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2010年8月4日水曜日

お寺の神様?

 今年もまた、「詩の学校」お盆特別編「それから」の時期がやってきた。2006年から毎年参加というか、お手伝いをさせていただいている。逆にいえば、初年度からお手伝いだけでなく、詩作もさせていただいているのだが、昨年は作り上げられなかった。震災15年の思いを綴ろうしすぎてしまったからかもしれない。一方で、今年はタイトルから定めて、思いつくことばを重ねていった。
 「ウケ狙い」のタイトルにしてしまった感もある。しかし、逆にそうして思考や着想の「枠」ではなく「軸」を定めたことで、ことばを紡ぎやすかった気がする。朗読は淡々とさせていただいたつもりだが、少しことばを加筆修正して、以下に刻んでおくことにしよう。何より、大切な思い出を思い出し続けられるよう、願いを込めて。




お寺の神様?

 泣ける歌が、いくつかある。
 泣けてくる歌に、時々出会う。
 ことばと伴奏の「合わせ技一本」で、
 懐かしい思い出に、攻め入ってくる。

 ただ、泣かせる歌は、最後まで聴けないことがある。
 ふと、泣かされる歌だと、とっさに思うからだ。
 いい思い出と、つらい思い出の混ざりあう中で、
 やさしくできなかったことへの悔いがこみあげてくるためだ。

 この春知った「トイレの神様」はその典型。
 題名をあなどって、
 サビの前でこらえきれず、
 無言のなま、涙が頬を伝っていった。

 見えないものが大事なことを、「星の王子さま」の物語を借りて伝えたことがあるけど、
 「トイレそうじをちゃんとしようね」って、
 神様という物語を借りて孫に伝えるおばあちゃんを歌った歌。
 わかりすぎるくらい、わかっちゃったのだ。

 実家を離れて17年。
 再来年になったら、実家で過ごした時間は人生の半分以下になっちゃうけど、
 いろんな物語を残してくれた実家の記憶は、
 ずっと、ちゃんと思い出していこう。

 お寺に神様はいないとされるけど、
 今、場所の力が、
 物語を思い出させてくれている。
 墓地でボチボチ、考えていこう。

 はかないいのち
 はえあるいのち
 たいせつないのち
 つながるいのち

2010年8月4日 應典院「詩の学校」お盆特別編「それから」にて。(於:浄土宗大蓮寺墓地)

2010年5月16日日曜日

大阪市の博物館施策への期待(大阪市博物館施設研究会講演録)

2008年5月18日、国際博物館の日記念シンポジウム「都市の魅力発信と博物館連携‐大阪市の博物館を語る‐」に出講の折、発言した内容が、時を経て、2010年5月16日付で、記録集が発行された。特に著作権に関する記述がなかったので、以下、その内容を掲載する。なお、記録集のPDF等は(少なくとも、2010年5月末現在では)公開されていない。

大阪市の博物館施策への期待

  山口 洋典(應典院寺町倶楽部事務局長)

 私は、お寺を拠点に活動するNPOの事務局長という立場から、博物館群の連携と博物館内の協働を進めてください、というお話をさせていただきます。私の活動拠点は、天王寺区の北西部にあたる下寺町に界隈にある應典院というお寺です。私どものNPOは、そのお寺で活動しています。應典院は平成9年に再建された、鉄とガラスとコンクリートというモダンな外観が特徴です。そこでの活動は既に多くの本などで紹介いただいています。たとえば文化人類学者で東京工業大学の上田紀行さんが書かれた「がんばれ仏教」には「應典院の特徴はとにかく日本でいちばん多くの若い人たちが集まる寺であるということだ」と113ページに記していただいています。実際、應典院は1年間に3万人くらいの若者が集まるお寺です。とはいえ甲子園球場には95万人くらい集まることを考えると、年間3万人が多いかどうかは皆さんの判断によるところです。しかしお寺に若者がそれだけ集まるのは、珍しいことではないでしょうか。また、そうして若者を集める仕組みや仕掛けをつくっているのが、NPOであることこそ、應典院が持つ、大きな特徴であります。そこで、今回は、お寺に人が集まり、多彩な文化芸術活動が展開されるよう取り組んでいるNPO活動の経験から、今後の博物館施策への期待についてお話をさせていただきます。
 まず、應典院の立地についてお話します。先ほどお話ししたとおり、應典院は下寺町という界隈にあります。下寺町の北端に應典院の本寺(ほんでら)にあたる大蓮寺があります。そこから松屋町通り沿いに、浄土宗のお寺が24続いています。世界中どこを見ても、教会ばかり、モスクばかり一直線上に並んでいるところはないのではないでしょうか。私は下寺町界隈を世界一の宗教都市だと思っています。ちなみにこのように配置されたのは、350年ほど前、徳川幕府によって城塞としての都市計画が進められたためです。
 江戸時代から続く寺町の一角にある應典院は、大阪大空襲によって類焼し、その後平成の時代になってやっと再建されました。このお寺の特徴を私は「3ナイ寺院」と呼んでいます。なぜなら、「檀家を持たない」、「お墓を提供しない」、「葬式をしない」ということを前提に再建計画が進められたためです。通常、お寺は檀家さんという家単位のご縁と支援を受けるのに対し、應典院は應典院寺町倶楽部への個人による参加によって支えられてます。入信ではなく入会、そんな風にパンフレットでも紹介させていただいています。このように、檀家さんを持たないために、檀家さんたちに対する墓地を提供する必要もありません。そのため、再建にあたっては死者を中心にお寺の機能を考える必要はありませんでした。そこで、本堂を劇場空間にしつらえて、「シアトリカル應典院」という劇場っぽい名前までつけ、多くの人たちが表現する機会を提供することにしました。このように、檀家を持たず、墓地を持たない、そのため、お葬式もすることがありません。だからこそ多数のイベントを行っています。後にお話しますが、講演会、演劇、映画など、多彩な催しが、お寺でなされており、そこに若者たちが集まってくる、という具合です。
 先ほど小林先生は、文化政策のご専門の立場から「市民に支えられないと博物館は財政的あるいは精神的に持たない」というお話をされていました。私も同感です。と言うのも、お寺も財政的また精神的に市民とつながらないといけないと感じているためです。振り返ってみれば、お寺は寺子屋、門前町、寺内町、そうした言葉に埋め込まれているとおり、市民と建物とのあいだで深い関係が築かれてきました。しかし、お寺と社会とのつながりは、明治の廃仏毀釈、戦後の法整備を通じて薄められることになってしまいました。ただし、應典院の再建の頃、「癒しブーム」が到来しました。再び、生活と宗教が関わりを持てそうな雰囲気が出てきたわけです。だからと言って、そうした風潮に安易に乗るのではなく、まさに温故知新で、寺社での勧進興業が劇場の成り立ちの背景にあった等、歴史に学びながら、お寺と地域とのつながりを回復する担い手としてお寺の内にNPOを設立し、事業の企画運営にあたることにしました。
 ちょうど、共同通信の小川さんが「ハコとモノとヒトがあってこの3つが大事だ」と仰いましたが、まさにお寺も同じです。境内にある伽藍がハコ、葬儀とかの儀式を行う上での設備がモノ、そして僧侶や寺族はもとより檀家・信徒の皆さんがヒトです。これを博物館になぞらえると、建物と土地があって、資料や標本があってそして学芸員がいて一般公衆に供す、という具合です。博物館法の12条にも記されています。このように捉えてみると、お寺も博物館も、ハコでヒトがモノを語る拠点となっているはずです。博物館の場合はその対価として入館料をいただくわけですが、お寺の場合はそれがお布施となるでしょう。
 ただ、そこでお寺と博物館が決定的に違うのは、博物館の場合は入館料だけでは運営ができないために、自治体等によって予算が充てられているという点です。しかし、共通して重要な点は、単にハコ、単にモノ、大事なのではなく、そこにいるヒトが、モノやハコの意味を理解して、きちんと物語をつくり、人々に提供しているということです。ここで、大阪府の方針に対して批判することになるのですが、この文脈を無視して費用対効果を評価し、効率化を優先しては、社会的・文化的な価値を見いだすことなどできません。極端な表現に聞こえるかもしれませんが、博物館など公立文化施設の廃止を進めるというのは、「あれだけ寺町にお寺が集まっているのは無駄なので、大きなお寺をひとつだけ建てて僧侶はみんなそこに行きなはれ」とも言わんばかりの話に聞こえます。私はそれぞれの館には、それぞれの館ならではの物語を紡ぐ語り手、つまりヒトがいるはず、そう思っています。
 では、実際應典院においては物語が展開されているかというと、「寺子屋トーク」と題した本堂でのシンポジウムのシリーズや、「いのちと出会う会」と題した死別経験等を語り合うトークサロン、「コモンズフェスタ」と題したアーティストと多彩なNPOとの協働による総合文化祭など、実に多様な事業を通じて、人々の暮らしといのちの問題とをつなげています。このように、應典院寺町倶楽部がお寺と社会との糊代となって、教育とか福祉とかアートの問題について、NPOの立場と観点からハコを活かしています。年間50ほどの演劇、10ほどの映画、70ほどの参加型企画が應典院で展開されていることを考えると、ハコとモノとヒト、この3つがそれぞれに大事であることは言うまでもないのですが、それらのイベントが実施できるのは應典院寺町倶楽部を通じて、僧侶をはじめとしたお寺のスタッフと外部からのボランティアが協働することで物事や出来事を動かせているという点が重要だと思っています。
 実は今回、ハコとモノとヒトを、NPOが活かしていくことの意味について改めて取り上げさせていただいたのは、以前に自然史博物館の佐久間さんとシンポジウムでご一緒した際に、特定非営利活動法人大阪自然史センターの取り組みに大変興味を持ったためです。自然史博物館ではホールや展示室や講堂があり、収集した展示物があって、学芸員やスタッフの皆さんが働いていらっしゃいます。やはり先ほどの、ハコ、モノ、ヒトの3つに対応します。この「ハコ・モノ・ヒト」を活かすもう一つのヒトがNPOではないか、と考えています。自然史博物館に対しては自然史センターが、應典院に対しては應典院寺町倶楽部が、それぞれ該当します。実際、こうした外部とのネットワークは、人脈や知恵といった無形の財産、資源として活動を充実させてくれます。ハコ、モノ、ヒト、という感じで並べるなら「ツテ」と言えるでしょう。
 このように、多くのツテを活かして應典院での活動が充実するよう工夫を重ねているのですが、今回のパネリストの一人でもいらっしゃる大阪市立近代美術館建設準備室の菅谷さんと「大阪でアーツカウンシルをつくる会」という活動を一緒にさせていただいています。ところが、8onというのは今回初めて聞きました。しかし資料を拝見させていただいて、運営の一元化と文化政策との連携を目指す目的でゆとりとみどり振興局が中核にネットワークを展開するというのは画期的だと確信しました。共同広報をはじめ、文化・教育の連携、共通専門業務というものを効率的に行い、かつ効果を出す、その両側面が導かれれば極めて画期的だと感じています。「効率的」にしようとすることが「効果的」になるようにするのは簡単なことではありません。緊縮財政のなか、博物館群として次の一手を考えていくこと、それは難しいかもしれないのですが、こうしたネットワークがあれば可能性はあるのでは、と感じました。
 さらに言えば、先ほどの自然史博物館の山西館長就任のご挨拶をインターネットで拝見して、そうした博物館がネットワークの中にあれば、他の博物館にもよい影響が導かれるのではないか、とも思いました。その挨拶文の中でも、私は2箇所でなるほど、と感じました。一つは「博物館は市民に開かれた大学でなければならない」という歴代の自然史博物館の館長や以前の学芸課長らが仰っていた言葉で、もう一つは「日本博物館協会日本博物館協会は21世紀にふさわしい新しい理念として「対話と連携」の博物館を提唱しています」という部分です。本来、このような場に私が招かれたということは、何か新しいことを伝える必要があるのかもしれませんが、むしろこういうお考えを大切にされている方が8onのネットワークの中にいらっしゃるのであれば、ぜひそうした思いに対してそれぞれの共感や共振が生まれて欲しいと願い、ここで私からご紹介させていただいている次第です。
 しかし、博物館群として積極的な連携が効率的かつ効果的に進んでいったとすると、つまり群内の博物館の間の連携がとれてくると、改めて館内の協働こそが重要になってきます。ここで連携とは一緒にすること、協働はお互いのできないことを補い合う、という意味で使い分けています。群内の連携が見えてきた今、それぞれの館内での協働の充実を上で必要な視点は、ありきたりな指摘かもしれませんが市民との対話の姿勢と実践でしょう。市民との対話を行うということは、博物館が館外に対しどのような関係を築いていくか、ということです。そうして個々の館が市民と関わりながら得た経験を、群内で連携している他の館との間で共有し、さらには館内でも共有することで、大阪の博物館が置かれている環境は一層充実していくだろうと考えています。
 もちろん、市民との対話というのは簡単なことではありませんので、一つ、私が関心を向けている事例を紹介させていただき、対話の有り様について見つめてみることにしましょう。と言うのも、今、應典院でテーマに掲げているものの一つに「防災」があって、資料を収集しているのですが、プラスアーツというNPOが取り組んでいる「イザ!カエルキャラバン!」が実におもしろいんです。これは神戸市の震災10年記念事業として平成17年から始まり、翌年から全国で展開されるようになりました。そのプログラムの一つに、蛙の図柄がついた板を水の入った消火器でこどもたちが狙う、という的当てゲームがあります。このゲームのツボは、カエルを引っくり返そう、それでポイントを稼ごう、と子どもは必死に消化器を使うことにあるのではありません。子どもがそうやって遊ぶために、親が消化器の使い方をまず覚えて、子どもに伝えるということにあります。そうして親子で防災の知識とか知恵を学ぶ、また共通の経験を持つ、そこに大きな意味があるんです。
 この「イザ!カエルキャラバン!」の事例が教えてくれるのは、子どもの遊びと学びのプログラムを展開すると、親も巻き込まれるということです。しかも、「防災」という大きなテーマであるにも関わらず、うまく世代間をまたいでいます。こういう仕掛けがそれぞれの博物館で共に考えると面白いなという気がしました。こうしたプログラムは回り道かもしれませんが、最終的に知識や知恵が身に付くものだと思っています。
 以上、お寺での取り組みをもとに、博物館と社会とのつながりについてお話させていただきましたが、まとめをさせていただきます。今回、私に与えられたテーマは博物館がどういう可能性を持つのかということでした。私は博物館の可能性とは、外部からの呼びかけや投げかけに応えることができるかどうかにかかっていると考えています。應典院では、大阪府の現代美術センターと「大阪・アート・カレイドスコープ」という事業を、大阪市のゆとりとみどり振興局と「現代芸術創造事業」を共にさせていただいてきていますが、自治体の文化政策を充実させていくには、「借り物競走」が大事ではないか、そんな風に捉えています。例えば、「大阪・アート・カレイドスコープ」では、私たちが場所を提供しました。こうして、借り物競走をしていくと自分たちの良さ、つまり何を持っているのかがわかってくるような気がします。ここから言えるのは、「博物館が何かをする」だけではなくて「博物館と何かをする」というパートナーが出てくると、博物館が持つ可能性はさらに広がるだろうということです。そうなると市民の人たちもたまたま面白いことをやっているのが博物館であり、博物館に面白い資料があるということになってくるでしょう。そういうパートナーをいかに見つけ出していくのか、それぞれの博物館の姿勢が問われているのではないでしょうか。少なくとも私たちはNPOとしてパートナーのひとりだと思っています。
 私が今、博物館施策というか、文化政策において、いちばん問題だと思っているのは、評価が入館者数になっていることです。だからと言って、ただ入館者数を増やそうではなく、面白いことをやっている博物館に行きたく、という雰囲気づくりが大事ではないでしょうか。ですからその博物館の面白さ、こんな可能性があるということを引き出す、そういうパートナーを探しつつ、その担い手となる立場としてNPOも選択肢として考えていただければ、と願っております。
 最後に、村田真さんという方の「美術館は脱美術館すべきだ」ということばを紹介させていただきます。この表現は、そのまま博物館という言葉に置き換えていただいて構わないでしょう。具体的には、「社会に開かれた公共施設であるにもかかわらず美術と社会を橋渡しするどころか、美術館そのものが内側の“美術”を外側の“社会”から遮断する額縁のごとき役割を負っている」という意見です。作品の抱え込みをしてはいかん、と置き換えたら簡単にしすぎと批判をいただきそうですが、少なくとも應典院は、「脱お寺化」するアートプロジェクトとして「お寺でアート」をしています。そういう意味でお寺を俗から切り離し過ぎるとお寺の社会的役割が見出せない、と、村田さんの言葉に合点がいっています。悪ノリするようですが、「額物のごとく」というのは、お寺自体が「墓場のごとく」と言えるかもしれません。ともかく、「脱博物館化」、「脱お寺化」、そのようなメッセージをこういう文章の中から見出せるかもしれないと思って最後に読ませてもらいました。
 應典院では、昨年再建十周年にあたり「呼吸するお寺」と題した記念誌が発行されました。お寺を身体に例えて、社会と呼吸することが大事だ、というメッセージがそこには見て取れます。最後の最後で、このメッセージから言えることを考えてみると、社会的な施設が、市民の精心的な拠点になる上で重要なのは、「for 市民」の事業を進めるのではなく「with 市民」で事業を進めることにあるのではないかと思っています。広い意味では全ての事業は市民を対象に行われるのでしょうが、一方で市民と共に展開する事業があってもよいのではないか、ということです。少なくとも、そうした考えの参考として、私たち應典院や應典院寺町倶楽部の取り組みが参考になればうれしく思います。ご静聴ありがとうございました。

(pp.38-42)

<総合討論での発言>
 問題として提起された点は、それぞれ極めて重要な論点だと思っています。ひとつ目の博物館振興方針についてですが、この点は当事者ではないと思いますので、感想で失礼します。私は午前中のパネルディスカッションが、博物館による自己評価の機会となっていると感じました。もちろん、発言の全てが博物館としての公式見解ではない部分もあるかもしれませんが、学芸員の方々がそれぞれの館を背負って人々に対して語る、こうした機会は適切な自己評価の習慣がつくこととなり、結果として現状認識から展望を見いだすことができるという観点から、ぜひ継続して行っていくのがよいのではないでしょうか。
 博物館リテラシーも、自己評価という観点と重なる論点だと感じています。リテラシーとは、「読み書き能力」という意味の外来語ですけれども、読み書きというくらいですから、読む部分と書く部分、両方の均衡を図ることが重要となります。思いつきのような話で恐縮ですが、最近言われているKY、「空気読めない」という言葉は、リテラシーという概念の読む部分だけに注目したものです。リテラシーという概念から考えると「空気書く」部分も大切だと言えるのではないでしょうか。ただ、空気を書く、というとピンと来ないと思いますので、空気を読むことが雰囲気を感じ取る、ということと置き換えますと、「雰囲気をつくる」ということを意味します。
 つまり、今の博物館は、またがこのシンポジウムも大阪市の空気を読んで、緊縮財政だとかそういう雰囲気を感じ取って、自らの立場や方針を適切に評価していると思っています。一方で、市民に対して空気を書いているのか、博物館にまつわるよい雰囲気をつくれているのか、そうした博物館内の体制や学芸員の姿勢が問われているのだと思っています。博物館が社会的な存在として、特に社会教育施設として市民と共に行動していけるのか、そうした関わり方が今後問われてくるでしょう。
 既に博物館と市民の関わり方については、私の発表の際にも触れたところですが、市民と一緒になって何かやるというのは簡単なことではないことを、ここで強調させていただきます。要するに、安易にNPOと一緒にやるだけでは何も変わらないし、むしろよけい博物館の姿勢や体制に対し首を絞められることもあるということです。よくNPOの特徴として自発性と専門性が挙げられるわけですが、専門的な知識や経験を持つ市民が組織化されたNPOと共に何かをすることが、市民と共に何かをしていると受け止められないこともあります。NPOの側からしても単に業者の一つと思われることもありますし、市民の側からしてもNPOは「プロの市民」であって市民を代表していない、などと言われることもあります。さらにはNPOのパートナーシップのもとで協働を進めていますと、何かをすることだけが目的となって、大義名分としてすり替えてしまっては、本来の意図からはどんどん離れてしまいます。
 私たちのNPOも自治体の事業を担っていますので、自戒の念を込めて言うのですが、NPOと行政の協働を行う際に重要な視点は、NPOは自発的に始めることは得意なのですが、使命感が高まりすぎてやめる自発性を持ちにくい性格があります。やりましょうはあるのですが、やめましょうとなかなか言わないし、言えない、それが私たちの自己評価でもあります。
 以上、午前中のシンポジウムがビジョン形成につながる自己評価の機会であったという点、続いて博物館のリテラシーという観点においては市民と博物館とがよい雰囲気づくりを行う「空気を読み書き」が重要となる点、そして市民との関係づくりにおいては市民社会におけるNPOの位置づけと活動特性に留意する必要があるという点、これらを頂いた問題提起へのお応えとさせていただきます。最後にもう一度、評価のことについて触れさせていただくと、今回のシンポジウムはことさらに評価と言わないまでも自己評価の機会となっていたと思っています。私もまた、発言の機会をいただくことで、自らの組織や活動を振り返ることができました。評価には自己評価と第三者評価に加えて、その間の仲間評価とでも訳せるピアレビューという方法があります。せっかく博物館群というつながりがあるのですから、単にお互いのところを賞賛する、あるいは卑下するだけではなくて、それぞれのハコ、ヒト、モノ、またツテをお互いに見つめる動きが出てくることを期待しています。

(pp.50-51)


<ちなみに、以下の内容についての発言も校正としてお送りしていたのですが、紙幅の都合で割愛がなされたようです>
 今回改めて「8on」という取り組みを知ることになったのですが、安田さんも強調されていたように、冒頭の高井さんの発言にあった5km圏内に8つの博物館が立地していることに、大阪の文化的特性が反映していると感じています。その集積度の高さは言うまでもない魅力ですが、それらが都心にあるということこそ、大事にすべきだと考えています。つまり、これだけありますよ、だけではなく、それぞれの博物館の周りには何があるのかも把握する必要もあるのではないか、ということです。
 一つの例が東京の下北沢という演劇街でしょう。下北沢が演劇のまちであると言われているのは、ただ劇場が群がっているから、というのではなく、劇場と劇場の間をいろんなお店が繋いで演劇文化を育てていることにあります。具体的には、演劇を観たあとでちょっとしたものを食べたり飲んでから帰るとか、劇団が稽古場に使っている馴染みの場所の周りにアジトのような居場所ができているわけです。
転じて大阪市の博物館群について考えると、博物館の食べ物屋さんとか本屋さんとか駐車場だとか、それらの地域資源との協働を考えていくと、まちの中の博物館としてまちに活かされるのではないでしょうか。橋下知事が言っている大阪ミュージアム構想も地域資源の魅力を再発見するという点で共通する点もあるのでしょうが、ライトアップしてひきたてるだけではなく、人が動くことで資源として活かされることもあると思うのです。ミュージアムをまちの中の単体の施設として捉えるのではなく、まちと博物館との関係から考えていかないと、安易に施策に誘導され、時に翻弄されてしまい、なんとなく華やいでいるといった一時の感覚に止まってしまうのではないかと感じています。
 何度も言いますが、ハコとモノとヒト、私はそこにツテ、すなわちネットワークがあって想いが伝わっていくと確信をしています。今後、ハコ・ヒト・モノがセットになった場所の周りに何があるのかということから、博物館や博物館群のあり方を考えていくとよいのではないでしょうか。
 博物館がまちに活かされ、まちそのものになっている代表が、ワシントンD.C.のスミソニアン博物館群のモールと言われているところでしょう。もはや、スミソニアンの代名詞がモールであり、モールの代名詞がスミソニアンになっているからです。人が集まる場所に博物館がある、まさにまちの文化的価値を博物館がもたらしているわけですので、大阪もまた、形は違いながらに、都心の博物館ゆえの魅力が発信されることを願っております。

2010年4月29日木曜日

共時性と共空性(京都新聞寄稿)

 京都市景観・まちづくりセンターの「京都まちづくり学生コンペ」などでお世話になっている深田さんから原稿依頼をいただきました。3案書いたのですが、結果として以下のものが掲載されることになりました。また、その他の2案が日の目を浴びる機会もあるかもしれませんが、ともかく、最終的な判断は、「日付」という、言わば消印が押される新聞というメディアに載せるべき内容は何か、ということでした。とはいえ、最後の最後まで悩んで、無理を言ってしまったことを反省しています…。

京都創才 凛談◆未来に架けるメッセージ88
激動の時代。私たちは未来に向かい何を携えて進むのか。日本文化の源流「京都」から発する斬新なメッセージが、京都・滋賀、日本、世界の進むべき指針を問いかけます。

共時性と共空性
山口 洋典
同志社大学准教授

 先般、京都市景観・まちづくりセンターの「京都まちづくり学生コンペ」の審査で「夜街」なる提案を見て、圧倒させられました。ある近隣商店街を対象に「閉店時間を過ぎた後の軒先を第三者に貸し、その店に住まう方も、他の店舗の軒先で新たに展開される内容を楽しむ」というものでした。残念ながら、特に担い手の問題から実現可能性が問われ、最終的な評価は高くはなりませんでした。しかし「同じ時間を共に過ごす」共時性よりも、同じ空間でどこまで多様な経験を出来るかという「共空性」への問いかけだと解釈し、強い印象を抱きました。
 私も利用者ながら、今広がりを見せている「ツイッター」には、過度に共時性が評価されています。これはインターネット上で自らの思いを140字までつぶやくサービスです。利用者があらかじめ関心のある投稿者を登録、あるいは利用者の興味があるキーワードで検索すると、その結果が投稿時間の新しい順で表示されるシステムです。この流れは「タイムライン」と呼ばれ、他者のつぶやきを見ながら、自らがつぶやき、そのつぶやきに反応して誰かのつぶやきが重ねられると、コンピュータの画面に表れる時間軸の中に、私の存在感を見て取ることができます。
 私も含め、このような「言説空間」での存在感を楽しめる人々に触れると、フランスの作家、ギー・ドゥ・ボールが1970年代に指摘した「スペクタクルの社会」という視点を想い起こされます。社会の一員である人々が、目の前に映し出される世界を受け身で楽しむ世界に浸っている状態に気づけていないことが問うた概念です。ここから、携帯電話を通じて、手のひらの上に公共空間を持ち運び、世の中の動きに浸ることができるツイッターは、時代の流れを見つめる観客に留らせてしまわないか、という問いが浮かびます。まちという空間に持ち込まれたプライベートな小宇宙をどう捉えるか、良い・悪い以外の価値観で捉える必要がありそうです。
 そもそも、まちの営みにおいては、そこに「居る」ことが存外重要とされます。住居、居場所、立ち居振る舞いなど、多くの言葉にも埋め込まれています。時間の流れに乗るだけでなく、空間の中に誰かと共に居る、その作法を磨いてくことも大切です。今、自らが疎外されたくないとインターネットにつながりを求める人々に、空間を共にする中で互いに疎外しあわないように関わり合う、こうしたコミュニケーションの原初的なかたちが問われています。

◎やまぐち・ひろのり
1975年静岡県磐田市出身。専門はグループ・ダイナミックス。同志社大学大学院総合政策科学研究科でソーシャル・イノベーション研究と教育に従事。2006年5月に法然院で得度し、 浄土宗宗徒に。同年より大阪・應典院主幹。

紙面はゼロ・コーポレーションのページよりPDFにてダウンロード可能です。http://www.zero-corp.co.jp/company/article/zero/100429kyoto.pdf(ただし、最終紙面とは、若干内容が異なります)

2010年4月1日木曜日

想定の範囲を広げられる人に

 本日から新年度です。同志社大学に着任してはじめて、入学式に登壇させていただきました。しかし、任期付教員だから登壇する必要はないのでは、と感じていました。ところが、式を終えてからは、むしろ任期付だからこそ、同志社大学に勤めさせて頂いたことの実感を持った方がよい、そうした配慮からの推挙されたのではないか、と実感した次第です。
 春は出会いと別れの季節と言われます。その出会いのためのことばを、ということで、コリア国際学園の機関誌「越境人(リンクはzipファイル)」への寄稿を依頼されました。ところが、どうも、うまく書けず、悩んでいます。結果として〆切を延ばして頂きました。
 以下に記しますのは、「ボツ」の原稿です。先般、藤子・F・不二雄さんを取り上げた「こだわり人物伝」でも紹介されたように、手塚治虫先生は、「来るべき世界」という400ページの作品のために、1000ページを書き上げたといいます。もちろん、私はその足下にも及びません。が、ちょっとそんな気分に浸りながら、新たな原稿に臨んでいます。
 Twitterでもつぶやいたとおり、新年度は同志社大学の設立者、新島襄先生の「倜儻不羈(てきとうふき)」などのことばから、自らを律していかねば、という気持ちに駆られました。しかし、実は同志社大学の入学式に参列させていただく前、浄土宗大蓮寺のパドマ幼稚園の就任式に陪席をさせていただいておりました。そこで、秋田光彦住職・園長の講話で出てきた「布施・ 愛語・ 利行(講話では利他)・ 同事」の四摂法こそ、改めて仏道を生きる身として、背筋が伸びました。何かを押しつけず謙虚に(布施)、そして真摯に語りかけ(愛語)、他者をきちんと信じ(利他)、一緒に物事・出来事に共感・共鳴・今日体験を重ねていく(同事)に努めて参ります。

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想定の範囲を広げられる人に

 出端をくじく、ということばがあります。誰かとの関わりによって「さあやるぞ!」と抱いた意気込みが鈍ってしまうことです。実は私は、越境人への出端を何度かくじかれています。今日はそんな私の無様な体験を紹介させていただきます。
 今でこそ大阪に住まう私ですが、静岡県磐田市というまちに生まれ育っています。今でこそ、市町村合併で面積も人口も大きくなりましたが、私が住んでいたころは8万人くらいが暮らす都市でした。幼稚園、小学校、中学校、高校、全てが同じ学区にありました。中でも一番遠いのが幼稚園で、小学校には全力疾走をすれば5分ほどで着く距離に家がありました。通っていた高校のほぼ隣に位置している幼稚園にはバスで通園していましたが、あり余るほどの体力を持っていた当時は、家から教室まで3分あれば着く距離でした。
 18年間、同じまち生活してきた私は、大学進学を機に関西にやってきました。しかし、進学した大学は第一志望の大学ではなかったのです。こうした進学には「不本意入学」という表現が宛てられるようです。浪人生活よりは、という比較の中で、心底望まないものの、慣れない土地で学ぶことにしました。
 不本意で入学したため、最初から期待値が低かったからでしょうか、学び始めた当初は小さな発見が喜びとなりました。もちろん、第一志望ではないとは言いながらも、まずは受験し、しかも合格した後に入学しようという決断をしたからこそ、そこに立っているのです。だからこそ、いつまでも「不本意だ」などという感覚を引きずる方が不誠実です。この先に広がる人生の物語をより豊かにしていこうと、そこで出会った仲間たちと、多くの時間や空間を共有していました。
 ところが、私の人生を大きく揺るがす出来事が起こりました。それが阪神・淡路大震災でした。当時、私は大学1回生でしたが、4月に入学して以降、大学内で数々のイベントや勉強会を共に過ごしてきた友人たちと、いわゆる学生ボランティアとして現地に出かけました。ところが、被災地で順風満帆な大学生活の出端はくじかれることになったのです。
 実は、震災の被災地へと私たちの背中を押したのは「万能観」だったのです。若いから何でも出来る、と言った具合です。これは、若気の至りとでも言いましょうか。だからこそ、多くの人が困っているときに、自分の「想定外」の場面に立ち合うと、自分(たち)の無力さを強く実感することになりました。
 振り返れば、静岡県から関西へと、話す言葉も微妙に異なるまちにある大学にやってきた私は、教室の中で先生から教わる授業よりも、同じ校舎に集う仲間たちとの語り合いの中から、満足度の高い日常を得ていました。しかし、そんな風に思えたのも、特に中学校、高校の頃に、よい仲間たちと出会い、さらにはそんな仲間たちと先生や授業の話を盛んにしていたためだったと思っています。とかく学校というと、生徒と先生とのあいだの関係が取り上げられがちなように感じています。しかしあくまで集団生活の場であって、だからこそ先にも述べたように、かけがえのない仲間と出会う無数の機会が得られるのだ、ということを強く感じています。
 実はコリア国際学園には、設立の前から関わらせて頂いています。そこで触れた越境人ということばの響きが大変新鮮でした。ところが今、私が学んだ大学では、「Creating a Future Beyond Borders 自分を越える、未来をつくる」という学園ビジョンを掲げています。まさに、越境人になろう、という呼び掛けです。ぜひ、自らの想定の範囲を広げ、よりよい未来を信じることができる人になって欲しいと願っています。

山口洋典
1975年生まれ。立命館大学(理工学部環境システム工学科)卒業後、財団法人大学コンソーシアムに在職。2006年に退職し、大阪・天王寺の浄土宗應典院の主幹に着任。同年10月より同志社大学教員(大学院総合政策科学研究科)を兼職。著書に『地域を活かす つながりのデザイン:大阪・上町台地の現場から』(創元社)など。

2010年2月27日土曜日

グッバイワーク〜よいハローのためのよいグッバイ

 おうみNPO活動基金という助成金がある。財団法人淡海文化振興財団、愛称で淡海ネットワークセンターという団体が展開している事業だ。同センターは、滋賀県が100%出資した財団法人で、いわゆる外郭団体として1997年に設立された。県域でNPO支援に取り組むということを当時は驚き、その翌年から、大学コンソーシアム京都のNPOインターンシップ・プログラム(1期生)から、インターンの受け入れをお願いした。
 助成金は今年で7回目だが、私は3年目(2004年度)から関わっている。詳細はセンターのホームページ内(http://www.ohmi-net.com/kikin/kikintoha.html)にあるように、滋賀県からの5000万円を基に設立された基金である。関わり始めた当初は「運営委員会」に「審査委員会」と「サポート委員会」が置かれ、助成決定までと、助成決定後と、それぞれ明確に役割を置いた、複層的な基金運営体制を敷いていることが興味深かった。その後、運営委員会内の委員会が一本化され、助成プログラムも「中間支援枠」「協働枠」など拡張され、この2年はハード部門の「まち普請事業」など、進化を重ねていった。
 プログラムの最後に委員としては最期の懇親会に参加させていただいた。その席で全部の席にお酒をつぎ、料理を寄せるなどしていたら、「もっと怖い人だと思ってたけど、やさしい人ですね」と言われた。ふと、秋葉原事件を起こした彼が、「小さいころから『いい子』を演じさせられていたし、騙(だま)すのには慣れてる」と掲示板に綴ったことを思い出した。他者とのあいだで、誰も演じていない役柄を演じようと立ち居振る舞ってしまうということ、それは結局のところ、他者とのあいだで壮大な誤解を前提に関わり合うという、不器用な人生を歩んでいることを意味するのかもしれない。
 そんな最後の委員会の昼食時、ハローワークのことが話題になった。NPOの緊急雇用対策で、ハローワークを(たとえ登録日1日でも)通さねばならない、という話だった。個人的に、手続き的にハローワークが用いられて、行政の機構として実績数値だけが評価されているとすれば、新しい仕事に出会う(say hello to the new work)可能性は低くなるのではないか。同時に、何事も新しいもの、こと、ひとにきちんと出会うためには、それまでのもの、ひと、ことをきちんと整理して(say good bye to something precisely)おかねばならないだろうと、委員の任期を満了するにあたり、感慨に浸るのであった。

こんなことを書いているが、別に全てのものを投げ出したい、という思いに浸っているわけではない。その象徴に、別にビートルズの「Hello Goodbye」を口にしているわけではない、とでも書いておいたらいいだろうか。ただ、いろんなことを整理する時期であることは間違いない。ゆえに、今日もまた、Mr.Childrenの「Tomorrow Never Knows」を何度か聴いている。

2010年2月26日金曜日

祭と大会、順位と順番

 冬季オリンピックがバンクーバーで行われている。私にとって思い出深い冬季オリンピックは、1994年のリレハンメルオリンピックである。ちょうど、大学受験で筑波に行っているときも、食堂にかぶりついている人々がいたことを、今でもよく覚えている。中でも、ノルディックスキー・ジャンプ団体で、最終の原田雅彦選手が「まさかの失速」をしたことは、受験という「本番に強いか弱いか」といった話にも広がって、同級生のあいだで話題になっていた気がする。ちなみにリレハンメルオリンピックは、それまで同年開催だった夏季オリンピックに対して隔年開催がなされるようにと、前回大会から2年しか経たない中で開催されたことも、印象に残っている。
 では、今回のバンクーバーオリンピックでは、人々にどんな印象が残されるのだろうか。個人的な印象を綴るだけでも、リュージュ練習中の死亡事故、モーグルでのメダル予想、スノーボードクロスでのドクターストップ、男子フィギュアでの「紐切れ」とメダル獲得、カーリングでの日本代表の奮闘、スケルトン女子での日本人選手の失格など、枚挙にいとまがない。そんななか、少なくとも今日の時点で、人々に強い印象を与えたのは、女子フィギュアでのメダル争いだろう。争われたのは「金」メダルである。
 ちなみに、オリンピックは「平和の祭典」という性格からか、国・地域で競い合う「総合優勝」という概念を持っていない。例えば、国民体育大会では、各種目の順位が得点化され、男女総合優勝(天皇杯)や女子総合優勝(皇后杯)が送られているのと、対比的な関係にある。だからこそ、各種目のメダルにこそ、注目が集まる。その一方で、入賞という概念もあるのだから、少し不思議な祭であるとも言えよう。
 ともあれ、本日の女子フィギュアでは、金メダルを取れなかった浅田真央選手がインタビューで泣き崩れ、一方で8位入賞となった鈴木明子選手が演技終了後に感極まり、5位に入った安藤美姫選手に対しては前回よりも順位が大きく上がったことなどが、精力的に報道された。ここで気になったのが「順位を競う」ことを直接的な目的としていない、オリンピックという性格についてである。というのも、表彰台には、高さの違いこそあれ、順番は書かれていないのであるが、明確に、「1位」と「2位」とのあいだに、単に点数の「1番目」と「2番目」という違い以上の意味があるとされていると感じてやまないからである。だからこそ、記録ではなく記憶という考えに賛成をするのだが、それゆえ、順位ばかりを競わない競技大会(祭)において、順位ばかりに関心が向けられてしまうことに、何か引っかかりを覚えてしまうのであった。

こうしたことを考えているうちに思い出したのが、以前、漫画「プロゴルファー猿」に出ていたと思われるのが、「優勝者は記録に残るが」といった話。つまりゴルフでは2位以下は意味がない、ということ。昔はこの手の台詞がスラスラっと出てきたのだが…。寄る年波には勝てない。

2010年2月25日木曜日

こころ

 へこんでいる。というか、へこむことが多い。何でへこんでいるか、というのは、ここに残したくないのだが、とにかく、今、へこんでいる。そんな今日この頃である。
 へこむ、を変換すると、凹む、と出てくる。文字通り、形あるものの形が変わっていることを示す。文字から連想すれば、四角いものの真ん中がへこんでいるのだ。もちろん、形あるものすべて、真ん中がへこむわけではなく、よくあるのは角がへこんでしまう、ということだ。
 では、人が「へこんでいる」というとき、何がへこんでいるというのか。もちろん、皮膚の界面がへこんでいるわけでもなく、ましてや臓器の外形の一部が突発的に形を変えているわけでもなかろう。恐らく、「こころ」なるものの形が変わったことをあらわしているのだろう。しかし、われわれは肉体の中に「こころ」という臓器を内臓しているわけではない。
 私が専門とするグループ・ダイナミックスでは、「こころ」は人と人(あるいは何か)とのあいだにあると考える。つまり、時間的経過の中で、自らが誰かと(あるいは何か)との関連づけがうまくいっていない状態に浸っているとき、「こころ」が通っていないと捉えるのである。よって、こころがへこんでいる、という状態にあるとき、それは、自らが他者とのあいだで、ある時間において浸っていた心地よい雰囲気に比べて、納得できる関係性の只中にその身が置かれていないことに自覚的である状態を意味するのだろう。無論、そんな「かやの外」に自らが望んで行きたいはずもなく、自らが招いた結果として、自らの動きをつぶさに見つめ直したいと思っている。

こういう状況のときに、思い出深い歌を聴くと、グッとくる。例えば、Mr. Childrenの「Tomorrow Never Knows」の歌詞がふと口にでると、涙がこみあげてくる。「果てしない闇の向こうに 手を伸ばそう 癒える事ない傷みなら いっそ引き連れて…」このあたりは、「こころ」ではなく、心臓が痛くなる。

2010年2月24日水曜日

ソーシャル・イノベーションの力

 Amazonという書店がある。言わずと知れた、ネット書店だ。今ではKindleというデバイスを発売し、本にまつわるビジネスの根本をイノベーションしている企業と言えるだろう。実際、Kindleのコンテンツ印税を7割という設定にしたことは、出版会社や著者に大きな衝撃を与えたと思っている。
 もちろん、人々に便利さが提供されることは、よりよい社会が導かれていく上で重要な要素だ。事実、私もAmazonは重宝しているネットサービスの一つである。とりわけ、マーケットプレイスは、入手困難な書籍を手に入れる、最も簡単な手段であると感じている。また、学生等は、Amazonのカスタマーレビューを、レポート等の参考にしているとの声も聞く。間もなく発表、発売のAppleのiPadも、Amazonの躍進がなければ、そのコンセプトを固めきれなかったところがあるのではないか、と考えている。
 とはいえ、應典院の秋田光彦代表(大蓮寺住職)が、以下のようにTwitterでつぶやいているとおり、ネット書店の浸透を客観的に見つめる視点も大切だ。転じて、グローバル企業との関わり方についても、熟慮できる素養を持っておきたい。こうした市民知、あるいは社会のリテラシーが高まらなくては、イノベーションとソーシャル・イノベーションが区別され続けることになるだろう。先般、Twitterでも多くのつぶやきを招いたことで知られているグロービスの堀義人さんの指摘も、まさにこの点について触れられたものであると思われ、2月19日のブログ「社会起業家vs起業家」で示された点に目を向ければ、「社会」ということばについて、「冠に掲げられること」よりも、「冠に掲げること」による危うさ、落とし穴を、とりわけNPO・NGOの側が持たねばならないのだ、と受け止めたところである。
 ともあれ、そんなAmazonから、本日、3月1日発売の「The Power of Social Innovation : How Civic Entrepreneurs Ignite Community Networks for Good」という本の案内が届いた。以下に目次を挙げるが、非常に興味がそそられた。英語は得意な方ではない(カタカナは得意である)ものの、何となく、意訳をしながら、日本語にしてみた。既に同志社大学大学院総合政策科学研究科ソーシャル/イノベーション研究コースのメーリングリストに、読書会、あるいは、可能であれば、翻訳出版ができないか、と投げかけてみたところであるが、当然、今の私に率先してプロジェクトを進めていくだけの余裕はなく、どこかで他力本願になっているのであった。




The Power of Social Innovation: How Civic Entrepreneurs Ignite Community Networks for Good
ソーシャル・イノベーションの力:市民起業家がよりよいコミュニティ・ネットワークに火をつける

Part I: Catalyzing Social Change.
パートI:社会的な変化への触媒作用

Chapter 1 Igniting Civic Progress.
Entrepreneurship, Innovation, and Change.
So Many Ideas, So Little Progress.
Civic Entrepreneurship as the Solution.
Igniting Civic Progress.
The Mandate and Caution of Engaging Government.
Conclusions.

第1章 進歩的な市民に火を着ける
起業家精神、変革、変化
多様なアイデア・わずかな進歩
問題解決策としての市民起業家
進歩的な市民に火を着ける
魅力的な政府の委任・警告
結論

Chapter 2 Innovation as Catalytic Ingredient.
Discovering the Missing Ingredient.
Choosing the Right Catalyst.
Bringing It All Together: The Nehemiah Foundation.
Conclusions.

第2章 触媒としてのイノベーション
見失っている要素を見出す
妥当な触媒を選択する
先進事例:ネヘミヤ財団。
結論

Part II: Market Maker as Civic Entrepreneur.
パートII:市民起業家という市場創造者

Chapter 3 Open Sourcing Social Innovation.
Breaking Down Protectionist Barriers.
Opening Space for Innovation.
Leveling the Playing Field.
Inviting the Exceptional.
Forcing Cultural Change.
Bringing It All Together: The Enlightened Monopolist.
Conclusions.

第3章 ソーシャル・イノベーションとオープンソース
保守派の障壁を断ち切る
イノベーションのために場を開く
活動範囲の平準化
卓越したものを呼び込む
文化変容の促進
先進事例:The Enlightened Monopolist
結論


Chapter 4 Trading Good Deeds for Measurable Results.
Current Funding Limitations.
What Public Value Are We Purchasing?
Are the Funded Activities Still the Most Relevant?
What Change Does the Community Want and What Assets Can It Mobilize?
Are We Funding a Project or Sustainable System Change?
What Will We Measure?
Bringing It All Together: Linda Gibbs.
Conclusions.

第4章 定量的な成果を見極めるために善行を重ねる
現状における資金調達の制約条件
われわれが手に入れられる公共的価値は?
受託事業は組織のミッションとかけ離れていないか?
ソーシャル・イノベーションではどのような地域資源が動員されるか?
資金の投入は事業のためか、持続可能なシステムへの変化のためか?
われわれの価値基準は何なのか?
先行事例:Linda Gibbs
結論

Part III: Service Provider as Civic Entrepreneur.
市民起業家というサービス・プロバイダー

Chapter 5 Animating and Trusting the Citizen.
Balancing the Professional with the Public.
Building a Public.
Leveraging Social Media for Change.
"Client" Choice.
Curing the Expectation Gap.
Bringing It All Together: Family Independence Initiative.
Conclusions.

第5章 市民の行動力と市民への信頼を高める
公とのあいだで専門性を分散させる
公共性をつくる
社会メディアを活用した社会変革
「顧客」の選択・「顧客」からの選択
期待との齟齬を埋める
先行事例:Family Independence Initiative
結論

Chapter 6 Turning Risk into Reward.
Seeing Opportunity Where Others See Liability.
Taking First Risk.
Fully Calculating Cascading Return on Investment.
Political Risk and Reward.
Bringing It All Together: Wraparound Milwaukee.
Conclusions.

第6章 リスクを報酬へと転換を図る
他者が抱く障害要因をチャンスに捉える
最初のリスクを負う
段階的な投資利益率を完全に計算する
政治的なリスクと報酬
先進事例:Wraparound Milwaukee
結論

Chapter 7 The Fertile Community.
The Fertile City (and the Entrepreneurial Mayor).
Civic Entrepreneurs and School Reform.
Entrepreneurial Community Solutions.
Staying Entrepreneurial: Saving Yourself from Success.
The Future.

第7章 創造力豊かなコミュニティ
創造都市(そして起業家的首長)
市民起業家と学校改革
起業家のコミュニティ・ソリューション
起業家的で有り続けるために:成功に謙虚であれ
展望


ちなみに、既に日本語の翻訳の話が進んでいるかもしれません。あるいは、動きが速い、東京の方々で、チームが発足しているかもしれないです…。

2010年1月19日火曜日

芸歴50年の重み

 上町台地からまちを考える会の事務局長をさせていただいております。2004年4月からです。2代目の事務局長となるのですが、着任させていただいた年の10月から始まったのが「上町台地100人のチカラ!」という取り組みです。これは、同会が同年7月から、玉造にある「結(ゆい)」という複合商業施設(現在は「地域交流スペース」と呼んでいる)の3階に事務所機能を置くことになり、その場所で始めた企画です。同会の理事でもある、京都大学の高田光雄先生が関わっている、京都三条ラジオカフェというコミュニティFMの番組「きょうと・人・まち・であいもん」のゲストの呼び方や交流の仕方を参考に、同会の代表理事を務めている秋田光彦大蓮寺・應典院住職の命名により、現在まで続けられてきています。
 今日はその93回目として、「上町台地から考える、能といのちとは~能は何を伝え、なぜ生き続けているのか~」と題し、能楽大倉流小鼓方の久田舜一郎師をお招きしました。ちなみに、「上町台地100人のチカラ!」では、参加費は500円、会の理事・事務局のスタッフらがゲストをお招きし、ゲストは終了後の懇親会にご招待、というのが定型となっています。今回の招き役は、同会の理事で、大阪ガス(株)エネルギー・文化研究所客員研究員の弘本由香里さんでした。久田先生は1944年生まれで、昨年で芸歴50年。重要無形文化財総合指定保持者として全国の能舞台での活躍に加え、能囃子の可能性と普及を追及すべく、ジャズやクラッシック音楽やフラメンコなど、他ジャンルとのコラボレボレーションにも広く取り組んでおられます。
 このように、分野や世代をまたいで表現に取り組んでいる久田先生のお話で、極めて印象的だったのは、「リズムは世界で同じという人とはコラボレーションはできない」ということでした。必ず、それぞれに固有のリズムがあるはずなのに、最初から「同じ」と決めつけてしまっては、こちらの世界に引き込むこともできなければ、そちらの世界に打って出ることもできない、そういう観点からの発言でいらっしゃいました。また、時代の変化の中で、師弟の関係を結んで教育・伝承することが難しくなってきている中で、「師匠から技術を教わる」よりも「師匠に気分を似せる」ことが、ご自身の経験においては重要なことだった、と話されたことも、ハッとさせられました。次元が違う話なのですが、私が物真似をよくしてきたことも、「何かを教わる」のではなく「コツをつかむ」という姿勢の現れかもしれない、などと考えました。
 久田先生は、お話のあいだにも、また懇親会の席でも、「音楽についてことばで語るのは、そもそもナンセンスだ」というようなことを仰っていました。しかし、能楽(猿楽)について、あえてことばで説明するなら、と、天下泰平のために言霊の力を借り、その言霊を翁が担うものとして踊り、物語に身体性と叙述性を与えるために音楽やかけ声がついた、と明快に示していただきました。中でも鼓は「真空が爆発してエネルギーになった」ものとのこと。ゆえに、古の時代より、生きづらい世の中が歌われることで、悲劇の主人公の弔いを通じて救いを与える上で、重要な役割を果たしてきた、と、なんだかにわか勉強ながら、能の世界の奥深さを学ばせていただきました。



ちなみに、久田先生には実演もいただいたのですが、本日お持ちいただいた胴(漆と金箔の段差がない素晴らしい仕上げのものでした)は元禄時代のもの、そして皮の部分は100年程前のもので小馬のものが使われているそうです。

2010年1月18日月曜日

コミュニティのチカラ

 カタカナ語ばかり使うな、と言われることがあります。今日のブログの投稿に対しても、そう言われるかもしれません。しかも「力」でも「ちから」でもなく、「チカラ」などと、わざわざカタカナで書く必要がないことにまで、とご指摘をいただきそうです。ただ、一つお伝えをしておきたいのは、カタカナがかっこいいと思っていて多様しているのではない、ということです。外国起因の概念ゆえに無理矢理日本語に翻訳しない方がよい、あるいは、既存の概念を疑ってみたい、そういうときに、カタカナをあえて使っているのです。
 で、今日の話題の一つは「エクソダス」です。またカタカナなのですが、ここでは標記のとおり、「コミュニティのチカラ」を、改めて実感させられました。既にエクソダスは12月18日と1月10日に開催してきているのですが、今日は、朝の回も、夜の回も、それぞれにこれまでのどれとも違う印象を覚えました。朝のエクソダスは、われわれのスタッフやチラシのデザイナーをして「誤植」と勘違いされた「朝6時」からの開催でした。夜のエクソダスは夜7時からの開催で、アメリカ村に向かいました。
 簡単にエクソダスの解説をしておくと、集団でまちに繰り出し、参加者が一丸となって一つの出来事を作り上げる、という企画です。その出来事を作り上げるあいだに、どれだけの人が巻き込まれていくのか、さらには巻き込れた人々は、巻き込まれる前、巻き込まれる瞬間、そして巻き込まれた後、どのような雰囲気に包まれているのか、ということを明らかにしようという社会実験とも言えます。集団力学という定訳がある、グループ・ダイナミックスを専門としている私にとっては、極めて興味深い協働的実践でもあります。具体的に朝には、大阪城天守閣で開催されているラジオ体操会にスーツで参加するということ、夜には、アメリカ村を探索する(そして最後には三角公園にピザを宅配して、公園にいる人たちにもふるまってみる)、というものでした。
 これまで皆出席を通してきた私ですが、今日の夜にはBBA(ボーズ・ビー・アンビシャス)関西の第6回準備会に参加させていただき、エクソダスには應典院の森山主事が参加しました。それぞれの詳しいレポートは、またコモンズフェスタのブログで紹介させていただくことにしたいと思いますが、とにかく、それぞれのまちには固有の文化があって、人々の行動にはまちの文化的な特性が反映する、このことを、のべ4回のエクソダスで再確認しているところです。もちろん、こうした地域コミュニティだけでなく、夜に行ったBBA関西の集まりでも、会話の幅の広がりと、それぞれの日常で向き合っている問題の深さに、僧侶というコミュニティが持っているチカラを感じたりもしました。



実は、ラジオ体操会には少し遅れて参加したため、ラジオ体操第2の途中からしかできなかったのだが、上記の写真の後、指導員の方のご厚意で、YouTubeに投稿されていた「テレビ体操」をe-mobileの電波で再生しながら、体操台の前で(もう一度)一緒にしてみたのでした。(なお、上記の文章は、應典院ブログ1月14日の投稿と共通のものです)。

2010年1月17日日曜日

15年目の1.17

 あの日から15年、その日に感慨深い場を生み出すことができました。本日、應典院寺町倶楽部主催、寺子屋トーク第57回「+socialの編集者たちが語る:思いをつなぐしくみ・地域に根ざすしかけ」、無事終了いたしました。定員80名のところを、70名ほどのご参加をいただくことになりました。開会前には物故者の追悼法要がなされ、法要の後には、別途、應典院ブログに掲載させていただいているとおり、秋田光彦住職に短いながらも法話をいただきました。私は進行役を務めさせて頂いたのですが、何度も涙がこみ上げてきました。
 阪神・淡路大震災15年・特別企画と銘打って開催した今回の寺子屋トークは、同時に「U35の実力」と題したコモンズフェスタ2009/2010の参加企画でもありました。そもそも、コモンズフェスタのテーマにそのような名称を掲げたのは、今回のシンポジウムのゲストたちを招きたいという思いからでもありました。つまり、35歳前後の人々が今、世間で活躍しているとするなら、その世代は、震災当時、社会に出ていなかった学生たちではなかったか、ということへの注目でした。そして、他ならぬ私こそU35であるということからの確信のものと、35歳以下(Under 35)の厳密さはともかく、その世代が持つ特徴を、震災をからめて明らかにしたい、と、数々の企画によって一つの事業を組み立てたのです。
 ゲストに招いた4人は、私と谷内さんについては全員面識があったのものの、面識の有無を問わず、それぞれに壇上にて「知っていたようで知らなかった」話が出されていくことになりました。実は今回、通常のシンポジウムではよくある「基調講演」というものを、あえてなくしてみたのです。2名での対談を2組、そして会場の方々を巻き込んだパネルディスカッション、それらを通じて、多くの語りが引き出されて欲しい、という願いを込めていました。と言うのは、とりわけ、最近、この手の企画では、用意してきた「PowerPoint」などを説明して、しかし時間が延びて、内容が深まらずに終わる、という場面をよく見てきたためです(議論のPowerPoint化による行間の軽視、とでも言いましょうか…)。
 結果として、その企図はうまい方向に転がったと実感しています。個人的に印象に残ったのは、「昇り調子感の演出」(佐藤大吾さん)、「くやしさでつくった<のりしろ>」(深尾昌峰さん)、「万能感に傲慢になっていた」(谷内博史さん)、「きれいに整理をしようとするとやっかいなことが起きる」(稲村和美さん)、などです。全員がコーディネーターとして議論を回すことができる方々の、贅沢なシンポジウムの最後、企画者でありコーディネーターである私は、「これまでは目的や対象を明確にせよという<for>(何のために・誰のために)の視点が重視されてきたように思うが、改めて震災当時を振り返ると手を携えて何かに取り組んでいく<with>(誰とともに)の視点こそ重要なのではないか」といったまとめをさせていただきました。終了後には、應典院2階「気づきの広場」でのワンコイン交流会と、さらに喫茶店でのトーク、そして大阪駅ガード下の居酒屋での放談と、懐かしさと心地よさに浸った1日でした。



議論の様子は、大阪大学渥美研究室の信頼できる後輩にTwitter中継をお願いしましたので、ご参照ください。
(第一部)
http://twilog.org/osakakochin1/asc#100117
(第二部・第三部)
http://twilog.org/osakakochin2/asc#100117

2010年1月16日土曜日

コモンズフェスタ2009/2010 開幕!

 本日、コモンズフェスタ2009/2010「U35の実力〜+socialの編集者たち」が開幕いたしました。展示開始時間には、まだ展示構成ができあがっていない、搬入等々の車がガス欠、荷物引き取りの段取りに手間取る、など、バタバタでの開幕でした。スタッフの口から、つい出てきたのは「戦場」ということばです。確かに、とりわけ「時間」との戦いでありました。
 初日にあたる本日は、10時から、サウンドアーティストの中川裕貴さんによる「editing body around the sounds」という企画が2階「気づきの広場」にて行われました。この期間中、花村周寛さんの手によって、墓場を見下ろすロビーは、「公園」に変身(トランス)しております。よって、公園でチェロを弾いている若者、というような風景が成立していました。そうした空間において、中川さんはただ弦楽器の生演奏するだけでなく、楽器を無理やり電気増幅させる「ライブエレクトロニクス」という手法を用い、應典院の外の音(例えば、車の通る音など)を交えて、何とも言えない不思議な時間を生み出していただきました。
 その後、17時からは、2006年度より(2回のコモンズフェスタでの開催分は除いて)piaNPOにて展開してきた「ARCトークコンピレーション」のファイナル、30回目が本堂ホールにて開催されました。この催しは、その名のとおり、「コンピレーションアルバム」と言われる音楽CDがあるように、多様な人やテーマをある方針に基づいて1つにまとめるトークイベントとして展開してきたものです。最終回のゲストは、今回のコモンズフェスタでの空間構成を担当いただいている花村周寛さんでした。スライドを使って説明をしたい、という考えもお持ちだったのですが、ここは後にポッドキャストにも音声が乗る、ということで、今回の展示に重ねた「公共性への揺り戻しという問いかけ」について、素の語りをお願いいたしました。
 ちなみに、應典院の本堂ホールは、まさに「本堂」という名が含まれているとおり、中央にご本尊がおられます。よって、本堂ホール内での飲食はご遠慮いただいているのですが、今回は「特別」の機会、ということで幕の内にお隠れいただき、花村さんのトーク終了後に過去のゲストの方々と共に歓談と振り返りのパーティーを行いました。秋田光彦住職曰く「感度が高そうな人たちが集まっている」とのこと。今回の内容もまた、ポッドキャストで配信されますので、またhttp://www.webarc.jp/arcaudio/をお楽しみください。



今日もまた、長い一日でした!(そして、ブログの内容も共用です)

「U35の実力」 いよいよ開幕へ

 1/16開幕のコモンズフェスタ2009/2010、会場での仕込みも大詰めとなって参りました。本日は花村さんによる「トランスパブリック」、中川裕貴さんの「editing body around the sounds」、上田假奈代さん・岩淵拓郎さんの「ことばくよう」と、展示・表現系3組の仕込みが行われました。スタッフの機運も急激に高まって来ています。ちなみに、運送屋さんなど、出入りの業者の皆さんにも、新鮮な感動と意外性への驚きを覚えていただいているようです。
 そんななか、本日、相次いで3つの新聞記事が出ました。一つめは過日お伝えした毎日新聞の「ことばくよう」の記事です。二つめが、以前私が京都新聞から受けた当時の「震災ボランティア」の今に関するインタビューです。そして三つめが奈良日日新聞で私が連載させていただいるコラムの三回目として「震災と慈悲」について記したものでした。
 これは住職がかねがね仰っているのですが、現代人の新聞離れ、あるいは活字離れが進んでいる中、改めて、新聞というメディアの特性や可能性は何か、というのを、取材、そして掲載を受けて感じました。個人的な印象にすぎませんが、このところ続けている、あるいは続いているTwitterと比較して言うと、「制約」という点に、その問いを解く鍵があるのではないか、と思いました。つまり、Twitterには登録制で140字しか執筆できない制約があるのですが、新聞もまた、毎日発行で紙幅の限りという制約があります。
 ただ、Twitterと新聞には、自分が「伝える」側と「伝えていただく側」という圧倒的な違いがあります。そう思うと、新聞の記事と情報欄とコラムと広告は、それぞれにまた意味合いが違うとも考えるところです。もっと言えば、写真の有無、記者の方の署名の有無、さらにはカラーか白黒か、果てにはどこの新聞か、というのも、情報を受け取る側のモードを左右するでしょう。ともあれ、相次いで3つの記事を掲載いただくことになった震災15年の間際、以前は成人式だったこの日。当然のことかもしれませんが、徐々に「あの日」を強く意識するようになってきています。



前日、展示作業の最後の部分まで立ち会えればよかったのですが、日も高いうちに同志社の講義などで京都へと向かってしまいました。(なお、上記の文章は、應典院ブログ1月15日の投稿に加筆修正させていただいたものです)

2010年1月14日木曜日

取材から15年前を想い起こす


 本日、読売新聞の記者の方に、1月17日の寺子屋トークに関する取材をいただきました。いよいよ開催が迫ってきたところですが、一人でも多くの方に参加をいただきたいという私の願いと、記者の方の「どんな人がなぜこのような企画を組み立てのか」を知りたいという思いが重なって、2時間弱、取材と撮影をいただきました。途中、ゲストの谷内博史さんにも電話にてコメントをいただいたのですが、さて、いつ、どんなふうに掲載されるのかが楽しみです。

 今回、長時間にわたって取材を受け、取材に対応させていただいたのは、私が震災当時、神戸大学の国際文化学部の避難所でボランティアをさせていただき、記者の方がその体育館に避難をされていた、というつながりがあったためです。まずは先週の木曜日に電話で取材をいただいたのですが、そのとき「なぜこのゲストの組み合わせだったのか」と訪ねられ、私自身の経験も交えてお話したところ、こうした運びとなった次第です。私は1月30日に、まずその避難所に向かい、2月1日から開始を予定としていた立命館大学ボランティア情報交流センターのボランティア受け入れの下見に行き、その後2月1日から1週間ほど現地に滞在して、受付のお手伝いやこどもたちの遊び相手、さらには救援物資の整理等、その場の状況にあわせたお手伝いをさせていただきました。その記者の方は、避難所の受付によく座っておられ、避難所から仕事に行く方が増えてきた頃には、避難されていた特に主婦層の方々の話し相手になったりしておられたそうです。
 そんな2人のつながりがあったので、成功談や美談だけでなく、少なくとも私からは失敗談や懺悔の念が出ました。特に、その避難所にいらっしゃって、受付の対応もされていたということもあったので、少し本題から離れ、「ノート事件」とでも言える、ある出来事について、それぞれの印象を語り合うことになりました。簡単に言うと、ある日(私が一旦京都に帰る直前だったので、その避難所で活動して1週間程経つ頃)、ボランティアスタッフの連絡帳として、リレー形式で綴っていたノートを、お手伝いをさせていただいた避難所の受付に置き忘れ、その中身に目を通された避難所の方の怒りを買い、一旦活動の拠点としては撤退をすることになった、という出来事です。若気の至り、と言えばそれまでのことだったのでしょうが、その後、私が「フィールド(現場)」に関わるときには一定の緊張感を持たなければならない、と強く考えるようになったきっかけの一つとなっています。
 「長らく震災から遠ざかっていた気がするのですが、きっと、ずっとあのときのことを携えていくんでしょうね」というのが、私たち2人に共通する「あの日」に対する感情です。そして、恐らく、あの日、あのとき、あの場所に身を置いた人は、それぞれの引き取り方で、<KOBE>のことを引き受けており、今後も引き受けていくのではないかと思っています。ちなみに、例のノートで、被災者の方が怒り心頭に発することになったことばは、「被災者の自立を促す」といったことばが綴られていたことによる、それが本日確認できたことでした。ちょうど、私の恩師の渥美公秀先生がクローズアップ現代に出た日に、こうした取材を受けることになったのも不思議な感じですし、改めて「なぜ、非常時に京都からわざわざ学生が駆けつけ続けたのか」、また「どこかで感謝を求めていなかったか」というようなことを、中田豊一さんの「ボランティア未来論」なども読み返しながら、また振り返ってみたいと思いました。



実はこの日もまた、長い一日でして、修士論文の提出を(モスバーガーで)確認した後、大阪市近代美術館あり方検討委員会の答申の骨子についてのすりあわせを本町でしてから帰宅したのでした(なお、上記の文章は、應典院ブログ1月14日の投稿と共通のものです)。

2010年1月13日水曜日

論を結ぶ

 本日、1/13、私が指導をさせていただいている院生が修士論文を提出されました。小山さん、本当におめでとうございます。また、提出3時間を切ったところでお手伝いをお願いした有吉さん、また滋賀から駆けつけていただいたTAの宗田さん、本当にありがとうございました。さらには、事務室での提出手続きの段階で、とっさの救いをいただいた西村さんにもお礼申しあげます。
 タイトルは「創造集団のアウトリーチ活動による文化芸術振興に関する実践的研究 -- 演劇分野における公民協働の課題と展望 --」です。昨年は2名が提出されたのですが、今年は1名だけでした。もちろん、同級生は多くいるのですが、同じ研究室で執筆する仲間がいない、というのはつらいものです。複数いれば、お互いにモデルとライバルの関係ができ、切磋琢磨しあえるのですが、なにせ1人で書く上では、孤独感に攻めさいなまれることが多かったのではないかと思っています。
 ともあれ、実は昨年度もそうだったのですが、提出直前まで、私の研究室に「軟禁」をいただいて(などと、丁寧語を使うのは間違っているのでしょうが)、特に論理的な展開に矛盾がないか、吟味を重ねました。事業仕分けではないのですが、こういうときには質問をする方が「優位」な立場にあります。私が矢継ぎ早に質問をするだけでも答えられないことが多い上に、〆切が迫っている中で指摘されるわけですから、本人にとっては極限状態に追い込まれてしまうこともあるのでしょう。ただ、提出間際にそうした指摘がなされるということは、当然指導教員の指導不足からもたらされることは明らかですので、私の内省が求められるところでもあります。
 論文というのはエッセイと違って、目的があって、結論が示されなければなりません。特に実践的研究を展開している、同志社大学大学院総合政策科学研究科ソーシャル・イノベーション研究コースでは、研究課題において具体的な問題提起がなされ、自らが先頭に立って解決策が提示し、それを実践の中で妥当性について例証しなければなりません。果たして、実践の結果をきちんとまとめ、それを先行研究等から抽象化を図り、新規性と独自性にあふれたものとして論を結び、課題と展望が示せているか、このあたりを最後の最後まで詰めていました。ただ、私が最後の最後まで問いかけたのは、「これが本当に言いたいことなのか」ということでして、この点については、また、公聴会が近づいたところで触れさせて頂ければ、と思います。



レバーファイルで3冊、これらが事務室に提出されました。

2010年1月12日火曜日

移動・指導

 いよいよ、同志社大学の(総合政策科学研究科の)修士論文の提出が迫っています。本日は仕事の休みをいただいて、論文指導のために京都に向かいました。当然、というのは変な話ですが、いつものように、時間を買うがごとく、新幹線で移動しました。+840円で約10分を買う計算となるものの、それでも、何か功を奏すのではないか、という期待から、その道を選択してしまいました。
 新幹線での移動は、時に快適なのですが、一方で時間の感覚を狂わせることとなります。新大阪から15分弱という移動は、阪急やJRの半分ほどの時間で、京阪間を移動することを意味します。しかも、なぜか今日の昼に乗った「のぞみ」の自由席は、外国人観光客でごったがえしていて、デッキに立っての乗車となりました。ちょっとトイレにも行ったので、移動している感覚すらないままに、京都に到着しました。
 京都に着くなり、地下鉄で移動し、同志社大学の新町校舎に行きました。そして、土曜日に議論したポイントを確認します。ところが、そのときに確認した優先事項とは違うところから手をつけていたということが発覚。もちろん、あせる気持ちはわかるのですが、まずは一旦体裁を整えるべし、としていたので、この期に及んでは全てを同時並行で修正、改稿を重ねていかねばならなくなってしまいました。
 その後、打合せが入りつつも、気持ちは論文に向いています。それでも、シンポジウム等の企画や、市民の皆さんのコメントをいかに集めるのか、といったこと、そうした仕組みと仕掛けの両面の話にも考えを巡らさなければなりません。その他にももう一つ、京都府とインドネシア・ジョグジャカルタの友好提携25周年記念事業についての打合せも入り、脳みそがてんてこまいの状況になってしまいました。ともあれ、おいしい北京料理をお腹に入れ、提出日となる明日への英気を養い、最終の京阪特急で帰宅しました。



今日もまた、EX-ICで、ピタっと乗車でした。

2010年1月11日月曜日

成人の日

 世の中は3連休ですが、あまりそんな気分に浸ることもなく、3日目を終えようとしています。朝からテレビのニュースを見ると、成人式の話題が報道されていました。そういえば、成人の日でお休みなのだ、と、そこで改めて感じた次第です。そして、自宅には、いわゆるカレンダーらしいカレンダーがないことがわかりました。
 私にとって成人の日の思い出は、実家に帰省し、磐田市民文化会館での成人式に参加したことです。今は合併したために磐田市には10の中学校があるのですが、私が学んでいたころは5つの中学校がありました。それらの中学校から1人づつ代表が選ばれ、壇上で「私の誓い」のようなものを話をすることになっていました。たまたま、私のことを想い起こしてくださった中学校の先生が、私を推薦していただいたようで、光栄にも話をさせていただくこととなりました。
 成人式を迎えたとき、既に地元を離れて2年目でした。壇上では、京都で生活を送っていること、1年前に阪神・淡路大震災のボランティア活動に携わったこと、そして、生まれそだったまちを離れて初めて、まちの魅力や仲間に気づくことになった、といったことを話したように思います。既に会場には「お宮参りで今日は来れない」という同級生がいました。一方で旧友との再会を果たす機会ともなり、同窓会をやろう、という機運も盛り上がりました。
 年々、地元に帰る機会は減ってきていますが、しかし、地元に思いを馳せる機会や質はより深みを増してきているように感じています。来年になると、実家で暮らした年月と、実家を離れて暮らしている年月が並びます。果たして、その後の生活はどんなものとなっていくのか。地元にはない地下鉄に乗り、そんなことを考えた成人の日でした。



ハッピーマンデーと呼ばれて、祝日が月曜日に寄せられて久しいのですが、やはり、祝日は日にちで合わせて欲しいと思うことが多々あります。

2010年1月10日日曜日

應典院での長い一日:エクソダス〜交流会まで

 本日は長い一日でした。朝10時からは、コモンズフェスタのプログラムの一つ「エクソダス」の2回目が開催されました。開催中に現場からTwitterにてつぶやいたとおり、高校生7人、大学生4人、社会人1名の混成チームで、数々のミッションを展開して参りました。應典院に集合した後、黒門市場を一列で歩き抜け、味園ビルの2階を探訪し、NGKの近くのたこ焼き屋さんに並び、ジュンク堂千日前店内から道具屋筋へと通り抜け、電気街と移動しました。そして、日本橋のまちを、巧妙なシナリオで遊びました。
 もともと、エクソダスとは旧約聖書にある「出エジプト記」を意味すると共に、そこから転じて大量脱出を指します。多少逆説的となりますが、このエクソダスという企画について、説明させていただきます。そもそも、今回の企画にエクソダスという名は花村さんにつけていただきました。なぜ、その名前が選ばれたかというと、今回の企画が、「まちを遊ぶ」ことを目的にしていたためです。なぜ、「まちを遊ぶ」企画に大量脱出を意味する宗教用語を用いたのか、そこには現代の都市における公共性を考える重要な手がかりがあると考えたためです。
 とりわけ都市というものは、多くの人々が暗黙の内に無数のルールに従って生きています。そこで、逆に、小集団かもしれないが、新しいルールをつくり、既存の都市システムとうまく融合させることができれば、都市を遊ぶことができる、と考えました。元ネタは、既に絶版となっている粉川哲夫さんの「都市の使い方」という書物(目次はhttp://www.amazon.co.jp/dp/toc/4335550413で見ることができます)です。それをもとに、「私」のしかけから「公」のしくみをゆさぶってみよう、と、多くの人に呼びかけて、既存のシステムを「脱出する」という社会実験に取り組んでいるのが、この「エクソダス」なのです。
 詳しくはまた、別の機会にレポートにまとめますが、日本橋では、空いていない店舗に行列をしてみる、何の変哲もないものに写メをしまくる、韓流スター(とされる)「イ・チュガン」が登場し(たこととして)サイン攻めと写真撮影をねだる、新進アイドルにオタクが群がる、といったミッションを展開してきました。これらの模様は、16日からの「トランス・パブリック」の展示内で紹介させていただく予定です。ちょっとした高揚感をもとに應典院に戻ってから、もろもろ打合せや準備をした後で、18時から、参加者の交流会を行いました。こちらも、Twitterでつぶやいておりますが、今回の企画にご縁のある皆さんにお集まりいただき、顔合わせと企画の概要を共有しあいました。



今回の日記は、應典院のブログでの1月10日の「現場日誌」に投稿したものを再掲させていただいております。

2010年1月9日土曜日

〆切

 常にいろんな〆切と格闘しています。今日はいくつかの〆切が同時にやってくる日でした。例えば、新聞の連載、例えば、出版の原稿です。もう一つ、学術雑誌の関係でいろいろ動かないといけないのですが、最優先であたらなければ、という思いが空回りしている状況です。本当に、情けない限りです。
 そんななか、私が指導している大学院生もまた、修士論文の提出という〆切を、間際控えています。1/9、本日が年明けの最初のM2ゼミでした。まったくの勘違いで、1/6にはゼミがなかったゆえ、急遽、個別の打合せ時間を設けさせていただいたのです。提出は13日、ゆえに今が佳境なので、論理構築に関する全体的な話だけでなく、書式の統一や形式の整備など、個別具体的な内容を離れた部分についても、意見交換を交わしました。
 昔は睡眠時間を削って、なんとか形にできていたのですが、寄る年波なのか、夜の無理がきかなくなってきました。しかし、今日は相次ぐ〆切に向き合おうと、それなりの無理をしてしまいました。そこで選んだ手段は、「一旦寝る」ということ。そこで小さな充電をして、なんとか「誤差」の範囲で提出をさせていただきました。無論、誤差とはいえ、当初の〆切を出ていることは間違いなく、申し訳なく思っています。
 一方で、指導を担当している学生については、〆切が厳守です。きちんと体裁を整えて提出ができるかどうか、私はもとより、TA(という、いわゆる修士課程の学生の指導をする博士課程の学生)の方こそ、心配をされています。とりあえず、一日、一日と、徐々にゴールが近づいてくるわけで、納得できるかたちでゴールテープを切ることができるよう、精一杯の力を割いていただければと願っているところです。そして私自身もまた、きちんと与えられた期日を守り、与えていただいた機会に対して誠実になり、多くの方の範になりたいと改めて発意しております。



修士2回生(M2)のゼミを研究室にて行い、景気づけに、今年「初天一」に行きました。

2010年1月8日金曜日

文図の往復運動

 本日は同志社大学大学院総合政策科学研究科ソーシャル・イノベーション研究コースにて、今年初めての講義とゼミでした。2コマ連続で、講義とゼミ、と続きます。講義は、修士2回生が修論提出間際ということで、この間の研究の内容について、実践家の立場として話題提供をしていただきました。また、実践的研究の協力者である「まいづるRB」のアートディレクター、森真理子さんにもお越しいただき、話題提供と発表へのコメンテーターをお願いしました。
 講義の名前は「アートマネジメントの理論と実践」、ゼミの名前は「まちづくりのグループ・ダイナミックス」、それぞれ、名前を聞いただけでは内容がピンと来ない、そんな印象を覚えるかもしれません。全14回の授業回数のうち、今回が両方とも12回目を数えているため、もはや佳境に入っています。例年、この「アートマネジメントの理論と実践」では、昨年、一昨年と、1月初旬に應典院にて出張講義を行い、コモンズフェスタの現場も見学をしてもらってきたのですが、今年度はどうも日程が合わず、逆にゲストをお招きすることにしたのです。一方、ゼミは毎年趣向を凝らして内容を組み立てているのですが、今年度は「研究の背景と目的を図解化する」ということに力を入れています。
 Twitterでは、なんと久恒啓一先生ご自身にフォローをいただいたのですが、久恒先生の著書を活用しながら、「文章を書くということ」と「図解でわかる、考える、伝わる」ということについて、かなり詳しくワークを重ねているつもりです。特に、図解は「マル(要素)」と「矢印(関係)」だけで表現が可能なのであって、それ以上のものは過度なデコレーションなのではないか、などといった問題提起を行いました。あまり過度な課題を出さないことで有名な私ですが、次週までに、今回書いた図をもう一度文章にして、文と図の精度を上げるという「文図の往復運動」をやってきて欲しい、と指示を出し、森さんたちとの懇親会を兼ねた新年会へと流れていきました。



当初は舞鶴から18時過ぎの京都着の列車で来られ、20時半前の列車で戻られる予定だったのですが、予定を調整されて、京都市営地下鉄が終了するまで、地下鉄今出川駅上の白木屋にて、森さんにはおつきあいを頂きました。

2010年1月7日木曜日

「ill」と「いる」

 今日は長い一日でした。午前中は病院へ。特に治療というよりは、何となく機械の値と熟練の目利きをいただく、という感じです。献血に行くも、「ここに来るより、内科に」と、絶妙な返しをいただいて、4年ほど。まあ、慢性疾患と呼ばれるものと、ほどよいおつきあいをさせていただいております。
 ちなみに、病院の待合室でも、MacやiPhoneを利用し、情報の受発信を行っていました。聞くところによると、主治医の先生は、その病院を紹介いただいた私の知人に「あんな人は見たことない」と仰っているそうです。そうして、いつでもどこでもネット環境が手中にある生活を送る中でも、「場所の力」という表現をはじめ、リアルな空間、リアリティを感じる時間、身体的なコミュニケーションについて関心を向けているのが私です。午後は病院から應典院に向かい、これまた画面を見ながら、ひたすらキーボードを叩くことで時間が過ぎていきました。
 今日はこうして時代と共振して生きようとしている生き方を改めて考える貴重な場に身を置かせて頂きました。それは、本日夜7時、應典院の研修室Bで開催された、コモンズフェスタ2009/2010のプレトークをじっくり聞かせて頂くことができたためです。「自分をいかして生きる」と題してお話いただいた西村佳哲さんの柔らかな物腰に、なるほど、これを聞くために、各地から西村さんのことばを聞きに駆けつける方々がいらっしゃるんだな、と合点がいきました。そして、私もミーハー的に、著書にサインをねだってしまいました。
 本日の内容については、應典院のTwitterにて中継させていただきましたが、「居る」ということについて、深く考えさせられました。コモンズフェスタ関連については、今後、私の個人アカウントでもつぶやくかもしれませんが、そのときにもハッシュタグ #commonsfesta をつけさせていただきます。とりわけ、今日のプレトークが終わり、今はひたすら、1/17、震災15年の日の寺子屋トーク「+Soialの編集者たちが語る」に注力して参りますので、こちらもどうぞ、ご興味・ご参加いただきますよう、お願い申しあげます。



今回の標題は、病気の(ill)と應典院に「居る」ということが掛け合わせ合っているのですが、「居なければならない」という仕事としての緊張感が、実は慢性的なillにもつながっているかもしれない、という何とも言えない問題が見え隠れしていたりもするのです。

2010年1月6日水曜日

貧乏性

 應典院は昨日が仕事始めでした。そして、今日は同志社の仕事始め、だと思っていました。少なくとも、本日の18時24分までは…。しかし…。
 16時から、住職、事務局長との三役会を終え、少し仕事を整理して、地下鉄谷町九丁目から谷町線で東梅田で下車し、JRにて京都に向かって、地下鉄烏丸線に乗って今出川で降り、2番出口から路地を抜けて向かった新町校舎は、閉門され、校舎も暗い状態にありました。そう、まだ講義は開始されていなかったのです。完全に勘違いでした。講義が開始されていなくても、もしかしたら修士論文提出直前ゆえに、院生は大学に来ているかも、などと妄想して「ゼミをしよう」というムードを醸し出して電話をしてみたものの、けんもほろろでした。
 ちなみに、JRは「サンダーバード」で移動しました。630円の出費で、確実に柔らかい椅子に座ることができ、仕事も進みます。というのは、出費を納得させるための口実のようなもので、実際は17時30分発の新快速に乗り遅れたためでした。ともかく、講義が無くなった以上、少し時間が空いたので、新町校舎から京阪の出町柳駅までは健康のためにも歩くことにしました。
 ただし、せっかく時間が空いたゆえに、その時間を有効に使おうと考えてしまう、ちょっと貧乏性の私。そこで、ハンズフリーのキット(B&O Earset3)を持っていたため、両手をダウンジャケットに突っ込みながら、iPhoneで会話をしながら出町柳ま駅まで向かうことにしました。Macの電池も残っていたので、天満橋まで帰る特急では、溜まったメールへの返信をひたすらしておりました。そしてふと、往路では特急は特急でも特急券を買わざるを得ない列車で移動したことを思い起こし、自分の慌て加減を反省するのでした。



そもそも私鉄が身近になく、特急列車を日常のダイヤで見ることのない地域で育ってきた私は、列車の特急券を買うということも、また私鉄では(必要なのは近鉄くらいで)特急券を必要としないということが、なかなか身体感覚になじめなかったりしたのです。

ネクタイ労働で文字モジ

 本日1月5日が應典院の公式な仕事始めでした。昨日の一心寺スタッフ祭は、17時半過ぎの終了の後、朝の2時まで盛り上がっていたそうです。という具合に、外勤から始まった2010年の應典院、ある意味、今日が「一年の計」にあたります。そこで、10月の末くらいから更新ができていなかった應典院のブログにも、再び火を入れることにしました。
 そして、本日再開した應典院ブログの投稿「應典院より年頭のご挨拶:「責任」ということ http://outenin.blogspot.com/2010/01/blog-post.html」にも記したのですが、改めて今年、「責任」の取り方に向き合っていきます。何を今更、と思われるかもしれません。ただ、今がまさにそうであるように、多くのことばを横書きで打ち、また、多くの場でことばを吐露している私です。なので、そうしたことばを解釈いただく方々の立場をきちんと考え、果たして言動が一致しているのか、つぶさに振り返っていきたいと考えているのです。
 まあ、今日の朝、應典院に向かう前からこうしたことを考えていなかったわけでもなく、一方で仏教の師であり現場のトップでもある方のことばに過剰に、あるいは過敏に反応しているわけでもないと思っています。何より、特にこの夏以降、いわゆるセルフコントロール、もしくはペースコントロール、それらがうまくできていないという実感を持っています。それもこれも、それなりに「考える習慣」を持ってきてしまったことの反動かもしれません。ゆえに、TMネットワークの「セルフコントロール」でも聞いて、あるいはカラオケに歌いに行けば吹っ切れるような軽度のものではないように思えます。
 そこで、改めて、私自身に痛烈な問いかけをしてくださったように思えた、本日朝の代表の法話を、文字にしてみました。毎年、應典院の初出勤の日には、パドマ幼稚園を中心とした大蓮寺グループの新年互例会があったため、時間的な制約から、文字起こしは自宅で行うことになりました。そこで、洒落のようにつけたのが、この記事のタイトルです。肉体労働ではなくネクタイ労働、そして文字起こしをモジモジと、てな具合で、似非関西人の素養が露わとなってしまう、そんなことばでキーを打ち終えます。



ネクタイはお袈裟にあわせて、金色系にしてみました。(そして、チラシと1/4の時計を見てみたりして、ちょっと「大袈裟」な感じです…と、まるで酔っぱらっているかのような表現で恐縮です。)

2010年1月4日月曜日

楽しむ

 應典院への出勤は5日からで、同志社の講義は6日のゼミからなのですが、本日4日が仕事始めとなりました。場所は一心寺シアター倶楽、年に一度のスタッフ祭 http://blog.livedoor.jp/theaterkura/archives/1268234.html に参加させていただきました。一言で言えば、劇場・劇団関係者の新年会です。身内のための企画と言ってしまえばそれまでなのですが、かねてよりご縁の深い劇場でもあるので、例年「協賛」をさせていただいてきております。
 スタッフ祭の名のとおり、スタッフのスタッフによるスタッフのためのお祭りです。阿波踊りではないのですが、参加する以上は楽しまないといけません。楽しめないと思う場では楽しめるはずがなく、だからこそ楽しまないと、という積極性が求められます。とはいえ、初参加の私、しかも劇場寺院と銘打つ應典院で働きながらも、演劇どっぷりの働き方をしているわけでもありません。とはいえ、のっけからの(二度の)乾杯、舞台裏や外の階段などもフルに使った駅伝(&借り物)競争、舞台でのドッジボール大会、10個の箱馬(という舞台備品)を使った縦積みのみのジェンガのようなゲーム、それまでの獲得ポイントで逆転を狙うことができるルーレット、一心寺シアター倶楽のプロデューサーと競う50問のペーパーテスト(勝ったものの確か33問正解でした…)、ネプリーグをモチーフにしたファイブリーグによる2チーム決勝戦、そして東京フレンドパークIIのビッグチャレンジを模したダーツと、目白押しの企画で、大いに楽しませて頂きました。
 初参加ながらに感じたのは、本当に皆さん楽しんでいたということです。この年末、日本橋のあたりを歩いているとき、いつもお世話になっている方から「最近楽しかったことは」と聞かれて、とっさに応えることができない自分に愕然としていました。人にはinteresting(興味深い)こととfun(楽しい)こととは違う、などと講釈することがあるのですが、そんな風に、物事への解釈を過度に求めてきた反動として、単純に場に浸る、雰囲気にのまれる、流れに乗る、そういうことから距離を置いてきたように思えました。既にこうして分析的に綴ってしまっているのですが、私もまた、今日は楽しめました。
 こんな風にちょっとふさぎ込んでいた私、気分転換というわけではないのですが、一心寺に向かう前、阿倍野でお買い物をしました。精確にはお買い物をしていただきました。今年のテーマの一つ、時間管理・〆切管理にもつながるものを夫婦でプレゼント交換をすることにしたためです。早く箱を開けたい気持ちを抑え、Sing Like TalkingのSeasons Of Changeを聞きながら、少し暖かな日差しの中、天王寺駅の界隈から堀越神社を抜け、一心寺に向かいました。



ということで、かなり久しぶりに(恐らく12〜13年ぶりくらいに)新品の時計を手にしました。

2010年1月3日日曜日

手が止まる

 どうやら今日は一歩も家を出ずに一日を終えそうです。年賀状は早いうちに妻が一階の集合ポストに取りに行ってくれました。おせち料理ではないものの、食材は適度に買いだめされているので、調達に出る必要もありませんでした。食事もつくってくれて、感謝、感謝です。
 では、一日何をしていたかというと、メールの返信もすることなく(ちょっと休ませてください、とこっそりアピールしてみます)、ただひたすら、溜まりに溜まった「紙の」書類の整理のために、ドキュメントスキャナーと戦っていました。ドキュメントスキャナーとは聞きなじみのない方もいるのでしょうが、要するにA4の書類をひたすら読み取って、PDF形式(など)に保存してくれるというものです。もっぱら愛用しているのは、現在は富士通グループとなったPFU社のScanSnapシリーズで、まだ大学コンソーシアム京都に在職していた時代に、ダウンロードのみでの提供であったものの、Mac用の純正ドライバが用意されて以来、FI-5110EOX2、FI-S500W(レアモデル!)、S300Mと、3台をそれぞれの場所(大学コンソーシアム京都→大学、應典院、自宅)にて活用しております。これだけ所有していても、WinとMacのハイブリッドモデルとなり、しかもUSBバスパワー駆動となったS1300というモデルが気になったりもしています。
 で、その作業をテレビを横目に見ていたのですが、何気なく流していたBS朝日での「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ2009」に、目と耳が奪われました。これは2001年以来毎年開催されているライブで、2007年からはジョンレノンの命日である12月8日に開催されているもようです。TV初放送を見ることができたのは、あまり興味を持てない地上波放送を見るよりは、と、妻がBSデジタル放送の番組表(EPG)まで目を通したためでした。地デジ対策のためだったのですが、2008年の5月にケーブルテレビの契約をしていてよかった、と思ったりもしました。
 で、ライブの何に引きつけられたかというと、泉谷しげるさんによる「Working Class Hero」のカバーでした。LOVE PSYCHEDELICOの2人とのセッションだったのですが、Gibson(たぶんJ-45)を「かき鳴らす」とはこういうものだ、というくらいかき鳴らしながら、ご自身が訳された『労働者階級の英雄』として歌いきったのです(が、実際はもう一曲、You've Got To Hide Your Love Away<悲しみはぶっとばせ>を歌われたそうです)。その内容は既に泉谷さんのブログに書かれているので、ぜひ参照くださいませ。間もなくイタリア(ミラノ・フィレンツェ・ボローニャ)の視察から1年になるのですが、改めてミラノにて感じた「前衛とは」という問いを呼び起こさせてくれた気がしてなりません(と記して、9日締め切りの原稿のことは忘れていません、と、さりげなくアピールしてみます)。



ということで、写真は、手が止まったことで、ケーブルテレビのセットトップボックス(TZ-DCH2000)のリモコンが、ScanSnap S300の前を阻みます。

2010年1月2日土曜日

ポストということば

 年賀状を続々といただき、ありがとうございます。しかし、高校時代、私が通っていた学校で唯一認められた「ゆうメイト」と称するアルバイトのときには、(少なくとも)外務(配達)のスタッフは2日が休みとなっており、結果として2日の配達はなされませんでした。ところが、2005年、ケータイやパソコンで年賀の挨拶を「済ます」人たちが増えてきたことを危惧したためか、あるいは郵政民営化の流れを受けてか、日本郵政公社の時代に、2日の配達が「再開」されています。調べてみると、1973年から配達はなされていなかったようです
 そんななか、民営化された郵便局に年賀状を出しに行ったとき、ふと、ポストということばが気になりました。これまた調べてみると、郵便ポストという意味でのポストは、16世紀初頭に、ラテン語のpositumから来た女性名詞で、広いところでも正しい位置に物を慎重に配置する、という意味合いから出来たことばだそうです。これに似て非なるものが、ドアの側柱を意味するラテン語postisに由来するのが、支柱という意味でのポストです。日常的には、サッカーのコーナーポストやゴールポストなどのことばで使われています。
 興味深いのは、郵便ポストのポスト、ということばは、「place」ということばと語源を同じくする、ということです。そのために、「ポスト」の第三の意味、位置・役職・立場という意味でのポストということばが生まれています。ただ、「郵便ポスト」と、「部長のポストを狙う」という語の違いは、上記のとおりに前者は女性名詞を由来とするのに対し、後者は中性名詞に由来するのだそうです。また、後者は16世紀中頃に出てきたことば、とのこと。
 こうして「ポスト」ということばの語源の旅に出てみたら、郵便ポストのポストとは、固定されている状態を意味しているのではなく、むしろ、そこに投函された物が正しい場所にきちんと行き届くことが重要であるということ、さらにはそこには女性性が重ね合わされているということに興味を持ちました。もちろん、名詞ではなく動詞(posting)や形容詞(postal)で考えてみれば、当然のことかもしれません。ただ、今回は詳しく触れませんでしたが、ラテン語のpostというのは、後に「after」や「behind」を意味する、そう「ポスト鳩山」といった使われ方がなされる接頭語として、現代にも残っています。こうして、多くのことを気づかせてくれたポストと、そのポストの先で正しい場所へと配達すべく新年から働いている皆様に敬意を表しつつ、2日目を綴っております。



写真は我が家の最寄りの集配局、大阪東郵便局です。

2010年1月1日金曜日

何度目の正直?

 新年、おめでとうございます。喪中の方もいらっしゃるかもしれませんが、一律のご挨拶で申し訳ありません。ブログを始めてから、続けようと思っても続かず、続けるためのきっかをつくりながらも、それが活かされてきませんでした。そして新年を迎えた今、また綴りはじめています。
 昨年は6月にTwitterをはじめました。年頭からは総理も始めたそうです。140字という制限が、むしろ筆無精の私にとっては都合がよく、iPhoneというデバイスを愛用していることもあって、それなりに続いてきています。写真を掲載するなら、25文字分を残せばよい、など、多くの技が身体についてきている気もしています。
 それでも、やはり、つぶやくことと綴ることは違うのだ、ということを実感するようになってきました。特にそれは、年賀状を書いていて感じました。物心ついたときから、年賀状には何らかの文字を添えているのですが、決して十分なスペースがなくとも、きちんと思いを届けるということが改めて大事だと気づかされました。これをTwitterとブログと比較してみるなら、文字数が決まっていて、その中に収めようと工夫をすることと、制限がないなかで、自らの考えを展開していくことはまったく違うのだ、ということになるでしょう。
 再開を躊躇させる要因の一つには「そんなことをする時間があるなら、他の仕事をはやく片付けてくれ」というご指摘をいただきそうな気がしてならない、という切迫感というか、焦燥感というか、疑念が渦巻いていたということもあります。ただ、それはある意味、自らの逃げでしかないことを恥ずかしく思うようになりました。キーボードを叩くのは遅い方ではありませんので、たかだか10分の時間を割けば、こうした文章をインターネットに掲載することができます。そこで、今年は、あるいは今年こそ、お調子者で八方美人な立ち居振る舞いではなく、少なくとも自らに課した決意に対して誠実に向き合う人になっていこうと、勝手ながら、また、綴りはじめさせていただくことにします。




写真は今回もお手伝いさせていただいた、大蓮寺・應典院の除夜の鐘、生姜湯供養、修正会(しゅしょうえ)法話の風景。