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2016年5月18日水曜日

知恵が結びあう広場に

 阪神・淡路大震災から10年の日、「智恵のひろば」という活動が発足した。「全国に散在している経験や教訓を集約し、今後災害に見舞われる可能性が高い地域の人々に使ってもらえるような形式に加工する」取り組みである。レスキューストックヤードの栗田暢之さんが準備室長を務め、2004年1月8日にはブログが運用されたが、2006年12月28日の投稿を最後に更新は止まっている。SNSを使えば、新たな展開ができそうだが、皆、多忙を極める。
 2006年、縁あってインドネシアのジョグジャカルタと京都とのコラボレーションによる産業復興に携わらせていただいている。「てこらぼ」と名付けられた取り組みである。元々は京都府国際課により、友好府州の関係にあったことから始まったプロジェクトだ。2009年にはNPO法人化され、2016年には一般社団法人へと体制を変えた。
 2016年5月18日から24日まで「てこらぼ」による企画「島々の染と織」が阪急うめだ本店で開催される。昨日の閉店後に準備がなされ、朝から皆さんをお迎えしている。私も朝の英語のレッスンからの流れで、昼にお邪魔した。ちなみに英語での話題は、トランプ候補への友人関係と知人関係の違いの記事だった。
 夕方からは立命館大学びわこ・くさつキャンパスで講義だった。1994年、私は真新しいこのキャンパスの一期生として入学した。時を経て、今や教える立場である。経験と教訓から得た智恵を、後輩たちに語り継いでいこう。

2016年5月17日火曜日

拍手を通じて承認する

 今年、私の講義では拍手の練習をすることにした。火曜日2限の地域参加学習入門において、である。この講義には話題提供者やゲストスピーカーが複数訪れ、時には受講生にマイクが向けられることもある。そうした発言の機会の後で、響きのよい拍手をして欲しい、との願いからだ。
 今日の授業でも、京都駅前の学生Place+から、一連の活動について話題提供をいただいた。主にはコーディネーターの興津慶さんが語り、昨年のプログラムの参加者として2回生の岡嶋輝くんにインタビューする形を取った。こうした機会に大きな拍手が寄せられたとき、語り手は「ああ、これでよかったんだ」と安心する。役目を果たした実感がこみ上げてくるためだ。
 よって、私が誰かに何かをお願いしたとき、誰かが何かの役目を果たしたときには、多くの拍手を送るようにしている。ちなみに多く、というのは回数だけを指さない。むしろ、音の響きが重要なのである。叩き方が肝なのだ。
 一方で、こうした拍手による他者への承認と真逆な位置にあるのが通信回線を使った顔の見えない相手とのやりとりとなろう。実際、今日は岡山におられる方とSkypeで、しかも互いにカメラなしの環境で、1時間ほどやりとりを重ねたのだが、間合いのつかみ方に困る場面が共に何度かあったように思う。無論、会わずして意見交換をする手段は、効率的かつ効率的となる場合が多い。ただ、顔見知りのあいだでは、少しのもどかしさを伴う気がする。

2016年5月16日月曜日

身近で弱さの情報公開を


 手帳を持たなくなって久しい。振り返ると2001年度に無印良品のレンガ色のリング手帳が最後のようだ。2002年度からはPalmというPDAを使い始め、職場のサイボウズやiSyncを通じて予定の共有や公開をするようにした。「山口は何をしているのか」と疑念に応える姿勢は、今はFacebookの位置情報によりアリバイの証明をしている。
 よって、携帯端末などに表示される通知により、予定は確認することになる。今日は朝から立命館の朱雀キャンパスで会議、その後は衣笠キャンパスで会議、夕方からは同志社の講義、夜は立命館サービスラーニングセンターの歓迎会と続いた。生憎の雨、移動には参った。ちなみに昼には鍼灸院で凝りをほぐした。
 「急いで出られますか?」今日、ふと、そう呼び止められた。なんとも言えない雰囲気を感じ、あまり他の人たちの声と混ざらないところで、呼びかけてくれた仲間と言葉を交わした。その場では、個人で抱えてきたことが言葉にされ、傾聴と言う程ではないが、耳を傾けることにした。
 2014年6月16日、應典院のプロジェクトの一環で、北海道浦河町の「べてるの家」にお邪魔した。当事者研究などの実践で知られるが、改めて「弱さの情報公開」と語られてきた現場を見学し、わかりあえないことから始めるコミュニケーションの作法とその意味をを学んた。夜の同志社でも、歓迎会でも、昼の対話で他者にやさしくなれた気がする。強がる弱さこそ、よい関係づくりに禁物なのだ。


2016年5月15日日曜日

アイデアとビジョンを結ぶ

 新潟からの夜行バスで、朝に京都に戻った。3列シートで比較的快適なはずが、やはり身体に堪える。きっと昨日の田植えによる筋肉痛は明日に出るだろう。若くはない。
 文字通り、ひとっ風呂あびて、立命館の朱雀キャンパスに向かった。朝からサービスラーニングセンター科目「全学インターンシップ」のプレセミナーのためだ。衣笠と草津と茨木の3キャンパス合同運営ゆえ、アクセスのよい場所で事前学習等を、との趣向である。今年度に着任の教員らのと相談で、昨年度とは役割分担を変えての展開とした。尚、シラバスは同じだ。
 料理に喩えるなら、レシピが同じでも、最終的な味わいは異なる。微妙な味付けが違う、盛る皿が違う、シェフが違う、味わう人の期待や関心や経験が違う、何より場の雰囲気が違う、これらの結果、受け止め方が変わってくるためだ。転じて、教育もまた同じ構図にあるのではと捉えている。今日の講義では「後出し負けジャンケン」や「相手を褒め続ける」等のワークを通じ、慣れ親しんだ規範には強い影響を受けること、また他者への承認と他者からの承認がよい関係づくりの手がかりになると、学びを促した。
 講義の後、近くの喫茶店で学生の相談に乗った。立命館大学では学生どうしの学びのコミュニティを重視し、集団的な活動への助成金制度がある。今日は昨年度、推薦した活動への継続支援が求められた。が、個人のアイデア先行で集団のビジョンが不明瞭だと、珍しく断ることにした。

2016年5月14日土曜日

のぞみの芒種を前に

 言葉はデスクでもフィールドでも得られる。中でも、現場での活動を通じて得た言葉は、発した人と受けとめた人の双方に響いた言葉である。新潟・小千谷の塩谷集落で得た言葉の一つが芒種である。芒種とは「種をまく」ことを意味する。太陰太陽暦による二十四節気の一つでもある。
 今日は「芒種庵を創る会」と福島県楢葉町の方々との交流会が行われた。芒種庵は新潟県中越地震により全壊判定を受けた築100年を越える古民家である。当初は集落として残す企図も、既に集落開発センターという拠点があるゆえ、住民以外も含めた有志の手による修復と保存と活用となった。そのため、当初の会の名前は「作る会」だったものの、修復・保存の手はずが整った今、活用への創造的な活動の担い手となるべく、「創る会」を名乗っている。
 塩谷集落と楢葉町との交流は、2015年5月に始まっている。当時、一般社団法人ならはみらいの任期付職員に就いた西崎芽衣さんが、立命館大学産業社会学部1回生の時から学びと交流を続ける塩谷とを結ぶことを考えたのだ。楢葉町は未だ、避難指示解除を待つ時期だった。今後、町に帰るか、あせらずに考えるか、新たな場所での暮らしを始めるか、そうした選択の上で先例を塩谷に求めたのだ。
 1回目は塩谷から高久第8仮設住宅で山菜などで交流した。2回目は昨年11月1日に楢葉が塩谷へと足を運んだ。3回目は田植えとなった。次は塩谷で盆踊りか稲刈りか、楢葉で何かか、思いは巡る。

2016年5月13日金曜日

「でん」してかえる

 地元の静岡よりも関西で暮らす期間の方が長くなった。そのほとんどが京都暮らしだが、大阪にも暮らしていた。大阪大学でも学びを得た。そして多くの言葉を得てきた。
 英語で言えばtouch and goといった意味の「でんして帰る」も、河内のご出身である渥美公秀先生との会話で得た表現である。今日は熊本からでんして、京都にでんして新潟へと向かった。12日の16時半過ぎに西原村を出て19時50分に新門司港から名門大洋フェリーで南港へ向かい、13日の朝8時30分に到着して、10時前に京都駅付近に到着、車を返却した。
 今回、フェリーで移動したことで、ボランティアの新しい形を見い出せた。ミーティングルームで研修、風呂に入る、横になって寝る、こうしたことは、バスの移動では難しい。なお、今回は住宅再建のための片付けよりも、作付けの時期を逃して生活再建の手立てを失わないように、農業復興に取り組んだ。「2人なら1週間はかかったところをありがたい」と7名の学生と教職員2名の活動を喜んで頂いた上で疲れを癒した。
 とはいえ、京都に到着後は慌ただしく、着替えの調達、車の返却、大阪へ印刷物の受け取り、立命館の朱雀キャンパスでの会議出席、印刷物のお届け、そして伊丹空港から新潟・小千谷へ向かった。熊本の後は塩谷集落で田植え交流会だ。今回は福島・楢葉の皆さんを迎える。レンタカー返却時、昨年度の小集団科目の受講生が窓口担当で、偶然の再会に力を得て向かった。



2016年5月12日木曜日

農ある暮らしの再建のため

 0泊3日の日程で、熊本県西原村での支援活動にやってきた。立命館災害復興支援室による、立命館大学生を対象とした平成28年熊本地震に対する災害救援ボランティアのパイロットプログラムの引率のためである。今回、4月15日と19日、それぞれに発した文書を評価いただき、名門大洋フェリーさんの協力を得た。それゆえ実現した支援プログラムの実施であった。
 19時50分に南港を出た船内で事前学習を行った。7名の学生は8時30分には新門司港に到着、新門司インターから九州自動車道をひた走り、益城熊本空港インターには11時30分ごろに到着、正午ごろにヒライ西原店のイートインスペースで昼食を取った。そして12時50分ごろに西原村農業復興ボランティアセンター河井昌猛さんと合流し、活動内容の説明を受けた。車で5分ほどのところまで移動し、13時15分ごろから唐芋の植え付けを始めた。
 今回の活動は、大阪大学の渥美研究室の後輩、宮本匠くん(兵庫県立大学准教授)からの4月26日の電話がきっかけとなった。「全然人が足りてないんです。」熊本〜大分から前日に戻ったばかりだったので「また行くね」と約束した。そして5日に訪ねた
 宮本くんは被災地NGO恊慟センターを通じて16日に西原村に入り、5月10日まで滞在した。4月26日と5月5日では状況も変わったが、その中で農業復興が課題に上ってきたという。その思いは河井さんと共鳴していた。二人がいて、今回の活動がある。

2016年5月11日水曜日

まちを弾丸のように飛び回る

 不健康や不摂生と見立てられる私にとって、かかりつけ医があるのはありがたい。ただ、実家を離れて以来、通算では京都暮らしが最も長いものの、お世話になっている病院は大阪ばかりである。内科も、歯医者も、だ。先般、荷物の整理中、「逸見政孝物語」と書かれたVHSテープが見つかり、少し再生してみたのだが、もし大阪出身の逸見さんが大阪の先生からセカンドオピニオンを早めに得ていたら、結果が違っていたのではないか、などと思う。
 思えば英語のクラスも大阪である。ただ、先生は京都にお住まいという。受講生ので京都から通っておられる方も少なくない。今日のテーマはジョージタウン大学が過去の奴隷制度に基づく人身売買に関わったことを受け、建物名称の変更や卒業生らによる支援プロジェクトが始まったという記事だったが、先生の博識と碩学に、関西一円から集う受講生は皆、圧倒された。
 英語のクラスの後は京都に戻った。途中、ニコンの大阪サービスセンターで修理が上がったカメラを受け取った。そして、トヨタレンタカーの京都駅前店でハイエースを借り受けた。その車で立命館の講義で草津へと向かった。
 昨日の衣笠の講義に続き、びわこ・くさつキャンパスでもサービスラーニング科目の事前学習を行った。そして、終わるやいなや、借り受けた車で南港へとひた走った。名門大洋フェリーさんの協力により、新門司の往復運賃に優待を得て、支援活動に取り組むためだ。弾丸の旅である。

2016年5月10日火曜日

天気が講義を左右する

天気のことを気にする大規模講義は珍しいだろう。私が担当する立命館大学サービスラーニングセンター科目「地域参加学習入門」は、毎回、何らかのグループワークを授業に織り込んでいる。通常、大規模講義は「聞いているだけ」の形式になるが、教員対学生の構図とならぬよう、学生らが語り合う機会を設けている。語り合うだけではなく共に動く場合も、時折ある。
 4月の開講から数えて5講目となる今回は、スマートフォンなどを携えて、大学周辺をフィールドワークするというお題を出した。しかしながら、あいにくの雨模様のため、来週の授業開始までの課題とした。元ネタは新潟「大地の芸術祭」のプレ事業「越後妻有8万人のステキ発見事業」である。日常生活で触れている風景から身近な魅力を再発見するのが狙いだ。
 加えて今日は6限の「シチズンシップ・スタディーズII」で、学生による自主企画の当日で、余計に天候には気を揉んだ。この授業ではプロジェクトの立案と実施と評価をセメスター内にやりきることで、チームワークでのリーダーシップを磨く狙いだ。毎年、開講から3回ほどで、まず何らかの企画実施を促す。今期は受講生は少ないが、「国際交友入門」なる留学生との語り合い企画となった。
 雨は人の足を鈍くする。それでも13名の学生が18時から集い、語った。雨でも来た参加者と企画者の壁は低く、あたたかい場だった。今回の手応えが次の挑戦への手がかりとなることを願っている。

2016年5月9日月曜日

事起こしは仲間づくりから

 気に掛けていただくことは存外の喜びである。大学の講義でも『ドラえもん』の「どくさいスイッチ」を取り上げて、まわりから気に掛けられることの意味と、まわりを気に掛ける意義を説いている。そう、自立と孤立は違うのである。過度な自立の促しは、結果として孤立を助長する。
 今期は毎週月曜日の夜、同志社大学大学院総合政策科学研究科での「臨床まちづくり学」に、都合が合う限り、寺谷篤志さんにお越しいただいている。全くのご厚意によっている。2006年度から担当させていただいている科目だが、今期からテキストを『地方創生から地域経営へ』に変更したことが背景にある。寺谷さんはこの本の著者のお一人なのだ。
 今日は講義開始前、近くの喫茶店にて、少しゆったりとお話をさせていただく機会を得た。寺谷さんは鳥取県智頭町での「日本ゼロ分のイチ村おこし運動」の仕掛け人の一人である。杉万俊夫先生も指摘されているが、「たった一人」ではなかったことが、重要なのだ。寺谷さんご自身も前掲書にて「2のn乗」とモデル化して論じておられる。
 寺谷さんが私に時間を割いてくださったのは、この「n乗」していく仲間を身近な環境でつくるよう気に掛けていただいたのだ。言うまでもなく、活動の現場には仲間がいる。転じて、職場ではどうかと案じてくださった。他者との信頼関係は信じて頼ることから始まる。若さが評価されてきた昔とは異なる今、私からの事起こしを始めよう。

2016年5月8日日曜日

量を減らし片を付けねば

 行きつけの店があることは小粋な大人の振るまいだ、と思うようになって久しい。とはいえ、今は新しい店を開拓することに、ささやかながら億劫になってしまっている気がする。気心知れた大将とのやりとりといった、映画の一場面に対する憧れよりも、期待を込めてお邪魔した店で気に障る何かに触れることを避けたいと考えてしまう。年をとってきた証拠だろうか。
 母の日ながら、夫婦とも実母と別に暮らしていることもあり、特に変わらぬ一日を過ごした。せめて近くで暮らしていれば、食事などを一緒にしよう、という運びになったのかもしれない。二人暮らしの我々は、行きつけの店で昼食を取ることにした。まるで大仰な物言いだが、行きつけのラーメン屋さんにて、だ。
 昼食のためだけに外出するのも何なので、貯まった新聞や雑がみをリサイクルステーションに持っていくこととした。以前は無人だったが、係員の方が構えていた。そのためかわからないが、雑然と捨てられていたものが、整然と並べられている気がした。「適当でいいや」ではなく、「きちんとせねば」という力が働くのだろう。言わば、割れ窓理論の逆適用である。
 整理と整頓は違う。常々、自分の片付けは整頓であって整理ではない、そんな自覚もある。何より、並べ替えや移動をするだけでは、文字通り片を付けることにならない。そんな申し訳なさから、今日の一日、紙と物の減量化に努めたのだが、体重の減量化にも勤しむ好機のはずである。


2016年5月7日土曜日

学びに貪欲になるように

 土曜日なのに火曜日としての振る舞いが求められた。この感覚は何に似ているのだろう。テレビで言えば特別番組の編成、そういう感覚だろうか。無理もない、大型連休の土曜日、連休が確保され、かつ、大学での2単位科目における1科目15回授業の徹底のため、立命館大学では5月7日が、前期セメスターの4回目の火曜日とされた。
 不思議なことに、いや、当然のことながら、こうした変則開講日は、職員の出勤体制が手薄となる。授業運営上、最低限の人員での事務体制が整えられる。そのため、学部の事務室等は開室しているものの、サービスラーニングセンターなど全学対応窓口は閉室という扱いなのだ。そのため、授業準備で訪れるオフィスは静寂に包まれていた。
 変則日程ということもあって、授業に出席する学生も、通常よりは少ない。せっかく出席した学生たちが、より授業に参加できるようにと、2限の「地域参加学習入門」ではカードの絵合わせでペアワークをした。米国ジョージア州のメイコンで行われた地域通貨の社会実験からの着想だ。そして、1999年に滋賀県草津市で始めた地域通貨おうみの事例に引きつけた。
 出席と参加も違うが、参加と参画は異なる。理工学部の経験計画研究室に在籍した約20年前、シェリー・アーンスタインの「住民参加のはしご」を説明され、合点がいった。決して真面目な学生ではなかったが、学ぶことには貪欲だった。母校で働く今、後輩らの成長を切に願う。

2016年5月6日金曜日

共創への知

 二項対立の図式に置かないようにと人に言いながら、対になる概念から事の本質に迫る癖がある。例えば、内橋克人『共生の大地』にもあるように、競争と共生、などだ。こうした思考の癖は、渥美公秀先生に指導を受ける中で、確かとなった気がする。まさに、脱構築そのものである。
 いくつかの組織に身を置いているが、リーダーの振る舞いに戸惑う場面が増えてきた気がする。年齢的に、いわゆる中間管理職というか、リーダーとフォロワーの板挟みになることが増えてきたからかもしれない。特に、統制型・コントロール型の方と出会うと、悪い意味で身構えてしまう。逆に、調和型・コーディネート型の言動に心地よさを覚える傾向があるようだ。
 今晩は代表理事を仰せつかっている「てこらぼ」の例会だった。この会は同志社大学に在職していた折、京都府国際課からリエゾンオフィスを通じてジャワ島中部地震に対する効果的な支援を考えるプロジェクトが提案され、副委員長を務めたことが端緒である。発足から3年が経ち、自治体事業終了の審議の折、委員長の細尾真生さんが「別組織で継続」と提起され、現在に至る。ちなみに昨年度、NPO法人から一般社団法人へと体制が変更された。
 「てこらぼ」は京都とインドネシアの染織の協演を目指している。そのため、完全なる異業種ではなく、同業異種混交の事業体だ。そこで、調和とコーディネートに努めている。強制でなく共創への知のための役目である。

2016年5月5日木曜日

連歌のように言葉が続く

 昨晩の宿も博多だった。2011年8月に大船渡に立命館大学スポーツ健康科学部の田畑泉・学部長らと大船渡に伺った際の宿が一関にだったの思い出す。今回もご一緒している深尾昌峰さんのゼミ生らと、龍谷大学と立命館大学の合同によるボランティアバスで山田町で活動した際、花巻まで3時間の往復をすることに「コスパ悪い」等の感想が残されたことも思い出す。初動期はそういうものだ。
 博多からは南阿蘇へと向かった。立命館大学サービスラーニングセンターで同僚だった小林政夫さんが駆けつけた南阿蘇ケアサービスにお邪魔した。株式会社による着実な地域福祉の展開が、非常時には営利法人という組織形態が外部の支援の壁になることもある、改めての学びを得た。何より、周辺地域とを結ぶ主要ルートである橋とトンネルが絶たれた南阿蘇は、3年ほど工事が続くとされる。
 午後は西原村にお邪魔した。熊本から南阿蘇へ抜けた広域農道のグリーンロードを再び戻り、昼食は「ヒライ」でお弁当を求めた。そして、被災地NGO恊働センターを通じ一早く現地入りした宮本匠くんを訪ねた。大阪大学の渥美公秀研究室の後輩だが、見識と実直さに敬服する。
 西原村では災害ボランティアセンターの運営に携わる河井昌猛さんと出会いを得た。話が弾み、連歌のように言葉が続く感覚を得た。また来週お邪魔する。明日は雨でお休みらしく、差し入れた焼酎純米酒赤酒を楽しんで頂けたか、思いを馳せている。

2016年5月4日水曜日

「ジェロニモ現象」を想定して

 10日ぶりの熊本である。前回お邪魔した際、再訪を約束した方々と再会した。私たちは、救援から復興への移行を見据え、支援者支援の構えで行っている。長く続く復興のプロセスをよりよいものにするための仕組みと仕掛けを考えて見せ方を工夫する、その仕込みに伺っているのだ。
 前回は九州新幹線、今回は熊本空港を利用した。ふと、東日本大震災の後の仙台空港を思い出す。2011年4月30日、再開から2週間余り、回転台が使用不可のため、預け荷物が手渡しで戻されていたのだ。不便さを詫びる係員の皆さんだったが、手渡しのあたたかさに感謝を重ねた。
 今回も前回も、熊本で小・中・高と過ごした深尾昌峰さんの一行なので、思い出の店で昼食をいただいた。その後の、各々の10日前の約束を確かめ合った。熊本市北区から益城に足を伸ばした後、県庁の会議室で、NPO連携の現状について、お話を伺う機会を得た。そして夜は毎晩19時から開催の「火の国会議」を陪席した。
 「火の国会議」は内閣府と救援団体のネットワークと地元NPOの連絡調整の場である。外部者、特に専門家の関わりにあたり、過剰な期待や力量の注入が当事者に受け入れられない構図を、漫画『キン肉マン』に着想を得て、私は「ジェロニモ現象」と呼んでいる。超人は超人であることを前提とする。漫画の中では超人パワーは人間には入らない場面が描かれるが、人間どうし、言葉にできない気持ちも大切にしていきたい。

2016年5月3日火曜日

物好きな者の舵取り

 都市生活者だが、自家用車を持っている。公共交通が充実している中での所有を思えば、贅沢や無駄と言われるだろう。若者の車離れのことを思えば、なおのことである。加えて、初年度登録から13年が経過した自動車には増税という、買い換え需要を喚起させる政策の真っ直中で、車齢28歳の車に乗っている。
 車好きは輸送機器メーカーに勤めていた父の影響もあろう。そこに多趣味な母の影響も重なり、物事や出来事に対して、スペックだけではなくストーリーに関心が向く。その結果、今乗っている車は4ドアハードトップのマニュアル車だ。爆発的に売れた車種のはずだが、エコカー減税などの甲斐あって、最早、絶滅危惧種だと確信している。
 今日、烏丸今出川の交差点で、横断歩道からの視線を感じた。車好きと思われる方が、携帯電話で私の車を撮影しようとしていたのだ。ちなみに以前、東寺の交差点で信号待ちをしていると、オートバイに乗った方が、助手席側から声を掛けてこられた。短い時間の出会いと関わりながら、えもいわれぬ雰囲気が生まれ、なんとも物好きとはよく言ったものである。
 少し時間があいたので、まちなかから遠回りして帰宅することにした。ノーマルな装備へのこだわりゆえ、私の車にはカーナビがない。道路標識と勘を頼りに舵取りを重ねて、まだ見ぬ風景を楽しむことができた。憲法記念日の今日、健康で文化的な暮らしを送ることができていることに感謝する一日となった。

2016年5月2日月曜日

動きながら養う

 5月2日、カレンダー上は平日である。しかし、世の中は大型連休に入った、とされている。そして、それは既に先週、4月29日「昭和の日」から始まったもようである。事実、あの日、伊丹空港から花巻空港まで向かった際、朝6時台の移動にもかかわらず、道路は渋滞していた。
 29日からを連休とするなら、そろそろ中日である。最近、特に私立大学では15回授業の厳格化が定着し、今日もまた、立命館大学では授業日となっている。加えて、7日の土曜日は火曜日の授業日という変則開講だ。ちなみに同志社大学は休日である。
 そうした中、夕方に朱雀キャンパスに向かい、立命館災害復興支援室への協力を申し出ていただいた方との打合せだった。熊本地震に対する組織的な動きを評価いただいて、30日の夜にメールをいただいたのだ。連休の谷間なものの、通常授業日ということもあって、間を空くことなくお目にかかった、という具合である。こうしたお申し出と、34万人の卒業生がうまく重ねれば、などと思いが膨らむ打合せとなった。
 夜は混み合う連休の京都に福島県楢葉町から遊びに来られた方を、楢葉で活動する学生たちが迎え入れることとなり、その宴席にお邪魔した。「アイリッシュパブでビールをご一緒しましょう」という積年の約束を叶えることもできた。こどもたちの絵が並ぶ近所のスーパーで気が和らいだ昼、夜は学生らの話を楽しんだ。動いてばかりの休日だが、休養の場を重ねている。

2016年5月1日日曜日

フォーマットを定めて続けること

 5月になった。そもそもブログは、大学コンソーシアム京都に在職時に内藤裕紀くんらと出会い、後に彼らが開発した「マイプロフィール」が面白そう、と始めた。卒業研究の際、指導教員の「右手にインターネット、左手にワークショップ」の方針もあり、自分のホームページを作っていたが、更新が大変だった。一方で後に「ドリコムブログ」となるシステム(さらにその後、ライブドアに事業譲渡)の手軽さに圧巻だった。
 この1ヶ月、ブログが続いている。iPhone以前はmixiに、その後はTwitterが主となった。今は、複数のサービスを効果的に使えている気がする。仕事と暮らしの両面で道具としての使いこなしに、身体が慣れてきたと、言える気がしている。。
 昨晩、盛青年商工会の皆さんと懇談した。立命館大学生も4年にわたりお世話になっている「灯ろう七夕まつり」の打合せであった。「俺の意見は変わらないよ、後は会長の判断だ」など、いわゆるガチンコの議論の場に身を置いた。そこではFacebookでつながりあい、縁を深めた。
 この1ヶ月のブログは、應典院寺町倶楽部の会報「サリュ」の56号から102号まで担当した「アトセツ」の形を借りている。写真は1ヶ月間、同じカメラで縦横を統一して撮るという、昨年続けた習慣を踏襲している。今日の写真は朝見た大船渡の防潮堤の写真だ。時は流れ、技術は進化するが、果たしてそれが幸せを導くか、堤の上の鳥の佇まいから思いを馳せた。