アムステルダム調査&旅行の2日目は、ほぼ1日を、約150の国の人々が住むという、ベルマミーア(Bijlmermeer:英語読みではベイルメルメール)で過ごした。日本におけるベルマミーア団地に関する研究の第一人者は角橋徹也さんで、もともと大阪府庁の職員である角橋さんは、1965年と1999年の2度にわたるオランダ・ハーグ社会研究所に留学経験を持ち、2003年には神戸大学にて塩崎賢明先生のもとで博士論文を提出している。角橋さんによる研究は、『団地再生のすすめ:エコ団地をつくるオープンビルディング』(2002, マルモ出版)の「アムステルダム・ベルマミーア高層団地の再生事業」(pp.48-55)に全体像がまとめられているとともに、日本建設学会の年次大会で発表された研究(2002年に失敗の要因の分析、2003年に再生事業の事実関係の整理)がオンラインにて閲覧可能である。今回は、角橋さんも参加している、関西大学で文部科学省の「私立大学戦略的研究基盤形成支援事業」に採択された「集合住宅“団地”の再編(再生・更新)手法に関する技術開発研究」のメンバーとなっている建築家の荒木公樹さんと共に、ベルマミーア団地でのフィールドワークを行うこととした。
ベルマミーア団地を知る方法として最も適切なものは、Bijlmer Tourという看板を掲げ、長らくこの地域に関わってきているジェニー(Jenny van Dalen)さんに案内をいただくことだと、到着した翌日の朝から、一日、地域の案内とインタビューをお願いした。1950年5月生まれで、もともとトルコ人の貧困家庭へのソーシャルワークの仕事をされてきたジェニーさんは、1984年に仕事関係の友人の住むベルマミーア団地の公園で開催された多文化共生のお祭り「Kwakoeフェスティバル」に訪れたことがきっかけで、翌1985年からベルマミーアに移り住むことになった。そして、1998年以来、「失敗」の烙印を押されて、負の遺産をもたらしたネガティブな歴史が根差すベルミーア団地でボランティアの語り部として活動を始めた後、2000年からは1期4年にわたり、アムステルダム市の南東区(Zuidoost stadsdeel)の議員を務め、2006年からはベルマミーアにおける住宅供給を担うロッジデール社で週20時間の嘱託職員として勤務するも、世界的な経済危機を受け、新規のプロジェクトの企画運営がままらなくなり、2011年に雇い止めとなった。ちなみにジェニーさんのボランティア活動は多岐にわたっており、ベルマミーア団地の語り部としてガイドを始める前の1994年から、例えばシングルマザーの居住支援、メトロでの犯罪防止など安全化運動、エスニック料理本づくり、スリナムからの移民に食器を提供するためのバザーの開催、単身居住者支援を目的にしたコミュニティレストランの組織化、地域の魅力創出のための彫刻設置活動、麻薬中毒患者の支援、青年期までのこどもを抱える親の支援など、枚挙にいとまがない。
今日はまず、10時にアムステルダム中央駅で、通訳をお願いしているNaraN ProjectsのYuichi Nara(奈良ゆういち)さんとお目にかかり、イエローライン・54号線でBijlmer ArenAに向かい、10時半に自転車で合流するジェニーさんと駅で待ち合わせ、そこから約2時間にわたるまち歩きが始まった。駅の東側には、世界的に有名なAjax(アムステルダム・アヤックス)の本拠地であるアリーナ(ArenA)をはじめとしてオフィスタワーやショッピングセンターが新たに整備され、アムステルダムの新都心として大規模雇用を創出したが、我々の「目当て」は、線路をはさんでその反対側に広がる、1975年に完成したベルマミーア団地の再生の現場である。ともあれ駅周辺の「アムステルダム・ポート地区」(Amsterdamse Poort)から、15年限定の「コンテナハウス」(イメージは学生のワンルームマンションを工事現場の資材などを用いた仮設的住宅)などが置かれた「ハンゼンフーフ地区」(Ganzenhoef)を抜け、トルコ料理「meram」南東店にて食事と食後のコーヒーをいただきながら、食事を含めて3時間ほどのインタビューをさせていただいた。その後は、18時くらいまで2時間半あまり、クラーイエンネスト地区(Kraaiennest)を回って、レッドライン・53号線のGanzenhoef駅から中央駅へと戻るという行程だった。
1日、ベルマミーアで過ごして、率直に感じたのは、1966年から約9年にわたって実施された7万平方メートルに6万人という巨大な開発プロジェクトの計画が、社会的、経済的、文化的な変化の只中で、完了を前にして「失敗」したと言われるものの、その再生事業が終了した今となっては、その壮絶さを追体験するのは難しい、ということだ。逆に言えば、この1日、ジェニーさんと行動を共にして、団地に暮らす人々が、こぞってジェニーさんと住民の皆さんが、確かな信頼関係でこの15年ほどの時間を重ねてきていることを(別の方も「gregarious:社交的」と表現しているとおり)切に感じたところである。ちなみに、ジェニーさんのインタビューでは、何度も「投資家(investor)」という言葉が出て来たのが印象に残ったのだが、最後に、「ベルマミーアの再生にあたり居住者には、団地内の別の家に住むか、アムステルダム市内の別の家に住むか、マイノリティの多い西部地区に住むか、という3つの選択肢が提示されたが、再生後、知り合いが多い、文化的である、信仰が根差されていると、という理由から、多くの人が戻って来ることを希望した」「経済危機のあとは特に学校をやめる青少年が増え、その結果として若者に未来がなくなっているのではないかと気になっている」「加えて、今回の経済危機では失業者が増加して、ローンの返済が不能になった人も多く、しかも売却ができていない人には、新たに家賃補助をもらうこともできず、生活が困難だろう」といった、問いをいただくことができた。2日目の旅程を終えた今、荒廃の中から「奇跡」とも言われるような結果をもたらした取り組みに対して、その「軌跡」を丁寧に紐解くことができなければ、まるで一人の変人が、あるいは熱血漢が、超人的な力量を注ぎ、信念を貫いたという個人の物語で終わってしまうと、無性に『スクール☆ウォーズ』を思い出して、腑に落ちている。
▼角橋徹也さんは、1960年には企業局宅地開発部で千里ニュータウンや泉北ニュータウン開発に従事、その後1966年に財団法人日本万国博覧会協会に出向して外国館の折衝担当となった後、1967年のモントリオール万博開催時は現地に駐在、さらに1970年の大阪万博ではアジア館を中心に国際館のパビリオンマスターを勤めという経歴が一部で知られている。なお、大阪府知事選に2回(1987年・1991年)出馬されている。また、2009年に学芸出版社から刊行された『オランダの持続可能な国土・都市づくり』は、博士論文「オランダの空間計画の特質に関する研究」が基礎となっている。2011年からは、市民大学院(文化政策・まちづくり大学校)にて教える立場にある。(同「大学院」は、2011年度に京都市の協力を得て開学予定だった「文化政策・まちづくり大学院大学」であるが、文部科学省により設置が認められなかったものの、現在も京都市下京区にある元・成徳中学校にて活動を展開している)
▼ 「Kwakoe Zomerfestival:Kuwakoe Summer Festival/クワコエエ夏まつり」は、1975年からベルマミーア団地で開催されたスリナム人のお祭りであり、最初はSV Bijlmerの協力によるサッカー大会として開催されていたが、1983年にBijlmer Parkに場所を変えた後、いわゆる多文化共生フェスティバルへと発展し、現在まで続いている(ただし、運営に携わっていた青少年財団は2008年に破産宣告を受け、2009年には新体制に刷新された後、35回目となる2010年大会は開催できたが、2011年には財政難で中止となり、2012年は再度実施できたもようである)。Kwakoeとは、白人たちに反旗を翻した逃亡奴隷たち(マルーン)が継承してきた儀礼「クロマンティ(Kromanti)」の中で、「水曜日」を意味する言葉であり、もともと、労働者として雇用される職場の特性上、休日に休むことが難しく、平日(水曜日)にお祭りをすることになったため、スリナムで奴隷制度が廃止された1863年7月1日が水曜日であることにちなんで、お祭りの名称に掲げられたという。ちなみにスリナムは1873年の完全解放を経て、1975年11月25日にオランダ政府から完全独立をしたが、その結果、スリナムからの移民がベルマミーアに流入した。この流入が団地内のコミュニティの崩壊をもたらした要因の一つであるとされるが、逆にベルマミーアにて奴隷解放100年を記念し、このお祭りが始まったことも、複雑な文脈と言えよう。
ベルマミーア団地を知る方法として最も適切なものは、Bijlmer Tourという看板を掲げ、長らくこの地域に関わってきているジェニー(Jenny van Dalen)さんに案内をいただくことだと、到着した翌日の朝から、一日、地域の案内とインタビューをお願いした。1950年5月生まれで、もともとトルコ人の貧困家庭へのソーシャルワークの仕事をされてきたジェニーさんは、1984年に仕事関係の友人の住むベルマミーア団地の公園で開催された多文化共生のお祭り「Kwakoeフェスティバル」に訪れたことがきっかけで、翌1985年からベルマミーアに移り住むことになった。そして、1998年以来、「失敗」の烙印を押されて、負の遺産をもたらしたネガティブな歴史が根差すベルミーア団地でボランティアの語り部として活動を始めた後、2000年からは1期4年にわたり、アムステルダム市の南東区(Zuidoost stadsdeel)の議員を務め、2006年からはベルマミーアにおける住宅供給を担うロッジデール社で週20時間の嘱託職員として勤務するも、世界的な経済危機を受け、新規のプロジェクトの企画運営がままらなくなり、2011年に雇い止めとなった。ちなみにジェニーさんのボランティア活動は多岐にわたっており、ベルマミーア団地の語り部としてガイドを始める前の1994年から、例えばシングルマザーの居住支援、メトロでの犯罪防止など安全化運動、エスニック料理本づくり、スリナムからの移民に食器を提供するためのバザーの開催、単身居住者支援を目的にしたコミュニティレストランの組織化、地域の魅力創出のための彫刻設置活動、麻薬中毒患者の支援、青年期までのこどもを抱える親の支援など、枚挙にいとまがない。
今日はまず、10時にアムステルダム中央駅で、通訳をお願いしているNaraN ProjectsのYuichi Nara(奈良ゆういち)さんとお目にかかり、イエローライン・54号線でBijlmer ArenAに向かい、10時半に自転車で合流するジェニーさんと駅で待ち合わせ、そこから約2時間にわたるまち歩きが始まった。駅の東側には、世界的に有名なAjax(アムステルダム・アヤックス)の本拠地であるアリーナ(ArenA)をはじめとしてオフィスタワーやショッピングセンターが新たに整備され、アムステルダムの新都心として大規模雇用を創出したが、我々の「目当て」は、線路をはさんでその反対側に広がる、1975年に完成したベルマミーア団地の再生の現場である。ともあれ駅周辺の「アムステルダム・ポート地区」(Amsterdamse Poort)から、15年限定の「コンテナハウス」(イメージは学生のワンルームマンションを工事現場の資材などを用いた仮設的住宅)などが置かれた「ハンゼンフーフ地区」(Ganzenhoef)を抜け、トルコ料理「meram」南東店にて食事と食後のコーヒーをいただきながら、食事を含めて3時間ほどのインタビューをさせていただいた。その後は、18時くらいまで2時間半あまり、クラーイエンネスト地区(Kraaiennest)を回って、レッドライン・53号線のGanzenhoef駅から中央駅へと戻るという行程だった。
1日、ベルマミーアで過ごして、率直に感じたのは、1966年から約9年にわたって実施された7万平方メートルに6万人という巨大な開発プロジェクトの計画が、社会的、経済的、文化的な変化の只中で、完了を前にして「失敗」したと言われるものの、その再生事業が終了した今となっては、その壮絶さを追体験するのは難しい、ということだ。逆に言えば、この1日、ジェニーさんと行動を共にして、団地に暮らす人々が、こぞってジェニーさんと住民の皆さんが、確かな信頼関係でこの15年ほどの時間を重ねてきていることを(別の方も「gregarious:社交的」と表現しているとおり)切に感じたところである。ちなみに、ジェニーさんのインタビューでは、何度も「投資家(investor)」という言葉が出て来たのが印象に残ったのだが、最後に、「ベルマミーアの再生にあたり居住者には、団地内の別の家に住むか、アムステルダム市内の別の家に住むか、マイノリティの多い西部地区に住むか、という3つの選択肢が提示されたが、再生後、知り合いが多い、文化的である、信仰が根差されていると、という理由から、多くの人が戻って来ることを希望した」「経済危機のあとは特に学校をやめる青少年が増え、その結果として若者に未来がなくなっているのではないかと気になっている」「加えて、今回の経済危機では失業者が増加して、ローンの返済が不能になった人も多く、しかも売却ができていない人には、新たに家賃補助をもらうこともできず、生活が困難だろう」といった、問いをいただくことができた。2日目の旅程を終えた今、荒廃の中から「奇跡」とも言われるような結果をもたらした取り組みに対して、その「軌跡」を丁寧に紐解くことができなければ、まるで一人の変人が、あるいは熱血漢が、超人的な力量を注ぎ、信念を貫いたという個人の物語で終わってしまうと、無性に『スクール☆ウォーズ』を思い出して、腑に落ちている。
【注記】
▼ 「Kwakoe Zomerfestival:Kuwakoe Summer Festival/クワコエエ夏まつり」は、1975年からベルマミーア団地で開催されたスリナム人のお祭りであり、最初はSV Bijlmerの協力によるサッカー大会として開催されていたが、1983年にBijlmer Parkに場所を変えた後、いわゆる多文化共生フェスティバルへと発展し、現在まで続いている(ただし、運営に携わっていた青少年財団は2008年に破産宣告を受け、2009年には新体制に刷新された後、35回目となる2010年大会は開催できたが、2011年には財政難で中止となり、2012年は再度実施できたもようである)。Kwakoeとは、白人たちに反旗を翻した逃亡奴隷たち(マルーン)が継承してきた儀礼「クロマンティ(Kromanti)」の中で、「水曜日」を意味する言葉であり、もともと、労働者として雇用される職場の特性上、休日に休むことが難しく、平日(水曜日)にお祭りをすることになったため、スリナムで奴隷制度が廃止された1863年7月1日が水曜日であることにちなんで、お祭りの名称に掲げられたという。ちなみにスリナムは1873年の完全解放を経て、1975年11月25日にオランダ政府から完全独立をしたが、その結果、スリナムからの移民がベルマミーアに流入した。この流入が団地内のコミュニティの崩壊をもたらした要因の一つであるとされるが、逆にベルマミーアにて奴隷解放100年を記念し、このお祭りが始まったことも、複雑な文脈と言えよう。
▼ジェニーさんは地域政党に属する議員として、ベルマミーア団地の空間的再生と社会経済的再生の計画等に携わったという。そして、ソーシャルワーカーという仕事をしてきたことも相まって、議員時代には住民と行政とのあいだの仲介者となり、ニューカマーに生活の知恵を提供したり、プロジェクトの資金調達や管理について取り組んだとのことである。2000年から議員だったことを鑑みると、ちょうど1999年の事業中間年の中間評価を経て、2009年の事業完了に向けたプロジェクト推進の重要な時期であったと考えられる。しかし高架道路の撤去を巡る政策で意見が合わず、労働党に移り、議員の任期を終えてからは、党委員として党の執行部にて週2時間の勤務を基本として、週4時間程度、詰めているという。
▼ジェニーさんは、ロッジデール社に在職中、同社での仕事とは別に、Biljmer Euro(ベルマユーロ)という地域通貨システムのつなぎ手(さしずめ、オルガナイザーという表現が適切だろう)も担ってきた。これは、ICタグを5ユーロ札に貼り付けるという、何とも大胆な地域ネットワーク醸成のための地域通貨システムである。2010年7月から、Imagine ICという団体が取り組んでおり、恐らく、ジェニーさんのフットワークとコンセプトワークが、同団体において重用されたと推察できる。
0 件のコメント:
コメントを投稿