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2014年4月26日土曜日

「を」でなく「に」で

もしかしたら長崎にある島に出かけていたかもしれない週末は、京都と大阪を行き来する2日間となった。テレビやラジオからは「ゴールデンウィーク初日の今日」なといった声が聞こえていた。残念ながら、そうした実感はない。いつものとおり、慌ただしく、何かに追い立てられているかのような、そんな状態が今日も続く。

それでも昼過ぎまではゆったりとした時間を過ごすことができた。例えば、ランチは京都大学近く、いわゆる百万遍の界隈まで足を伸ばした。その後は、昔の住まいの近くにあるお店に、夕方に手土産としてお持ちする「じゃこ山椒」を求めて立ち寄った。そして、一旦、立命館大学衣笠キャンパスに向かって、仕事と活動のあいだに位置づく用事で大阪へと向かった。

大阪は應典院での「仏教と当事者研究」プロジェクトの一環で位置づけられた勉強会に参加のために向かった。3月に始まった「母娘」関係を考える場なのだが、前回は直球すぎ(NHKによる『母娘クライシス』関連番組を視て語る、というもの)だったため、今回は少々の変化球で迫ることとなった。というのも、前回に参加者のお一人が『イグアナの娘』を引き合いに出されたところ、番組を通じて訴えかけられたメッセージの重さに包み込まれていた雰囲気が変わったため、今回は「一人一冊、少女マンガを持って集まる」という条件を置いて、自由に語り合うということにしたのである。ということで、お昼からの流れの中で立命館に立ち寄ったのは、書棚に並んでいた『彼氏彼女の事情』を取りに行くためであった。

こうして「母娘関係」を考える場において、「少女マンガ」に視点を置くことで、作品の語りを通じて自分に向き合うという「別ルート」が生まれる。「母と娘」という関係は、場合によっては正面から向き合うことが辛い方がいるためである。案の定、問わず語りの中で、それぞれの「モヤモヤ」が語られる、豊かな場が生まれた。そんなモードに浸りつつ向かった夜の宴席は一人称で「私」を語る機会が多く、その振れ幅に身を委ねつつ、日付が変わる頃まで町家でのおばんざいを楽しんだ。

2014年4月24日木曜日

戦いの後は仲間になる

時折「戦友」という比喩を使うことがある。もちろん、私は人を殺していく戦地に出征したことはない。それでも「戦友」という表現を使いたくなるのは、身近な他人が努力する中で、自分との戦いを重ねてきた経験があるためだ。例えば震災ボランティアの取組NPOセンターの設立地域通貨の導入といった市民活動、その他では論文執筆など、濃密な時間を共有した体験は枚挙にいとまがない。

今日は朝から應典院で過ごした。この4月から新しいスタッフが2名入ったこともあり、いよいよ私が古株となり、昼過ぎにはその2名と事務局次長と共に、今年度の事業の具体化のためのブレーンストーミングを行った。振り返れば、2006年度当初、フルタイムでの仕事に就いた頃とは全く環境が違う。自らがチームに、組織にどう貢献できるか、少し先の未来を展望して考えていかねばと改めて思う一日であった。

そんなことを思いながら、夜は同志社大学大学院総合政策科学研究科のソーシャル・イノベーション研究コース(当時)のゼミ生らによる食事会にお招きをいただいた。私を入れて5名の食事会だが、最年少は私である。2010年度の修了生が主に企画と調整をいただいているのだが、2年間の学びは相当の印象を遺したようだ。今はゼミを持たない「パンキョーの先生」ゆえ、季節の変わり目に設定される食事会での会話は、一定の役目を果たせたことを誇りと思える機会として楽しませていただいている。

こうした思い出に浸りつつ、昨夜、應典院で開催された『べてるの家の「当事者研究」』の読書会にて、「戦い」と「仲間」という話が出たことを想い起こした。北海道の「浦河べてるの家」における当事者研究の内容については、前掲の書物やウェブを参考としていただきたいが、昨日の意見交換では「治らないから、あきらめる」それが「戦うことを放棄したことで、仲間に会える」ことにつながるのだ、と話した方がおられた。仲間づくりというと共感という言葉を用いて説明されるのだが、個々のしんどさを完璧にわかり合えることがない(これを渥美公秀先生は「共感不可能性」という言い方で表現されるが、ここでは立ち入らない)からこそ、わかるということ、そうした想像力を巡らせながら他者とのバランスを取っていく尊い営みこそ、「戦友」という比喩で示される(共感不可能性に基づく)コミュニティなのだろう。

2014年4月21日月曜日

組織のスリム化の只中で

実家の父親に「相変わらず忙しそうだ」と言われた翌日は、綱渡り状態で予定を渡り歩く一日となった。まず、朝8時半から京都市内で2件の打合せがあった。本来であれば余裕のあるはずの打合せだったが、その後に時間割に固定されない科目のレクチャーがあったことをスケジュールに入れ忘れていたため、大変な朝となった。結果として、自転車を運んでくれるタクシー「エコロタクシー」にお世話になり、講義には直接支障のない範囲でギリギリ衣笠キャンパスに到着した。

そして昼からは弁当が出る会議に出て、終了後は隣の部屋に移って会議に出て、約30分の休憩を置いて、再び同じ建物の同じフロアでの会議に出て、と会議続きとなった。ここまで会議が多い組織に懐疑的、などと言葉を重ねたくもなる。しかし、大組織ゆえに、構成員が微妙に重なりつつも、会議の目的が異なるのだから仕方ない。いや、仕方ないのではなく、それこそ大組織での仕事の仕方である。ゆえに、出席という作業で会議の場をこなしてしまうのではなく、資料作成や発言を通した参加を通して行く道を議論し決定していかなければならない。

ゆえに今日の午後の2番目の会議では、今年度は立命館大学サービスラーニングセンターの副センター長を空席としたことの意図を訪ねることにした。結果は「組織のスリム化」のためとのことであった。確かに役職者の数を減らせば調整する対象が減るのであるから、理には適っている。しかし、2015年の「大阪いばらきキャンパス(OIC)」の開設を控えて、意思決定ラインのスリム化をすることが最適な方針なのか、甚だ疑問である。

ともあれ、夕方の立命館大学「びわこ・くさつキャンパス(BKC)」開設20年にかかる記念事業の打合せを経て、夜には現在住まわせて頂いている家の大家さん一家との会食をさせていただいた。まずは現在北海道にお住まいのご一家に、家守をさせていただいている身として、今の家の状況をご覧いただいた。その後は近くの「キッチンパパ」にお邪魔した。お米屋さんの洋食を美味しくいただくことで、会話が弾み、身体は膨らむ夜となった。

2014年4月20日日曜日

空き地と広場

日付が変わるまで続いた同窓会の翌日、昼前には実家を発たねばならなかった。以前の「自分の部屋」は既に物置部屋となって久しいため、帰省時には畳の客間に布団を敷いて寝ることとなっており、今回もその例外ではなかった。今日は朝6時前、そんな寝床にガラス戸の向こうから「行ってくるわ」と母が声をかけた。後で父から聞いたのだが、どうやら日帰りで三重までハイキングに出かけたらしい。

前夜に弟夫婦が来ていたのもあってか、赤飯・春巻などが朝食に用意されていた。8時台にそれらをいただき、徐々に帰り仕度を整えると、父から「トーストを食べるか?」と尋ねられた。さすがに満腹感があったため、その申し出は遠慮しつつ、歩いて10分ほどの駅までの送迎はお願いすることにした。テレビを見ながら眠りに落ちる古希を過ぎた父の姿に、齢を重ねてきていることを再認識しつつのお願いであった。

せっかくなのでと名古屋駅で「のぞみ」に、というのは順番が逆で、ホームでの立ち食い「きしめん」を味わうために乗り換えをすることにして新大阪に向かった。今の自宅は京都だが、應典院にて秋田光彦住職と打合せのためである。この間、棚上げにしてきてしまったこと、そして新たな体制で未来の組織をどう展望するか、内容は多岐にわたった。そして夕方に京都に向かった。

大阪からは自宅に直行せず、妻と待ち合わせ、かつての同僚、そして僭越ながら教え子という言い方もできる方々が新たに始めたお店の内覧会にお邪魔させていただいた。懐かしい顔にお目にかかり、また今日新たに出会う方もおられたが、それも総合政策科学研究科のソーシャル・イノベーション研究コースの設立当初に、立命館出身ながら同志社コミュニティとのご縁に恵まれたためだろう。程なく開かれる予定のお店の名前は「ひとつのおさら」という。移動を重ねた一日、ふと、懐かしい地元の駅前が新たなバスターミナルの整備とやらで空き地の目立つ状態になっていたこと、転じて空き家となっていた町家が素敵な手料理と共に多くの方々の賑わいに満ちていたこと、それらを対比させながら、コミュニティに思いを馳せている。


2014年4月19日土曜日

倫理をめぐるアポリア

久々の旅に出た。単に出張の届けを出していないというだけで、荷物もさして変わりがない。少しだけ違うのは、カメラの交換レンズがいつもより多めなことと、高校時代に来ていた学生服がカバンに詰められたことだ。ちなみに学生服の下は、齢を重ねたことで着用することが叶わなかった。

まず向かったのは東京、内幸町のプレスセンターの10階である。朝日新聞の論説委員を務めた大熊由紀子さんが主宰する「ことしもまた、新たなえにしを結ぶ会」の撮影ボランティアのためだ。由紀子さん(と呼んでください、と仰っていただいているので、そう綴らせていただく)とは、私が2002年に大阪大学大学院人間科学研究科で学び始めた折、新入生歓迎の合宿「チャンプール」にてお目にかかった。それ以来、毎春に東京に出向き、いのちにまつわる問題の最前線で活躍する皆さんが並ぶ舞台に寄せさせていただき、引き込まれる語りを受けとめながら、活き活きと語る姿を写真に収めさせていただいている。

内容については今後、「えにし」のウェブで紹介されるのだろうが、それに先だって印象に残った内容を綴っておこう。第一部は「障害者権利条約」の批准と「差別解消法」成立をテーマに、大阪ボランティア協会の早瀬昇さんをコーディネーターとして、石川准さん(内閣府障害者政策委員長)、蒲原基道さん(厚生労働省障害保健福祉部長)、平井伸治さん(鳥取県知事)によるシンポジウム、そしてさしずめ名刺交換大会「えにし結びタイム」を挟んで、介護の分野で幅広く活動する金谷勇歩さんをコーディネーターに、「medicolor(メディコロル)」というLGBTと医療に関する情報サイトを運営する看護学生の山下奈緒子さんと医学生のまおさん、少年院出院者らのピアサポート組織「セカンドチャンス!」代表である才門辰史さん、そして共に骨形成不全症である安積遊歩さん・宇宙さんの母子であった。第一部に直接関連することではないが、阪大に学んでいた当時、大学コンソーシアム京都で障害学生支援のプロジェクトを進めていたのだが、そのことを由紀子さんに伝えたところ「障害者」の対義語は「健常者」でよいのか、と問われたことを今でもよく憶えている。今日の第二部では、「手術は生命に関わるときだけに」と提案する安達さんと、「手術という手段が封じられると、自ら生命を落としかねない人もいる」と仰る山下さん、このやりとりは生命倫理を考えるアポリアと言えよう。

毎年、夜の部まで参加している「えにし」の会だが、今日は高校の同窓会が地元で開催されるため、昼の部までで失礼をさせていただいた。旧制中学の時代からの歴史ある学校ということもあって、同窓会には当番学年が定められ、文化の継承がなされるように工夫されている。私たち46回生は、今年の春の磐田支部総会では校歌斉唱を、来年の全体総会では運営全般を担うこととされている。ということで、今夜は学生服(の上だけ)を着て、久しぶりに会う仲間たちと共に壇上にて高らかに校歌を歌った。その後は今年の全体総会の運営を担う45回生の皆さんとの懇親会となったのだが、10代における1歳の違いは、かくも強固に絶対的な上下関係を生成・維持するのだな、といったことを感じる一夜であった。

2014年4月18日金曜日

とんちで防災

普段から慌ただしい生活だが、今日もまた、慌ただしい一日だった。夜からの雨が朝にはやんでいたのが、せめてもの救いであった。朝一番は衣笠キャンパスへ向かい、資料の印刷を行った。そして、そこから京都駅へと向かった。

京都駅へと向かいつつも、京都駅そのものではなく、安斎育郎先生の個人事務所「安斎育郎 科学・平和研究所」が目的地であった。先生が取り組んでおられる福島への支援プロジェクトと、このたび採択をいただいた科研費による研究プロジェクト、さらには昨年末から立命館災害復興支援室が進めている福島県とのプロジェクトなどをどう関連づけるか、という打ち合わせでお邪魔させていただいた。安斎先生には1995年夏の「自然科学概論」(京都・大学センターによる単位互換科目で、夏期集中で開講されていた)の際に博識と話術の虜となり、同じ1995年の末に立命館大学などが開催した「世界大学生平和サミット」で少々の関わりを重ねて以来、何度かご縁を重ねてきた。そうした中、今日は2月に福島県への留学生のスタディーツアーにご一緒した立命館大学国際教育推進機構の堀江未来先生と関心のある学生2名と共にお邪魔して、原子力災害の特徴についての解説をいただきつつ、僭越ながら逆に活動への支援の裾野を広げるためのクラウドファンディングについて解説をさせていただいた。

安斎先生は東京大学に設置された原子力工学の講座の一期生でいらっしゃるのだが、放射線防護学の見地から「隠すな、うそつくな、過小評価するな」という姿勢を貫いてこられ、結果として長く立命館大学国際関係学部(着任時は経済学部)に在職され、世界で唯一という立命館大学国際平和ミュージアムの館長を長く務めてこられた。ちなみに笑い話としてしまうのは失礼であり、少々残念なのだが、以前、東日本大震災の復興支援にかかわって立命館大学の在学生と「アンザイ先生」について話をしていたところ、どうもかみ合わない、と思う瞬間があった。よくよく紐解いてみると、どうやらその学生は漫画の「SLAM DUNK」の「安西(光義)先生」を想像していたようである。もっとも、既に立命館大学で教えておられない中では、やむをえないのかもしれない。それでも立命館との縁により、今日のように新たに関わりを重ねる学生や教職員が増えていくことに、ささやかな喜びを感じている。

お昼を安斎先生の事務所でいただいた後には、イオン茨木ショッピングセンターに向かい、茨木市と立命館大学とイオンリテール株式会社との三者による「災害に強いまちづくりに関する協定締結記念」の「みんなで考える災害に強いまちづくりワークショップ」の進行役を担わせていただいた。急ごしらえの企画であったが、3月末に組み立てたもので、「防災グッズ買い物コンテスト〜買って備える私の減災〜」と、「いのちを守る大喜利大会〜とんちで防災〜」の2つをさせていただいた。前者は10名が10が「3日間のサバイバル生活のために、店内で1000円分の買い物をしてきて、その中身を紹介していただく」というもの、後者は5名の方に並んでいただいて、「いのち」を頭にした「あいうえお作文」(いきいき のびのび ちから合わせて【ハヤシさん】/イオン の ちから【イワタさん】/いちご のおと ちいず【ムライ親子】/イオンの のばす ちいき力【ミシマさん】/いのいちばん のまずくわずで ちからつき【ハセガワさん】)、「川柳づくり」(防災は皆で守るきまりごと、防災は訓練だけで終わればいい、など)、「名言募集」(買い物ワークショップのあいだにレクチャーを行っていただいた豊田祐輔先生の選はミシマさんによる「防災とは1%のテストと99%の予習復習である」)、そして矢守克也先生らによる防災ゲーム「クロスロード」をモチーフにした旗揚げアンケートを会場を巻き込んで行った。安斎先生には遠く及ばない話術であるが、「あきらめたらそこで試合終了」ということで、なんとか2時間の枠を盛り立てさせていただき、どっぷり疲れての帰宅となった。

2014年4月17日木曜日

古株の役割

先生と呼ばれる仕事をさせていただいている。先生と呼ばれることは好きではないが、嫌いではない。とりわけ社会人学生が多い環境で教え始めた頃は「先に生まれていない」などと釈明しながら忌避してしまうこともあったが、「先を生きていかねば」と自らを奮い立たせるようになってきた。今の時代、ネットに接続されていれば、指一本でも膨大な情報にアクセスできる。情報群を系統的かつ体系的に知識として整理し、当意即妙にその知識をかみくだいて提示できる知恵が、「先を生きる」人には求められるだろう。

今日は終日應典院で執務をしていた。ちなみに立命館には兼業申請をした上で、お坊さんと大学教員の二重生活をさせていただいている。そもそもお坊さんというのは職業ではなく生き方の一つである。よって、宗教法人での僧籍登録がなされた職員と、学校法人での教育分野の職員(いわゆる教員)とを兼職させていただいている、という具合だ。

ちなみに應典院は今年度から新たに2名のスタッフが参画し、体制に変化がもたらされた。2006年から関わっている私は、既にそれなりの古株である。個々の事業よりも組織の全般を見渡す役割ということも相まって、今日はスタッフ会議のあいだに電話番をする、という役目をいただいた。なんだか『太陽にほえろ!』のボスの気分である。

古株となってきたことを象徴するのかもしれないが、夕方からはかかりつけ医のもとを訪ねた。應典院で働くようになって程なく、少し空いた時間に献血をしようと思ったところ、「献血よりも内科にいかな」と諭されてしまったのだが、それをアサヒビールの加藤種男さんがいらっしゃる席で笑い話として紹介したところ、普段は温厚な加藤さんから「直ぐに行け」と勧められて以来の通院である。あれから約9年が過ぎた。通院後、いよいよ若さにかまけていられない年になってきた、という話を劇団「満月動物園」の戒田竜治さんとの打ち合わせで話しつつ、應典院の近所にて餃子とお好み焼きとビールを嗜む夜となった。

2014年4月16日水曜日

わからないことは難しいこと?

今春の講義も2順目が終わった。1998年、文部科学省の中央教育審議会による「講義であれば1単位当たり最低でも15時間の確保が必要」(『学士課程教育の構築に向けて』、20ページ)」という答申により、15週にわたる講義をするように「きつく」指導されてきたためだ。1991年に大綱化された「大学設置基準」の厳格化である。しかし、2013年1月18日の中央教育審議会大学分科会第112回での審議を経て、既に2013年4月1日からは改正23条「各授業科目の授業は、十週又は十五週にわたる期間を単位として行うものとする。ただし、教育上必要があり、かつ、十分な教育効果をあげることができると認められる場合は、この限りでない。」が施行されているので、事実上の弾力化がなされているはずが、現場レベルでは積極的な議論がなされてはいない。

質の保障のために量を確保するのが適切かどうかは、時と場によるだろう。それは何も大学の教育や、大学での講義に限った話ではない。例えば集団での議論もまた、時間をかければよい話ができるとは限らない。もちろん、短ければ短いほどよい、という話でもない。

最近の学生の感想で気になる表現がある。それは感想を求めると「難しい」と答えるという傾向である。「難しい」という表現は、ある行為に対して何らかの基準があって比較の上で示される評価のことではなかろうか。しかし、学生たちが言う「難しい」には、「理解が及んでいない」状態であるにもかかわらず、婉曲な表現により自らの「及ばなさ」を認めなくて済むようにしているように思われる節がある。

今日の感想の中にも「難しいですね」というものがあった。そうした「わからなさ」は学びへの扉が開いた瞬間であるように思う。ちなみに立命館大学BKC(びわこ・くさつキャンパス)での講義の後、シャトルバスで衣笠キャンパスに移動し、金曜日のイオン茨木ショッピングセンターでのイベントの打ち合わせと、サービスラーニングセンターの学生コーディネーターのリーダー層との意見交換を少しだけ行ったのだが、ここでも「難しい」と答える傾向に触れることになった。改めて、浄土宗の21世紀劈頭宣言にある「愚者の自覚」、さらにはスティーブ・ジョブズが引用したことでよく知られている『Whole Earth Catalog』の最終言「Stay Hungry. Stay Foolish.」に奥深さを感じてやまない4月である。

2014年4月15日火曜日

効率性からの脱出口

昨年度と同じく、火曜日は立命館大学衣笠キャンパスでの講義日である。しかし、昨年度と違って大講義が2限に入っている。2010年から担当させていただいている定員400人の「地域参加学習入門」(2011年度までは衣笠キャンパスが「地域参加活動入門」、びわこ・くさつキャンパスが「近江草津論」)だ。この間、午後に設定されていた科目ゆえ、若干のとまどいを感じながら内容の組み立てと整理を行っている。

講義をどの時間に設定するかで、学生の履修への意欲は大きく変わる。実際、2010年度の「地域参加活動入門」は金曜日の5限に開講したところ、受講生は2ケタという結果であった。翌年からは火曜日の4限に開講してきたが、200名前後で推移してきた。ところが、今年は400人の定員を超え、抽選により受講者が決定された。学ぶ意欲のある学生が受講できないことを申し訳なく思う。

ちなみに火曜日は2限の「地域参加学習入門」の後、4限に「現代社会のフィールドワーク」、そして6限に「シチズンシップ・スタディーズII」と続く。5月になると、いわゆるPBL型(ProblemもしくはProject Based Learning:俗に問題解決型学習)の科目である「シチズンシップ・スタディーズI」(旧カリキュラムでは「地域活性化ボランティア」)と「全学インターンシップ」という科目の受講生どうしの週次ミーティング(立命館大学サービスラーニングセンターでは「コアタイム」と呼んでいる)が5限に入るため、さらに慌ただしい一日となる。ただ、受講生が400人規模、100人規模、そして20人規模と小さくなっていくのは講義する側にとってはありがたいことである。講義のリズムやテンポがとりやすいためだ。

自分の学生時代を振り返っても、時間割を組む際には、どこかで「効率性」を考えていた。「ここが空きコマにならなければ…」などと考えていたのだ。時を経て、立場が変わった今、そうして空きコマを埋めるため、「何となく受講した」学生たちの学びの扉を開くことができれば、と、我が身を振り返って思っている。ということで、今日の2限ではマイケル・ムーア監督のドキュメンタリー「The Choice」を見てペアワーク、4限では先週に問いかけた投票結果からグループ分けをしてキャンパス周辺をフィールドワーク、6限では「大学の何があかんのか」というテーマでフリップディスカッション(A4用紙を使って、テレビのクイズ番組などのようにキーワードを大きく記して語り合う)と、手を変え品を変え、「効率性」を受けとめつつ学びの効果を高める、ささやかな仕込みを続けている。

2014年4月7日月曜日

次の桜の頃には


かつて「泳ぐ頃には」と発表された日取りは一体いつを指しているのか、とやきもきしたことがあった。1993年の8月に米国でApple社が発売を開始したPDA「Newton」の日本語版の発売を巡ってである。冒頭の発言は、本国での発売から時間が経過した1994年の春、当時の日本法人のマーケティング担当の部長(本部長)であった原田永幸さんによるものだ。その後、1995年8月に4代目となるMessage Pad 120がエヌフォー株式会社によって開発された日本語フロントエンドプロセッサ(入出力の日本語化ソフト)を同梱して発売されたものの、原田さんはご自身の名を自虐的にか「泳幸」と名乗るようになったという。

転じて、「桜の花の咲く頃」という表現もある。すぐに想い起こすのは、渡辺美里さんの詞と歌による楽曲だ。1988年にリリースされた名盤『ribbon』の3曲目である。TMネットワーク(当時)の木根尚登さんの切ないメロディーにあわせて「覚えていてね 想いだしてね さくらの花の咲くころに…」のフレーズが、つい口に出てしまう。

今日は「来年の桜の花の咲く頃」には新しいキャンパスが出来上がっている茨木市に向かった。「大阪いばらきキャンパス」略してOICの開学を控え、今、立命館大学は茨木にて各種の取り組みを仕込んでいる。4月10日に発表されるとのことだが、4月18日にイオン茨木ショッピングセンターにて開催される防災イベントにて、私は少しお役を担うことになった。既に「広報いばらき」2014年4月号の24ページに掲載されている「茨木市・立命館大学・イオンリテール(株)との災害時応援協定締結記念調印式」の一環でのイベントである。

大学でも「地域参加」などと冠した講義を行っているため、どうしても大規模ショッピングセンターとは距離を置きたい性分である。しかし、今日、改めてお伺いすると、実に多くの人たちが訪れ、生活リズムの中に根差した施設なのだということを実感した。かつてのApple社によるNewtonはPersonal Digital Assistantという概念を各方面に対して鮮烈に残し、自社の製品ラインからは消滅させた。果たして、今回のOIC開学、さらには行政と企業と共に結ぶ災害時を見越した協定が何をもたらすのか、びわこ・くさつキャンパス(BKC)開学20年となった今、20年前の入学時とは隔世の感がある立命館の動きに対して、内部の人間として各種の思いを巡らせている。


2014年4月6日日曜日

懐かしい顔に会う

日付が変わるまで、「見つけにくいもの」を「捜した」昨日から一転、今日は懐かしい顔に会いに出かけることにした。場所は丹波ワインハウスである。京都市内から車で1時間ほどの旅路であった。途中、国道9号線の千代原口交差点の立体交差化、さらには京都縦貫道の整備など、随所にコンクリートによる地域の変化を感じた。

丹波ワインに訪れることが懐かしい顔と再会することになるのは、2006年から2011年まで同志社大学院総合政策科学研究科のソーシャル・イノベーション研究コース(現在は「ソーシャル・イノベーションコース」)に職を得ていた際に、食文化の観点から関わりを重ねていたためである。具体的には、産官学地域連携の窓口となる「リエゾンオフィス」を中核に同志社大学が設立したNPO「NPO法人同志社大学 産官学連携支援ネットワーク」によるプロジェクトの代表をさせていただいていたのだ。プロジェクトは京都府の地域力再生事業に採択され、「京丹波特産品のブランド化による地域活性化〜農畜産物生産者と若者による食文化ネットワークの構築」 と題して活動を重ねてきた。特に初年度の内容について、プロジェクトの中心を担っていただいた院生の方(西村和代さん)が「地域の活力を生み出す農畜産品ブランド化と食文化の発信へ―京丹波プロジェクト「1年目の挑戦」―」 にまとめてくださっている。

「金の切れ目が縁の切れ目」という物言いがあるが、私にとって京丹波は「所属の切れ目が縁の切れ目」になってしまった感があり、自責の念に駆られつつの訪問となった。今回も「同志社でお世話になった…」という枕詞を掲げて、多くの方にご挨拶をさせていただいた。行政による予算執行に対して批判を唱える研究者が多いことを思うと、大学による地域連携において所属の断絶が予測される人材を中軸に地域の方々を巻き込むことは、大学もまた社会システムの一要素として負の側面を安定的かつ再帰的に作動させてしまっているのだろう。そうした中、京丹波と私の縁は、所属の変化に関係なくつながってきた仲間が、「京都地域創造基金」による「若年性認知症サポートファンド」などの形で、一方的な「供給と消費」や「提案と応諾」という関係ではなく、多くの他者を巻き込んだ動きへと導いていってくれた。

今日はあいにくの雨と風により、桜が舞う中でワインハウスへ向かうことになった。ちょうど、クラシックカーフェスティバルが開催されていたので、人の再会を懐かしむだけでなく、「フロントマスク」などと擬人化される車にも懐かしみの感覚を寄せる日となったが、例のプロジェクトの後に体調を崩された方がおられたこと、あわせて当時に重ねた関係のいくつかは切れてしまっていることを知ることになった。ともあれ、挨拶を重ねた多くの方に憶えていただけていたのがうれしく、はずかしく、また5月の連休にお邪魔することに決めた。車でワイナリーに行くと飲めない、というモヤモヤが残るのだが、この3年ほどのモヤモヤに向き合った一日は、選挙に行った後に実家との電話でさらなるモヤモヤに包まれつつ、赤のフルボディを妻と共に一本飲み干してしまった。


2014年4月5日土曜日

家捜しならぬ室探し

先般「ヤサガシしますね」と伝えたところ、不思議な間合いが生まれてしまった。ふと「どこにあるのか探してみますね」と伝えなおすと、そこで始めて合点がいったらしい。そして「引っ越すのかと思いました」と、言葉が重ねられた。なるほど「家捜し」は「イエサガシ」とも読むことができる。

モノにまつわる物語に固執する傾向もあって、私の身の周りは多くのモノにあふれている。捨てられない上に、新しものにも惹かれてしまうという両面により、モノはどんどん増えていく。ただ、scansnapシリーズの登場と進化、また紙のデジタル化だけでなくカセットテープやVHSテープの内容を専用機材の低廉化、さらには稀少金属の再利用を目的とした小型家電の回収プログラムの定着化などにより、微減ではあるが、目に見えるものは減りつつある。それでも、そうして次のサイクルに持っていく直前には、大抵の場合、そのモノにまつわる思い出を想い起こし、いっこうに片付けが進まない、という逆流現象が生まれる。

井上陽水さんの「夢の中へ」ではないが、今日は「家捜し」ならぬ「室捜し」に集中した一日となった。というのも、大学から充てていただいている個人研究室が、ダンボールの山になって久しかったためである。それはこの数年を振り返っても、2007年の大阪への引っ越し(京町家からマンションへ)、2011年の研究室の引っ越し(同志社から立命館へ)、2013年のキャンパス間での研究室の引っ越し(びわこ・くさつキャンパスから衣笠キャンパスへ)と京都への引っ越し(マンションから2軒長屋の1棟へ)と、モノの移動が頻繁に重ねられてきたことによる。しかも、それぞれの場所から場所へと移動させていく際に、微妙に部屋の大きさが異なっており、結果として「空けずのままの移動」や「仮の梱包のまま幾年月」となってしまってきたのだ。

幸いにしてもっとも捜し出したいものは見つかったが、捜索の過程で、整理魂に火がついてしまった。私の立ち居振るまいを知っている人には信じてもらえないところもあるだろうが、整頓は苦手でも、整理は得意な方である。こうして二つの言葉を厳密に区別して論じている時点でややこしい輩と思われるだろう。ともかく、乗りかけた船ならぬ、開け始めた箱ということで、いわゆる断捨離を続ける中、実に懐かしい絵(1997年頃)と再会し、やはり思い出に浸りながら、遅々として進まない片付けモードとなってしまうのであった。


2014年4月4日金曜日

私学という枠

  最近、私学という枠について考える機会が増えた。例えば、今朝は初芝立命館高校の立命館コースを担当する先生方が、立命館大学サービスラーニングセンター衣笠にお越しになられた。来月担当させていただく講義の打ち合わせのためである。今年で3回目となるのだが、初年度は震災ボランティアについて、二年目は大学以外でも学ぶことについて、それぞれ触れたところであるが、今年は大学に行くということと大学生になるということとでは、微妙に意味合いが異なることについてお話することになりそうだ。

振り返ると、私は幼稚園大学が私学、小学校中学校高等学校は公立で過ごした。大学も第一志望第二志望は国立大学だった(社会人になってから学んだ大学院は国立…)。しかし、縁あって立命館に入学し、そして私大の学長らの懇談会をもとにした大学連合体で働き、その後、私立の幼稚園を経営する寺院に身を置かせていただき、2つの私学で働かせていただいている。そうしていくつかの環境に身を置いてきたゆえに、年々、自分が経営者向きではないことを実感させられてきた。

とはいえ、私学の経営者の方々と交わる機会が増える中で、多方面から寄せられる期待に触れるようになった。特に災害復興支援に関わっていることが大きい。しかし、土地やお金などの資源が用意できさえすれば、大学が組織として動くというものではない。キャンパスをつくることや拠点を置くといった展開は、頻繁な人の移動と熱心な活動が行われるだけではもたらされないのである。

なんだか奥歯にものがはさまったような言い方になってしまったが、どれだけ行動的な組織であっても、恒常的な行動を組織内に位置づけるには、多くの壁が立ちはだかる。そして、その壁は大きく、高く、長く、厚く、簡単には越えられない。ちなみに2002年までは、1964年に制定された「人口の増大をもたらす原因となる施設の新設及び増設を制限し、もつて既成都市区域への産業及び人口の過度の集中を防止することを目的とする」と第1条で示された『近畿圏の既成都市区域における工場等の制限に関する法律』のため、ある種の迷惑施設として大学は位置づけられていた。その頃に比べれば時代は変わったな、と、煉瓦づくりの建物の最上階のレストランで学生たちとランチ(学割・教職員割引有、です…)をした今日、いくつかの場面で感じるのであった。


2014年4月3日木曜日

季節は巡り、時代は回る。

大学で働いていると、半年と1年の周期で、季節の変化を感じずにはいられない。半年の周期での変化は1週間に1回の講義を15回重ねることを標準とした「セメスター」の始まりと終わりである。そして1年の周期での変化は学生たちの学年の変化だ。最近は1週間に2回の講義を重ねていく「クオーター」制を導入も始まりつつあるため、もう一つ、短い周期での変化を迎えるようになるのかもしれない。

今日は1年周期での変化のタイミングで、学生の学びと成長を実感する場に立ち会うことができた。端的に言えば、新入生向けのガイダンスである。この4月で2回生になった学生が、今年度の受講を検討する学生たちに、受講経験を語るという場だ。いみじくも、ほぼ1年前、彼女は同じ機会に「聞く側」にいた。

多くの体験を重ねた後、その体験が腑に落ちると経験談として語られる。逆に言うと、うまく語ることができないうちは、まだその体験が腑に落ちていないときである。このことをもって、私は体験(try)の経験(experience)への昇華(sublimation)と呼んでいる。人間の営みに対して、化学の世界の比喩を用いることに、若干の抵抗があるのだが、ここに純物質と不純物(例えば、理科の教科書ではパラジクロロベンゼンが昇華するグラフが紹介されていた)のアナロジー(類推)も重ねることができる。

日本災害復興学会とNHKとの協働により「復興曲線」という手法(これは宮本匠くんの研究に詳しい)を用いて、被災された方々の「復興感」に迫る実践的研究を展開してきている。そこでは、心境の変化が「底」や「踊り場」などといった観点から語られる。語弊のある言い方となってしまうかもしれないが、純粋な人ほど、感情の浮き沈みが顕著にあらわれると言えなくもない。今日、話題提供をしてくれた彼女は先週も語ってくれたのだが、語る度ごとに内省を重ね、詳述の度合いが深くなっていく姿に、学びと成長を見て取ることができ、学びの場を共にできた喜びに浸るのである。


2014年4月2日水曜日

行く道を来た道に聞く

「行く道は来た道に聞け。」この10年ほど、私と関わりのある方であれば、何度か、この表現を使っている場面に立ち合っていることだろう。これは、上町台地からまちを考える会でご一緒させていただいた、コリアNGOセンターの宋悟さん(現在はコリア国際学園の事務局長)に教えていただいたものである。単純に「振り返ろう」ではなく、「立ち止まろう」、「考えよう」、「認識を改めてみよう」といった教訓を見いだすことができる言葉だと、常々感じてきた。

今日は朝から應典院にて年度当初のミーティングが行われた。この席で、1994年の「應典院再建委員会」の活動本格化から現在に至るまでの組織や事業の変遷について整理した資料を用いることにした。1997年に再建された應典院も、その創建は1614年である。さすがに400年の「来た道」に聞くのではなく、再建計画の策定から20年を振り返りつつ、当面の「行く道」を検討することになった。

私の専門とするグループ・ダイナミックスの中でも、人間科学という視点に力点を置く流派では、未来志向の意思決定(decision making)は過去志向の意味創出(sense making)の双方が必要とされる。そうした思考を重ねる際には、一つのロープの両端に馬が繋がれているかのような状態にさらされることもある。いわゆるダブルバインドである。そうした状態においては、両側の壁が迫ってきて押しつぶされそうな感覚に陥るジレンマ状態と違って、身が引き裂かれるかのような思いに浸る。

図らずも、午前中に「行く道」のために「来た道」を見つめた今日は、夕方から宋さんにお目にかかる日になった。新しい学校づくりに取り組む宋さんから、リベラルアーツの中でもリーダーシップに視点を当てた講義群をつくりたいと相談をもちかけられたためだ。奇しくも今、私の所属は教養教育を推進する部署である。秋から冬にかけての講義群となるが、仲間たちと共にお引き受けをさせていただき、そこでもまた、来た道と行く道の両方を見つめていく機会としよう。

2014年4月1日火曜日

真実と物語のあいだ

今日はエイプリルフールである。言うまでもなく、年度の始まる一日だ。朝から應典院に向かい、新入職員の就任式に列席させていただき、私なりの歓迎と激励の思いをことばにして、お昼の食事の折に伝えさせていただいた。住職が就任式の式辞の折に、四摂法を説かれ、浄土宗の宗歌「月かげ」の意味にも触れておられたので、私は自らの経験から「師」を見つけることの大切さを話すことにした。

最近はエイプリルフールを「4月バカ」という直訳で語る人にはあまり出会わない気がするのだが、リアルタイムで「ドラえもん」の新作を読んでいた世代としては、この時期には単行本(てんとう虫コミックス)7巻の第1話で登場する「ウソ800」を思い出してならない。そもそも、この秘密道具「ウソ・エイトオーオー」が「嘘八百」にちなんだものであることは、随分後になって知った。同じ類のネーミングとしては「Yロウ」という蝋燭に着想を得た道具が挙げられる。ともあれ、この「ウソ800」を飲んだ(道具としては使った、と言うべきであろう…)のび太とドラえもんとのやりとり、またそこに至るまでの友人たちへの仕返しが痛快ながらも言いようのない寂寥を読者に与えるのだ。

奇しくもエイプリルフールの今日、理化学研究所が一連のSTAP細胞にまつわる論文についての調査結果を発表した。最早、どこまでが真実で、どこからがウソなのか、裏の裏に関心が向いてしまうような場の設定であったように思えてならない。去る2月6日、虚構新聞佐村河内守さんのインタビューと(仮構して)各種の報道に沿った記事をまとめたのは、なかなか機知に富むものであった。STAP細胞の問題に戻ると、阪神・淡い時代震災の後、『虚構の時代の果て』(増補版も刊行)を上梓された大澤真幸さんは、その後「ゴールが見えない」という意味で『不可能性の時代』を著しているが、自然科学の世界において、議論の「不可能性」が見えたようで、外野にいる私としては興味深い。

ちなみに今日、オフィスでの他愛のない会話の中で、血液型性格占いに触れられたときがあった。学生時代に安斎育郎先生の「自然科学概論」を受講し、草野直樹さんの『「血液型性格判断」の虚実』(新版は『血液型性格判断のウソ・ホント』)という本を知った私としては、「赤血球の型と性格を関連づけて考えること」と「赤血球の型と性格が関連づくと考えること」に対して、過敏とも指摘されても否定しないほど、敏感になっている。前者は社会科学の領域の議論である(いわゆる真実としての正解がない)のに対して、後者は自然科学の領域の議論(つまり複数の事実が併存し物語の多様性が担保されるもの)だ。オフィスの会話では笑って済まされることも、世界を相手に正解を導き出して新たな問いを生成し続けることが責務とされる自然科学者には許されないことがあることを、劇場寺院と掲げる應典院から、何か問いかけることができれば、などと、舞台芸術祭「space×drama」のオープニングパーティーから帰る道すがら思うのであった。