治療と治癒は異なる。治療は行為で、治癒は結果だ。とかく、病院の雰囲気が好きでないこともあって、治療の場に向かうことは避ける傾向にある。それでも、治癒を求めて、手近な何かで済まそうとしてしまう。
朝起きると、土曜の夜から不調を覚えていた身体が、いよいよ悲鳴をあげていた。まず、しゃべれない。咳は止められず、止められない咳のあいだも、止まった後も、激しい喉の痛みに襲われた。いよいよ、これは治療の場に向かわねばならない、と決意した朝だった。ただ、それでも、今日は朝から予定が詰まっていたので、どのタイミングで行くことができるか、と考えあぐねた朝でもあった。
ただ、立命館の中にある保健センターに行けば、内科の診療が受けられる、と気づき、朝から出向いたBKC(びわこ・くさつキャンパス)にて、バスを降りたその足で向かうことにした。すると、脇の下の体温は37.8度で、予防接種はしていたとはいえ、インフルエンザの可能性も疑わしいとの見立てで、鼻に綿棒を入れて粘膜から検査するという例の検査を行った。結果は陰性でほっとしたのだが、「葛根湯」などで治るレベルではない、と一喝され、抗生物質のオゼックス錠150mg、咳を鎮めるトクレススパンルースカプセル30mg、痰を切るムコソレート錠15mg、熱を下げるカロナール錠200mgが処方された。当然、「風邪の初期症状を感じたので、天一に行ってスタミナをつけました」などとは言えなかった。
浄土宗が21世紀に入ってすぐ発表した劈頭宣言において、その短い4つのことばのうち、筆頭に掲げられたのが「愚者の自覚を」である。治療を受ける、ということを巡って、愚者である、というのははばかられるが、実はこの体調不良によって、1月の中旬から日程調整をしていた同志社時代の院生の皆さんとの食事会を流会とさせていただくことになった。自らの弱さをさらけだしたところ、逆に気遣いをいただき、また桜の花の咲く頃に実施することになりそうだ。ちょうど、今日は同じく同志社時代の別の代で院生だった方に原稿の校閲をいただき、さらには今日誕生日を迎えた海の向こうにいる友人に英語のチェックをお願いするなど、頼りっぱなしの一日であり、なるほど、信じて頼るところから信頼関係は生まれるのだ、と、改めて実感している。
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