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2018年2月15日木曜日

英語でのレクチャー

ウェズリアン大学の東アジア研究センターにて、英語のレクチャーをさせていただいた。昨年10月、デンマークでお目にかかったKeiji Shinohara先生のご縁でお招きをいただいたのである。テーマは災害復興について、とされた。特に福島の問題は米国でも関心が高いから、ということでお招きをいただいた。


レクチャーに先だって、日本からウェズリアン大学に進学した4名の学生たちとランチをご一緒した。矢継ぎ早に質問をいただく。例えば、なぜ災害をテーマにしているのか、NPOではなく大学人が関わるからこそもたらされる効果は何か、修学旅行生などによるダークツーリズムに関する研究はあるか、などである。午後一番に授業がある学生が3人いたため、もう1人とは少し長い話をした。

箕面からコネティカットにやってきた学生は、私が土木から社会心理学に専門を変えたことに関心を向けてくれた。人間の行為は時間が経過してから意味づけがなされ、その時点で未来に向けての意思決定を左右していくことについて、自らが留学を選択した際の判断に引きつけて理解を重ねようだった。それぞれ、私に人生の価値に関する問いを重ねていたことから拝察するに、自らの生き方に誠実に向き合っているように思われた。その中で、「1つだけ願いが叶うとしたら」といった質問に「死ぬためには準備をしたいので、10秒前でもいいから自分が死ぬ時期を知りたい」と思わず答えたのは、教養の高い学生からの問いに触発されたのか、あるいは若い学生たちと距離を取りたいと考えたのか、後になってモヤモヤしてしまった。

肝心のレクチャーは、自己採点をするなら、あまり高いものにできなかった。45分を目処にということで読み上げ原稿としても使うことができるスクリプトを用意し、それをタブレット端末を手にして語りかけたものの、ライブのレクチャーながらに、用意した文字に対するアドリブを含めた語りの内容が、また語りの内容とスライドの送りが、リズムやテンポの両面で崩れてしまったのである。一方で、終わった後の懇親会では興味深い問いと議論が続いた。安易な共感が禁物となること、小さな親切が押しつけとなって余計に一人ひとりの人生が尊重されなくなる可能性があること、一票の権利を行使することの意味への理解をどう促すか、なぜシリアスな情報伝達にもゆるキャラが使われるのか、教育の一環で被災地で活動することの意義など、また改めて深めていきたい。



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