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2013年2月28日木曜日

シームレスなキャリア

2月最後の28日、昨日で「Make A Difference」のお役はご免となったが、2日目のシンポジウムの内容と登壇者に関心があったので、1964年の東京オリンピックで選手村となった「オリンピック記念青少年総合センター」に宿泊させていただき、プログラムの終了まで参加した。シンポジウムのテーマは「大学の新しい挑戦〜学ぶ力を育むギャップイヤー」で、昭和女子大学の興梠寛さんをコーディネーターに、立命館大学大学院文学研究科に在日コリアンによる文学研究のため留学中のアンドリュー・ハーディングさん、現在は復興庁の政策分析官を務める藤沢烈くん(ちなみに「ネット」ではなく「リアル」での再会はおよそ15年ぶりくらいである…)、グローバル社会における流動性・効率性・多様性などから秋入学が検討される中で俎上にのった「ギャップターム」を取り扱っている東京大学総長補佐の藤井輝夫先生、建学理念にも掲げられた「フロンティアスピリット」に基づいて展開されている名古屋商科大学学生支援部門の国際交流プログラム「ギャップイヤープログラム」担当の高木航平さん、そして「ギャップイヤー」が実現された折に企業はどのように受け入れるかについてのコメントをする立場で日本経済団体連合会広報本部長の井上洋さん、という布陣であった。中でも、高校時代に日本語を勉強し始め、3週間ほどの日本滞在経験の後に、英国から北海道の洞爺村に1年間住むというギャップイヤーを経験したハーディングさんの存在感は圧倒的であった。ハーディングさんは洞爺村での滞在中、Project Trustのプログラムにより、地域の小学校で英語を教えるかたわら、週1回の幼稚園での活動、さらにはリハビリ病院での国際交流なども経験したそうで、それによりロンドン大学の東洋アフリカ研究学院(the School of Oriental and African Studies:SOAS)にて飛び級もできたそうで、留学にあたって付きまとう「1年間を無駄にして…」とは真逆の話になった、という。

これはシンポジウムのまとめの部分で、口々に語られたところであるが、ハーディングさんも、烈くんも、一直線の人生ではないが、起伏に富んだ人生を物語る若者である。事実、烈くんは「ギャップイヤー」という言葉がない中で、2年連続で(親が重病ということで)休学をし、ミニコミ紙を創刊し、スポンサーを得て雑誌を発行し、ネットワークパーティーを企画し、サロンとなるバー「狐の木」を開店し、マッキンゼーでコンサルタントとなり、新たにベンチャー支援のプロジェクトを設立し、現在は東日本大震災で情報の分析を担っている。一方で、ハーディングさんはギャップイヤーと大学での比較文学研究の後、ロンドンで日系の人材派遣会社で働くも10ヶ月で離職し、貴重な経験を得るきっかけとなったプロジェクトトラストで2年間働き、日本とウガンダのプロジェクト担当した後、ロンドン大学の大学院に進学し、立命館に留学し、今に至っている。ただ、このように記すと烈くんは階段を登っているかのように思われるかもしれないが、烈くん曰わく、サロン「狐の木」はメディアでは盛り上がったものの、毎月赤字で、仲間も去り、経営に追われてネットワークをつくるという目的からも離れ、閉店し、そうして店を潰したものの、コンサルタントとなった後は休みのない日常の中で友人とも会えず、鬱状態の中でプレイステーションを購入してバイオハザードを正月にする、という具合に、「失敗ばかり」だったという。

シンポジウムでの話題提供者はハーディンさんが皮切り役だったが、そこでは「ギャップイヤー」における「意識的な学び」と「無意識的な学び」が区別されて話された。ハーディンさんによれば、自らの意志で、それまでとは違う世界に飛び込むギャップイヤーでの「同じ年頃の生徒たちを教える」という体験を通じて、time management、people maangement、creativityの3つを学んだという。一方で、帰国後に無意識に学んだこととして「文化を相対論で片付けていいのか」という点があり、「ものを客観的に見ること」がいかに大事であることに気付いたという。別の言葉だが、烈くんもまた、積極的な休学の期間を得たことによって、「スキルや経験」ではなく、「何かが起きた時に、それまでを捨てて飛び込める」こと、「率先して動く」こと、すなわち「とにかく集中してコミットする」ことで「変化に強くなる」という学びを得た、とのことだ。

ちなみに今、東京大学で検討されている「ギャップターム」が英国の「ギャップイヤー」と異なるのは、大学で「何を、なぜ、学ぶのか」の動機付けや目的意識を駆り立てられるように、入学者全員が約半年間にわたって偏差値や知識至上主義から離れる経験を得ることだと、藤井輝夫先生は語った。2013年度から、東京大学では初年次長期自主活動プログラム(FYYプログラム:Freshers Leave Year program)が始まるそうだが、日本経団連の井上さんによれば、企業で「経験者採用」が増えたことにより、「新卒採用」にも変化がもたらされ、経歴よりは個々の意欲や思考が重視されるようになってきたとのことである。ちなみに若かりし頃に蒸気機関車の撮影に熱狂した井上さんは、学生時代のラグビーの経験をもとに、「単線ストレートではなく、ジグザグのキャリア」を、「既成概念にとらわれず、主体性をもって」形成することを、ラグビー用語の「ストラクチャーとオフロードの繰り返し」による、と示した。それぞれに、語り口は違えど、キャリア形成とは「シームレス」ではない、ということを自らの歩んだ道を振り返りながら、夕方からの母校での打ち合わせに向かったのであった。

2013年2月27日水曜日

flexibility in a resume

My brain is switched into English mode in Wednesday, because of the class in Nakanoshima. Today's theme was job hunting actions in United States by using an article from The New York Times. The article was "In Hiring, a Friend in Need Is a Prospect, Indeed" which was published in January 27, 2013. This article is cleared that the rate of unemployed are getting close with the rate of Long-Term Unemployment in US.

As one of a classical theory "weak-tie" by Prof. Mark Granovetter, networking is a key to make a relationship to start something together. But, our lecturer Tad said that these networking are instrumental and transactional for a challenging business, occasionally. So, today's article told us the differences in the tools for getting a job through the internet. Tad also explained the similarity of the internet service to us that Monster.com likes Yahoo! auction because which would be listed in each commodity, and LinkedIn likes Facebook which can be characterized by a user.

Today, before the finishing the session, I must go to Tokyo to attend the conference "Make A Difference" which was sponsored by National Institution For Youth Education. The theme was "The Potential of Community based learning in Higher Education". 1st presenter was Yamamoto-sensei who is an organizer of "Iwate GINGA-NET Project" and 2nd presenter was Tomomatsu-san who is a director of "KOHDOUKAN(興動館 : a coinage by Japanese)" by Hiroshima University of Economics. And 3rd is me, and the final presenter, so I presented the history, mission & policy, and prospect from/of the practices in the Center for the Study of Service-Learning, Ritsumeikan.

I think that both an English session and a discussion in the conference treated the straight carrier in Japanese. I saw the curious data in the OECD Employment Outlook at my work on The Consortium of Universities in Kyoto. That was the 10years job experience rate, and 8.6 in US but almost 1.0 in Japan. Today, Tad indicated "furlough" as the employment system in US for appropriate number between job and worker, however, most Japanese hard to design own flexible carrier by traditional norm of lifetime employment in Japan.

2013年2月26日火曜日

多動な移動

若者に関わる人たちのための全国フォーラム」にお招きいただいて、関西学院の千刈キャンプで朝を迎えた。キャンプといっても、和洋折衷な外観の木造2階建てのキャビンでの宿泊で、畳敷きの部屋3つに6人という、余裕のある部屋割りでの一夜であった。同じく講師のお一人である、ただ、3つの部屋のうち、1階にある1部屋は「夜通し語る会」に用いられる「若者のための部屋」となったため、最近はつとに心身の「バッテリーの持ち」が悪くなってきた私は、つつがなく2階へと向かわせていただいた。

朝6時過ぎ、朝日が射し込むなかで起床し、7時半からのパン食をいただいてから、つかの間のキャンプ生活を終えて、立命館大学の衣笠キャンパスへと向かった。11時から、3月8日に台湾で開催される国際フォーラムの打ち合わせがあったためである。今回のフォーラムは、立命館アジア太平洋大学はもとより、キャンパスアジアプログラムなどを展開している立命館として、国交という面などで政治的イッシューが顕在化する台湾とのあいだでも、総合的な国際連携を進めよう、という取り組みの一つである。今回は淡江大学Tamkang University日本語版サイトも設置するなど、日本語教育も積極的に展開している)を会場に、3月7日には、2015年に開学予定の大阪茨木キャンパスを「アジアのゲートウェイ」としても位置づけて教育や研究を進めていく上での担い手の一つである経営学部を中心として「研究フォーラム」を、そして3月8日には、「震災復興と東アジアを担う若者の使命」(仮称:英語名称はTaiwan-Japan Friendship: our experience in recovery process after 311 earthquake and further development of collaboration in younger generation)と題した「学生フォーラム」をさせていただく。

会議は1時間程度であったが、朱雀キャンパスをメイン会場に、衣笠・BKC、そして東京キャンパスの4地点を接続したテレビ会議で、国際連携のための組織内連携や部署間連携や部署内連携が欠かせないことを確認し、早急に整理しなければならない具体的な課題が明らかになった。その後、15時から、学生フォーラムに参加する立命館側の代表団へのオリエンテーションとなった。このオリエンテーションを経て、エントリーされた13人のうち12名が参加することとなった。オリエンテーションには、この間、淡江大学とのやりとりを担っていただいた、国際部のお仕事をバリバリされておられる、国際教育推進機構の堀江未来先生にも冒頭部分で参加いただき、共通言語で語り合うことに不安を抱いている学生たちに、今から準備できることと、対話のコツとツボをお示しいただいた。ちなみに堀江先生とはお昼前の会議とお昼もご一緒させていただいたのだが、このオリエンテーションの会場から関西空港に向かい、27日の朝からの淡江大学での現地打ち合わせに向かわれた。

学生フォーラムのオリエンテーションも、衣笠とBKCをテレビ会議システムで接続して行われ、20分程度の「手続き」と20分程度の「レクチャー」と20分程度の「説明」を経て、間近に迫った本番に向け、学生たち主導での企画検討会議となった。Skypeの普及などによって、他地点と結んでのやりとりは慣れていないこともないのだろうが、やはり、2つの会場のあいだで、画面を介して集団と集団が語り合うことには、不慣れなようであった。ただ、残念ながら、議論が白熱してきたところで、18時からのサービスラーニングセンター科目「地域活性化ボランティア/シチズンシップ・スタディーズI」の時代祭プロジェクトの振り返り会に向かわせていただいた。そしてこの振り返り会では、車座となり、濃密な地域コミュニティと学生たちがいかに関わり合うのか、この間、運営のサポーターとなってくれた過年度の受講生と、来年度にサポーターとなることを名乗り出てくれた今年度の受講生と、そして当センターのスタッフ、さらには受け入れのご担当者2名と、徐々に口をなめらかにしながら、ほぼ終電まで語り合うという、移動の多い、多動な一日であった。

2013年2月25日月曜日

千刈に一泊

兵庫県三田市にある関西学院の千刈キャンプにお邪魔している。ブレーンヒューマニティーの能島裕介くんが委員長を務める「実行委員会」と千刈キャンプの共同主催による「若者に関わる人たちのための全国フォーラム」にお招きをいただいたためだ。関西学院大学千刈キャンプ、ではなく関西学院千刈キャンプである、という位置づけは、立命館大学災害復興支援室ではなく、立命館災害復興支援室である、という構図と同じである。すなわち、学校という機関としてではなく学校法人という組織として、設置されているのだ。

今回のフォーラムの開催には、少々の「曰わく」と「謂われ」がある。「曰わく」というのは実行委員会形式で開催されることであり、実は10月の時点では、本事業は東京に本部がある「独立行政法人国立青少年教育振興機構」によって取り組まれるはずが、開催準備を本格化する段階において、主催の立場をとることができなくなったことである。一方で「謂われ」というのは、山梨の清里での「清里ミーティング」の地方版の一つとして、1994年から例年1月に「環境教育ネットワーク・千刈ミーティング」が開催されてきた、言わば「聖地」であるためだ。ただし「千刈ミーティング」は、10回の開催を経て、2004年から2007年までは「若者」たちへとバトンを渡されたものの、2008年以降は実施がなされずに事実上終了したという「謂われ」がある上、今回は当初の実行委員や参加者などが半ば同窓会のように参加していたという「曰わく」もあったりする。

同じ部屋に宿泊する講師陣には、赤澤清孝さんなど阪神・淡路大震災で活動を始めた世代や先程の「千刈ミーティング」を担ってきた高田研さんや、京都でのユースワークの基盤を支えてきた水野篤夫さん、転じて私より若手の方々もおられ、講師も参加者も実に多様な世代の「若者に関わる人」たちが集うフォーラムとなった。当初、基調講演は神戸YMCAの今井鎮雄さんの予定だったが、直前の体調不良で、急遽、講師陣らによるリレートークとなった。2日連続のフォーラムのうち、初日しか参加できないこともあったので、そうしたリレートークや、夕食及び夕食後の情報交換会、さらには朝食くらいしか参加者の皆さんと交流を深めることはできないので、まずはそのリレートークで、講師陣の関心を伺うこととした。中でも、博報堂が「本籍地」ながら、「現住所」は尼崎市顧問の立場にあられる船木成記さんの発言が興味深かったので、午後の分科会では、これまた「震災世代」で立命館大学ボランティア情報交流センターが神戸大学に拠点を置いていた頃に隣で活動を始めた稲村和美「市長」のもとで、シティープロモーションなどを担当する船木さんのお話を伺うことにした。

人に何かを「伝える」ことと、それによって「伝わる」ことのあいだには「落差」がある。さすが、博報堂でお仕事をされてきている船木さんということもあって、分科会では、人の「心の中に強く残す」ことが「ブランディング」であり、そのためには「洞察(インサイト)」が欠かせないのだ、ということを、具体的な例から紐解かれていくこととなった。実はその会場を引き継いで私のセッション「若者とサービスラーニング〜 ~社会的な活動を学びにつなげる仕組み~」が行われることもあって、私もまた「サービス」とはテニスの「サーブ」のように…と、言葉を大切にし、時に観点をずらしながらも、参加者の興味を「ズームレンズのように」画角とピントをあわせつつ、テーマに迫っていくこととした。学生時代から久々にお邪魔した千刈キャンプの夜、「若者に関わる」立場ながら「若くなく」なってきた自分を自覚し、夜のディープな時間まではおつきあいできないと察知し、情報交換会で全員と話を終えて眠りに就くことにしたのが、この20年ほどのあいだの、私なりの成長と学びである。

2013年2月24日日曜日

飲み・食べ・組み合わせ


月曜日から服用してきた風邪薬が切れた。5日分が処方されたということは5日で治るだろう、という医師の見立てがある。自分の身体は自分が一番わかっている、という言い回しをよく聞くが、あくまで症状に対する処方を専門家が行ったのであるから、それをきちんと受けとめて、受け入れなければならない。と、こんな小難しい言い方ではないが、妻から「ちゃんと飲んで」と、自分ではわかっていない自分のことまでも思い量って「指導」をいただいたので、きちんと飲み終えて、今日に至る。

ちなみに服用しているのは、風邪薬だけではない。いわゆる高血圧症の治療のため、日常的に2種類の薬を飲んでいる。生活習慣病の治療である。遺伝的な側面もあるものの、基本的には生活習慣に起因する病なので、生活習慣を変えられればよいのだが、なかなか難しく、薬の力に頼っている。

食べものの食べ合わせと同じように、薬も飲み合わせがある。よって、服用習慣に対して、突発的に服用しなければならなくなった薬との「相性」を調整しなければならない。今回は幸いにして「折り合い」がついたので、事なきを得た。風邪も小康状態を迎えたので、今日の晩には風邪をひく遠因となったオランダとベルギーの調査にご一緒いただいた建築家の方と経費の精算のことなどのお話もした後、妻も連れ出して、洋食をいただきに出かけることにした。

当然、人もまた、組み合わせの善し悪しがある。それこそ、アムステルダムのベルマミーア団地で「対話」こそが困難な状況を打開する(ほぼ)唯一の手がかりである、と伺ったが、それは「会話の内容」ではなく「語り合う場」が成立、継続するかが鍵だということだ。そういう観点から言えば、今日、おいしい洋食と久々の洋酒をいただきながらの対話は、互いに間を見て、場の雰囲気をつくる、「また、次」の約束を生むことできる、心地よいときを送ることができた。良薬は口に苦し、と言うが、時に、耳障りの悪い言葉もあえて交えながらの対話を重ねることこそが関係を紡ぐ上では「よく効く」のかもしれない、などと、薬と食べものと人間関係とのつながりを見いだした夜であった。

2013年2月23日土曜日

額面どおりの価値


立命館での仕事が「本業」となって丸2年が経とうとしている。共通教育推進機構という、学部を横断して教学を展開する組織に所属すると同時に、立命館大学における教養教育の中でも「社会で学ぶ自己形成科目」を推進するサービスラーニングセンターという機関の副センター長という立場もいただいてきた。この「副センター長」という立場は「役職者」という扱いとなるため、「本業」に加えて「職務」が優先されなければならない、と、特にこの1年、厳しく指導をいただいてきた。そんなこともあって、来年度からは立命館以外の立場が「グッ」と減らせていただくこととなる。

やや自戒的に語るなら、新しもの好きで、フットワークが軽く、お調子者、といった評価が相まって、想い起こせば学生時代から、多くのもの、こと、ひとに関わってきた。今日もまた、お声掛けいただいたお役の一つ、公益財団法人平和堂財団による環境保全活動助成事業「夏原グラント」の二次審査のため、滋賀県守山市までお邪魔させていただいた。一次審査は書類に記された文字と数字から、目的の達成、環境保全への寄与、計画的な運営、適切な資金の執行、継続性が判断されるが、二次選考では17の団体からそれぞれ「これまで」の成果と課題、そして「これから」の展望と構想が語られる。そうして、書類の内容との一貫性を大きく考慮しながら、発表への姿勢、態度、質疑応答での反応などの印象を語り合いつつ、最終的には5人の選考メンバーによる合議で、助成対象と助成額が決定されていく。

一方で、単に新しいものだけではなく、伝統的なもの、歴史的なものにも関心がある。ほぼ一日仕事であった助成金の審査の後、急いで駆けつけたのが、今、住んでいるマンション住民での「緊急の打ち合わせ」であった。詳細を省いて記すと、ここは1984年に居住希望者らが建設組合を組織し、土地の取得から建築計画までを多様な人々と共に織りなして創りあげた「コーポラティブ住宅」なのである。1986年の竣工時から、すなわち建設組合を立ち上げたメンバーも今なお居住しているのだが、今回、新たにお迎えする方が、そうした「共同的・協同的・協働的(コーポラティブ:cooperative)」な価値を重視していると仰るものの、全くもって自己の利益と都合で、理事会としての裁定を「好意的」に解釈し、「黙認が許されるだろう」という前提で、住戸内に及ぶ共有設備の改修に手を付け終えていたのだ。

新たなものが創発されことと、古くからのものが継承されること、その両者に共通するのが価値の調整と共有という営みである。朝からの助成金の審査では、滋賀県で根を張ってきた平和堂さんによる環境分野の活動の支援のため、どのような担い手を選出するのが適切かを判断したが、そこでも活動の内容よりも、何を実現したいのか、現実にできそうなのかが問われた。そして夜は、「それを求めるなら、別の住まいを探した方がいい」といった声が、比較的新しい住民の一人から出るほど、自分「たち」が何を大切にしているのか、互いに問いなおすこととなった。振り返ると朝から夜まで、お金の額では量ることができない価値を扱い続けた一日であった。

2013年2月22日金曜日

無理に合わせている?

毎週金曜日の朝は立命館災害復興支援室の定例会議のため、朱雀キャンパスで過ごすことが多い。ただ、2月20日に晴れて一般に公開された「3.11追悼企画 いのちのつどい」の準備が立て込んでいるため、今週は昨日と今日と、2日連続で、立命館の朱雀キャンパスでの朝礼を横目に見ることになった。ちなみに「いのちのつどい」は、立命館大学で毎年12月に開催している「不戦のつどい」(2012年度で59回を数える)という事業へのオマージュの意味も込めつつ、立命館という3文字の「真ん中」に<いのち>がある、ということにちなんでいる。

定例の会議は概ね1時間だが、その前後にも活動の「仕込み」や「見せ方」の工夫のために、他愛もないが重要な放談がなされることがある。そして、そうした放談こそが、新たなアイデアや、チームの人間関係を豊かにする源になったりもする。ゆえに、今日もまた、そんな場面が幾度となくあったように思う。災害復興支援室の会議のメンバーは、それぞれに「それだけ」をやっているわけではないゆえ、そうしたやりとりを通じて「それ以外(通常業務)」の話と「それ(災害復興支援)」がうまく重なり、非日常への取り組みが日常になれば、などと、願うところでもある。

今日は午前中の会議のあと、二条駅から西舞鶴に向かった。先般、2月5日に「超高齢社会における支え合いの地域ネットワーク〜無縁社会の縁結びを〜」という演題で講座を担当させていただいた、京都SKYシニア大学の北部会場での「総合学習コース」の話題提供のために、である。京都新聞ホールで行われた京都会場の400人規模と違って、40人程度という、顔の見える範囲でのお話ゆえ、同じタイトル、同じレジュメ、同じスライドを使いながらも、微妙に力点を変えながらお話をさせていただいた。以前なら、「せっかくだから毎回違う話を」と思うことが多かったのだが、落語のように「同じ演目を、聴衆にあわせて微妙な調整を重ねて」演じさせていただいた。

そして、西舞鶴からの戻る中で向かったのが、またも立命館の朱雀キャンパスであった。昨年12月に、JR南草津駅西口界隈で開催された「第2回みなくさまつり」の折に、大学コンソーシアム京都で働いていた当時のボスと約束した「飲み会」の待ち合わせで、であった。名前と大将は変わったものの、両者にとって馴染みが深く、大将の弟子が継承したお店に向かい、美味しい料理と共に、概ね問わず語りが進む中で、ボスから「俺の話に、無理矢理合わせてへんか?」と訊ねられた。「いやいや、人は本心なんてないんですから」と返すと、妙に合点がいったようで、それだけ腑に落ちるポイントが同じなら、逆に「無理に合わせている」と感じられるのかしれないな、と感じた、やや懐かしく、しかし楽しい宴席だった。

2013年2月21日木曜日

手続きと段取り

役柄なのか、時節柄なのか、人柄なのか、調整事が続く日々である。今日は朝の9時、9時半、10時と、立命館の朱雀キャンパスで3つ連続の予定であった。そのうち9時半の打ち合わせが、11時過ぎまで続いた。ちなみに、打ち合わせと会議は言葉として使い分けており、打ち合わせはmeetingという英語からも明らかなように対面での意見交換、会議はconferenceの動詞形conferから紐解けるように複数の事柄を持ち寄って決める場を意味している。

調整事と言っても、その性格は多種多様であり、優先度、緊急度、重要度、そうした度合いの高さをもとに、丁寧に言葉が交わされる。無論、通常は緊急度が高いものには決定までの時間が優先され、重要度が高いものには決定までの慎重さが優先される。そういう意味で、よい調整のためには、よいメンバー、よい議題、よい資料、そしてよい場づくりが求められる。このあたりは学生時代から悩みに悩み、今でこそ「ファシリテーション」というキーワードで多彩な知恵をインターネットなどからも得ることができるのだが、1998年を前後して大学コンソーシアム京都によるNPOインターンシップ・プログラムのプロジェクト「NPOスクール」(ちなみに、この愛称がこのブログなどの名前の由来にもなっている…)のスタッフに就いているとき、リーダーの赤澤清孝さんから、八幡紕芦史さんによる『ミーティング・マネジメント』(日本生産性本部、1998年)を紹介いただき、その副題「効果的会議の効率的実践」という韻の踏み方とレイアウトの整然さも気に入って、今なお、時折、手に取ることがある。

サーバント・リーダーシップ」という言葉に出会ったのがいつなのか、正確には思い出せないが、多くの人々と共に何かを決め、そして進めていく際には、「上に立つ人間」よりも「下から支える人間」が重要なときが多いように思う。反対に、誰かが決めたものを進める上では、決めた人を「支持する」人により、その(支持の)「上に立つ人間」が針路を定め、舵取りをしていく必要がある。だからこそ、「下から支える人間」が重要とされるような場面では、共に支え合っている仲間どうしが、果たして何を支持しているのか、自らの立ち位置を確認しなければならないだろう。TEDカンファレンスの中でも有名なものの一つ、デレク・シヴァーズの「社会運動はどうやって起こすか」ではないが、リーダーシップをover-glorified(過大評価)せず、むしろフォロワーは何を、誰と、どこまで、なぜ支持しているのかを常に説明できる状態にしておかねばなるまい。

実は今日、午後には草津未来研究所の、2012年度では最終となる、第5回運営会議であったのだが、このところの体調不良もあって、橋川渉市長も参加されるという会議終了後の後席は失礼をさせていただいて、自宅で養生していたのだが、夜分に電話が飛び込んできた。今、住んでいるマンションで緊急の会議を行うことになったので参加して欲しい、という内容だった。聞けば、全く持って自己完結してはならない調整事のはずが、「正統性」よりも「正当性」を主張して、個人の判断で決定したことに対してマンション全体としての対応を協議したい、ということであった。その方にとっては、「これまでのルールの尊重(すなわち、正統性:legitimacy)」よりも、「これからのツールの選択(すなわち、正当性:justification)」が間違っていない、と仰るのだろうが、にしても、そうしたことを他者に認めてもらうまで、しかるべき手続きを行い、段取りを一工夫することによって、実を取ることができたはずなのに、なんとも、調整なき調製の結果は、儚いものとして個にも全体にも禍根を残しそうな気配である。

2013年2月20日水曜日

back to...

Today, I'm back to my school. This school is not the Ritsumeikan, but my English class in Nakanoshima. Because our lecturer Tad visited to India in this 2 weeks, so our classes were not scheduled, previously. So, starting today's session, all most of all students asked him the impression of India.

Today, we focused into a diplomacy as an ethical issue by using the article from The New York Times.  After sharing a summery by a presenter, Tad led our discussion to clear the bipolarity between realpolitik and idealism. As the author said, the internet brought about a brand new type of diplomacy through hyper-connectivity. Therefore, Tad asked us which is his (author's) standing point, so we exchange the difference between national interest and universal value.

At least for me, I went to Europe in last week, so I can realize the new diplomacy by direct communication on the meeting and via the internet. But the author, Roger Cohen, criticizes the "citizen-diplomats" as "blathering". However, I hate this kind of thinkings. Maybe, I'm an idealist, I DO NOT want to treat a active citizen's cry as onomatopoeia.

In this morning, I got a mail from Amsterdam. The writer was Evert van Voskuilen, who was an urban architectural project leader of the revitalization project in Bijlmermeer. He sent us the resources which were shown on his iPad at our visiting on 14th Feb 2013, and he noticed again the importance of "Urban Program of Requirements" and "Operational Consultation" around the intermingled cultural situation. I will never forget this attention with Tad's instruction for "syncretism" by talking about his experience in India.

2013年2月19日火曜日

デフォルトを問いなおす

振り返ると、毎年2月には、決まって体調を崩してきた。気がゆるむ時期なのだろう。1月には大学の講義が終わる頃でもあるし、何より、應典院での「コモンズフェスタ」をはじめ、阪神・淡路大震災から○年、といった具合の催しに関わることがあり、決まって何かに取り組んでいる。そのときまでの緊張感や緊迫感が、ふっと解ける時期だと追われる。

それでも年中多忙を極めているのは、自他共に異論のないところなのだが、今日は多忙ではなく無謀、とおしかりをいただくことになった。それは2月末の台湾出張、そして本日の夕方から予定されていた会議と会食の2つである。前者は「28日の朝に羽田を出て、1日の午前中の早い時間に関西空港に戻ってくる」というスケジュールでの出張で、後者は「地域参加型学習の振り返り会を、ざっくばらんに行う」というものだった。前者は便がある(行きは7:20羽田〜チャイナエアラインCI223便〜10:15台湾・松山、帰りは7:00台湾・桃園〜ジェットスター・アジア3K723便〜10:30関空)とはいえ「ちょっといくらなんでも」と、後者は「そのお席では」と、それぞれメールと電話で「無理」とたしなめられることとなった。

特に学生たちに「体調管理ができないのは恥ずかしいこと」などと言ってきているのもあって、大抵のことではスケジュールをキャンセルすることはなかった。逆に言えば、予定が空いていれば空いている限り詰めてしまう傾向にある。別に、予定が白紙であるところを埋めたいというわけではない。ただ、何か呼びかけに応えたい、という「応援団」の立場でありたいソウルの叫びがそうさせている、と思う。

この数年の「2月の不調」を想い起こしてみると、いよいよ寄る年波という言葉を使う時機なのかもしれない。なおのこと、自分の立場というか、世の中での立ち位置も、数年前とはやや違ってきている。今日もいくつかの予定を変更させていただいた中で、午後に1つだけ、大阪でアーツカウンシルをつくる会の関係のミーティングに参加させていただいたのだが、会が設立された2007年を振り返って、改めて「年」と「波」の変化を受けとめた次第である。ちなみに、明日の予定を確認するために、「日本橋〜大宮」の移動にあたっての時間を調べてみたところ、「そんなに早くは着かないだろう」と思ってみたら、調べたいはずの「大阪市営地下鉄堺筋線日本橋駅〜阪急電鉄京都線大宮駅」ではなく「東京メトロ銀座線日本橋駅〜JR東北本線大宮駅」のルートが出て、いやはや、「デフォルト」の状態を前提にしてはならないと、自分の心身の「初期設定」を問いなおさねば、と内省を重ねる今日この頃である。

2013年2月18日月曜日

信じて頼るところから

治療と治癒は異なる。治療は行為で、治癒は結果だ。とかく、病院の雰囲気が好きでないこともあって、治療の場に向かうことは避ける傾向にある。それでも、治癒を求めて、手近な何かで済まそうとしてしまう。

朝起きると、土曜の夜から不調を覚えていた身体が、いよいよ悲鳴をあげていた。まず、しゃべれない。咳は止められず、止められない咳のあいだも、止まった後も、激しい喉の痛みに襲われた。いよいよ、これは治療の場に向かわねばならない、と決意した朝だった。ただ、それでも、今日は朝から予定が詰まっていたので、どのタイミングで行くことができるか、と考えあぐねた朝でもあった。

ただ、立命館の中にある保健センターに行けば、内科の診療が受けられる、と気づき、朝から出向いたBKC(びわこ・くさつキャンパス)にて、バスを降りたその足で向かうことにした。すると、脇の下の体温は37.8度で、予防接種はしていたとはいえ、インフルエンザの可能性も疑わしいとの見立てで、鼻に綿棒を入れて粘膜から検査するという例の検査を行った。結果は陰性でほっとしたのだが、「葛根湯」などで治るレベルではない、と一喝され、抗生物質のオゼックス錠150mg、咳を鎮めるトクレススパンルースカプセル30mg、痰を切るムコソレート錠15mg、熱を下げるカロナール錠200mgが処方された。当然、「風邪の初期症状を感じたので、天一に行ってスタミナをつけました」などとは言えなかった。

浄土宗が21世紀に入ってすぐ発表した劈頭宣言において、その短い4つのことばのうち、筆頭に掲げられたのが「愚者の自覚を」である。治療を受ける、ということを巡って、愚者である、というのははばかられるが、実はこの体調不良によって、1月の中旬から日程調整をしていた同志社時代の院生の皆さんとの食事会を流会とさせていただくことになった。自らの弱さをさらけだしたところ、逆に気遣いをいただき、また桜の花の咲く頃に実施することになりそうだ。ちょうど、今日は同じく同志社時代の別の代で院生だった方に原稿の校閲をいただき、さらには今日誕生日を迎えた海の向こうにいる友人に英語のチェックをお願いするなど、頼りっぱなしの一日であり、なるほど、信じて頼るところから信頼関係は生まれるのだ、と、改めて実感している。

2013年2月17日日曜日

オカン、アカン…

以前、大阪大学大学院人間科学研究科のボランティア人間科学講座の博士後期課程に社会人入学し、渥美公秀先生から指導をいただいていた折、『大阪ことば学』という本を紹介いただいた。紹介いただいた、というのは変な言い方だが、実は2週間に1回、書評交換会というものをメーリングリストを使って行っており、その中で渥美先生が評しておられたものの一つが、それであった。ちなみにこの書評交換会は「A Book A Week」の略称で「ABAW」と呼ばれており、本だけでなく、7つの日本語論文か、1つの英語論文と4つの日本語論文、あるいは2つの英語論文と2つの日本語論文か、3つの英語論文という、どれかで投稿しなければならないというルールがあった。

渥美先生はもとより、共に学ぶ仲間たちと共に、この書評交換会に参加するなかで、多くの本と論文に出会い、本と論文を読むということの意味、さらには本と論文を書くことの価値について触れたのだが、中でも『大阪ことば学』は、当時、京都から大阪へと頻繁に往復を重ねていた私にとって、大阪の文化を紐解く格好の素材となった。同書は1999年に大阪の出版社である創元社から刊行された後、2004年には講談社文庫で、さらに2010年には岩波現代文庫で、それぞれ再出版されている。内容については、ぜひ、本文を、少なくともリンクを辿っていただいて版元の紹介文を見ていただくことにして、ここでは「リズム」と「テンポ」こそが大阪ことばの鍵である、ということに、関心を向けていただくことにしよう。ここまで長くなったが、要するに、今日、かつて大阪で展開されていた「チカン・アカン」という列車内の痴漢犯罪防止キャンペーンのスローガン(ちなみに、Googleの画像検索で、多くの写真に触れることができる)を想い起こした、ということが言いたいのである。

実は、アムステルダムからの帰りの飛行機が乾燥していたためか、どうも喉から風邪を引いたようだ。で、「チカン・アカン」風に言うと「オカン・アカン」(ただし、大阪ことばで言う「お母さん」のことではなく、書き言葉で示すなら悪寒である)ということで、今日のお昼は師匠の渥美先生の大好物でもある天下一品で「こってり・ニンニク入・ネギ大」をいただくことにした。ちょうど朝から應典院の次年度以降の展開について、秋田光彦住職と打ち合わせだったので、應典院から程近い松屋町通店に出向いた。無論、それで治るとは言えないが、治さねば、という決意は固まった。

早めの昼をいただいて自宅に戻ってからは、休み休み、仕事をさせていただいた。本当は應典院での打ち合わせ内容(コンセプトメイキングのセンスに対するブランドマネジメントのスキルの向上で、プロジェクトの浸透力を高めなければならない、といった件)を住職に600字で送る、という宿題をいただいたのだが、その宿題が出たことだけをここに記して、もう少し、じっくり考させていただければ、と思う。根っからの大阪人で(も)ある秋田住職ゆえに、ただ、コントロールよく直球で返してもアカンのである。かといって、コントロールが悪ければ、最早、「人に充てる」ことが求められるキャッチボールではなく、「人に当てる」ことが求められるドッジボールになってしまうので、夜に見たETV特集「プレゼンが世界を変える」と題したTEDのドキュメンタリーのごとく、リチャード・ソウル・ワーマン(Richard Saul Warman)の言う「情報アーキテクト」の視点を研ぎ澄ませて、伝えることよりも伝わるよう、リズムとテンポをうまく見計らうことにしよう。

2013年2月16日土曜日

文字を書き、数字を読んで、図表にする。

国際ボランティア学会の第14回大会が、愛知淑徳大学の星ヶ丘キャンパスで開催された。ということで、立命館大学びわこ・くさつキャンパスで13回大会を引き受けさせていただいてから、1年が経ったことになる。実はこの4年にわたり、この学会の理事をさせていただいているのだが、学会誌『ボランティア学研究』の刊行も含めて、立て込んでの「作業」ばかりで、いい「仕事」ができたとは、胸を張って言えないのが心苦しい。それでも、今日は理事会での昨年度大会の実施報告と、ランチ・セッション「地域参加型学習のシステムとスタイル:各地の大学ボランティアセンターの実践から探る」のファシリテーターというお役をきちんと勤めるべく、朝から名古屋に出向いた。

昨年度の13回大会では東日本大震災から1年ということで「震災・ボランティア・コミュニティデザイン」という大きなテーマだったのに対し、今回は「なごや、大好き!だから、考えよう。」という、ローカルな切り口である。例年、2日間にかけて行われる年次大会も、今回は1日に集約され、ランチセッション以降の市民公開プログラムでは、第一部の公開シンポジウム「お金の地産地消から、地域の未来を描く」では、日本ファンドレイジング協会の鵜尾雅隆代表理事の基調講演とあいちコミュニティ財団設立準備会の木村真樹さんの活動報告の後に河村たかし名古屋市長が登壇、第二部の緊急フォーラム「東海地震に負けない!みんながやるべきこととは」では、人と防災未来センターの阪本真由美主任研究員とピースウィンズ・ジャパンの大西健丞代表理事と原田英之・袋井市長と厚生労働省企画課の岩崎克則さんと共に大村秀章愛知県知事が、それぞれ登壇した。こうしたコーディネートにあたったのが、愛知淑徳大学のコミュニティ・コラボレーションセンター(CCC)の運営に携わり、今回、大会実行委員長を務めた(ちなみに、大阪大学大学院人間科学研究科ボランティア人間科学講座の同窓というよしみがある)小島祥美准教授である。

午前中は自分のセッションの会場づくり(5号館5階55C)を一人で行っていたため、分科会に参加できなかったのだが、李永淑さんと高橋真央さんとのセッションを終えた後、一参加者として会場の後方で伺っていたシンポジウムとフォーラムは、なかなか興味深かった。一部からは意外だ、と思われるだろうが、今回、初めてお目にかかった鵜尾さんの基調講演では、NPO高知市民会議と寺村葬儀社による「天国からの寄付ぎふと」(これには「極楽ではないのか…」と思わずつっこみを入れてしまいたくなる浄土宗僧侶の私である)、実行者を支援するクラウドファンディング「READYFOR」などの事例紹介をはじめ、震災後に起こったお金の流れについての説明や、ファンドレイジングとは共感と解決策であるという基本的な考え方の整理、そして寄付を通じた善いお金の循環のためには「期待と機会と信頼と達成感」が鍵である、など、短い時間で端的ながら濃縮されたお話を伺うことができた。そうした話題提供が後の深い議論に拍車をかけた。鵜尾さんの基調講演の後、木村さんの活動紹介に続いて、「何が言いたいかっていうと」が口癖の河村たかし市長が、「減税とは税金の民主主義」であり、「この4年間で330億円減らした」こと、その背景には「年貢を1円でも減らす」ことで「1対1のサービスがより安く提供されるようにすることが、市民に対する責務と考えているため」など、(あの)親しみやすい語り口で、しかしNPO議員連盟の経験や、地域の寄付を推進するために必要とODA廃止論の提示、さらにはマッチングファンド方式による補助金行政の刷新可能性など、具体的な発言を重ねた。 

このように、充実したフォーラムに参加して、それぞれの語り口と発表素材を目の当たりにし、改めて、コミュニティデザイン、あるいは地域づくりのためには、文字を書き、数字を読んで、図表にすることが大切だと感じた。ただ、残念だったのは、手話通訳と共に会場に用意されていた要約筆記について、「聞こえる」「読める」私からすると、要約の度合いと字の読みやすさ、さらには要約筆記者どうしのチームワークなどの面で、より高い水準を追求できそうだ、と、そこに気が向いてしまったことだ。常々、選択肢は多い方がよいと考えていることもあり、ないよりもあった方がいいのは当然なのだが、当然、その質は低いよりも高いほうがいい。とはいえ、今回の「学会」の年次大会は「学術会議」という枠や既成概念の呪縛を解き、地域と共にある仕事や暮らしのあり方を総合的に迫った企画運営として、折に触れ、想い起こすことにしよう。

2013年2月15日金曜日

待ちの時間がもたらすもの

午前中に到着の便で、日本に帰国した。オランダ・スキポール空港の発着便が混雑していたためか、出発が1時間ほどかかり、結果として30分程度、予定時刻から遅れての到着となった。当然のことながら、関西空港行きの便ということもあって、ゲートに着くと、そこには関西のことばが行き交っていた。ただ、アムステルダムの美術館巡りをしている最中に舞い始めた雪もあって、あわただしく空港に着いたため、おみやげを買って、保安検査を受けると、ほぼ搭乗時間となったので、あまりゲートで会話を聞いた、という感覚はない。

日本に戻ってくると、周りへの配慮が少ないことに気付く。特に、待つことよりも、譲る、ということが稀なようにも思う。例えば、ターンテーブルでの荷物の受け取り、電車の乗り降り、歩道での往来など、である。人口8万人程度のまちで育ってきたのもあってか、どうも、そうした習慣にはなじめていない。もちろん、自分の都合を優先したくなるが、「急がば回れ」のごとく、結果として待つ方が、全体としては円滑に人とものが運ぶことの方が多いように思う。

ただ、帰ってくるなり、いくつかのことに追われる日々が続く。例えば、不在郵便物の受け取りである。「この間、日本に不在なことは知っているはずなのに」と感じながらも、まあ、送り主の都合もあろう、と、相手の立場に思いを馳せてみる。加えて、電子メールの送受信も、当面、頻繁に続きそうだ。

そんななか、大阪市により、「大阪アーツカウンシル設立に向けた事例調査・フォーラムの開催等」企画運営業務にかかる事業者の公募が本日、2月15日から始まった。ただ、2月26日に締め切りで、事実上、3月の事業着手となることを鑑みると、この事業は昨年度末の議会で決定されていながら、実施年度のうち、12分の1の期間だけで事業に着手され完了されなければならないこととなる。今年度、大阪府と大阪市の「特別参与」なる職に就かせていただき、守秘義務に抵触しない範囲で客観的な見地から事業の背景を整理するなら、この時期のこの期間での事業実施の背景には、大阪府と大阪市との共同事業として展開されるために、予算執行への調整が難航した、ということがある。「府市あわせ」とは誰が言い始めたかは知らないが、事業の依頼「主」に対して、その事業を担う事業者は「客」ではなく、あくまで事業「主」であることに、「役」所はその「役」を勤める上で、配慮を重ねていただきたい。

2013年2月14日木曜日

「ずれ」を楽しむ

約1週間のオランダとベルギーの旅も、終わりを迎えた。最終日の夜、この間、通訳などでお世話になった奈良ゆういちさんに、小池真理子さんの小説にも「白鳥亭」として登場したという、アムステルダム北の郊外「ウォーターランド」にあるレストラン 「Pannenkoekenhuis De Witte Swaen」連れていっていただいた。お店の名前に「パンケーキハウス」と掲げられているとおり、ここでは60種類ものメニューが提供されている。数あるパンケーキの中でも、ベーコンとアップルのパンケーキとトマトとチーズのパンケーキ、そして鹿の背中(要するにフィレ)肉のソテー、そしてチーズフォンデュでいただいた。

当たり前のことながら、あこの一週間は調査三昧だったので、最終日の午前中はアムステルダムの美術館巡りをすることにした。先にスキポール空港で「」まずは9時から空いている国立美術館に向かった。以前、これまた調査のために、KLMでフィンランドに行った折、トランジットの短い時間で訪れた場所でもある。今回はそれよりは時間があったものの、それでも急ぎ足で回った中、最後に目にした、1768年の時計(Pendule)と、2008年のMaarten Baas(マーティン・バース)による人間時計「grandfather clock」(ちなみに、2013年4月13日のフルオープンに向けたカウントダウンも、マーティン・バースによる)との対置が印象に残った。

より多くの時間を割いたのは、アムステルダム市立美術館である。とりわけ関心をひいたのは、1月25日から4月28日まで展示されている、Guido van der Werveによる映像作品「NUMMER VEERTIEN, HOME」であった。英語タイトルは「NUMBER FOURTEEN, HOME」となるのだが、その名のとおり、14の「組曲」を通じて、「ふるさと」に戻る、というものである。ショパン、アレキサンダー王、そしてトライアスロンという3つの要素が巧妙に組み合わされ、芸術家であり表現者としての氏の才覚に圧倒された。

1週間という期間は、異文化に浸るには短い、とも言えるだろう。ただ、その期間だからこそ、感じることができる要素もある。例えば、同行した建築家の荒木公樹さんは、ベルギー・ブリュッセルのトラムの吊革が、本当に革で出来ていたことに、いち早く気付かれた。無論、変わらぬ日常の中にも、何かを見いだす感性も重要である。常に勘が冴え渡るためには、それこそ、大阪で着地型観光に取り組むオダギリサトシさんの言う「異日常」へのまなざしを持つことであり、それは言うまでもなく異常を楽しむこととは異なる。

2013年2月13日水曜日

個の集住体の問題は社会問題である

帰国日から指折り数えた方が早くなって、はや数日、ブリュッセルからアムステルダムに戻り、ベルマミーア団地再生に関する最後のヒアリングを、午後からアムステルダム市の南東区役所(Stadsdeel Amsterdam Zuidoost)にてさせていただいた。3人の方にご対応いただいたのだが、一方的に話を伺うのではなく、それぞれの地域事情を語りながら知恵を紡いだ3時間を簡単に要約すると、立場を超えた対話を重ね、今、誰が何を求めているのかを互いに知らないといけない、ということとなろう。ヒアリングでは3人が同席する瞬間は残念ながらなかったのだが、ベルマミーアの地域のエリアマネージャーを務めMBAを修めたIsaac Adu Acheampongさん、ベルマミーア団地再生ではファイナンス部門を担当した政策展開部長(afdelingsmanager beleidsontwikkeling/department manager policy development)のJan Willem Sluiskesさん、そして先般65歳で退職したものの南東区の歴史を編纂する仕事のために頻繁に区役所を訪れているというベルマミーア団地再生での都市計画部門のリーダー(steden bouwkundige project leider/urban architectural project leader)を務めたEvert van Voskuilenさんの3人からお話を伺った。引き続き、通訳を奈良ゆういちさんに担っていただきつつ、一部は英語でのディスカッションとなった。

最初は関西大学による「団地再編プロジェクト」で来日経験もあるIsaacさんから、「200ほどの国籍が入り交じり、個々人が抱える背景が全く異なる中(all people have a different background)、入居率がほぼ100%だった中でベルマミーア団地の再生では、とにかく人を結集させて(mobilzed)、再生のプログラムづくりの対話(dialogue)の場をつくることにした」と説明がなされた。最初は用意いただいたPowerPointをお使いいだく予定だったが、前述のとおりに、来日時に提供されたスライドに目を通させていただいていたので、先に質問やコメントをこちら側が提供した後で進められた。ついては、プロジェクト同行する建築家の荒木公樹さんが、堀川団地は、6つの住棟で、120戸と60店舗が用意されているものの、既に20年ほど新規居住者の募集が停止されていることもあり、空家率が40%、 空店舗率は10%ほどであること、また京都府と京都府住宅供給公社との関係や、住民の方々と共に再生の方針を定めた懇話会の経過、さらに京都大学に委託研究がなされた改修と立て替えの具体的なプランの内容について説明し、この間の動向なども含めて、ディスカッションの前提が確認された。Issacさんは、これらの話を受け、両団地が置かれた状況を対比させながら、論点を抽出した。

Issacさんの整理を受け、参加は1時間という制約のあったSluiskesさんから、「ベルマミーアでは、当初は住宅・国土計画・環境省(VROM:Ministerie van Volkshuisvesting, Ruimtelijke Ordening en Milieu/The Ministry of Housing, Spatial Planning and the Environment)が構想し、後に労働党政権となってからは内務省(BZK:Ministerie van Binnenlandse Zaken en Koninkrijksrelaties/Ministry of the Interior and Kingdom Relations)が所管した地区整備のための40のアクションプランの1つとなり、年間で約2万ユーロがベルマミーアに投入されたが、こうした政府の動きだけでなく、地域もお金を出し、アイデアを出し、何よりコンセプトにあわせてまとまっていくことが大事である」と、堀川団地再生における事業の企画推進にあたってのポイントがまとめられた。ちなみにSluiskesさんは時間の制約もあって、事前に質問項目をお送りし、回答を得ていたので、端的なやりとりで済まされることとなった。ただ、回答の中にあった「ベルマミーアに最高の学校を!」という、未来への思いについて伺うことができず、この点はVoskuilenさんにお伺いすることとした。そして、やや奇妙なことに、ミスコミュニケーションゆえに休憩をはさんだ後の参加となったVoskuilenさんだけが最後まで残っていただき、現職の方が不在な中で区役所を使わせていただく、という状況になった。

Voskuilenさんとは長らくベルマミーア団地再生の建築面のリーダーとして関わってこられたゆえに、今回の調査の全体を総括するかのような議論を行うことができた。例えば、団地再生事業及びその後の事業進捗にあたっての組織図を描きながら解説いただき、改めて多様な主体と住民との関係についてて整理がついた。また、Voskuilenさんによれば「団地再生の事業では、できるだけ予算を掛けずに階高を稼いで緑地を増やそうとする(less money, more level, more green)が、ベルマミーアでは住民とのダイアローグを行い、達成すべき目的のための解決策(objective solutions)を専門家が提示して、その実現のための約束を関係者間でとりつける(compromise)ためにかけた1年半という期間は、意思決定のための時間としては適切だったと思っている」と、再生事業そのものを俯瞰した視点での評価も伺い知ることができた。その点で、issacさんが強調した「居住者が果たして何を望んでいるのか(what they need)、医者なのか、診療所なのか、ヘルスセンターなのか、スポーツセンターなのか、まずは専門家が住民の思いを代弁できるまでに語りの場をつくり、仮にそうした望みが叶うとどのような暮らしがもたらされるのか、専門家はそれを説明する役割を担う」という考えにも合点がいった。

団地再生のみならず、多様な主体と複雑な対象が関係する公共事業においては、早く変えたいという行政、ちゃんと変えたい専門家、変えて欲しくない住民、という構図が生まれることがある。今回のディスカッションでは、「専門家による協議も難しいだろうが、行政が個人の問題には手を出さないという立場を採られたときには、公共サービスの質を保証するために行政の予算は支出されなければならないという前提が合意されないといけない」(issacさん)という担い手の姿勢や、「業務の上で具体的なアイデアをつくり、よいチームワークを進める際には、知識よりもモチベーションの方が重要であって、とにかく地域にかかわり(engage)、地域と共に動いていかなければ(working together with the others)、地域の関係は近くならない(cannot close to the society)」(Sluiskesさん)という事業執行者の教訓、さらには「住民の意見というのは、とにかく割れるものだから、その際にはとにかく問題をはっきりさせ、意見を集約し、それを実現するにはどれだけのお金が必要となるかを明らかにし、10年後や20年後にどれくらいの価値が生み出されるのか、それだけの価値を生み出すにはどれくらいの投資が必要なのか、ヴァリエーションのあるプランを出しながら、どれくらい自分事として問題視できているかどうかを探る」(Voskuilenさん)という専門家としての立場の自覚、それぞれに触れ、自らの役割や責任を見つめ直すことができた。堀川団地の再生は、二重行政(例えば、広域自治体としての京都府と基礎自治体としての京都市)と二元行政(役所と議会)、さらには行政に対する外郭団体(京都府と京都府住宅供給公社)という、公共事業における主体と対象のあいだでの意思決定が容易ではない困難さを根源的に内包した事業である。その意味で、最後に、Voskuilenさんに、対話という「フロー」のメディアに対して、文書などの「ストック」をどのように捉えているか伺ったところ、「追体験できることも大事だが、コミュニティのつながりをつくるプラットフォームとしてのメディアが大事」と仰られたので、少なくとも今回の調査では前者の「追体験」のため、こうして「熱いうち」に文字化したことが、歴史家と歴史化のための素材になれば、と願うところである。

2013年2月12日火曜日

参加と複合のための対話

アムステルダムから列車で1時間50分ほど、ブリュッセルにやってきた。無論、普通の列車ではなく、フランス・ベルギー・オランダ・ドイツを結ぶ高速列車Thalys(タリス)で、である。ただ、不安な要素が満載の移動でもあった。何より、前日にチケットを発券していたものの、露骨に「オーバーブッキング」と書かれていたのだ。

 アムステルダム中央駅でチケットを買ったとき「並びの席が取れなかったから、乗車してから係員に聞いてくれ」と言われたので、素直に言ってみると「ああ、わかった、じゃあ、あのボックスに座っといてくれ」といった感じの指示を受けて座っていると、ベルギーを入る手前くらいに「ここは私の席よ」「ここは俺の席だ」という方が相次いで来られたので、荷物の移動もままならない混雑さになってきたゆえ、あえなく、デッキで1時間ほどを過ごすことになった。それでも無事、ブリュッセル駅に到着した後は、早速、荷物を置きに、本日のお宿のホテル・メトロポールに向かった。歴史の風情を感じることができる素敵な空間を少しだけ味わって、再びまちへと繰り出した。

 1泊しかしないブリュッセルでも、建築と住まいを巡るというテーマは外れない。まずは建築家のルシアン・クロール(Lucien Kroll)によるルーヴァン・カトリック大学の医学部の学生寮(Maison Medicale "MeMe")およびアルマ(ALMA)駅周辺の開発プロジェクトを尋ねた。ルシアン・クロールとアムステルダムとは、2000年にベルマミーア団地の再開発のコンペにも応募しているというつながりも見出せたのだが、それ以上に著書『参加と複合』(既に邦訳書は絶版で、日本建築学会の学術刊行物『建築雑誌』の2003年12月号に、訳者である重村力先生ご自身が記された書評が掲載されている)でも述べられているとおり、1970年から2年にわたり、建築家が施主の置かれた状況に参加することを前提に、学生や大学との対話を通して、レストラン、幼稚園などの複合施設としてこの寮を完成させた。もともと、パリの5月革命があったからこそ、逆にこうした対話を通じた参加と複合の賜物としての空間が成立したのだろうが、それから40年あまり、果たして今、こうした哲学をもった学生の拠点が生み出されるのか、大学という組織に(も)身を置いている者として、深く考えさせられる建築であった。

アルマから市街中心部に戻った後は、世界遺産にもなっている「グラン=プラス」の界隈を散策した後、自然派な食事を摂ることができるエクスキ(Exki)に、そしてベルギーワッフルをダンドワ(Dandoy)でいただいて、オルタ美術館へと向かった。こちらも世界遺産ながら、周辺一帯としてではなく、オルタ関連の「一群」とされたため、なかなか、まちの雰囲気としては遺された価値を直接体感できなかったものの、中に入ると、洋の東西、直線と曲線をうまく取り合わせた美しさを味わうことができた。少々、疲れが溜まっていたためか、証券取引所の横の「ファルスタッフ(FALSTAFF)」でベルギー料理とベルギービールを3杯ほど頂いたものの、日本から六波羅雅一さんによる「おすすめのお店」のメールにも気付けず、静かにメトロポールの部屋に備え付けの「Stella Artois」をたしなんでから、程なく、心地よい眠りに就いてしまうのであった。

2013年2月11日月曜日

柔軟さをチューンする

アムステルダム4日目は、3つの予定が組まれていた。一つ目はベルマミーア団地の再生にあたって、行政(アムステルダム市および南東区役所)と事業主(ロッジデール社)のコーディネート役であるPVB(Project bureau Vernieuwing Bijlmermeer:the planning office for the renewal of the Bijlmermeer/英語版の案内は2008年に作成されたものが最新)のHoop de Hann(デ・ハーン)事務局長からのヒアリングである。二つ目は、KIKKENSTEIN棟の住民組織の代表であるHenk van de Belt(ヘンク)さんのインタビューである。三つ目は、ベルマミーア団地の建築での最大の特徴とされる「スーパーハニカム」のうち、あえて取り壊し(英語では「demolish」)せずに、保存と活用の道が探られてきた「KLEIBURG」住棟での新規事業のプレゼンテーションと意見交換である。

今日もまた朝10時に通訳や「行間の解説」をいただく奈良ゆういちさんと合流し、アムステルダム中央駅からレッドライン・53号線で「Ganzenhoef」駅に向かい、PVBの事務所のあるGROENEVEEN棟に向かった。デ・ハーンさんの時間がタイトらしく、何度も時間のことに気を向けなくてはならなかったが、まずは今回のヒアリングにあたって堀川団地が置かれた状況と、再生にあたっては福祉・アート・交流といったソフト面が京都府が京都府住宅供給公社と共に進められようとしていること、そのため、行政とロッジデール社とのあいだに立つPVBがどのようにプロジェクトマネジメントを推進しているかを伺いたいということ、これらを伝えたのだが、やはり通訳を介してのことなので、こうした前提の確認で20分弱を要した。それらに対し、デ・ハーンさんは、まずベルマミーア団地再生の経験から、現在の入居者が継続居住できる権利を保障すること、全体の25%の範囲での貧困層の生活向上を目的に据えるということ、そして空家状態が続く住民の不安が高まるために適切に規則を定めて安全性を高める取り組みが必要であると語った。それらに基づき、合計で5つの質問をし、(1)行政からのオーダー(ここでは方針)に基づいてPVBがプロジェクトの計画立案と推進をロッジデールが行うとの役割分担だが、そうしたパートナーシップが適切か、という質問には「バジェット(予算)の調整よりも、行政の意思決定と居住者の合意形成と新たな居住者の選定といったテンポがうまくいかないこともあるが、時にはお金を握っている立場の以降が強くなるものの、地域の安全が一番の目的とされた再生事業ゆえに、コーディネートを担うPVBが時には強く発言し、必要なことにお金が払われるようにしてきた」と、(2)なぜ行政(アムステルダム市・南東区役所)から再生事業者(ロッジデール)に直接オーダーをせず、PVBがコーディネートをしているのかの質問については「(施策を進める側も事業を進める側も)自分のやりたいことをやりたくなるので、調整役が必要となるから」と、(3)行政と再生事業者との調整役との組織間の連携はよくわかったが、住民および住民組織はプロジェクトマネジメントに関与しないのか、という質問には「2000年から2003年には正規な住民組織が設立され、ロッジデール側が住民組織とのあいだで関係構築を図っているようだ」と、(4)敷地の北東部分に学生向けのコンテナハウスが15年限定で設置されていたが、そうした新規事業もPVBが進めているのかという質問には「あれはロッジデールもやりたくない事業なので、学生の居住環境を整える第三の組織が担っており、必要に応じてPVBも意見交換をしている」と、そして最後にクイック・クエスチョンとして(5)PVBは行政からのオファーに応えるだけでオファー(提案)やネゴシエーション(交渉)をしないのかという質問には「するときもある」と、回答を得た後、別のスタッフの方と急ぎ足で事務所を後にされた。

続いて昼食も取らずに向かったヘンクさんのインタビューは、当初は南東区役所の可能性があったものの、KIKKENSTEIN棟にある、BuurtSalon(Neighboring Salon:さしずめ、ご近所の集会所)にて、1992から住民組織の代表を務めているご経験をもとに、一方的に話を伺うのではなく、英語での会話(talk)を求められることになった。ヘンクさんは1971年から入居するガーデンデザイナーで、1983年には独立、1990年に住棟内での多発する犯罪に対して「闘う(fight)」か「怯える(fright)」かの選択が迫られる中、1992年に住民組織(1973年設置)をあげて「闘う」道を選び、入居者から署名を集めて、1995年にビデオ監視システムの導入を実現した、というエピソードが象徴するように、ベルマミーアへの愛着と情熱にあふれた方である。同時に、言葉も豊かであり、こうしたコミュニティハウス(集会所)をマルチユースのルームとして場を開き、住民がつながるには、「Perfection can kills you(完璧を求めれば、自らの命が絶たれる)」ために「Deleteキー」が重要で、「flexibility」の「tuning」(柔軟さの度合いの調整)が鍵だ、など、まるで家にお邪魔したかのような茶飲み話(ちなみに向かいのショッピングセンターでサンドウィッチを調達し、本当にお茶もいただいた)となった。ビジネスの才覚も豊かとお見受けし「全ての問題は経済的な問題の解決につながっているんだ(every problem is connected to an economic solution)」と、「今後は人の移動が激しくなる中でペンションシステムとでも言うような2地点居住を国境を越えて提供できないか」や「中国の大気汚染が激しいからコンデンスミルクの貿易でも始めようか」など、どこまで本気かわからないことを仰りつつも、団地住民のコミュニティづくりで特に重要なのは、住民どうしの関係を築く(bulit the trust)ことであって、「ベルマミーアの失敗というのは物理的な問題、社会的な経営の問題、仕事や学校など社会的な環境の問題など多々挙げられるが、結局は建築ではなく住宅管理(housing management)だ」と断じた上で、この間、ソーシャル・エンターテイメントとして趣味的(ホビー)として3ヶ所でのサウンドプロジェクト(例えば、アンデルセンの童話にある機械仕掛けの鳥にモチーフを得た「ベルマミーア・ナイチンゲール」など)、40年続いている花を共有スペースに置く活動、分相応の取り組みが大事(例えば、高級車のブガッティで農作業をしても1年も保たない、といった比喩が用いられた)と、楽しいお話を終えた。

一日の終わりは、2月9日に語り部のジェニーさんによってベルマミーア団地を案内された折にも、「最後のプロジェクトが始まる」と仰っていたKLEIBURGで始まっている「DE FLAT(The Flat:これぞ住処だ!とでも言ったらいいでしょうかね…)」プロジェクトの現場を拝見させていただいた。案内いただいたのは、Kondor wessels vastgoedという不動産企画会社(1996年設立で、起業家精神と創造性にあふれた集団、とのこと)のProjectontwikkelaar(Project Developer:プロジェクトマネージャー)のKootさんと、Stagiair(trainee:日本で言うインターンのような位置づけ)のWennekesさんで、プロジェクト全体の解説と、ほぼリノベーションした住戸(Maaike ThijssenさんとMaatje van MeerさんによるM+M Designが担当)、リノベーションのための下地を整え始めた住戸、そして原状のままの住戸、それら3つを比較することができた。このプロジェクトが 興味深いのは、60平米を65,000ユーロという統一単価で売却し、既存の部屋の間取りにあわせて3つのプランが提示され、それらをDIYでリノベーションすることもKondor wessels vastgoedがコーディネートすることも、居住者が建築家を起用することもできるという柔軟さ、さらには安価な値段ゆえに親が購入して在学中の子どもの住まいにする、といった展開も可能になっていることで、3月の販売を前に、100戸(そのうち地上階の店舗兼住宅のメゾネットタイプが8)のうち41戸が予約済み(メゾネットは0)であった。遅めのお昼と夜を兼用ということで、Ganzenhoef駅の横にあるスリナム料理店「Smeltkroes」でいただいた後、さらにアムステルダム駅から渡船でフィルムミュージアム「Eye」バー・レストランに、通訳などをいただいている奈良さんとご一緒しながら、改めて、堀川団地の再生プロジェクトに「東京R不動産」による「団地R不動産」の取り組みが参照される意味を再確認した一日であった。

2013年2月10日日曜日

雪の緑地の共有地

アムステルダムの3日目は日曜日に迎えた。昨日のベルマミーア団地「漬け」とはうってかわって、今日はアムステルダムの市内を踏査するという予定となっていた。ホテルにてゆったりと朝食をいただいて、9時半からまちに繰り出すことにした。昨日から使っている、地下鉄とトラムとバスの全線で使うことができる市の交通局(GVB:Gemeentevervoerbedrijf)の、72時間有効の乗車券が役に立つ。

前夜からしんしんと降る雪も重なって、まちは朝から静かであった。まず、向かったのは、2009年6月20日に開館したエルミタージュ美術館の分館で、ちょうど国立ゴッホ美術館が改装中ということもあり、ほぼ全館を用いて「ヴィンセント展」が行われていた。何とも雰囲気のあるこの建物は、裕福な商人・Barent Helleman氏の遺言に基づき、1682年にカトリックの教会によって建設された、400名が入所できる養老院「アムステルホフ:Amstelhof」で、終末期のケアが女性には行き届いていなかったことを背景として、50歳以上で10年以上教会に通っている在アムステルダム15年以上の女性を対象とされ、男性も入所が開かれるようになったのは1817年とのことである。一方で、エルミタージュ・アムステルダムは、第一フェーズとして2004年2月28日から2009年1月19日までは、アムステルホフの隣のNeerlandia(ネーランディア)にて企画展がなされていたそうだが、長きにわたって閉鎖されていたというアムステルホフを改修し、新たに第一フェーズの10倍という広大なスペースを活かすべく、基本はサンクトペテルブルクの本館の展示を半年ごとに入れ替える特別展とし、アムステルホフの歴史と、ロシアとオランダとの友好と、2つの常設展という構成となっている。

エルミタージュ・アムステルダムのカフェレストランでランチをいただいた後に向かったのは、港湾から宅地へと転換された、東部臨海地区である。まずはかつてのKNSM(Koninklijke Nederlandsche Stoomboot Maatschappij:Royal Netherlands Steamship Company/王立オランダ汽船会社)にちなんで名付けられた「KNSM島」にて、1988年にオランダの建築家、Jo Coenen(ヨー・クーネン)によってマスタープランが設計された住宅地群に訪れた。案内いただいた建築家の荒木公樹さんによれば、「新しもの好きの金持ち」が移り住んだとのことであり、設計者自身が「都会の遊牧民や不法占拠者など、地元の人々と語り合った(A lot of talks were held with locals, including squatters and urban nomads)」と述べているとおり、過去の歴史や文化を継承しながら提案されたプランとしては興味深いものの、KNSM島の西側に広がる「JAVA島(ジャワ島)」での水(4つの運河)と緑(公園機能のある共用スペース)と複合パターンの反復の方に心地よさを覚えた。宿に戻った後、KNSM島の開発から7年を重ねた1995年、このジャワ島の再開発のマスタープランを描いたSjoerd Soeters(シュールト・スーテルス)のウェブサイトで設計の理念を調べてみると、上述の「複合パターンの反復」を成立させている要因が「絶妙ななだらかさを持つ丘陵によって生み出される景観が、共有地における開放性と境界設定をもたらすという知恵(the experience of openness and demarcation in the open field, and in particular the way in which hilly landscapes)」は「日本の景観建築の大家である樋口忠彦が示した視覚と空間の構造に関する知見であり、この計画のデザインを推敲を推敲する上で、創作の源泉となった(The Visual and Spatial Structure of Landscapes by Japanese landscape architect Tadahiko Higuchi was an important source of inspiration in the elaboration of the design)」と記されており、合点がいった。

前日からの雪も昼過ぎになると徐々に溶け始め、やがて路面の一部がアイスバーンのようになる中、これまた多数の特徴的な現代建築が並ぶボルネオ島(越後妻有アートトリエンナーレ「大地の芸術祭」の拠点の一つ、「まつだい農舞台」の設計で知られるMVRDVも、ここで住宅の設計を手がけている)に向かったのだが、凍てつく風に集中力も持たず、まちなかのカフェへと足を向けた。いくつかの候補の中で、アメリカンホテルのカフェ・アメリカンにお邪魔したものの、おしゃれな紙に蒸着した黒のトナーが、経年劣化でかなりかすれていたようなメニューを提示されたりで、サービスが建物の雰囲気に飲まれてしまっていると、あまり時間を費やさずに出ることにした。夕食は『地球の歩き方』で見つけた、セルフサービスの「La Place」で気軽にいただき、宿に戻った。アムステルダムの市街を一日歩き、ふと、ゴッホが広重などの浮世絵を模写し、精神病院への入院を経て、パリ郊外のオーヴェール=シュル=オワーズで過ごした折の最期の作品がいずれも自然の風景であったことを思うと、それぞれの時代の「現代」という中で、過去と未来をいかに接続していくか、愚直に追究する人々がいたのだと、小さな感慨に浸ったりもするのであった。

2013年2月9日土曜日

Oh! ベルマミーア!

アムステルダム調査&旅行の2日目は、ほぼ1日を、約150の国の人々が住むという、ベルマミーア(Bijlmermeer:英語読みではベイルメルメール)で過ごした。日本におけるベルマミーア団地に関する研究の第一人者は角橋徹也さんで、もともと大阪府庁の職員である角橋さんは、1965年と1999年の2度にわたるオランダ・ハーグ社会研究所に留学経験を持ち、2003年には神戸大学にて塩崎賢明先生のもとで博士論文を提出している。角橋さんによる研究は、『団地再生のすすめ:エコ団地をつくるオープンビルディング』(2002, マルモ出版)の「アムステルダム・ベルマミーア高層団地の再生事業」(pp.48-55)に全体像がまとめられているとともに、日本建設学会の年次大会で発表された研究(2002年に失敗の要因の分析2003年に再生事業の事実関係の整理)がオンラインにて閲覧可能である。今回は、角橋さんも参加している、関西大学で文部科学省の「私立大学戦略的研究基盤形成支援事業」に採択された「集合住宅“団地”の再編(再生・更新)手法に関する技術開発研究」のメンバーとなっている建築家の荒木公樹さんと共に、ベルマミーア団地でのフィールドワークを行うこととした。

ベルマミーア団地を知る方法として最も適切なものは、Bijlmer Tourという看板を掲げ、長らくこの地域に関わってきているジェニー(Jenny van Dalen)さんに案内をいただくことだと、到着した翌日の朝から、一日、地域の案内とインタビューをお願いした。1950年5月生まれで、もともとトルコ人の貧困家庭へのソーシャルワークの仕事をされてきたジェニーさんは、1984年に仕事関係の友人の住むベルマミーア団地の公園で開催された多文化共生のお祭り「Kwakoeフェスティバル」に訪れたことがきっかけで、翌1985年からベルマミーアに移り住むことになった。そして、1998年以来、「失敗」の烙印を押されて、負の遺産をもたらしたネガティブな歴史が根差すベルミーア団地でボランティアの語り部として活動を始めた後、2000年からは1期4年にわたり、アムステルダム市の南東区(Zuidoost stadsdeel)の議員を務め、2006年からはベルマミーアにおける住宅供給を担うロッジデール社で週20時間の嘱託職員として勤務するも、世界的な経済危機を受け、新規のプロジェクトの企画運営がままらなくなり、2011年に雇い止めとなった。ちなみにジェニーさんのボランティア活動は多岐にわたっており、ベルマミーア団地の語り部としてガイドを始める前の1994年から、例えばシングルマザーの居住支援、メトロでの犯罪防止など安全化運動、エスニック料理本づくり、スリナムからの移民に食器を提供するためのバザーの開催、単身居住者支援を目的にしたコミュニティレストランの組織化、地域の魅力創出のための彫刻設置活動、麻薬中毒患者の支援、青年期までのこどもを抱える親の支援など、枚挙にいとまがない。

今日はまず、10時にアムステルダム中央駅で、通訳をお願いしているNaraN ProjectsのYuichi Nara(奈良ゆういち)さんとお目にかかり、イエローライン・54号線でBijlmer ArenAに向かい、10時半に自転車で合流するジェニーさんと駅で待ち合わせ、そこから約2時間にわたるまち歩きが始まった。駅の東側には、世界的に有名なAjax(アムステルダム・アヤックス)の本拠地であるアリーナ(ArenA)をはじめとしてオフィスタワーやショッピングセンターが新たに整備され、アムステルダムの新都心として大規模雇用を創出したが、我々の「目当て」は、線路をはさんでその反対側に広がる、1975年に完成したベルマミーア団地の再生の現場である。ともあれ駅周辺の「アムステルダム・ポート地区」(Amsterdamse Poort)から、15年限定の「コンテナハウス」(イメージは学生のワンルームマンションを工事現場の資材などを用いた仮設的住宅)などが置かれた「ハンゼンフーフ地区」(Ganzenhoef)を抜け、トルコ料理「meram」南東店にて食事と食後のコーヒーをいただきながら、食事を含めて3時間ほどのインタビューをさせていただいた。その後は、18時くらいまで2時間半あまり、クラーイエンネスト地区(Kraaiennest)を回って、レッドライン・53号線のGanzenhoef駅から中央駅へと戻るという行程だった。

1日、ベルマミーアで過ごして、率直に感じたのは、1966年から約9年にわたって実施された7万平方メートルに6万人という巨大な開発プロジェクトの計画が、社会的、経済的、文化的な変化の只中で、完了を前にして「失敗」したと言われるものの、その再生事業が終了した今となっては、その壮絶さを追体験するのは難しい、ということだ。逆に言えば、この1日、ジェニーさんと行動を共にして、団地に暮らす人々が、こぞってジェニーさんと住民の皆さんが、確かな信頼関係でこの15年ほどの時間を重ねてきていることを(別の方も「gregarious:社交的」と表現しているとおり)切に感じたところである。ちなみに、ジェニーさんのインタビューでは、何度も「投資家(investor)」という言葉が出て来たのが印象に残ったのだが、最後に、「ベルマミーアの再生にあたり居住者には、団地内の別の家に住むか、アムステルダム市内の別の家に住むか、マイノリティの多い西部地区に住むか、という3つの選択肢が提示されたが、再生後、知り合いが多い、文化的である、信仰が根差されていると、という理由から、多くの人が戻って来ることを希望した」「経済危機のあとは特に学校をやめる青少年が増え、その結果として若者に未来がなくなっているのではないかと気になっている」「加えて、今回の経済危機では失業者が増加して、ローンの返済が不能になった人も多く、しかも売却ができていない人には、新たに家賃補助をもらうこともできず、生活が困難だろう」といった、問いをいただくことができた。2日目の旅程を終えた今、荒廃の中から「奇跡」とも言われるような結果をもたらした取り組みに対して、その「軌跡」を丁寧に紐解くことができなければ、まるで一人の変人が、あるいは熱血漢が、超人的な力量を注ぎ、信念を貫いたという個人の物語で終わってしまうと、無性に『スクール☆ウォーズ』を思い出して、腑に落ちている。

 【注記】


▼角橋徹也さんは、1960年には企業局宅地開発部で千里ニュータウンや泉北ニュータウン開発に従事、その後1966年に財団法人日本万国博覧会協会に出向して外国館の折衝担当となった後、1967年のモントリオール万博開催時は現地に駐在、さらに1970年の大阪万博ではアジア館を中心に国際館のパビリオンマスターを勤めという経歴が一部で知られている。なお、大阪府知事選に2回(1987年1991年)出馬されている。また、2009年に学芸出版社から刊行された『オランダの持続可能な国土・都市づくり』は、博士論文「オランダの空間計画の特質に関する研究」が基礎となっている。2011年からは、市民大学院(文化政策・まちづくり大学校)にて教える立場にある。(同「大学院」は、2011年度に京都市の協力を得て開学予定だった「文化政策・まちづくり大学院大学」であるが、文部科学省により設置が認められなかったものの、現在も京都市下京区にある元・成徳中学校にて活動を展開している)

▼ 「Kwakoe Zomerfestival:Kuwakoe Summer Festival/クワコエエ夏まつり」は、1975年からベルマミーア団地で開催されたスリナム人のお祭りであり、最初はSV Bijlmerの協力によるサッカー大会として開催されていたが、1983年にBijlmer Parkに場所を変えた後、いわゆる多文化共生フェスティバルへと発展し、現在まで続いている(ただし、運営に携わっていた青少年財団は2008年に破産宣告を受け、2009年には新体制に刷新された後、35回目となる2010年大会は開催できたが、2011年には財政難で中止となり、2012年は再度実施できたもようである)。Kwakoeとは、白人たちに反旗を翻した逃亡奴隷たち(マルーン)が継承してきた儀礼「クロマンティ(Kromanti)」の中で、「水曜日」を意味する言葉であり、もともと、労働者として雇用される職場の特性上、休日に休むことが難しく、平日(水曜日)にお祭りをすることになったため、スリナムで奴隷制度が廃止された1863年7月1日が水曜日であることにちなんで、お祭りの名称に掲げられたという。ちなみにスリナムは1873年の完全解放を経て、1975年11月25日にオランダ政府から完全独立をしたが、その結果、スリナムからの移民がベルマミーアに流入した。この流入が団地内のコミュニティの崩壊をもたらした要因の一つであるとされるが、逆にベルマミーアにて奴隷解放100年を記念し、このお祭りが始まったことも、複雑な文脈と言えよう。

▼ジェニーさんは地域政党に属する議員として、ベルマミーア団地の空間的再生と社会経済的再生の計画等に携わったという。そして、ソーシャルワーカーという仕事をしてきたことも相まって、議員時代には住民と行政とのあいだの仲介者となり、ニューカマーに生活の知恵を提供したり、プロジェクトの資金調達や管理について取り組んだとのことである。2000年から議員だったことを鑑みると、ちょうど1999年の事業中間年の中間評価を経て、2009年の事業完了に向けたプロジェクト推進の重要な時期であったと考えられる。しかし高架道路の撤去を巡る政策で意見が合わず、労働党に移り、議員の任期を終えてからは、党委員として党の執行部にて週2時間の勤務を基本として、週4時間程度、詰めているという。

▼ジェニーさんは、ロッジデール社に在職中、同社での仕事とは別に、Biljmer Euro(ベルマユーロ)という地域通貨システムのつなぎ手(さしずめ、オルガナイザーという表現が適切だろう)も担ってきた。これは、ICタグを5ユーロ札に貼り付けるという、何とも大胆な地域ネットワーク醸成のための地域通貨システムである。2010年7月からImagine ICという団体が取り組んでおり、恐らく、ジェニーさんのフットワークとコンセプトワークが、同団体において重用されたと推察できる。

2013年2月8日金曜日

初めてながら懐かしい感覚

應典院のコモンズフェスタが終わり、立命館大学は講義から入試へとモードが変わるなか、オランダとベルギーに出張させていただくことなった。今回の出張は、京都大学の高田光雄先生を代表者とする共同研究のチームに入っていることによる。このプロジェクトは、いわゆる「科研費」と呼ばれる科学研究費補助金事業に採択されており、2013年度から4年にわたって各種の実践的研究を進めることになる。テーマは「地域のまちづくりと連携した市街地型公的住宅団地の再生に関する研究」であり、主たるフィールドは京都府の堀川団地だ。

一連の調査研究にあたって、私は「商業機能の検討」を分担して取り扱うこととなっている。商売は得意でない私も、「まちづくり」という大きなテーマに対する商業機能という点なら、これまでの経験や社会心理学の一分野である「グループ・ダイナミックス」の観点から接近が可能であろう、という見立てである。というのも、京都府住宅供給公社「堀川団地まちづくり懇談会」がとりまとめ、公開されている報告書にも記されているとおり、「昭和26年に竣工」(p.13)した堀川団地は、全国初の「ガス、下水道が完備した鉄筋コンクリート造の店舗付き住宅」(p.3)なのだ。そこで、単なる「古き良き」といった懐古主義や、「もったいない」といった温情主義に回収されることなく、負の歴史も含めつつ、今なお商いと住まいの場とされている方々をいかに大切にできるか、それが今回の共同研究で特筆すべき課題なのである。

今回の調査では、アムステルダムのベルマミーア団地及び団地の管理等を担う東南区役所でのヒアリングを主として、ブリュッセルの隣町にあるルシアン・クロール(LUCIEN KROLL)によるルーヴァン・カトリック大学の学生寮などを訪れることで、この大きなテーマを紐解く実践知を求めに来た。とりわけ「団地再生」は成功例が語られやすい。また、建築物という見えるものに手が入ることによって、変化の比較は文献資料でも可能である。しかし、成功したと呼ばれる事例ほど、その後には礼賛の嵐が訪れる傾向があろう。そうした私の関心は、1992年から行政によって大胆な団地再生等の事業がなされた開発に対して、2002年の段階で「失敗」の要素が明らかにされている中、さらにその10年後に「今」を追うことにある。

アムステルダムへはKLMオランダ航空により、関西空港から直行便が出ている。出発の直前に、メールでの伺いや催促の域を超え、電話での督促と最終通告をいただいた案件を2つ終えて乗った行きの飛行機では、まず、仕事に追われて後回しとなったメールの整理と返信の作業などに充てた。パソコンの電池の前に、自らの体力という電池が切れたため、気分転換にと、11時間あまりのフライトの途中で、『踊る大捜査線4』と『あなたへ』を観た。どれも、作品としては初めて観たのだが、前者はテレビシリーズを観ていた当時の自分を思って、そして後者は劇中で歌われる宮沢賢治作詞・作曲の『星めぐりの歌』が高度1万メートル上空を西へと向かう旅客情緒に染み渡り、印象深い作品となった。これからの1週間、ちょうど、東日本大震災で被害を受けた東北の地へ1200kmほどの旅路を2週にわたって重ねたということ、さらにはその過程で、1995年の阪神・淡路大震災以降の自分を振り返ったこと、それらも相まって、各所にて、初めてだけど懐かしい感覚を携えての調査の旅(『あなたへ』の台詞を借りるなら、これはやはり旅であって決して放浪ではない…)を送ることになりそうだ。

2013年2月7日木曜日

飛躍による不連続を伴う接続


コモンズフェスタがあけて、久々に朝から應典院に向かった。應典院の朝は、浄土宗の日常勤行から始まる。速く読めば5分ほどで終わってしまう時間だが、7mという高さの本堂ホールの天井から響いて返ってくる、住職、事務局長、そして私の声を聞きながら口唱する、修養の時間である。應典院の寺務所は、應典院の本寺である大蓮寺による特別事業「パドマ幼稚園」で用いられる教材を企画、制作、販売する株式会社創教出版の事務所と共有しているため、朝の時間が終わると、電話や来客で賑やかだ。昼は決まって馬蹄形のテーブルで食事を共にするのが、事務空間を共有するようになった、この8年ほどの習慣である。

そうした日常に加えて、いくつかの非日常があった一日だった。まず、13時からは應典院の全体会議で、先月末の「コモンズフェスタ」の振り返りが行われた。その後、15時からは4月に舞台公演をされる北口裕介さんがお見えになり、劇場寺院である我々と連携した企画を練った。そして17時半からはSVAの名で知られるシャンティ国際ボランティア会のスタッフでもあり、立命館大学の学生でもある里見容さんとお目にかかり、次年度以降の気仙沼と関西との接続の仕方について、打ち合わせをした。

こうした各種の場で、それぞれの方々と語る中で、一瞬、飛躍したかもしれない、という瞬間を迎えるころがある。ヘルシンキ大学のユーリア・エンゲストロームによる活動理論では、それは「スプリングボード」と呼ばれている。とっさの一言、というと、妙に日常の言葉になり、それ以上に、苦し紛れの弁明のように受けとめられるかもしれないが、何か腑に落ちないときに、ジャンプ台を使って、あるいはトランポリンに乗って、自らが立っている地平から、ぽーん、と離れてしまう、そんな瞬間である。今日であれば、コモンズフェスタの報告書は「A4版の書式」から「ハガキ大のカード」という方法もありうること、北口さんとのワークショップ等の企画では翻訳会話劇というキーフレーズを見つけたこと、里見さんとの打ち合わせでは「する・される」の関係を一対一対応で考えることで事業と授業のかたちが整理できたこと、などが挙げられる。

総じて、市民活動、あるいは社会運動の面白さとは、地続きのようで地続きでない、新たな選択肢を見いだし、提案することのように思う。だからこそ、そうした地に足が着いていない感覚、地続きでない環境に身を置かなければならない気持ち悪さに、嫌悪感や拒否感を抱く人もいるのだろう。ただ、今日の夜に應典院の木曜サロン「チルコロ」の企画インターネットラジオ「ロスト・チャレンジ」の収録でお招きした赤澤清孝さんもまた、話の流れのなかで、「フェーズの変化を感じる」ことが大事だ、と語った。思えばこのフェーズということば、NPOに関する議論が高まるなかで、東京の方から「京都の三羽がらす」と称されたもう一人、深尾昌峰さんもよく用いることばであり、ここにもまた、個人ではなく集団の位相として、多様な変化と共に、無限の飛躍を見いだそうとする人々の共通点を見いだして、うれしくなった一日であった。

2013年2月6日水曜日

打鍵の音


移動が多い私にとって、電車で座ることができるかどうかは、その後の動きを大きく左右する。今日もまた、JRの新快速電車で大阪と滋賀県の草津との往復をしたのだが、幸いにして、行きも帰りも座ることができた。そして、行きは、行った先で必要となる用務を列車の中ですることにした。ちなみに、帰りは途中までは、直前の用務でご一緒した方とお話をし、その方が先に京都で列車を降りてからは、しばしの休息として眠りにつくことにした。

ただ、今日の行きの列車では、あまり仕事がはかどらなかった。ちなみに電車では比較的仕事がはかどることが多い。それはまず、衆人環視の状況にあるため、適度な緊張感が生じていることが大きいように思う。それに加えて、降りなければならない駅までしか何かをすることができないという、時間的な制約があることも重要であろう。もちろん、時には車窓の風景を楽しむこともあるが、それでも、圧倒的に仕事をする傾向にある。

今日、仕事がはかどらなかった理由は、ただ一つ、隣に座った方もまた、仕事をし始めたためだ。ちなみに、ここまで何気なく書いている「仕事」とは、席に座ってパソコンを開いて、何か書類をつくる作業のことを指している。そして、その作業が疎外されたのは、隣の方がキーボードを打鍵する音が、非常に耳についてしまったのだ。具体的には、一つの文を打ち終えるごとに、「これでもかI」とでも言わんばかりに、リターンキーを「ターン!」あるいは「パチーン!」と叩かれていたのだ。

無論、日常世界はノイズにあふれている。時折、年は一つ上ながら「心友」である方からいただいた「ノイズキャンセリングヘッドホン」を使ったりするのだが、ノイズのない世界になると、それはそれで静かすぎて気持ちが悪い、というような印象を覚える人もいるようだ。ちょうどそれは、雪山など、音を吸収するような環境で、物音がしないときの「静けさに耳を疑う」感覚に似たものがあるかもしれない。ただ、今日のパソコンのキーボードの打鍵音は、決して定期的ではないが頻繁に響くリズムに、自分のペースが乱されていく感覚を覚えると同時に、もしや自分も同じように不快な思いをさせていないだろうかと、胸の内の声に耳を傾ける契機をいただいたように思う。

2013年2月5日火曜日

集めて編む

今日は朝から、立命館大学サービスラーニングセンターの研究会だった。サービスラーニングセンターの研究会だから、サービスラーニング研究会と思いきや、VSL(ボランティア・サービスラーニング)研究会と名付けられており、これも、サービスラーニングセンターがボランティアセンターを改組して設置されたことの証左である。今回は、東京大学の小玉重夫先生をお招きし「現代社会に求められるシティズンシップの全体像」と題して話題提供をいただいたのだが、初めて積極的に公開しての開催となった。内容についてはまた立命館大学サービスラーニングセンターのホームページなどで改めて紹介する機会があるだろうが、研究会と並行して取り組んでいるリレーコラムについても、多方面からの関心を寄せていただければ、と願う。

午後は京都新聞ホールで開催された京都SKYシニア大学で講演をさせていただいた。各種のコースが展開されている中で、担当させていただいたのは全コース合同の「共通教養講座」で、「今日的問題・高齢者問題」の括りで「超高齢社会における支え合いの地域ネットワーク」と題してお話をさせていただいた。400人ほどの受講生が熱心に耳を傾けていたことも印象に残ったが、最後の質問で「最終学歴を京都SKYシニア大学と書いてよいでしょうか?」と問われ、とっさに「学歴というヒストリーがなくても、仲間に出会い、学んだという実感があるのであれば、そのストーリーを大事にして、ぜひ、誇りを持って書いてはどうか、それもまた、ストーリーである」と返させていただいた。2月22日には舞鶴にて同じお話をさせていただくのだが、こちらは40人ほどとのことなので、さて、どのような工夫をしようかと、ストーリーづくりを楽しむことにしよう。

思えば、先々週の仙台〜南三陸でも、先週の大槌町への訪問でも、また戻ってから大阪や京都でも、改めて情報の編集が大事だと感じる機会が多い。それはとりたてて今日のような講演、あるいは口演の内容に対して思うのではない。むしろ日常的な他者との関係で、その場を楽しむための「何か」を組み立てること全般を指している。例えば、少し前まではデートコースを考えたり、車でドライブする際のカセットをつくるなど、他者と場を楽しむ際には、編集がつきものだったはずが、これらはITあるいはICTの環境が整うことで「事前」ではなく「その場」での編集によるところとなってきているだろう。

その象徴的な例が楽曲の編集であり、それこそiPodの台頭以降は「シャッフル」機能などにより、機械に埋め込まれたプログラムから提示されるものを、そのまま受け入れることが増えてきた。転じて、中学校の頃はFM雑誌(ちなみに、レコパル派であった…)を「エアチェック」したり、レンタルレコード店に通い、ダブルカセットを駆使して流れをつくり、一本ずつ、ストーリーを考え、編集したものだ。若干、感覚的だが、iTunesの「プレイリスト」の編集も含め、簡単に組み替えができてしまうのものでは、編集の詰めが甘りがちになるのだろう。むしろ、A4用紙、カセットテープの記録時間、映画の「尺」のようにフォーマットの制約を受ける方が、編集の質が高まるな、と、A3両面の資料を事前に送付し、2時間の講演で、途中、15分の休憩を入れるべし、という<制約>を受けた講演を終え、思うのであった。

2013年2月4日月曜日

の中では…

最近、というか、わりと長い間、気になっているのが「私の中では…」という言い回しである。私の疑問は、なぜ「私は」と、自分を主語にしないのか、ということだ。恐らく、「私の中」の人を引き合いに出し、自分の意見を客観化させているのだろう。そこには「本当の自分」というものがあって、「他人から、そう受け止められたい自分」でありたいという願いがあるのではなかろうか。

今日は夕方から、京都シネマでの打ち合わせであったのだが、その席で、この「私の中では」という語り口に見られる学生の「ハビット(習慣)」について、横地支配人と話題になった。京都シネマとは、立命館大学が協定を結んでいることもあって、各種の教育プログラムを展開しており、私が所属するサービスラーニングセンターによる地域参加型学習のプログラムでもお世話になっている。今日、劇場にお伺いしたのは、次年度にも受け入れを継続していただけるかの相談だったのだが、早急な判断をせず、この2年間の振り返りを、一人ひとりのエピソードを紐解いてくことにしたのだ。2時間10分ほど、互いにとって懐かしい風景を語り合う中で、「恥ずかしい」ということがわかっていないのではないか、との意見が合致した。

言うまでもなく、「できない」よりは「できた」方が、いわゆる自己肯定感は高い状態を保つことができる。そして、そうした自己肯定感の高さの背景には、何らかの成功体験が根ざしているだろう。ただ、その成功体験が、「失敗していない自分」に対する満足感であるとき、さらなる成長への伸びしろは、あまり期待できないような気がしている。むしろ、何らかの失敗を自覚し、その不全感を自らが引き取っているとき、むしろ、自分だけでなく、周りにも関心が向いていくように思う。

何より、学生らと接していて、小さな失敗を大きな挫折として受け止めてしまう傾向が強くなっているように感じてならない。エラーしたらフォローすればいい、それは野球のピッチャーがリリーフを迎える場面を想像すると、わかってもらえるのではないかと思うのだが、自分の中に「できる」という自信を持ちたいという衝動が、「できない」自分を自覚を困難なものにさせているのではなかろうか。一つ言えることは、困っている時に誰かに頼ることもできないとき、あるいは誰かが救援に向かっても事態が収拾できないときには、「中」も「外」もなく、ただ目の前に「炎上」という事が招かれるということである。

2013年2月3日日曜日

奥ゆかしさの、もどかしさ

岩手県大槌町での「ひょっこりひょうたん塾」のまとめフォーラムの翌日、朝から3時間ほど、浄土宗大念寺さんの広間をお借りして、昨日のフォーラムの、そしてこの間の活動の振り返りが行われた。昨日だけの関わりであったが、時間があれば、ということでお声かけをいただいたので、陪席させていただいた。運営メンバーでない人で参加したのは、藤浩志さんと自分の2人だけで、後は何らかのかたちでプログラムの企画などに関わってきた方々だった。総勢14名での語りは、3時間あまりに及んだ。

議論のあと、釜石まで出て昼食を取ることになったのだが、その席である方が「プロなら30分でも終わる話だった」と、振り返りの場の振り返りをした。なぜ、そこまで時間がかかったのか、それは「担い手」からの言葉が出てこなかったからである。その方のお言葉を借りるなら、「問わず語りをしているのではなく、何度も問うているにもかかわらず、何も出てこない」場であったのだ。つまり、事務局から「これをしたい」といった意志や、「これをするためにはどうしたらいいか」という提案が一切出てこなかったのである。

3時間を越える話のなかで、美術家・きむらとしろうじんじんさん(じんじんさんについては、東京アートポイント計画による取材や、大阪のウェブマガジン「log」での雨森信さんの前編後編にわたるインタビューが参考になる)が、幾度となく、端的な表現で、議論と行動の立ち行かなさの背後にあるものを指摘された。例えば「関係性への無関心という断絶」や「無限のおもんばかり」、などである。柔らかな語り口のじんじんさんは、まるで板書して書き言葉としても理解を促すかのように、明確な発話でそれらのフレーズを述べた。そして、曖昧な表現はもとより、抽象的な表現によって核心に触れぬまま流してしまうことを避け、これまでの歩みとこれから向かう方角が定まるように、と、それぞれの発言を促していった。

「なんで、こんなにおもしろそうなことばかりなのに、このフォーマットが活かせないんだろう」とは、藤浩志さんの発言である。こうした発言の後、否定的な発言が「口癖」の方が「地元がやりたいと言っているんだから、その人たちに任せればいい」し、そうした動きを支えるご自身は「何もしてません、と言ってかかわる」などと仰った。すると、それまで黙っていた、じんじんさんの大槌町での「野点」に携わってきた大学院生が、「本心でなかったとしても、そう言っているうちに、関係はこわれていく」から、そうした発言には「賛成できない」と批判した。それぞれの奥ゆかしさが、結果として目的を掲げること、目標を定めること、役職に就くこと、役割を担うこと、それらを困難にさせているのでは、と、実にもどかしさを覚えた場であったが、少なくともこの場を共にしたことで互いの信頼関係が深まることを切に願うところである。

2013年2月2日土曜日

「あせらない」が「決める」

岩手県大槌町での「ひょっこりひょうたん塾」の2012年まとめフォーラムが終わった。名前から想像がつくとおり、これは井上ひさしさんの「ひょっこりひょうたん島」にちなんだ名前であり、大槌町に同作品のモデルとなった「蓬莱島」という島があることからプロジェクト名に掲げられた。そもそも活動は、公益財団法人東京都歴史文化財団による「東京文化発信プロジェクト室」によって取り組まれている「Art Support Tohoku-Tokyo(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業)」の一つとして位置づけられている。現地の方々を中心に事務局が構成され、この間5回にわたる「まちづくりゼミナール」と、「フィールドワーク」が実施されてきた。

プログラムは2部構成で、主催者である大槌町から高橋浩進副町長の挨拶と、東京都歴史文化財団の森司さんの言葉に続き、ひょっこりひょうたん塾の事務局長である元持幸子さんから簡単に一連の活動報告がなされた。そこから第1部の事例発表の時間となり、まずは「おらが大槌夢広場」の阿部敬一さん、大槌町商工会青年部「若だんな会」の芳賀光さん、@リアスNPOサポートセンターの鹿野順一さん、この3人のリレートークが行われた。30分間の話に続いて、宝来館の岩崎昭子さん、社会福祉協議会の川端伸哉さん、吉里吉里国の芳賀正彦さん、大槌町郷土芸能保存団体連合会の中村光高さんのリレートークとなった。進行役はアサダワタルくんで、コメンテーターというよりも問いを掘り下げるクエスチョナーを藤浩志さんが担った。

2部で私がお役をいただいた。まずは10分間ほど話題提供をいただき、「ボランティア元年」と呼ばれた阪神・淡路大震災では、支援する/される関係や、現地に駆けつけることの意味がわかっていなかった頃、ボランティアやボランティア活動はどのように語られたのかについて、「ロック」と「ジャズ」の比喩から紐解いた。そして、災害救援のボランティア活動は「即興」である、という点を踏まえつつ、長きにわたる復興においてもまた、あらかじめシナリオが確定しておらず、場と担い手と受け手の状況に応じて、時々刻々と活動は生滅流転するのだ、ということを、立命館災害復興支援室等の活動(大船渡などでのサンタプロジェクト、宮古などでの表札づくり、さらにはサービスラーニングセンターの正課科目から生まれた気仙沼での「大島・写真プロジェクト」など)ただ、一連の話の前に、第1部の事例発表が『ローカリズム原論』(内山節さんら)で言うところの「復興のデザインは文学的に書かれなければいけない」(p.165)という問いかけに応えているものではないか、とコメントして、用意してきたスライドを使って話題提供をさせていただいた。

話題提供の後は、藤浩志さんと共に、会場からの言葉を受ける時間となったのだが、自分にとっては現地で暮らす方々からのことばで、1995年からの18年を見つめ直す時間にもなった。特に、「いつになったら復興は終わるのか」という問いには、何と返すのがいいのか、Ustreamの中継がなされる中でも、少々の沈黙を許してもらうほかなかった。ふと想い起こしたのが、「地震イツモノート」の冒頭部分で「新しい日常」が復興の先にはある、という寄藤文平さんのイラストだったので、何かに区切りをつけ、その後にその判断を後悔する段階となったら、それは復興の段階ではなくなった、ということだろう、と返させていただいた。逆に言えば、復興の過程においては「あせらない」ことは大事だが、どこかで「決める」ということが必要になるのであるから、「まとめフォーラム」という名前が掲げられた今日の場に集った方々が、共に納得のいく決定ができるように、「まとめる」よりも「つながる」「ひろがる」機会になったとしたら、お招きいただいた者として、存外の喜びである。

2013年2月1日金曜日

コンサマトリー化への道具

手段の目的化、という言葉がある。たいてい、「○○の××化」という表現は、ある行為が妥当とされることによって通常とは異なった意味が生成していることに対して、そのことに気づいた人が用いる論理であろう。ただ、こうした論理展開を用いることなく、文字をうまく「もじる」ことで、新たな概念を提示する人もいる。例えば、Adaption:適応、Goal-attainment:目標達成、Integrarion:統合、Latency:潜在性の4つの性質から、社会システムを理論化したことで知られるパーソンズという社会学者は、何かの道具やシステムを使って何かをすることよりも、それ自体を使うことで楽しむ傾向を「consumatory:コンサマトリー(自己充足などと訳される)」と呼んだ。

当然のことながら、道具とは目的を達成するために用いられる手段であり、道具が適切に選択され、使用されることによって、目的は達成される。なぜなら、道具とは何らかの行為の主体と対象を媒介する(特に人工の)物であるためだ。そうして、主体と対象の関係が結ばれ、互いの関係を支える人や環境があって、個々の行為は集団の行動として成立し、個々の行為が妥当とされ続けるように、集団内において規範や役割が秩序あるものとして維持、発展していく。そうして維持、発展していく活動が複数、組み合わさっていくなかで、社会は構造化され、個々の状況は適切な方向へと収斂されると考えるのが、社会システム論の見方である。

先週に続いて東北に来ている。先週はアートNPOリンク等による「全国アートNPOフォーラムin東北」であったが、今週は岩手県大槌町において東京都の文化発信プロジェクトの支援によって2011年12月から実施されてきた「ひょっこりひょうたん塾」の2012年度のまとめのフォーラムにお招きをいただいた。与えられた役割は、後半部分にて、「阪神・淡路大震災から始まった震災と文化の現場」と題した話題提供と、フォーラム参加者全体での意見交換の進行役である。数多く、こうした場面での役割をいただいてきたが、今回、大きく異なるのは、復興の只中にある地域において、自らが立ち入ってはならない領域があるということを自覚しているためである。すなわち、少なくとも明日の議論が始まる段階においては、自分は明らかに「外」の人間であり、「内」の人と、明確に区別されざるをえない、という前提があるのだ。

そして、今回のフォーラムでは、東京を拠点に全国で活躍されておられる株式会社ヒマナイヌの皆さんのコーディネートによるUstream中継がなされる。よって、東日本大震災で被災した地域の中でも、特にその被害の大きさと深刻さに高い注目が集まってきた地域において、芸術文化を通じた復興について地元の方々が議論する場が、インターネットという道具によって全世界に伝えられる場となる。ただ、翻ってみれば、芸術文化を通じた復興なんて可能なのか、と懐疑的な印象を抱いている人にとっては、むしろ、こうした「中継」という手段が、「伝える」ことや「遺す」という目的を達成するものだ、という具合に、むしろコンサマトリー化されて受け止められたとすれば、それはむしろ、芸術文化を通じた復興は可能かもしれない、と認識していただけるかもしれない。何らかの活動は、「結果」よりも「行為」するに至ったということ、そして「着手」したということ、それによって自ずから「経過」が生まれるということ、それらを現場で体感しながら「はじめなければはじまらない」し、「はじまらなければつづきはない」し、「つづきがなければおわるしかない」ということを、中継という場と機会から、長きにわたる復興を考える契機になれば、と、程なく取り壊しが始まるという大槌北小学校横の、「仮設」の福幸きらり商店街に「グランドオープン」した「みかドン」(グッドデザイン賞も受賞!)さんで楽しいときを過ごした後、思うのだった。