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2017年9月21日木曜日

実践への思考のループ

日本心理学会2日目、昨日に引き続き、朝から会場へと向かった。昨日の朝一番のセッションは事前申込が必要なものだったが、今日は不要のものに参加した。テーマは「子どもと死を共有する—死生心理学の展開(3)逝くときと遺されるときに何が語られ、何が語られないのか—」 であった。3回目のシンポジウムのようだが、参加するのは始めてである。

恐らく2年前から取り組まれているテーマでのシンポジウムだが、子どもに焦点を当てたのは始めての試みだという。このことに加えて、趣旨説明においては死の人称に関心が向けられて話題提供者が選定されたと示された。死の人称については、應典院に在職していた時代に、秋田光彦住職もよく用いていた視点であり、ウラジーミル・ジャンケレヴィッチや柳田邦男さんの著作で理解を深めた。ただ、両者の捉え方は若干異なっており(わかりやすく言えば、柳田邦男さんの言う2.5人称の死という視点は、ジャンケレヴィッチにはなく)、私の死(一人称)、私の死のように捉えられる(もしくは私の死でもないにもかかわらず私にのしかかってくる誰かの)死(二人称)、そして私の死でもなく特定の誰かを引き付けて捉えられない死(三人称)というのが、今日のシンポジウムにおいて踏まえられた(ジャンケレヴィッチ流の)人称のように思われる。

今日のシンポジウムで興味深かったのは、一番目の報告者であった辻本耐先生による「デス・エデュケーション」の概括であった。今回の発表ではご自身の立場を現在のご所属(幼稚園の心理発達相談員)を踏まえて語っておられたものの、今年7月の日本発達心理学会での分科会(死に関するナラティヴと生き方)では浄土真宗本願寺派の副住職という肩書きも掲げて発表されていた。そして、辻本先生には、以前、應典院での催しにお越しいただいており、面識があった。その辻本先生によれば、「80年代に、アルフォンス・デーケンが学校教育におけるデス・エデュケーションの実施を提唱」し「死の準備教育」と訳して広めようとしたものの、「生と死の教育」や「いのちの教育」へと「名称が変化」し、「生命尊重」の傾向が強まったという。

ちなみに辻本先生の後は、あしなが育英会の方が神戸のレインボーハウス(阪神・淡路大震災の遺児のために建てられた拠点)の事例を紹介された。應典院にいたときには、実践モードに浸りきりで、少なくとも心理学者としての研究モードでデータを取るようなことはなかった。現場を離れて1年あまり経つ今、いわゆる実験を通した仮説検証のためだけではない実践的研究にも踏み込んでいっていい(あるいは、よかった)と感じた。こうして朝から深い思考のループに入ったので、午後からは電源のあるところで資料整理を行い、夕方以降には気の合うお仲間の皆さんと懇談を重ねる、豊かな時間となった。


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