から聞こえてくる音を頼りに、マンションの立ち並ぶ都心でも脈々と受け継がれてきたであろう盆踊りの会場に足を運び、浴衣姿にて過ぎゆく夏を楽しんできました(お招き、ありがとうございました)。
20時過ぎ、まず点火されるのが東山の大文字です。
続いて「妙」と「法」に点火されます
今回は鳥居形が見えませんでしたが左大文字と舟形はちゃんと見えました
20時過ぎ、まず点火されるのが東山の大文字です。
続いて「妙」と「法」に点火されます
今回は鳥居形が見えませんでしたが左大文字と舟形はちゃんと見えました
2005年8月16日火曜日
mission impossible
10年間使ってきた愛機「ムーバM1」(米国モトローラ製)に、修理不能との回答が返ってきました。中国から戻ってきて、ちょうど旅の前に入っていた携帯電話の外装のひび割れが目立つようになっていたので、NTTドコモに修理の依頼を出すと、「発売から10年が経っているので、メーカーから修理受付不可と返事が来ました」との無惨な対応が…。この10年、喜怒哀楽の多くをともにしてきた愛機なのに…。とりあえずは通常使用には支障がない(とはいえ、少しバッテリをズラして装着しなければ電源が入らないというコツがあります)ので、そのまま使うことにして、いきなり超ハイテクのM1000という機種を注文することにしました。
2005年8月14日日曜日
mistake
旅の終わりまで、ドタバタでした。というのも、「機関青年志願者」がただ立ちつくすだけだった呼和浩特空港にて、北京から関西国際空港までのチケットが誤って切り離されていたためです。一応、その申し送り状を書いていただいてはいたのですが、やはり空港の窓口では上司が呼ばれるなど、少し手続きに困りました。それ以上に困ったのは、北京のホリディインに宿泊していたものの、二日連続でモーニングコールが鳴らなかったことで、危うく飛行機に乗り遅れてしまうところだったのでした。
危うく乗り遅れそうになってしまい、さらには素敵な朝食バイキングを逃す結果を導き出したのも、朝3時頃まで語り明かしていたことが一つの要因でありましょう。
危うく乗り遅れそうになってしまい、さらには素敵な朝食バイキングを逃す結果を導き出したのも、朝3時頃まで語り明かしていたことが一つの要因でありましょう。
2005年8月13日土曜日
civilizing?
2008年の北京オリンピックと2010年の上海万博を控えている中国、まちの様相が少しづつ代わってきているような気がしています。例えば万里の長城、ここでは前回は見覚えのない分別回収のゴミ箱を発見しました。また、昨日からのボランティアつながりであれば、夏休みを利用して子どもたちが「体験記者」として取材する光景を見受けました(写真ではオレンジのシャツの子どもたちで、同様に内蒙古博物館でも子どもたちがガイドを行っている様子を見ました)。以前から、中国は20年から30年ほど前の日本を垣間見ることができる、と言われることがありましたが、仮にそうした意見に重ねて、1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博に重ねてみると、時代の変化とともに、環境配慮型の取り組みも進められつつあり、一面的に大規模開発、国土改造万歳ではないことを見受けることができます。
資源ゴミの回収箱の印が循環しているのに対して、もう一方が土に還っているように思えるデザインにしているところに、ちょっとした工夫を感じました。
今日もまた夕食は羅先生のご招待で、名物の北京填鴨(ペキンダック)などをごちそうになり、そのささやかなお返しとして、モンゴル風で献杯をさせていただきました。
資源ゴミの回収箱の印が循環しているのに対して、もう一方が土に還っているように思えるデザインにしているところに、ちょっとした工夫を感じました。
今日もまた夕食は羅先生のご招待で、名物の北京填鴨(ペキンダック)などをごちそうになり、そのささやかなお返しとして、モンゴル風で献杯をさせていただきました。
multicultural
今回のモンゴルは、沙漠緑化、観光、それに加えてきちんと調査研究の素材も確保することが目的です。実際、今回の旅の大部分を、中国社会科学院の羅先生とご一緒させていただいたのですが、参加者のヒアリング、その他もろもろ出会うひと、もの、出来事、それぞれに学ぶ要素があります。旅も折り返し地点で、朝はオボ(敖包)に立ち寄って、それぞれに願いをかけ、さらには遊牧民の家(ということで観光客を受け容れてくださる家)に訪問してナイチャ(女及茶)をいただき、そしてフフホト(呼和浩特)を経由して北京に戻りました。そうして戻った北京では蒸し暑さのなか、羅先生のご招待でチベット料理をイスラムの方とともにいただくという、なんとも多文化の暮らしを送った一日でした。
フフホトでは若干時間があったので内蒙古博物館に立ち寄り、アジア最大とされるマンモスの化石などを見たのですが、その二階には抗日戦線の展示もあり、「日本鬼子」と明確に書かれたおもちゃなども展示されていました。
羅先生のお話によると、中国では一定ボランティア活動を国家として推進する方向にあるようで、そんなお話を伺った後に出会ったのが、空港での「機関青年志願者」のたすきをした方でした。
満員の店内の特等席にてチベットの料理、民謡、踊りなどを堪能させていただいた、すばらしい夕食会でした。
フフホトでは若干時間があったので内蒙古博物館に立ち寄り、アジア最大とされるマンモスの化石などを見たのですが、その二階には抗日戦線の展示もあり、「日本鬼子」と明確に書かれたおもちゃなども展示されていました。
羅先生のお話によると、中国では一定ボランティア活動を国家として推進する方向にあるようで、そんなお話を伺った後に出会ったのが、空港での「機関青年志願者」のたすきをした方でした。
満員の店内の特等席にてチベットの料理、民謡、踊りなどを堪能させていただいた、すばらしい夕食会でした。
2005年8月12日金曜日
Ger and sheep (lamb/mutton)
現場での緑化活動を終えて向かった先は、観光用の草原です。そこではたっぷりとモンゴルの文化に浸ることができます。宿泊はゲル(モンゴル語で家の意味で、中国語では「包」と書いてパオと呼ばれます)、食事には羊(丸焼きは我々のグループが食したものではありません)や女及茶(ナイチャ:基本はミルクティーで、これに乳製品など炭水化物を入れてお粥のような食べ物にしていくものです)などが出ます。その他、モンゴル相撲を見たり、さらには馬に乗って草原を見に行き、そして夜にはモンゴルの民謡などを聴いて、ゲルの天井、そして外に出て星空を見上げ、草原からの日の出を見る、というのが典型的な観光の内容です。とはいえ、現地で雨が降り、いくつかの目玉が堪能できないことになってしまったのです…が、それはそれで、沙漠緑化の現地に蒔いた種が発芽する確立は確実に上がるので、よしとしましょう。
宿泊した希拉穆仁(シラムレン)草原のゲルですが、雨の影響かどんどん傾いて行っているように思え、ちょっぴり不安でした。
あまりやる気のないように見えたモンゴル相撲、観衆からも「加油(ジャーユ)」(文字通り「がんばれ」)と声が掛けられていました。
まるっきり観光モードですが、馬に乗って大草原に向かっていきました。
到着した大草原、馬が「いい感じ」でたたずんでいたのでパチリ、です。
宿泊した希拉穆仁(シラムレン)草原のゲルですが、雨の影響かどんどん傾いて行っているように思え、ちょっぴり不安でした。
あまりやる気のないように見えたモンゴル相撲、観衆からも「加油(ジャーユ)」(文字通り「がんばれ」)と声が掛けられていました。
まるっきり観光モードですが、馬に乗って大草原に向かっていきました。
到着した大草原、馬が「いい感じ」でたたずんでいたのでパチリ、です。
2005年8月10日水曜日
cray ball
実は、今回の緑化活動、当初は「ただ種を蒔く」のではなく「粘土質の土で種を固めた団子状のもの」(要するに、泥団子と言ったらピンと来るでしょうか?)を蒔くというものでした。しかしながら、このところの天気の影響で、事前に準備していただいたものが乾いておらず、初日はやむをえず種を直接蒔いたのでした。もともとこの方法は、自然農法を研究し、地元の愛媛県や諸外国で実践してきた福岡正信さんによって編み出されたものであるとされ、数多くの特許も取られているものです。福岡さんの「粘土団子」では100種類以上の種を織り交ぜて、無肥料によって不毛の地を農地へと変えていくものですが、今回はその方法の一部をならって、とりわけ動物が食べてしまうことを防ぎ、さらにはあまり降らない雨を種が団子のなかで待つことができるようにするために採用されたものとのことです。
作業の前にはスタッフの方から簡単な説明がなされます(今回はビデオ撮影用にかなり丁寧になさっていらっしゃいました:現地5回目の人間のボヤキです)
地平線まで見えるような風景ですので、時に自然の力を感じるのですが、そのうちの一つに「雲の陰」が地面に降りる、というものがあります(地表の色が手前と奥で違っているのはもともとの砂や土の色が違うのではなく、太陽の光が雲で遮られたためです)。
今回(も、ニュージーランドに引き続き)、関西国際空港で携帯電話を借りていったのですが、まさか電話の相手もこんなところで電話をしているとは想像だにできないでしょう(撮影は例の表彰された増田達志さんで、通話先は京都の職場です)。
夜はその増田さん宅の庭でパーティーを行い、参加者とスタッフのみなさんと、親交を深めました。
作業の前にはスタッフの方から簡単な説明がなされます(今回はビデオ撮影用にかなり丁寧になさっていらっしゃいました:現地5回目の人間のボヤキです)
地平線まで見えるような風景ですので、時に自然の力を感じるのですが、そのうちの一つに「雲の陰」が地面に降りる、というものがあります(地表の色が手前と奥で違っているのはもともとの砂や土の色が違うのではなく、太陽の光が雲で遮られたためです)。
今回(も、ニュージーランドに引き続き)、関西国際空港で携帯電話を借りていったのですが、まさか電話の相手もこんなところで電話をしているとは想像だにできないでしょう(撮影は例の表彰された増田達志さんで、通話先は京都の職場です)。
夜はその増田さん宅の庭でパーティーを行い、参加者とスタッフのみなさんと、親交を深めました。
2005年8月9日火曜日
seed
今回の緑化活動の方法は、種を蒔くということでした。マメ科の植物、沙打旺(サダワン)と楊柴(ヤンツァイ)【もしかしたら檸条(ニンテャオ)だったかも】の種を、砂地の地面に(ただ)巻く、という作業です。「エッ、それで沙漠が緑化されるの?」と思うかもしれませんが、これこそが、1998年から続けてきた沙漠緑化活動に参加してきた人々の、それぞれのリレーの賜物なのであります。そういう意味では緑化をするために意気込んでやってきた方であれば、「これが沙漠?」と感じるくらい、現場では着実な成果が出ております。
1997年、あたり一面が流動砂丘(もともと沙漠でなかったところに砂などがやってきて沙漠となったところ)であったとき、まず行ったのがブルドーザーを入れて、防砂のためのポプラを植えたことで、その痕跡は今もきっちり辿ることができます。
お昼は現場で食べるのですが、ちょっとしたピクニック気分で、盛り上がります。
ただ種を蒔くといっても、約200haの対象地のなかで、また緑化が充分でない土地を探しつつ、起伏のある砂地を歩くとそれなりに疲れるので、時には程々に休みつつ、作業を行います。
1997年、あたり一面が流動砂丘(もともと沙漠でなかったところに砂などがやってきて沙漠となったところ)であったとき、まず行ったのがブルドーザーを入れて、防砂のためのポプラを植えたことで、その痕跡は今もきっちり辿ることができます。
お昼は現場で食べるのですが、ちょっとしたピクニック気分で、盛り上がります。
ただ種を蒔くといっても、約200haの対象地のなかで、また緑化が充分でない土地を探しつつ、起伏のある砂地を歩くとそれなりに疲れるので、時には程々に休みつつ、作業を行います。
2005年8月8日月曜日
short stay
「呼和浩特(フフホト)」空港到着はなんと朝の3時47分。予定では21時35分だったこともあって、現地のガイドの方は驚くことに21時からずっと空港で待っていてくださったのです。とりあえず遅滞なくホテルに向かい、疲れを癒すまもなく眠りにつきました。沙漠緑化の現地では、確実なインターネット環境が確保できないこともあって、現地に入るまでにやっておくべきこと多数だったのですが、それは夢心地になかで、北京までおあずけになってしまうことになりました(ということで、ご迷惑おかけしたみなさん、ゴメンナサイ)。
乱れていたのはどうやら上海便だけのようで、到着掲示板にはもう一つ、2時15分到着予定が3時30分というものも出ており、どうせならこちらに切り替えて、上海のまちを少しでも堪能できたらよかったのに、とちょっとがっかりしながら、ホテルに向かいました。
この日はちょっと遅い朝にさせていただいて、お昼頃から現地に移動したのですが、まず、今回もお世話になる方のお宅を訪問すると、なんと去年の夏、現地の方々から感謝の意を込めた表彰がなされていたのでした(これは、外部参入者が現場の方々に受け容れられた象徴として大変なことだと思っています)。
乱れていたのはどうやら上海便だけのようで、到着掲示板にはもう一つ、2時15分到着予定が3時30分というものも出ており、どうせならこちらに切り替えて、上海のまちを少しでも堪能できたらよかったのに、とちょっとがっかりしながら、ホテルに向かいました。
この日はちょっと遅い朝にさせていただいて、お昼頃から現地に移動したのですが、まず、今回もお世話になる方のお宅を訪問すると、なんと去年の夏、現地の方々から感謝の意を込めた表彰がなされていたのでした(これは、外部参入者が現場の方々に受け容れられた象徴として大変なことだと思っています)。
2005年8月7日日曜日
delay
中国内蒙古沙漠緑化の旅、のっけからつまづいてしまいました。日本をそれて上海に向かった台風9号の影響で、空の便に大幅な乱れが起こっていたのです。こんなことなら、発車の5分前に駅に向かった飛び出した職場での仕事をもうひとつ片付け、さらには大阪駅で下車してヨドバシカメラでリバーサルフィルム(一般的な言い方であればスライド用のフィルム)を購入し、さらには空港でちょっと小粋なランチを食べればよかったと、激しく後悔しました。ちなみに、関西国際空港では、搭乗口を見事に間違えて、空港のほぼ端から端までを移動するはめになったのですが、こんなエピソードも吹っ飛んでしまうくらい、山あり谷ありの旅の始まりです。
1時間半遅れて到着した上海空港は前日から引き続きの大パニック状態で、内蒙古自治区の区都「呼和浩特(フフホト)」行に乗り継ぐのに6時間を待つことになったのですが、その間はまるで子どもだましのような弁当が出たり、係員に詰め寄る人が出てきたり、あるいは床でトランプ、その他にわか国際交流を始める人など、多彩な光景を目のあたりにしました。
1時間半遅れて到着した上海空港は前日から引き続きの大パニック状態で、内蒙古自治区の区都「呼和浩特(フフホト)」行に乗り継ぐのに6時間を待つことになったのですが、その間はまるで子どもだましのような弁当が出たり、係員に詰め寄る人が出てきたり、あるいは床でトランプ、その他にわか国際交流を始める人など、多彩な光景を目のあたりにしました。
2005年8月6日土曜日
switch
実は昨日より、持ち歩くデジタルカメラを換えました。というのも、今回久しぶりに中国の内蒙古に調査に行くためです。もろもろ機械好きなところも影響して、いくつかのものを充分に使ってきました(関西で言うところの使い倒してきた)ものの、それはまわりの方々から見るとどうも使い方が荒いと受け止められることが多いのです。3月に愛機が水没して以降、(僕の使い方であれば100万画素で充分ということもあり)それこそ艶っぽい写り方をする、少し古いデジカメらしからぬデザインのデジタルなコンパクトカメラを使ってきましたが、内蒙古の沙漠に耐え、そして日常の生活にも大いに活用できるものを、ということで今回の選手交代なのですが、さてさて、どんなものになったのかは、それが引退(あるいは戦線離脱)するときまで、このblogでは画像は載せないでおきましょう。