岩手県大槌町での「ひょっこりひょうたん塾」のまとめフォーラムの翌日、朝から3時間ほど、浄土宗大念寺さんの広間をお借りして、昨日のフォーラムの、そしてこの間の活動の振り返りが行われた。昨日だけの関わりであったが、時間があれば、ということでお声かけをいただいたので、陪席させていただいた。運営メンバーでない人で参加したのは、藤浩志さんと自分の2人だけで、後は何らかのかたちでプログラムの企画などに関わってきた方々だった。総勢14名での語りは、3時間あまりに及んだ。
議論のあと、釜石まで出て昼食を取ることになったのだが、その席である方が「プロなら30分でも終わる話だった」と、振り返りの場の振り返りをした。なぜ、そこまで時間がかかったのか、それは「担い手」からの言葉が出てこなかったからである。その方のお言葉を借りるなら、「問わず語りをしているのではなく、何度も問うているにもかかわらず、何も出てこない」場であったのだ。つまり、事務局から「これをしたい」といった意志や、「これをするためにはどうしたらいいか」という提案が一切出てこなかったのである。
3時間を越える話のなかで、美術家・きむらとしろうじんじんさん(じんじんさんについては、東京アートポイント計画による取材や、大阪のウェブマガジン「log」での雨森信さんの前編・後編にわたるインタビューが参考になる)が、幾度となく、端的な表現で、議論と行動の立ち行かなさの背後にあるものを指摘された。例えば「関係性への無関心という断絶」や「無限のおもんばかり」、などである。柔らかな語り口のじんじんさんは、まるで板書して書き言葉としても理解を促すかのように、明確な発話でそれらのフレーズを述べた。そして、曖昧な表現はもとより、抽象的な表現によって核心に触れぬまま流してしまうことを避け、これまでの歩みとこれから向かう方角が定まるように、と、それぞれの発言を促していった。
「なんで、こんなにおもしろそうなことばかりなのに、このフォーマットが活かせないんだろう」とは、藤浩志さんの発言である。こうした発言の後、否定的な発言が「口癖」の方が「地元がやりたいと言っているんだから、その人たちに任せればいい」し、そうした動きを支えるご自身は「何もしてません、と言ってかかわる」などと仰った。すると、それまで黙っていた、じんじんさんの大槌町での「野点」に携わってきた大学院生が、「本心でなかったとしても、そう言っているうちに、関係はこわれていく」から、そうした発言には「賛成できない」と批判した。それぞれの奥ゆかしさが、結果として目的を掲げること、目標を定めること、役職に就くこと、役割を担うこと、それらを困難にさせているのでは、と、実にもどかしさを覚えた場であったが、少なくともこの場を共にしたことで互いの信頼関係が深まることを切に願うところである。
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