ブログ内検索

2017年12月31日日曜日

デンマークでの年越し

今年の年越しはデンマークで迎えた。恐らく、一生に一度しかないのではなかろうか。それゆえ、この日をどう過ごすか思案した。そして、朝から雨模様の天気が、いくつかの選択肢を狭めた。

結局、夜まで自宅で過ごすことにした。日本と変わらず二足制で過ごし、普段から小ぎれいにしていることもあって、大掃除と言う程の掃除は必要がない。それでも、妻が率先して掃除にあたってくれたため、私の貢献は、掃除の邪魔をしないということにあった。そして、ささやかながら、棚などの整理にあたった。

18時になると、毎年恒例というマルグレーテ2世女王陛下の新年に向けての演説をインターネットにて視聴した。年が明ける前に演説される点が興味深い。日本では念頭に挨拶がなされ、年頭所感などが述べられる。1月2日から普通に仕事が始まることも、その違いを鮮明にしているであろう。

そして、デンマークでも調達できるお蕎麦をいただき、デンマーク恒例の花火の嵐を見に出かけることにした。23時38分のバスで街中に向かうも、まちに向かいたい人の多さと、1時間に1本ペースの運行スケジュールも重なって、満員の上に遅延が発生した。港のあたりに着いたのが23時58分で、ギリギリ、年明けのタイミングに間に合い、圧倒的な光と音に包まれることになった。デンマークの16時には日本から新年を祝う投稿がSNSに投稿されていたのが不思議な感じだった。



2017年12月30日土曜日

文化のブリッジ

今日は寒い一日だった。朝、起きて外を見ると、テラスの表面にうっすらと雪が残っていた。そして、スマートフォンで天気のアプリを立ち上げると、気温は2度であるのに対し、体感気温はマイナス3度とあった。もちろん、摂氏での温度である。

デンマークに来てから、天気のアプリをよく立ち上げるようになった。デンマークの天気で最も多いものは「晴れのち曇り時々雨」というものではなかろうか。極端に言えば、毎日その予報でもいいと感じるときさえある。実際、8月1日に購入したレインコートのタグにも、「2012年からデンマークの天気に戦いを挑んでいる」と書かれているように、本当に天気が移ろいやすいのだ。


昨日、スーパーに買い物に行ったものの、生鮮食料品は反対方向にある生協の方が質がよいため、雨の降らなさそうなタイミングを見計らって、買い物に出かけた。生協までは歩いて10分少々の距離である。ただ、雨に降られると、なかなか辛い。スタジアムの自転車置き場が唯一の雨の場所で、これまで数回、雨をよけられないタイミングで突然の土砂降りに見舞われたことがある。

生協に着くと、入り口に「新年の飾り帽」がセール品として並んでいた。昨日のスーパーでも新年の衣装がいくつか並んでいたことを思い出した。そして偶然なのか、飾り帽の中には来年の干支である「戌」をモチーフにしたものもあった。なんだか、東洋と西洋の文化に橋が架けられたようで、なぜか気持ちが浮き立った。


2017年12月29日金曜日

セルフの文化

いよいよ年末である。それぞれに、新しい年を迎える支度が進められているようである。デンマークでは年末に花火をする習慣があるようで、自宅の周りでも夕刻になると花火を上げる人たちが徐々に増えてきた。このままだと、大晦日にはどんな賑わいとなるのだろうか。

今日は朝から何かをこする音が家の中に響いていた。何の音か気になっていたものの、昼に外出をした際に、ご近所さんの家の前の様子を見て納得した。どうやら、家の改修を始めたと思われる。足がお悪いのか、以前にも自作と思われるスロープがつけられた家で、今回は室内に何か棚か何かを作るために、木材を加工しておられた。


昼からは、いつものスーパーへの外出だった。スーパーへは心理学科が入る基本棟の近くを通る。さすがに今日は学生の出入りもないように思われた。講義室の多くにもカーテンが閉められ、静かに新しい年を迎えつつある。

スーパーに入ると、少し前にはクリスマスの飾り物などが目に飛び込んできたものの、お菓子や衣装など、今日は新年に向けた品々にその姿を変えていた。それを横目に、まずビール瓶とアルミ缶とペットボトル(デンマークではかなりデポジットが行き届いていて、スーパーが回収拠点になっている)を割引クーポンに替え、早速セルフレジで使った。家のDIYも含め、自分でできることは自分でする、という思想が浸透していることが、ささやかにうらやましい。自宅への帰り道、年明けにはグループで取り組んだプロジェクトの試験(メンバー合同による口答試問)があるため、きっと、新年2日くらいからは学生たちがまた集うのだろう、と想像しつつ、日本に帰ってからは逆にカルチャーショックを受けるかもしれない、などと思いを巡らせている。



2017年12月28日木曜日

ささやかなリベンジ

リベンジという言葉は、いつの間にかカタカナ語として定着した。安易な調べ方ではないかという批判を承知でWikipedaを見てみると、1999年の新語・流行語大賞となっていた。そして、そのきっかけは松坂大輔投手が用いたこと、と記されていた。総合格闘技K-1好きな松坂選手が、K-1のタイトルマッチで用いられていた「revenge」という言葉を、対ロッテ戦で黒木知宏選手との投げ合いに関して用いたとあった。

今日は昨日のランチのリベンジとして、夕食に挑んだ。いつもと同じ発想で、有りものを活かそうと考えた。ただ、今日は有るものだけでなく、無いものからの発想も重ねた。ちょうど、炊飯ジャーのお米がなかったので、生米からリゾットをつくってみよう、と思い立った。

リベンジとは復讐という意味もあり、例えばリベンジポルノなどはその文脈で用いられるものの、今日は復讐というよりも昨日の至らなさをもとにした雪辱戦だった。そして昨日の反省に加えて、IHのコンロとの戦いという意味で、言い得て妙な表現だったと感じ入っている。IHのコンロゆえに、火加減ならぬ熱加減の見極めと水加減の調整に難儀したためである。ともかく、昨日よりは納得のいく仕上がりとなり、まずまずの出来となった。

あわせて昨日から取り組んでいた、ある原稿へのコメント作業も滞りなく終えることができた。ちなみにその原稿の中には、地元学の観点でよく用いられる吉本哲郎さんのことば、「ないものねだり」ではなく「 あるもの探し」という言葉が紹介されていた。何となく料理とまちづくりの営みと関連づけながら楽しく拝読させていただいた。そうして安心感に浸りつつ、朝にゴミ収集車が来ていて、クレーンで吊り上げながら街頭のゴミ箱から回収している様子を、大胆な調理法のように見立てたことを思い出した。



2017年12月27日水曜日

手の間

今日はランチを自作した。振り返れば、妻が外出して以来のことのように思う。「まにあわせ」と「ありあわせ」の違いにこだわっている私は、食品棚を見て、冷蔵庫を開け、有りものを使って作るのが流儀である。その際、ちょっとした工夫をしようとして残念なことになってしまうのが定番となっている。

もともと、凝り性である。したがって、料理も嫌いではない。段取りを整えて調理し、盛りつけして配膳するという一連の流れは、どこか論文を書く際の流れとも似ている。今、オールボー大学で「キッチンセミナー」と題して、旬のテーマを話のつまみに語り合っていることも、料理と研究とのあいだで類推できること(アナロジー)があることの証であろう。

そんな中でのランチのメニューはカルボナーラに決めた。スパゲッティーがあり、卵があり、と、順に目を向けるにつれて、お皿に盛りつけされたイメージが浮かんできためだ。ところが、生クリームがない。何か工夫のしどころはないかとインターネットで調べてみると、生クリームなし、かつ、白身も含めて全卵でつくるレシピを紹介している方がおられた。

調子よくレシピのとおりに作ってみたところ、やはり残念な結果となった。ベーコンではなくハムで代用したために塩味が足りなかったこと、フライパンで牛乳が煮立った後に充分に冷めぬまま溶き卵を投入したためにとろみが保たれなかったこと、この2点が主要な敗因である。私にとっては時に「本当に出来るの?」などと問われたときに「やるよ!」と変に意固地になって、結果として失敗するというネガティブなサイクルにはまることがある。ふと、気仙沼市役所にお伺いした際「出来ませんとは言いません」というスローガンが掲げられていた(参考:日経グローカルNo.278、2015年10月19日号)ことを思い出し、次こそ、気仙沼の方々の丁寧さに敬意を表しつつ、手間をかけてきちんと仕上げることにしたい。


2017年12月26日火曜日

音を楽しむ

デンマークではテレビのない生活をしている。それでも、メディア税は払っている。その恩恵として、デンマークの国営放送(DR)によるインターネットラジオをよく聴いている。だからと言って、別に元を取ろうというわけではない。

常々、DRのチャンネル8のジャズを聴いてきたものの、クリスマスの雰囲気に浸ろうと、もっぱらRetro-Radioのこの時期のみの限定放送「Retro-Radio Jul」を流している。レトロと掲げられているとおり、60年代から80年代の曲を流すというコンセプトのようである。そもそも日本ではJASRACなどの都合もあって、こうしたインターネット放送はかなり難しいだろう。逆に、インターネットでの放送のため、恐らく来年もまたこの放送を楽しもうと、「お気に入り」に登録しておいた。

DRでは既にAM放送を終了し、アナログFM放送(1〜4チャンネル、ただし4チャンネルは10地域でローカル編成)とデジタルFM放送(アナログ放送のチャンネル+DAB方式による4チャンネル)とインターネットの同時放送(デジタル放送分まですべて)がなされている。日本ではNHKの受信料について、よく話題に上る。デンマークが優れていると言うつもりはなく、国営放送と公共放送という微妙な立場の違いもあって直接比較ができないことを前提にしつつ、もうちょっとNHKはなんとかなりそうな気がしている。もちろん、放送法の改正も含め、メディアと生活のあり方について深い議論が重ねられて欲しい。

今日はおはようからおやすみまで、家での暮らしの時間のあいだ「Retro-Radio Jul」が流れていた。13時間ほど流していると、何度か耳に残る曲がある。このチャンネルのジングルにも使われている「Christmas Vacation」(Mavis Staples)や「Deck the Hall」(ジングルは別バージョンながら特にナットキングコールのバージョンが好み)は、今後もクリスマスの時期を思い出す曲になるだろう。その他、デンマークの曲として「It's Gonna Be A Cold, Cold Christmas」(Darleens)、どこかMy Little LoverのHello Againのギターリフを思い出す「Jul på vimmersvej」(Bamse) なども、また来年、味わいたい曲たちである。それを思うと日本で流れるクリスマスソングのバリエーションはもう少し豊かになってもよいはずで、例えばパーティーの際にOtis Reddingの「Merry Christmas Baby」を流し、アニメ『キテレツ大百科』の「はじめてのチュウ」に似ているかもしれない、なんて楽しむのも一興ではなかろうか。



2017年12月25日月曜日

ゆる○○

今日はデンマークに来てお知り合いになった方のお宅にお招きをいただいた。日本にいるときにはクリスマスだからと言って、何かを強く意識することは稀だった。しかし、こちらでは自ずと意識が向くことが多い。何せ、デンマークでは25日も26日も休日となる。

デンマークではクリスマスのことをJul(ユール)と言う。まちのあちこちで「Jul」がついた言葉を多数見かけてきた。例えば、クリスマスマーケットは「jul market」である。ちなみにクリスマスビールは「juløl」で、この時期限定で醸造されるビールは少しだけアルコール度数の高い「Julebryg」と呼ばれている。

今日のお招きでは、クリスマスにちなんでの料理もご馳走になった。それはアヒルだった。アヒルの前にはサーモンのお刺身もいただいた。そして最後にはお手製のチーズケーキまで頂戴した。

お招きに預かるにあたり、手土産を買っていくことにした。既に多くのお店がお休みのため、わずかに空いているお店を尋ねると、デンマークでもお菓子の詰め合わせセット(しかも、フェアトレードの品々)があることに気づいた。ふと、クリスマスブーツは日本の、そして滋賀県草津市の発祥であることを想い起こした。それぞれに、素敵な時間が過ごせますように。



2017年12月24日日曜日

イブ

クリスマスイブである。デンマークのまちは、ほとんど動きが止まっている。庶民の味方とされる、近所の生協でさえも、15時で閉店となる。それぞれに、大切な時間が過ごされるのだろう。

デンマークでは24日の午後に教会に行く習慣があるそうだ。グリーンランドの自治を研究テーマにオールボー大学に滞在されている研究者の方も、今日はグリーンランド語で礼拝が行われる教会に足を運んだとのことである。先般、寄付の文化について調べていた際、デンマークでは教会の力が弱まっていると聞いた。教会に行かないデンマーク人にとってクリスマスに礼拝に行くことを非日常と捉えるか、あるいはクリスマスの日にはデンマーク人も教会に行くことを習慣と捉えるか、見方は分かれそうである。

今日は終日家で過ごした。午前中には先般、途中抜けをした同志社大学大学院総合政策科学研究科のインターネット会議が行われた。既に前回の内容はメールで共有いただいていたのもあり、議論は円滑に進んだ。そして今回をもって、来年度の枠組みは合意に達した。

冬至を迎えたからといって、いきなり日が長くなるということはない。16時ごろにはキャンドルに火を灯し、夜を迎えた。21日から使い始めた卓上の赤いキャンドルはだいぶ短くなってきた。プレゼントやケーキを買うばかりがクリスマスの準備ではないことに浸った今年、はてさて、来年はどんな風にしてこの時を迎えるのだろうか。


2017年12月23日土曜日

送るために迎える

4月9日のお花見で会って以来、何度か顔を合わせたオールボー大学の留学を終え、間もなく帰国する。その大学からの滞在は今回で2回目だった。そして今回は2名の学生が留学した。2人とも、今月末に帰国の途に就く。

縁あって2人とも我が家に招く機会を得た。とはいえ、同時に2人を招くことはなかった。一緒に会ったのは、4月のお花見のときだけである。ただ、それぞれにFacebookではつながっており、きっとこれからも交流は続くだろう。

今日もまた、日本食のランチでお迎えをした。あと1週間で帰国するため、わざわざ日本食である必要もなかったのかもしれない。ちょうど、ご家族の1人もおいでということで、デンマークで調達できる素材により、鍋料理となった。

鍋の下味には、今日は声を掛けなかった留学生からいただいた味噌味のたれを用いた。味覚を通じたコミュニケーションの実現である。帰り際にはお手紙もいただいた。後で目を通すとオールボーでの「両親」のようだった、と記されており、なかなか、私たちも年を取ったものである。


2017年12月22日金曜日

至る日

今日は冬至である。今日を境に、日照時間は長くなっていく。日本ではゆず湯のニュースが流れているのだろう、と思いを巡らせた。ちなみに今、棚の中には、先日お越しになられたサトウタツヤ先生からのお土産の品、「亀田の柿の種 柚子こしょう味(馬路村の高知県馬路村産柚子パウダー使用)」が入っている。

そんな日の午後、近所の生協に買いものに出かけた。ちなみに今日の日の入りは15時40分25秒のようだ。のようだ、というのはネットで検索した情報のためだ。それによると、日の出は8:57:59秒で、日照時間は6時間42分26秒という計算となる。

今、住んでいるあたりはオールボーでも小高い丘にあたるため、おそらく市内中心部よりも早く日が沈む感覚となっているだろう。実際、今日は買いものに出かけたのが14時台である。それでも、太陽はかなり森の奥に沈みかけていた。ただし、小高いと言っても、そもそもデンマークの国土自体がなだらかで、最高地点でも170mほどの丘しかないという国であることを前提にしてもらえれば、たかだか知れた高さだと捉えていただけるだろう。

そんな冬至の今日、日本から論文の査読結果が届いた。10月末に投稿した分である。なかなか、厳しい結果だが、伸びしろがあるものと捉え、年末年始に精力的に改稿することを決意した。至らない原稿を、掲載の水準に持っていく、そんな思いに至る日となった。


2017年12月21日木曜日

意欲を問い合う

今日はオールボーに来て知り合った方と、日本の文化についてお話をする機会を得た。このたび、オールボーでお店を開くことになったようで、そのコンセプトづくりとマネジメントのために一度お話を、ということになったためだ。もちろん、お店を開くも、営むのも、いずれもご本人である。言わば、オーナー兼マネージャーという立場になられる。

開こうとしているのは、ティーハウスだという。カフェという言い方を用いないところも、一つのこだわりのようである。加えて、単にものを売るだけでなく、人が交流する場をつくりたい、という意志をお持ちだった。そういうこともあって、改めて私が日本で取り組んできた経験から、少しお話をしましょう、という運びになった。

ともすればレクチャーのような機会となってしまうため、考えの押しつけにならないようにと、「今日は長めの自己紹介に来ました」と伝えた。名刺代わりに持って行ったのは、過去のレクチャーやセミナーで用いたワークシートである。具体的には、同志社大学大学院総合政策科学研究科での「ソーシャル・イノベーション型再チャレンジ支援教育プログラム」での評価表、そして立命館大学サービスラーニングセンターでの「マネジメントチャレンジ」での課題整理シートと組織デザインシートである。これらをもとに、組織的な活動において価値を体現すること、追求することを大切にしてきた、とお話させていただいた。

ただ、私の話だけでは店舗経営の細かいところまで踏み込むことはできないため、我々が夫婦で行きつけの店としているハンバーガー屋さんのオーナー兼マネージャーに協力を仰ぐことにした。突然の訪問では失礼になるだろうと、こちらは妻が先立って調整していた。これからお店を始める方とは今回が初対面だったものの、共通の知り合いもいることもあって、話は弾んだように思えた。何より互いに「ambitious」を尋ね合っていて、なるほど、価値や使命だけに重点を置くだけでは長期的な展望は見通しにくいのだと、学ばせていただいた。


2017年12月20日水曜日

さっぱり

デンマークで暮らすにあたり、いくつかのものを日本で準備してきた。デンマークについては昨年の夏に下見がてらの旅で訪れた経験しか持っていない。何より、1年間を外国で暮らすのも初めてだった。ある程度、旅慣れているとはいえ、旅と住まいでは、判断の基準が異なる。

機械の中でも電気で動くものを数多く使う私は、その動作のための電源をどう確保できるか、常々関心を向けてしまう。そこにモノフェチの要素が加わるため、よいものを長く使うためにはどうしたらいいか、という観点が加わる。そのため、例えばバッテリーの劣化や不良によって本体の使用を諦めざるをえないようなものは、選択肢から外れることにもなる。したがって、乾電池型の充電池を使うことができる製品などに、ささやかな魅力を感じてしまう。

出発直前の3月後半になって調達したものが、バリカンであった。機能を思えば、水洗いの出来るものが好ましい。それでも、電源の問題を優先して、乾電池型のものを調達した。本来は頭髪全般用ではなく、すそ刈り用のものだが、坊主頭なら支障なかろうと判断した。

購入したものには「セルフヘアーカッター」という名前が付いていた。確かに、一人でも使うことができる。ただ、こちらではずっと、妻の手を借りて仕上げてもらっている。今日もまた手伝ってもらい、電源うんぬんへの関心だけでなく、支えてくれる人への感謝があってこその人生だと、年の瀬が近づく中で内省を重ねている。



2017年12月19日火曜日

読んで査べる

冬至を前に澄み渡る朝焼けを見て、清々しい気分になったこともあって、今日はある論文へのコメントを書くことに集中して取り組む一日となった。調査され、分析され、そして書き上げられてきた論文である。一連の流れにかけられた時間に比べ、読む時間は圧倒的に短い。だからこそ、読み終えた後、丁寧にコメントを重ねるよう努めている。

同じ専門分野の人が読み、公刊されるにふさわしいかを判断するプロセスを査読という。これが学術論文と商業出版と違う最大の点である。商業出版であれば、出版費用が調達できているかどうか、など、事業として成り立つかどうかが問われる。また、内容面では編集者が介在・介入することによって、出版に資する質が担保される。

学術論文では、査読者が介在しても、介入することが前提とされていない。書き手が尊重された上で、論理の一貫性、また関連する先行研究との整合、また適切にデータが分析されているかを確かめ、指摘し、確認する。匿名の相方からのツッコミ、などと表現してみると、余計にわかりにくなってしまうだろうか。ともあれ、こうした査読のスタイルはピアレビューと言われる。

デンマークで過ごす中、いわゆる大和言葉に関心が向いている。大和言葉への置き換えについては、新幹線の愛称が「キボウ」ではなく「のぞみ」となったのが好例である。(参考:「阿川佐和子さんは新幹線「のぞみ」の名付け親?」 スポーツ報知/2017年2月4日、古くは2007年の「週刊文春」(3月15日号)の連載「阿川佐和子のこの人に会いたい」での葛西敬之氏(JR東海会長:当時)との対談でも紹介)査読を大和言葉にするとどうなるか考える中で、訓読みで「査べる」という表記があることを知った。検査や査察など、あまりよい印象が思い浮かばない「査」の字に対して、調べものを通して新たな知識を得ることができた。


2017年12月18日月曜日

1冊のガイドブックでは辿り着かない旅へ

日本から諸外国へ旅に出るとき、たいていは「地球の歩き方」を手にすることが多いだろう。私もまた、例外ではない。インターネットがこれだけ普及しているのだから、「地球の歩き方」に乗っている情報は、どこかで見つけることができる。もっとも、「地球の歩き方」そのものをAmazonのKindleで購入することだってできる(ただし、画像版であって、テキスト検索などはできない)。

12月の2度目のコペンハーゲンの2日目、今日はこれまであまり足を運んでこなかった地区に足を伸ばした。気づけばオールボーに住み始めてから、今回が10度目のコペンハーゲンである。振り返ると、4月に2回(日本大使館へ在留証明の取得、桜フェスティバルの見学)、5月に2回(ゲール事務所調査随行、アマーネイチャーセンター訪問)、7月に2回(ホームパーティーへの招待、母たちを連れての観光)、10月に1回(寄付文化の調査)、11月に1回(Art of Hostingのワークショップ参加)、そして12月に2回(ホームパーティーへの招待、クリスマスの観光)と、足を運んでいる。まあ、数えることができているうちは、まだまだ不慣れなのではないか、と指摘されるかもしれない。


まずは今年の8月18日にコペンハーゲン南地区に移転したアンデルセンベーカリーで朝食をいただいた。人形姫の像から程近いランゲリニエ公園(Langelinie Park)に桜を植樹している、広島のタカキベーカリーによるお店であるため、レジの奥には「2017年 日本・デンマーク外交関係樹立150周年」を祝う大きなビスケットが飾られていた。その後は西地区のVesterbro方面へ向かった。建築家集団「リアルダニア」が改修を手がけたマリア教会、公衆トイレをコミュニティセンターにリノベーションするなど工夫を凝らしているSaxopark、そして5月にアマーネイチャーセンターを訪れた際に夕食をいただいたコミュニティセンター「AB Salon」へと、足を運んだ。

オールボーに戻る前、10月にも訪れたWe foodを再訪した。前回は2店舗目のNørrebro地区だった。今回はアマー地区に構えた最初の店舗に足を運んだ。もしかすると日本への帰国前には、最後のコペンハーゲンかもしれず、ふと寂しさも募る一日となった。



2017年12月17日日曜日

クリスマスのコペンハーゲンに

「クリスマスのコペンハーゲンでは、きっとこれまで感じたことがない風景に触れることができるよ!」そんな声に導かれるように、コペンハーゲンにやってきた。12月の初旬にもコペンハーゲンには訪れていたものの、クリスマスの直前に、また足を運ぶことにした。結論から言えば、確かに、これまでとは違う雰囲気を味わうことができたように思う。

朝にオールボーを出て、コペンハーゲンにはお昼過ぎについた。列車での移動であった。既にまちはホリデーなモードなのか、数量限定のオレンジチケットは、いつもにも増して割引率が高かった。車内では、昨日、オールボーの朝市で購入した「juleklejner」と呼ばれる、沖縄のサーターアンダギーにも似た、クリスマスの時期によく食べるという揚げロールパンをいただいた。


チェックイン時間には少し早かったものの、まずは宿で荷物を下ろして身体を軽くした。そして、現在は国会議事堂などが入るクリスチャンスボー城などスロッツホルメン(Slotsholmen)地区を散策し、17日から22日までホイブロ広場(Højbro Plads)で開かれているクリスマーケットを覗いた。そして、大道芸人などがお祝いの雰囲気を醸し出しているストロイエ(Strøget)を通り抜け、コンゲンスニュートー広場(Kongens Nytorv)からニューハウン(Nyhavn)へと向かった。

まだ明るいあいだのまち歩きはそぞろに、デーヴィス・コレクション(The David Collection)の鑑賞へと足を伸ばした。ここは1960年に亡くなった弁護士が個人で収集した1980年代のヨーロッパの美術・工芸品を中心に、無料で公開しているという施設である。無償で貸し出されるタブレット端末を片手にじっくり鑑賞した後は、再びコンゲンスニュートーからニューハウンにてクリスマスの夜の雰囲気を味わい、中央駅から比較的近くにある比較的リーズナブルなレストランで夕食を取って、初入園となるチボリ公園にてクリスマスのライトアップを写真と記憶に収めた。


2017年12月16日土曜日

クリスマスバージョンの朝市に

毎週水曜日と土曜日には、オールボーのÅgade通の駐車場にて朝市が行われている。以前に足を運んだのは4月19日だった。普段、よく足を運んでいるスーパー(及び生協)では、なかなか調達することができない鮮魚が多々並んでおり、嬉々として買ったことをよく覚えている。それ以来、ごぶさたしていたものの、今日、また足を運んでみた。

8ヶ月ぶり、2度目の訪問が今日となったのは、サンタクロースが朝市にやってくると案内されていたためである。逆に、これまで足を運んで来なかったのは、今、住んでいるオールボーの西地区からは、ささやかに距離があるためだ。バスに15分ほど乗り、オールボー駅の一つ手前、警察署のバス停で降り、歩いて5分ほどで着く。どうしても、歩いて移動できる範囲で事を済ませたくなり、よい物があるとはいえ、どうしても足が遠のいてしまった。


会場につくと、サンタクロースに扮してアコーディオンを抱える男性と、トナカイのようなイメージをまとってバイオリンを弾く女性が、クリスマスソングを奏でていた。普通にしていても手がかじかむくらいの天気の中、明るい音楽で来場者を楽しませていた。朝市では生産者とお客さんの距離が近い。その近い距離に、さらにサンタクロースとトナカイの2人が時にはクッキーを振る舞いながら混ざることで、とりわけこども連れのご家族が笑顔に包まれていたことが印象的だった。加えて、通常の農水産物に加え、クリスマスツリー用の生のモミの木や、手作りのリースなど、家や部屋を彩る品々が売られていたことも、いかに生活の中にクリスマスが根ざしているかを実感できる風景だった。

朝市の後には、23日まで開催されている、オールボーのクリスマスマーケットに足を運んだ。これまで、バスの車窓からの眺めと、日本からのお客さんを連れての夜の場面しか見ていなかったためである。ちょうど正午には、地元のブラスバンドサークルの皆さんによる演奏があり、多くの人がその音色に浸っていた。マーケットが23日で終わるということは、きちんとクリスマスは家で過ごすことを大事にしていることのあらわれであり、「♪silent night, holy night...」と歌われる理由を肌身で感じた。


2017年12月15日金曜日

アウェイな環境で

今日はオールボー大学の心理学科の全体会議が行われた。今日でオールボー大学の年内の業務は一区切りがつくらしい。今回の学外研究では、2名の先生にホストとなっていただいた。今日はそのうち1人の先生(Casper)も会議に出席していた。

会議の会場は先日から立て続けに訪問しているハーバーフロントのキャンパスだった。まずは2時間、オールボー大学が置かれている状況と、心理学科の今後の展開について、学科長から説明がなされた。2時間の予定だったものの、40分ほど早く終わった。その後は1時間のパーティーが予定されていた。


会議の後のパーティーは、1回のロビーにて、着席で行われるようだった。既に会議の開始前の時点で設営はほぼ終えられていた。前菜とメインとデザートと、合計11種類の料理の名前が並んでいた。ただし、全てはデンマーク語で書かれていた。

先日のオールボー大学のスタッフ全体集会では、会議の資料が英語で配られていたものの、今日は全てがデンマーク語だった。そのため、ちょっとした疎外感を覚えてしまい、パーティーには参加せずに帰宅し、2月のカリフォルニアでの会議の論文を仕上げることにした。ただ、せっかく街中まで出たので、近所よりも大きなスーパーに立ち寄り、クリスマスの時期を盛り立てる赤いキャンドルなどを買って戻った。昼間は雨模様だったにもかかわらず、夕焼けの頃には晴れ間が広がり、赤く染まった空に黙ってカメラを向けた。



2017年12月14日木曜日

雪のオールボーふたたび

今日もオールボーは雪に包まれた。10日の日曜日に続いての雪である。そして今日はクリスマスが近づく中で、とりたてて外での用事がない一日だった。よって、家にこもる一日となった。

温暖な静岡県で生まれ育ったこともあり、雪が降ると、少し興奮してしまう。確か小学校の頃、初めて粉雪が舞った日、クラスのほぼ全員がグラウンドへと飛び出し、空から降るものがどんなものか、体験しにいったようにも思う。その風景は今でも思い出すことができる。想像の世界だけでなく、私もまた、その中にいたはずである。

先日の雪の際には外の風景にカメラを向けたため、今日は室内から雪景色を借景とした写真を撮影した。今、2台のカメラが手元にあり、それぞれに得意・不得意がある。レンズも超広角、標準、そして広域ズームと3本あり、それぞれに癖のあるものたちである。これに加えて、スマートフォンとタブレットのカメラがあり、時と場合によってそれぞれに機材を変えている。

もちろん、写真ばかりに明け暮れたわけではなく、今日は来年度の授業計画を練った。講義の概要と到達目標を明示し、15回の展開をまとめていく作業であり、それらを1つにしたものはシラバスと呼ばれている。今年度は開講されなかった同志社大学大学院総合政策科学研究科の「臨床まちづくり学」は、来年からも再び担当させていただくこととなった。こちらは12月21日の締切を前に今日のうちに入稿を終え、1月に締切の立命館大学のサービスラーニング科目群については最後のボタンを押す間際のところまで仕上げ、共同担当の先生方との協議を経て入稿すべく、少し寝かせることにした。


2017年12月13日水曜日

鳩の巣箱にお便りが

書類棚のことをpigeonholeと言うことを、オールボーに来てから知った。4月25日、私のIDカードができたという連絡が来た際、受け入れ担当のMogens先生が「ランチルームの書類棚に君の名前がつけられて、今後は大学からの公式な書類や郵便物はそこに入れられるから」と仰ったのある。この書類棚を「pigeonhole」、つまり「鳩(pigeon)」の「穴(hole)」という英単語で表現されたのである。確かに英語の辞書にも載っていることばではあるが、比喩に高い関心を向けていることもあって、こうした表現にはそそられるものがある。

今日はその書類棚に日本からの書類が届いていた。立命館大学から、来年度の担当授業に関する資料だった。ほとんどがPDFでも提供されているものの、一部が書面のみでの通知ということもあり、こうして送付をいただくことになった。スキャンしてPDFでも良さそうなものの、全体のルールから外れることは難しいようである。


大学には書類を取りに行くのが目的ではなく、オールボー大学の教職員全体ミーティングに出席しようと足を運んだ。5月4日の「Teaching Day」の会場ともなった大講義室が会場だった。ところが、ミーティングの開始15分ほど前に入室したにもかかわらず、既に会場は立ち見の状態で、入り口付近にも人があふれかえっていた。

ただ、今日は投影される資料の英語版があらかじめ紙面で用意されていた。逆に言えば、ミーティングはデンマーク語で行われるということである。そこで冒頭部分だけ参加し、失礼をすることにした。すると、私の受け入れ担当の2名の先生(前掲のMogens先生とCasper先生)はいずれも出席しないとのことで、ささやかな拍子抜けの感覚を抱きながら、英語版の資料をもとに、オールボー大学の今後の戦略を学ばせていただくことにした。



2017年12月12日火曜日

Zoomでin

デンマークでは昨日からの雪が残る一日だった。いよいよ日の出は9時に近づいてきた。それでも、街灯が雪に反射するためか、いつもよりも明るい朝だったようにも思える。明るいだけでなく、雪が音を吸収するため、静かな朝だった気もしている。

デンマークでは朝8時50分に、日本とつないで会議が行われた。国際ボランティア学会の研究委員会であった。議題は研究委員会の存在と機能を確認し、次年度の展開について意見交換することだった。理事となって3期目であるが、なかなか貢献が足りず、ここで奮起せねば、と資料を作成して臨んだ。

今回もまた、Zoomによる会議となった。現地は16時50分である。授業を終えた先生がタクシーから、研究室から、ご自宅から、それぞれの場所からの参加だった。しかも京都、山梨、名古屋、沖縄、そしてデンマークからと、全員が違う場所からでの参加であった。

会議は40分ほどで終わり、次回の日程調整も済み、3月に向けた見通しも立った。物事を進めていくプロセスと何かを生み出すアウトプットとは、よく対置されて論じられる。今日の打合せは、1つの場所に移動することを前提にしなければ、自分のどの時間を何に割くのか、ということが問われるという単純なことを改めて確認する機会になった。つまり、先に掲げた両者は、結局のところ、どちらが大事かという二分法の議論に収まるものではなく、他者に対して自分がどこまで優先度を上げ、貢献するかという姿勢にかかっている。


2017年12月11日月曜日

雪の一日

朝起きると、ここは雪国になっていた。デンマークではあまり雪が降らないという。もっとも、北欧というくらいであるから、雪と無縁になわけではない。以前、10月に訪れた北西のまち、Thisted(ティスティズ)では、「徐々に積もる日は少なくなったのは気候変動の影響かしら」という話を伺った。

朝7時過ぎ、ベランダの手すりに残った雪の量から推測するに、オールボーでは3cmほどの積雪が見られた。こういうときには、つい、カメラに手が伸びる。電源を入れ、構えて、ファインダーで焦点距離とピント併せて、と、風景を切り取っていく。葉っぱの落ちた木の枝で休む鳥、なんとか暖を取る場所を探す猫、被写体はあまたある。



最近はカメラを連れて歩くことも少なくなった。ただし、スマートフォンを持ち歩かない日はないため、常にカメラを手にしているとも言える。とはいえ、撮影することをshootと呼ぶような感覚は、スマートフォンではなかなか伴いにくい。もっとも、私が今使っているスマートフォンは2013年発売のものであり、フィルム時代からの習慣でファインダーを覗いて撮るスタイルであることが、その感覚を支えているのだろう。

今日は12月15日が締切の、2月に開催される学術会議用の予稿集の原稿を推敲した。途中、息抜きにと共用のランドリーに洗濯物を取りにいった。その道すがら、雪が芝生を覆う風景を、逆行の中でスマートフォンを通して見つめてみた。きっと、ファインダー越しでは捕らえることができなかった風景を切り取ることができた気がする。

2017年12月10日日曜日

お見送りと振り返り

7日からオールボーに来られていた同僚をオールボー空港で見送り、帰りには昨日オープンとなったBoxTown(ジャガイモによる蒸留酒「アクアビット」の工場跡)に立ち寄ってみた。出発はお昼の便ということで、朝はヤーン・ヴァルシナー先生のお宅にお邪魔される予定となっていた。私もまた、同席させていただいた。そこは研究者の家、という雰囲気に包まれていた。

ヤーン先生は、サトウタツヤ先生と共に、複線径路・等至性アプローチ(Trajectory Equifinality Approach)を開発された。恐らく、TEAよりも、TEAにもとづいて作成されたTEM図の方が広く知られているだろう。理論的な観点および方法論については、いくつかの文献を参照されたい。極めて単純化するなら、研究者と研究対象となる人の協働により、ある人のLife(人生、生活、生命)における価値を定めて、その価値を追求していく過程を明らかにする方法論である。

昨日、オーフスにご一緒する列車の中でも、サトウ先生からTEAについての解説をいただけた。TEM図には、時間の流れ(Irreversible Time/非可逆的時間)に対して、Lifeの中で遭遇するある分岐点(Bifurcation Point:BFP)を起点とし、どんな可能性があったとしても実際に導かれていく到達点(Equifinality Point:EFP/等至点)までの径路を描くことから始まる。その際、ある起点から、何らかの到達点に辿りつくまでには、促進する要因(Social Guidance:SG/社会的ガイド)もあれば、疎外する要因(Social Direction:SD/社会的方向づけ)もある。こうして、一つの到達点にたどり着くまでには、すんなり行く場合、促進される場合、疎外される場合と3つの場合があることを「発生の三層モデル(TLMG)」と位置づけ、そうして複数の径路を辿りうる中で、ある状態に辿りついた方のプロセスを抽出していくことを「歴史的構造化サンプリング(Historically Structured Sampling:HSS)」と呼んでいる。

TEAはTEM図(の作成)とTLMG(への関心)とHSS(による分析)を含んだ研究方法である。そして、分析を重ねていくと、特に複数人を対象にしたTEM図を作成していくお、個々の人生の分岐点ではなく、誰もが通過せざるを得ない出来事(Obligatory Passage Point:OPP/必須通過点)が見つかる場合もある。サトウ先生によれば「OPPとはジブラルタル海峡をイメージすればよい」とのことで、船で地中海にアクセスする際には避けて通ることはできない(からOPPになり)、陸路や空路なら通らずに済む(からBFPになる)という具合である。と、TEM図とTEAについて綴りながら、4日間を通して触れたアカデミックな部分を振り返っている。



2017年12月9日土曜日

欧州文化首都「オーフス」に駆け込みで

今日はオーフスへと足を運んだ。デンマーク第2の都市であるオーフスは今年EUの文化首都に指定されている。数多くのイベントが開催されてくる中、奇しくも今日が最終日とされていた。ちなみに欧州文化首都は必ずしも1年に1都市だけが指定されるものではなく、既に2033年まで対象国が選定されている。


まず向かったのはモースゴー先史博物館である。この博物館には夏にも足を運んだ。特別展「Journey」もまた、欧州文化首都の指定に伴うもので、7つの物語から学びべき要素を抽出したものである。湿地遺体の鑑賞も含め、昼過ぎまでここで時間を過ごした。



次に向かったのは、Risskov(リスコフ)地区にあるオーフス大学附属病院精神科病棟の博物館 である。ここは1929年に入院した画家Louis Marcussen(1894-1985)の自称「Ovartaci(オヴァルタシ)」にちなんで「Museum Ovartaci」とも呼ばれている。ovartaciとはデンマークのユトランド地方の言葉で"Over fool"(愚か者)を意味している。 1階が美術館、2階が博物館となっており、なかなかの見応えであった。


その後、女性博物館にも足を伸ばす予定だったが、雪が舞ってきたので、1本早い列車でオールボーに戻ることにした。同行のサトウタツヤ先生が「せっかくなのでDSB'1に乗ろう」と誘ってくださったため、1時間の快適な移動を楽しませていただいた。その際、切符を買い間違える(指定席はDSB'1、乗車券はStandard)という失態を重ねたものの、明らかに不慣れな旅行者と判断されたためか、車掌さんが「次からはちゃんと買ってね」と寛大な処置をいただいた。「日本食が身体に合うから」というリクエストのもと、夕食はこれまで行ったことのないレストランにご案内し、お寿司をご馳走になった。



2017年12月8日金曜日

オールボー大学と経験交流から深めていく

立命館大学総合心理学部のサトウタツヤ先生と橋本敏信さんをオールボー大学に案内する一日だった。朝にホテルにお迎えにあがり、2014年に開学したオールボー大学のまちなかキャンパス(Rendsburggade 14)にお連れした。ここでは、サンドラ・ブル・グラムハンセン(Sandra Burri Gram-Hansen)先生にe-learning Labを案内いただいた。11月15日のPBLセミナーでも紹介された「PBL Box」の実物も見せていただいて、改めて学びの環境をデザインする際の工夫のしどころを深めることができた。



続いて、メインキャンパスに向かい、私の受け入れ教員の一人、モンス・イエンセン(Mogens Jensen)先生を訪ねた。ここではモンス先生と共に論文を執筆している臨床心理士のダイアナさんとリサーチミーティングが行われた。サトウ先生によるコメントを通して、改めてTEM図では人生の価値が扱われることを確認した。人生の軌跡を書くだけでは、人生の分岐点において右か左かを迷っただけに過ぎない、ということになり、その他の可能性について探索的に掘り下げていくことが困難になるためである。



当初はランチの時間もミーティングとされていたものの、少々予定変更となった。というのも、お会いするはずの先生がPBLの指導のために、まちなかのキャンパスに出かけることになったためである。その分、心理学科の教務担当の副学科長であるトム・ニヴァン(Tom Nyvang)先生との面談の時間を早めた。ここでは、立命館大学とオールボー大学との協定締結の可能性を探る議論がなされた。



平等や対等な関係を重視するデンマークでは、個人による強靱なリーダーシップがあまり好まれない。実際、モンス先生からは、PBLでも「tovholder」(綱の端を握る、という意味)とも呼ばれるインフォーマルなリーダーシップがそれぞれに求められると示唆を得ている。今日の協定締結への話も、トム先生から私に(国に任命されている大使ではないということを前提に)「あなたはインフォーマルなアンバサダーだから」と、今後の議論をうまく支えて欲しい、とお役目をいただいた。その後は大学の図書館に案内し、市内でのクリスマスマーケットを覗いて、行きつけのお店での夕食と、そこで紹介いただいたクラフトビールのバーと、足を運んだ。



2017年12月7日木曜日

ものと人を迎える日

ものはいつか壊れる。ものを主語にすると、そういう言い方ができる。ただ、人を主語にすると、人はいつかものを壊す、となる。ものを所持する量が多い中で、ものが持続する時間が短いと時に批判を受ける私は、もののためにものを買わざるを得なくなる機会が多い。

今日は12月2日に注文したACアダプターが届いた。今、使っているMacBook Pro用の85Wの電源で、純正品とは違ってコンセントから本体と本体からパソコンにつながる2つのケーブルが着脱できる代物である。こちらはAmazonのドイツから届いた。再配達という仕組みがないデンマークゆえに、何を買うかだけでなく、いつ、どのように届くかもまた、購入時に吟味をしなければならないのが、日本の買いものよりも慎重になる点である。


お昼過ぎに荷物を迎えた後、夕方にはオールボー空港へと向かった。ちなみに荷物は何時に到着するかまではわからない、というのが標準である。「今日は荷物が来る予定だから家にいなくちゃ」という理由が通用するのがこの国の流儀なのだろう。もちろん、それだけではあまりに非効率ゆえに、駅やスーパーなど、まちの至るところに宅配ボックスが置かれており、私書箱のように使えるようになっているのだろうと推察する。

空港では立命館大学総合心理学部の皆さんをお迎えした。まずはホテルにチェックインをし、図書館を案内し、ビュッフェスタイルのレストランで会食した。そこでは充実した滞在となることを願って緻密な工程表を持参した。明日からはオールボー周辺の案内である。


2017年12月6日水曜日

今期のPBLセミナー最終回

今日もオールボー大学の教員を対象としたPBLセミナーに参加した。今日のテーマは「Digital Scholarship in University Pedagogy」だった。scholarshipという言葉は、日本では奨学金という意味に受け止められるかもしれれない。ここでは、学識、研究、研究成果、などを意味している。

今日の担当はThomas Ryberg先生、Jacob Davidsen先生、そしてUlla Konnerup先生の3人だった。先週、参加者対象に、「研究、教育、PBLの指導、それぞれでICTをどのように活用しているか、Googleドキュメントに記入する」ことが課題とされていた。そして、プログラムの中でも、Googleフォームの活用、Googleドキュメントの活用、そして文献情報を整理・共有するMendeleyの活用と、3つのツールの特徴と解説のもと、教員と学生、また学生どうしのコラボレーションのために教員はどのように授業を運営するかに焦点が当てられた。Mendeleyというサービスは所見で、英語文献だけで用いるなら、文献の整理、引用のための内容の蓄積、そして文献情報の出力と、極めて便利なサービスだと感じた。

今日は20名を越える参加者が出席し、ICTの活用に対する関心の高さをあらわしていた。5人を標準に4つのグループに分かれ、先に示した3つのツールについて議論し、それぞれの議論は逐次Googleフォームに記入していく、というスタイルで行われた。まだまだICTに不慣れな方も多く、私が参加したグループでは、その場でアカウントを作る方もいた。一方で、反転学習のためにGoogleフォームを用いるなど、積極的に活用している先生もいて、さしずめ「おい、オッサン、今ここは議論する時間なんだから、一人で勝手なことやってんじゃねーよ」とでも言わんばかりの剣幕で、セミナーへの参画が促される場面もあった。

ちなみに今朝は日本と接続し、11月26日に引き続き、来年度の同志社大学大学院総合政策科学研究科の「コミュニティ・デザイン論」の授業運営の打合せが行われた。つないだ先は大阪のとある蕎麦屋さんだった。日本では夜(19時)の蕎麦屋さんの個室と、デンマークでは朝(11時)の自宅が接続され、画面上ではお互いに奇妙な感じを覚えながらも、よりよい学びのためにどうしたらいいかを語りあった。改めて、PBLセミナーの後で午前中の打合せを振り返ると、誰かから教わるというという受け身の姿勢から、他者と友に知識を構築する態度の獲得を促すことができるか、学びのコミュニティのデザインが教員・学生共に問われている。



2017年12月5日火曜日

しないことを決める

オールボー大学に留学している学生とランチを共にした。6月に自宅に招いて以来である。今日もまた、自宅に招いた。彼女は間もなく日本に帰国するものの、妻の計らいで複数の日本食が用意された。

既にオールボー大学では授業が終わっている。後はレポートを提出し、学期の中で半分以上の単位を占めるPBLはプロジェクトレポートの後、グループによる口頭試験が待っている。ただ、PBLを取らないという選択肢もあり、その場合は4つ程の講義科目を受講し、レポートを提出する必要がある。概ね口頭試験は1月のため、12月中に帰国する彼女は今学期には講義科目だけを受講したようで、1科目あたり1ページ2,500字のレポートを6〜7枚書き終えてからオールボーを離れるらしい。

ちなみに先月、彼女は企業の合同説明会に参加したようである。私は前職では大学院の担当、そして現職では教養教育の担当のため、学部生の就職指導にはあたっていない。加えて、学生時代に遡ってみても、いわゆる典型的な就職活動の経験がない。それゆえ、現代の、かつ、国際学生の就職事情を大変興味深く聴かせていただいた。

オールボー大学では大学での専攻と職業が極めて密接に絡み合うこととされている。米国でもリベラルアーツカレッジと言われる大学では、卒業までに選択したコースによってメジャー(専攻)が定まり、必要な場合には大学院に進学して専門課程を修める。ところが日本では入学時に専門が定められて学ぶものの、就職時には専門と密接に絡めて職業選択がなされない傾向がある。その結果、あまたある選択肢の中から、何をしないのかを定めて、自らの人生をデザインしていくことになるわけで、果たして彼女がどんな道を歩んでいくのか、私(たち)の帰国後の一つの楽しみである。


2017年12月4日月曜日

学びのコミュニティのデザインのために

朝からオールボー大学の市内中心部にあるキャンパスに向かった。ランカスター大学のエリザベス・ショーブ(Elizabeth Shove) 先生によるソーシャル・イノベーションに関するレクチャーが開催されたためである。主催はオールボー大学のコミュニケーション・心理学科で、2日間かけてのワークショップ として実施された。とりわけ、朝一番のレクチャーでは、ランカスター大学のDEMAND(Dynamics of Energy, Mobility and Demand:エネルギーとモビリティーの需要に関する動態)センターでの気候変動に対する実践的研究が紹介された。

本来であれば2日間、みっちり内容を深めたいところだが、それは叶わなかった。今日は日本時間で18時25分から、同志社大学大学院総合政策科学研究科の「コミュニティ・デザイン論研究」で話題提供をすることになっていた。また、明日はオールボー大学に留学している学生をランチに招くことになっている。そのため、ワークショップは雰囲気をつかむだけに留まり、あとは先生の書物を読み込み、研究と実践とのつながりをいかにつけていくか、自問自答を重ねることにした。


そしてデンマーク時間で10時20分から2012年に竣工した同志社大学志高館へと、Rendsburggade通りにあるオールボー大学の施設から接続した。この建物は2014年に竣工したもので、夏のアイルランド・レイキャヴィークで訪れたHarpaと同じく、ヘニング・ラーセン設計によるものである。今回は2階のロビーからAppleのFaceTimeで接続した。海側を見渡す眺望に加え、回廊に沿って設置されたラーニングコモンズが、今日のテーマの「学びのコミュニティ」を扱う上で最適だと捉えたためである。

肝心のレクチャーは、現場で進行を補佐いただいた川中大輔先生(龍谷大学/シチズンシップ共育企画)の協力を得て、自己紹介のワーク20分、それを受けてのオールボー大学での研究内容20分、ユーリア・エンゲストロームによる活動理論の紹介30分、活動理論のワーク15分、そしてまとめという流れにした。科目代表者の新川達郎先生(同志社大学)、また全体コーディネート役の弘本由香里さん(大阪ガス株式会社エネルギー・文化研究所)、そして共同担当のお一人の渥美公秀先生と、多くの方々が教室にいるということで、もっとダイナミックな展開にしてもよかったと反省している。テレビ会議にはある程度慣れてきているものの、まだまだ遠隔講義には不慣れであると実感した。まちなかのお店でランチをとりながら一人だけの反省会をし、明日の買い物に出た妻と合流して帰宅した。


2017年12月3日日曜日

ブリッジを渡って

クリスマスの雰囲気を楽しみにおいで、と、お誘いを受けてやってきたコペンハーゲンである。昨晩のランチがメインイベントだったが、当然、オールボーまで戻ることはできず、1泊することになった。繁忙期ということもあって、なかなか市内で確保することができず、空港近くに宿を取った。それでも、地下鉄によってアクセスが至便だったので、むしろ適切な選択だったかもしれない、と思うようにした。

日の出が8時台ということもあり、遅めの朝食を取って、まちへと繰り出すことにした。いくつか候補があったが、スウェーデンまで足を伸ばすことに決めた。もっとも、午後にはオールボーへと戻るため、遠くまで行くことはできない。向かった先は、コペンハーゲンから列車にて約30分で行くことができるマルメである。スウェーデンで第3の都市であり、17世紀後半まではデンマークに属していた。


コペンハーゲンとマルメとのあいだは、2000年7月1日に開業したオーレスン橋によってつながっている。この橋の存在は、連続テレビドラマ「THE BRIDGE」 の名前の由来ともなっている。コペンハーゲンからマルメへと向かう際には、あいにくの天気で眺望を楽しむことはできなかった。ちなみにコペンハーゲンへと戻る際には私は眠りについており、妻だけが晴れ間の中の景色を楽しんだようである。

マルメでは市内を散策した。無印良品が入っているビルを訪れ、繁華街のオブジェを楽しみ、クリスマスマーケットの立ち並ぶ商店街を歩いた。印象的だったのは市立図書館だった。知的な空間に触れることで、なんだか賢くなった気がしているのは、きっと大きな勘違いのはずである。


2017年12月2日土曜日

クリスマスのコペンハーゲンへ

今日は妻とコペンハーゲンへと向かった。4月から、何度かお目にかかっている方から、クリスマスの雰囲気を楽しみに来てはどうか、とお誘いをいただいたのだ。朝8時3分オールボー発の列車で向かったのだが、ささやかなトラブルに見舞われた。駅の出発案内には列車番号が出ておらず、コペンハーゲン行きの列車が止まるホームに足を運んでみると、天井のモニターには逆方向の行き先と別の時間が掲示されていた。
駅員さんの姿も見当たらない中、若干、途方に暮れていると、親切な方(恐らくデンマーク人)が「この列車でいいみたいだよ」と手招きしてくださった。実際、列車に乗車してみると、車内の電光掲示板には「コペンハーゲン空港行き」と示されていた。慌てずに対応されている方の振る舞いから、こういうことに慣れている人が多いのかもしれないと想像を巡らせてみた。一方で、先月、BBCニューヨークタイムズにて、日本では列車が20秒早発したことを謝罪するというニュースが報じられたことを想い起こした。


無事、コペンハーゲン中央駅に着くと、ホームで友人が待っていてくださった。そして1971年に「建国」されたクリスチャニア、王室の方々が住まうアマリエンボー宮殿 、通称「ブラックダイヤモンド」と呼ばれる王立図書館、難民の方々の支援拠点「トランポリンハウスhttps://www.trampolinehouse.dk」、さらに夜の人魚姫の像と連れていってくださった。トランポリンハウスは女性限定の交流会で、また見学は後日にして欲しいとのことだった。また、その後には直訳すると「世界文化センター(World Cultural Center)」となるVerdensKulturCentretにも足を運んだが、貸切のパーティーイベントがあるとのことで、こちらも簡単な見学しかできなかった。

そして、ご自宅へとお邪魔した。お連れ合いとも再会を祝い、まずはソファーにてワインを楽しんだ。そして、お母さまが50年前に日本で学んだというすき焼きを振る舞ってくださった。既に発売はされていないという、当時物のすき焼き鍋(Philips製)にて、懐かしい味を楽しみ、新たな思い出を刻ませていただいた。



2017年12月1日金曜日

刈り込み作業

11月末締切の原稿を提出を終え、今日からは別の原稿に手を付けることになった。2月に米国・カリフォルニアのサンタクララ大学で開催されるPAN-PBL2018の予稿集の原稿である。公式ページで紹介されている歴史を確認すると、PAN-PBLは、もともとPan-American Network for Problem-Based Learning(南北アメリカPBLネットワーク)の頭文字から命名され、2000年に最初の国際PBL会議を開催した。2年に1回の会議を開催する中、2016年にはAssociation of Problem-Based Learning and Active Learning Methodologiesと、より広いネットワークが志向されるようになった。

既に11月15日、オールボー大学でのキッチンセミナーにて発表する機会を得た際、このPAN-PBL2018向けの内容をまとめていた。その分量は7,764語、スペースを含めた文字数が50,734字、ページ数は19ページとなった。当然ながら、初稿はもっと短かった。その後、3人での共同発表として言葉を重ね合う中で、徐々に内容は充実していった。

今、向き合っているのは分量の圧縮である。PAN-PBLのページによれば、文字数はスペース込みで30,000字、図・表・引用文献を含めてページ数は8〜12ページに収めなければならないとある。半分以上の刈り込みが必要なのだ。当然、ただ削ればよいのではなく、削ったことによってそぎ落とされてしまった要素を書き加えねばならない箇所も出てくる。

英語論文に不慣れなこともあって、こうしたフォーマットにどう対応すればよいのか、悩むことも多い。今回であれば「余白」と「段落間隔」と「フォントとサイズ」は指定されていたものの、日本語でよくある「文字数」や「行数」の指定がないのである。結果として「標準の文字数を使う」を選択した。原稿用紙の文化がないゆえにそうなっているのだろう、と想像すると共に、日本ではいかにページの単位にこだわっているか、その違いを改めて確認する機会ともなっている。