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2015年10月21日水曜日

言葉記念日

今日は記念日にしよう、朝からそんな風に思っていた。きっかけは大好きな映画、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(BTTF)であり、主人公らが向かう先が2015年10月21日であったためだ。1985年に劇場公開された映画だが、恐らく最初に見たのは実家でビデオデッキで録画したゴールデン洋画劇場での織田裕二さんと三宅裕司さんによる吹き替え版で、その後、パート3を劇場で鑑賞した記憶があるため、恐らく1990年4月7日の初回放送のものだったと思われる。映画の前半から「過去に行く話なのに」と感じ、途中で「未来から過去に戻るのか」と思い直したものの、最後の最後で「あ、そういうことか」と考えを巡らせながら、即座に2015年の世界が描かれたパート2を見た。

BTTFの主人公の一人、マーティーは高校生という設定だった。仮に今ここに、30年前の自分が現れたら、あるいは高校時代の自分が現れたら、などと想像をするに、怖いやら、気持ち悪いやら、である。タイムトリップ、タイムトラベルの話としては「ドラえもん」の方が身近であり、数ある作品の中でも、しょせん未来から自分を連れてきたとしても未来の自分は過去で現在の時間を生きるしかないという「ドラえもんだらけ」や、現在の連続によって過去に想定されていた未来が変わることを痛感させられる「のび太の結婚前夜」など、タイムマシンにまつわる物語は数多く挙げることができる。タイムパラドックスの観点など、原理的、あるいは倫理的な問題については横に置くとして、時間旅行を夢想することは自由であり、楽しい。

そんな歴史的な一日は、大阪での英語のレッスンから始まった。奇しくも発表の当番であり、大韓民国における良心的兵役拒否の話題について、紙芝居方式でのプレゼンテーションをさせていただいた。その後は母校であり自らの学舎であった、立命館大学びわこ・くさつキャンパスでの講義だった。4限の「地域参加学習入門」では、学生時代に携わった「地域通貨おうみ」の事例を取り上げ、5限には今年で11回目を数える「草津街あかり・華あかり・夢あかり」でのボランティア活動を組み込んだサービスラーニング科目「シチズンシップ・スタディーズI」で、学生たちの議論を見守った。

そうして、いくつかの地域と空間を移動する中で、ふと、これまで伝えられなかったことを伝える日にしてもいいのではないか、などと思ったのである。まるで斉藤和義さんの「歌うたいのバラッド」の歌詞のようだが、そんなに格好のいいものではない。30年前、あるいは高校時代の自分がそこにいたらどう思うだろう、なんて思いもせず、大切な人を大事にするということがいかに難しく、しかし大事なときに言葉にしなければいけないのだ、ということを、ただただ思うのであった。そんな一日のあいだに、清原和博さんにまつわる記事にて、寺山修司さんが述べたという「時計の針が前に進むと時間に、後ろに戻ると思い出になる。」という言葉が得られたから(ということもあって)今日は私にとっての言葉記念日にしよう。


2015年10月4日日曜日

家のお手入れ

電車で移動することが多い私は、日々、肌のお手入れに余念がない方に遭遇するのだが、果たしてどれくらいの方が家のお手入れをしているのだろう。もっとも、コンクリート造の建築であれば、何らかの手入れを個人でする必要はないのかもしれない。しかし、こと木造となると、折に触れ手入れが欠かせない。そして、今、木造の2軒長屋に住まわせていただいている私も、その例外ではない。

生まれ育った家もまた木造だった。滅茶苦茶に古い家ではなかったが、昭和40年代に一人の大工さんを中心に建てられたという家を、家人たちはよく手入れをしていた。ベランダの木の張り替えや、屋根のペンキの塗り替えなど、できるところは家族で手伝いながら行っていた。それぞれに数年に一度のことだが、一気に行うと手間がかかるので、同じ年に重ならないよう、具合を見ながら手を入れていた。

既に2年ほど住まわせていただいている現在の家は、家賃に便宜を図っていただいていることもあって、住まいはじめの当初から徐々に手を入れさせていただいている。京都大学の高田光雄先生は、一部の現代建築による住まい方では断熱性能を上げるために小さな窓しか設けないことなどを指して「魔法瓶住宅」と指摘する。その対極ともいえる京町家は、いくら徒然草で「家の作りやうは、夏をむねとすべし」と言われようが、なかなか冬の寒さはつらい。現在、京都市では省エネリフォーム助成を進めており、今回、その制度を利用した改修をお願いしようかとも考えたものの、どうやらそれよりも先に「まちの匠の知恵を活かした京都型耐震リフォーム」の方が必要な状態にあることがわかった。

この間、多くの縁と知恵に助けられ、住みやすさも高まってきた。同時に住みごたえも感じるようになってきた。今日は久しぶりに外での用務がなかったので、妻と共に道路に面した側の柱などにべんがらを塗る、という作業にあたった。外の用事がないということもあって投稿中の論文の改稿にもあたりたかったのだが作業に疲れ果ててしまい、家の手入れができた一方で、もうちょっと日頃の運動によって身体の手入れをせねば、と反省を重ねる一日となった。


2015年10月3日土曜日

お邪魔して、招き、招かれる。

この20年ほど西日本で暮らしてきた人にとって、三都物語というと、何となく谷村新司さんの歌を想い起こす人も多いのではなかろうか。かつてJR西日本のキャンペーンで用いられたフレーズであり、歌であるためだ。複数のまちで複数の活動拠点がある私は、はからずも三都物語となることがある。ただ、JRが企図したような京都・大阪・神戸ではなく、滋賀・京都・大阪の3つの都市を行き来しているに過ぎない。

今朝は滋賀県、草津から始まった。2010年から立命館大学サービスラーニングセンターの科目にて「草津街あかり・華あかり・夢あかり」でお世話になっているためである。11月の本番まで約1ヶ月、いよいよ準備も佳境となってきた。今年は学生企画により、目線が上に向くあかりの演出をさせていただくこととなったため、草津の名物「うばがもち」などを買い込み、製作作業への陣中見舞いにお邪魔させていただいた。

昼からは大阪、上町台地へと向かった。ココルームとアートNPOリンクと應典院寺町倶楽部の三者共同で行っている「地域に根ざしたアートと文化〜大阪市:地域等における芸術促進事業」のフィールドワークのためである。8月14日のフォーラムに始まった事業は、年末年始に企画されているクロージング企画まで、6つの現場でのまちあるきと、大阪を中心にした活動団体の調査事業が進められることになっている。秋晴れの今日は應典院寺町倶楽部により、上町台地界隈のまちあるきであり、短い時間ということもあって、應典院から源聖坂と学園坂を横目に、口縄坂から生國魂神社方面へ、そしてパドマ幼稚園での演劇ワークショップを見学して、應典院にて対話という行程で楽しいときを過ごさせていただいた。

夜には應典院にて連続企画「まわしよみイスラーム」が行われ、終了して程なく京都へと向かった。「まわしよみイスラーム」はこの4月から始まった連続勉強会である。2012年度のコモンズフェスタを契機に生まれた「まわしよみ新聞」の方法を借り、NPOそーねの皆さんと共に「わかっていないことが何なのかがわかる」よう、報道を手がかりにイスラームについて語り合う場も、今回で4回目となった。参加者の皆さんのあたたかさに浸りながら向かったのは、尾角光美さんの京都での披露宴の二次会で、臨床宗教師の方がバーテンダーを務める祇園のバーであり、新婚夫妻と法然院の梶田真章貫主にお招きをいただき、3つのまちを巡った一日は、京の都にて新しい日付を迎えてなお楽しませていただいた。

2015年10月2日金曜日

トリガー

例えば戦略にしてもシンクタンクにしても、何かを分析し目標を定め計画を練るといった行為を表す言葉には、軍事用語として用いられたものが多い。この夏、異例の会期延長により国会で審議されてきた「平和安全法制」の整備にあたり、よく用いられた兵站という言葉もその一つである。このような言葉は当初は比喩として用いられるが、やがて用いられた対象にあわせて新たな意味をまとい、軍事以外の場面で定着していくことになる。比喩を手がかりにネットワーク組織のグループ・ダイナミックスを検討してきたこともあり、興味深いテーマである。

銃の引き金を意味するトリガーという言葉また、ある種、日常生活の中で用いられる言語になったものの一つであろう。今日は朝から衣笠キャンパスに向かい、サービスラーニングセンターによるインターンシップ・プログラムの最終報告会のあり方について議論し、投稿中の査読付論文を改稿するにあたり共著者との打合せと続いた。そして、お昼はキャンパス東門近くのお店でいただいたが、久しぶりに入ったそのお店は、今はお昼は日替わりしか扱っていないようで、座るなりメニューが決まっているもようであった。よって、このお店では、お客さんが来て座るという行為が、食事を用意するトリガーとなっている、と表現できる。

午後からは朱雀キャンパスで災害復興支援室の事務局会議であった。災害復興支援室は2011年4月21日に設置されるにあたり、立命館における2011年度から2020年度までの中長期ビジョン「R2020」の前半期課題の一つを担うこととされた。もちろん、現地は救援・復旧から復興のモードとなって久しい。しかし、大規模・広域・複合型災害ということもあって、各地域との関わりを一律に5年という区切りでやめてしまうなどといったことは、真にもって、こちらの都合に他ならない。この夏、宮古では新たに整備される「道の駅たろう」にて仮設集会所ODENSEの建設を重ねてきた理工学部の宗本晋作先生の取り組みが評価されたことで研究室を中心に産直品の販売施設が建設され、大船渡の盛町灯ろう七夕まつりでは「立命館大学」の名が入った大きな提灯が飾られた山車がまちを引き回され、気仙沼では唐桑の鮪立湾を見渡す素敵な場所にツリーハウスが建設され、それらをトリガーとして、新たな支援のモードと、具体的なメニューが求められている段階にある。

そして夜は、阪神・淡路大震災当時に共に活動したボランティア仲間の縁結びにより、長岡京でこれからの市民活動を考える講演会の基調講演の講師に招いていただいた。およそ3年前から、現場に注力しようという思いを理解いただき、外部の委員や講演については遠慮をさせていただいてきている。10団体から45名の参加により、満場となった会場の風景は、市民活動を支えるのは市民であるという自らの原点を想い起こすトリガーとなり、いただいた1時間で精一杯お話をさせていただいた。講演の後、5団体から活動紹介のリレーが続いたが、その後、ささやかなコメントを述べると、多くの方に名刺を求めていただくという、つながりのひろがりにありがたさを思うご縁となった。


2015年10月1日木曜日

新暦10月1日

1年の中でも10月1日という日付は、特に注目が集まる。最近、朝はラジオで迎えることが多いのだが、ここでも複数の事柄が取り上げられていた。よくあるのは「2015年も残すところ、あと3ヶ月となりました」という、カウントダウン系である。一方で、一日が終わりに近づくと、インターネットのSNSでは、「天下一品祭」の終わりを祝う写真や憂う言葉を散見した。

私は経験をしていないが、10月1日は多くの企業で内定式が催されているようだ。朝、應典院に向かう列車の中では、ブラウスのボタンの留め方はこれでいいのか、履歴書の写真のサイズはどうか、など初々しい会話が目の前で重ねられていった。この2人は所属大学こそ違えど、大阪の大手旅行代理店から共に内定が得られたようである。途中、いわゆるスマホで内定式への指示内容を確認したところ、書式が間違っていることに気づいたようで、慌てて「どうしよう?」などと語りあっていたが、こうして全ての会話が静かな車内で繰り広げられ続けていたことに、もう少し関心を向けて欲しいものである。

ふと、昨晩に應典院で開催された連続講座「ビヨンド・サイレンス」で話題提供をいただいた戸松義晴先生の言葉が想い起こされた。この企画は、オウム真理教事件から20年を迎えた今年、秋田光彦住職により関西学院大学の白波瀬達也先生の協力を得て展開されているものです。昨日が4回目、テーマは「伝統教団の憂鬱と希望」であった。自坊・心光院の住職を務めつつ、全日本仏教会の理事で浄土宗総合研究所主任研究員でもある戸松先生は、今後の日本仏教の担い手に「覚悟する教育」が求められるとし、「いやいや何かをやっている人は、周りから見てすぐわかる」と踏まえた上で、「医者でも弁護士でも、なるのが難しいから尊敬される部分もある」と語り、檀信徒を思い、檀信徒から思われる宗教者の有り様を希望の一つとして示された。

10月1日、以前は衣替えの契機でもあった。昨日の会では夏の法衣を召されていた戸松さんの言葉が、新しい世界へ飛び込む若者たちの会話に妙に重なった。スーパームーンに湧いた数時間を考えると、旧暦で物事を考えた方がよいのではないか、などという思索にもふけった。應典院の隣にあるパドマ幼稚園の玄関の言葉も掛け替えられた、そんな10月1日の思考をここに、つれづれなるままに言葉にしておこう。


2015年4月26日日曜日

選ぶ・選ばれる

問題には「できるか/できないか」と、「するか/しないか」の問題とある。前者は外部の要因による命題であり、後者は自らの意志の如何による。その点で言うと、ひいきのパン屋さんは後者の問題である。が、この間、なかなかひいきにできる店に出会えずにきた。

それでも、ひいきに出来そうなパン屋さんに出会え、ひいきにしようというお店に見つかった。今日もまた、散歩がてらにお邪魔した。どちらかというパン派の私なのだが、大阪に住んでいた頃にひいきにしていた谷町六丁目のgoutの品質と品揃えが素晴らしく、初登場第一位の座を揺るぎないものにしている。そんな素敵なお店も、当然のことながら、歩いて買いにいくことができる状況にはない。そこで、この間、好物の一つであるカレーパンの味に満足したこともあり、徒歩圏内にある平野神社の隣のお店をひいきにすることになろう。

ちなみに今日は統一地方選挙の後半戦である。文字にこだわるなら、選挙は戦いとして位置づけられる。夜には開票速報の番組が放映されていた。過去に1度だけ出口調査の対象となったことがあるが、ああした取材を通じて、開票直後に当選確実と出すことができる情報量と分析の知見に圧倒するところがある。

大学でシチズンシップ教育を担当していることもあって、18歳への選挙権付与の話題が気になっている。これは「できるか/できないか」の問題でもあり、「するか/しないか」の問題である。投票できる年齢については公職選挙法を改正するかどうかにかかっているが、それに伴って「20歳をもって成年にする」とされた民法4条の見直しも必然となろう。ともあれ、そもそもなぜ、選挙権と被選挙権の年齢が揃えられないのか、など、ひいきにするパン屋さんから帰る道すがら歩きながら考えながら歩いていたら、懐かしい民社党のポスター掲示板に目が向いたのであった。


2015年4月25日土曜日

年の区切り

JR福知山線脱線事故から10年が経った。あの日、私は大阪医専で「人間関係論」の非常勤講師として出講していた。パソコンに保存されている当日のレジュメを見てみると、当日のテーマは「人間関係概論:人間関係とは個人の心の問題ではないことを理解する」であった。やがて看護師になっていく学生たちを対象に、医学をはじめとして人間の生理的構造を扱うのは自然科学、集団、組織、社会など集合体の全体的性質を取り扱うのが人間科学、という、かなり観念的なことをひもとく回であったが、講義の最初に事故の話に触れて始めたことをよく覚えている。

自然科学と人間科学の違いは心臓の科学と心の科学、という具合に区別ができる。心臓の科学には正解があるが、心の科学には複数の最適解が存在する。そこで、当日は村田朋泰さんがクレイアニメで仕上げたMr.Children「HERO」のプロモーションビデオを見ることにした。世界に広がる意味は、それぞれの「見え方」と「振る舞い」によって形作られていくことを実感して欲しいとの思いからであった。

あれから10年、今日は大阪の金蘭会高等学校で開催された、High school Play Festivalの参加校顔合わせ会に参列させていただいた。HPFは1990年、梅田にあった「スペースゼロ」主宰者の提案で始まった演劇祭である。スペースゼロの閉鎖に伴い、2001年度には実行委員会形式での開催に移行された。開催会場を探っていると耳にした当時の應典院事務局長により、高校生たちが切磋琢磨する演劇祭の趣旨に賛同し、シアトリカル應典院も開催会場の一つとされた。そして2006年の應典院主幹への着任以来、夏の風物詩とされた高校演劇祭の第1回会議にて、協力劇場の立場からの挨拶を担わせていただいてきた。

今日の挨拶では、やはりJR福知山線脱線事故の話に触れた。まず、10年目の今日だけ、4月25日だけ、あの事故のことを想い起こすのではなく、日々、その悲しみに向き合っている方々がいる、そこに思いを馳せて欲しい、と伝えた。なぜ、そんなことが伝えられるのかと、唐突感を抱いた学生たちもあったかもしれない。しかし、演劇もまた公演当日だけが大事ではないと理解できるであろう生徒の皆さんだからこそ、本堂を劇場として提供している側の代表として伝えたかったのである。


2015年4月21日火曜日

4+1コマ

大学の講義を労働として捉えるかどうかはさておき、集約型の仕事をさせていただいている。もちろん、集約型とは何か、と、定義にこだわる方にとってはそこから説明しないといけない。ただ、一般的な定義はさておき、ここでは曜日によって動き方を定めている、という意味である。ちなみに火曜日は立命館大学の衣笠キャンパスで過ごす日である。

前期の火曜日は午前中に「地域参加学習入門」という大規模講義を担当している。受講登録者は400人だが、単位が楽に得ることができるという噂が伝えられているのか、今期の受講希望者は790人であった。ちなみに楽かどうかは個々の主観なので立ち入らないが、少なくとも楽しんで学ぶ環境づくりに努めているつもりである。今日は地域の自治(ここではガバナンスを指す)の原理が統治型(自治体によるコントロール)から協治型(多様な主体によるコーディネート)へと変わっていることの説明の後、先週の「2人組をつくることができない」という嘆きのことばに応えるべく、「3人組をつくって、今、気になっていることを(ただ)語り合う」というワークを入れた。

私が大学で教える仕事をさせていただいたのは、田村太郎さんからお声掛けをいただき、甲南女子大学文学部の多文化共生学科の学生を対象にした「NGO論」である。2003年、それなりに講演には慣れていた時期であるが、15回の授業を組み立てる経験は始めてであった。不安が先立つのと、知って欲しいことを伝えたいという気持ちが先走り、90分、ひたらすら板書をしながら、言葉を重ねる授業を続けた。結果は大失敗であった。伝えたいという思いが強ければ強くなるほど伝わらず、不安を隠そうとすればするほど相手から重ねられることばや相手が自由に使う時間を抑え、受講生たちの不満が一気に露呈した。

それが今や1日で4コマの講義を担当する日さえある、そんな仕事に就かせていただいている。午前中の講義を終えると、短い時間に昼食をとり、時間割上は授業時間であるがプロジェクト型の科目ゆえに「部室」のような雰囲気の場所へと向かう。今日はその合間に夏期集中の「全学インターンシップ」のサービスラーニングセンター取り扱い分のオリエンテーション、さらに夜学とも言える時間にはチームワークを実践的に学ぶ小集団科目「シチズンシップ・スタディーズII」と続く。気づけばどれも対話の機会を積極的に盛り込んでおり、学ぶ環境づくりへの一定の自信を持ち得てきたのだと、これまで出会ってきた受講生や仲間の教職員の皆さんに謝意を表したい。


2015年4月11日土曜日

小さき声の<観音>たち

文章を書く人だけでなく、映画をつくる人も作家と呼ぶと知ったのはいつの頃だっただろう。そして今、映像作家と呼ばれる人たちが映画を作る時代になっている。もちろん、長らく映画に携わってきた方々の中には、映像作家と呼ばれたくないかたもおられるだろう。ともあれ、いのちを注いで作品をつくっておられる作家の方々に触れる機会をいただいてきたので、出来上がったものをコンテンツと呼ぶことに、ささやかな抵抗を抱いている。

今日は学生時代にご縁をいただいた鎌仲ひとみ監督の最新作『小さき声のカノン:選択する人々』の関西初上映を鑑賞させていただいた。出会いのきっかけは、米国ニューヨーク州のイサカで取り組まれてきた地域通貨「Ithaca Hours」について調べた際、創設者のポール・グローバー(Paul Glover)さんから「NHKの番組制作で日本から来たディレクターが面白い人だった」と紹介を受けたのだ。それが鎌仲さん(監督!)で、早速そのことをご本人にお伝えすると、すぐに1999年5月にBS特集として放送された『エンデの遺言』のVHSテープ(後に放送内容がNHK出版より書籍化)を送っていただいた。さらに、1999年の夏には鈴木みどり先生(当時、産業社会学部教授)に招かれ、立命館大学で非常勤講師を務めるため、そこに来てはどうか、とお誘いをいただいた。

ご縁をいただいてから15年あまり、町家に泊まっていただいたこともあれば、東京出張の折に泊めていただいたこともあれば、年賀状だけのやりとりのみが続いたときもあるが、2006年11月と2014年1月には應典院にお招きし、作品の上映もさせていただいた。しかし、長きにわたり丁寧な取材を重ねてつくられた作品をもっと多くの人に届けねばならないのに、と後悔を重ねる動員に留まっているのが心苦しくて仕方ない。転じて、今日の「とよなか男女共同参画推進センターすてっぷ」での上映は、私で当日券の販売が終了になり、最後は立ち見の方もおられる程であった。2011年3月の東日本大震災を契機とした東京電力福島第一原子力発電所の事故以降、二本松とベラルーシへ頻繁に足を運び、3年半のあいだで400時間に及ぶ撮影素材を半年かけて編集して出来上がった本作を、より多くの人に届けたいというスタッフの皆さんの心意気が会場には満ちていた。

映画は後世のための記録の手段でもあり、いまを生きる人々への表現の手段でもある。本作では、保養と呼ばれる方法により「こどもを守る」という、ただ一点で団結した観音さまのような人たちの姿が描き出されている。と同時に、事故から25年経ったチェルノブイリの周辺でも、未だに10万人のこどもたちが保養に向かい、内部被曝による放射線量を下げるための努力が重ねられていることを示し、選択と決断が求められていることを教えてくれている。作品の中では野呂美加さん(NPO法人チェルノブイリへのかけはし)が「病名がつくと保養には出られない」と語り、上映後のトークで監督は「ベラルーシのようにこどもを守る基金を」と呼びかけていたことが印象に残り、早速、会場で購入してサインもいただいたパンフレットを見返し、これからの福島への関わり方を見つめ直している。

2015年4月10日金曜日

<おもてなし>でウラハナシ

新年度もまた、金曜日は立命館の朱雀キャンパスに足を運ぶ日となった。用務は13時開始の災害復興支援室の会議である。多くの方の動きもあって、今年度から副室長が2名体制となり、多くの方の動きもあって、その1席に就かせていただくこととなった。東日本大震災を契機に設置された支援室は、学園における2020年までの長期計画の前半まで、すなわち2015年度までを目途に活動ということとされていたが、計画の後半部分でも課題の一つに据えられ、着実な取り組みが求められている状況にある。

グループ・ダイナミックスを専門としていることもあり、支援者の立場に関心が向き、支援の姿勢にこだわりを抱いてしまう。端的に言えば、何かの活動を構想、設計する際に、ユーリア・エンゲストロームの「活動理論」がちらついてしまうのだ。この理論では、主体と対象をつなぐ立場が明確に位置づけられ、この3者をとりまく関係性を適切に保つこと(主体と対象のあいだは道具、主体とつなぎ手のあいだは規則や規範、つなぎ手と対象のあいだは役割分担)が重要とされる。とかく、何らかの支援活動においては、支援するという主体が主役になってしまうことがあるが、特に復興支援においては、その主役は被災された方々であって欲しいと願ってやまない。

2013年の冬、立命館大学名誉教授の安斎育郎先生と科研費によるプロジェクトの打合せをさせていただいた折、9月の第125次IOC総会での
発言が話題となった。特に東京電力福島第一原子力発電所に対する「The situation is under control」と「O・Mo・Te・Na・Shi」というパフォーマンスについてである。今なお、オモテナシと言った後の合掌に、何とも言えない思いを抱き続けているが、ここでは立ち入らない。ともあれ、安斎先生は「表がないということは、裏ばかりなのだ」と、何とも言えないはにかみを浮かべながら例の口調で仰ったのだ。

2015年度の2週目の金曜日、夜に亀岡市役所の皆さんとご一緒した。大学コンソーシアム京都の在職中、リエゾン・オフィスの業務に就いていたときのご縁である。それから10年あまり、昨年度末に開催された龍谷大学の富野暉一郎先生の退職記念感謝祭で久々の再会となり、変わらずおつきあいをさせていただている(私は後輩ながら親友と呼んでいただいていて恐縮の…)同志と共に、懐かしい話、何気ない会話を楽しんだ。割り勘ゆえに(接待という意味での)おもてなしではないのだが、互いの仕事に払う<おもてなし>の場に浸りつつ、ちょっとしたウラバナシを裏も表もなく交わし合う夜であった。

2015年4月9日木曜日

フローのメディアでストックを

今年度も木曜日は應典院で過ごすパターンとしている。2006年に秋田光彦住職に招いていただいて、今年で10年である。月日の経つのは早いものだ。当初、10の期待を文章で示していただいたが、この1年、それがきちんとなしえたか、自らの言動への省察が求められるだろう。

この10年、應典院を巡る状況は大きく変わった。より正確に言えば、應典院の本寺である大蓮寺を中核としたグループ内の組織に、それぞれ変化がもたらされた。端的に言えば、各々の組織に次代の担い手が明確となりつつある。こうした代替わりは時に世代交代を伴うことが多いが、逆に言えば、世代交代を伴わない代替わりとなる場合、組織文化の継承と発展をどうもたらすかが大きな課題となる。

かつて、チクセントミハイ(Csikszentmihalyi)という心理学者は、何かに没頭しているときの「忘我」の感覚を「フロー体験」(flow experience)と呼んだ。日本語訳は1979年に『楽しみの社会学』(訳:今村浩明・訳/思索社)として出版された。その後、新訳と改題もなされて、今なお援用される理論の一つである。転じて、自分のことに重ねてみると、2006年当時、とりわけ10月に2年ぶりの再開となった應典院のコモンズフェスタの折には、フロー体験の只中にあったように思う。

あれから10年目の春、今日は大蓮寺が設置し、経営してきたパドマ幼稚園のウェブサイトにfacebookをどう組み込むかについて、住職と知恵を絞った。10年前にはなかったサービスであるが、インターネットの特徴である検索性と蓄積性がないプラットフォームをどのように活かしていくか、なかなか簡単なことではない。ふと、帰り際に應典院の事務所から大蓮寺の山門側を見渡してみると、散りゆく桜が風で寄せられ、ガラスブロックでできた軒の端に花びらの山がつくられていた。この1年、こうして何気なく見てきた風景に、いちいち感傷的になるかもしれないと思う春の一日であった。

2015年4月8日水曜日

古くて新しいもの

古いものと新しいもの、どちらかというと古いものを好んでいる。身の周りのもので言えば、今メインで使っているパソコンはMacBook Proの2011年2月のモデル(OSは10.6)だし、iPad miniのOSは未だに6.1、また携帯電話はモトローラのM702isであり、カメラはEPSONのR-D1sやソニーのDSC-R1やニコンのD40F3(レンズも1964年の東京オリンピックの頃に発売されていたオートニッコールのマルチコーティングのものを複数愛用)という具合である。住まわせていただいている京都の家も築90年ほどという2軒長屋の1軒で、自動車も初代カリーナED、オートバイはYAMAHAのZeaLだ。恐らく、どれもアンティークと言うには多少はばかられるもので、むしろ「ニュークラシック」という枠組みに位置づけられうるものを好んでいる気がする。

時代の変化と共に新しい技術が開発され、時間の経過と共に古いものは劣化する。人間の生産活動のためには、新しい何かをつくり続けていかねばならないこともあって、古いものが残されているのは、それだけで貴いと思う。実際、冒頭に挙げたものは、いずれも欲しいと思っても手に入らないものが多い。かといって蒐集家ではないつもりなので、それぞれに道具として使いこなしてこそ、価値があると思っている。「もう少し大切にしたら」という声が聞こえてきそうだが、私なりに大事に使っているつもりだ。

家具のお店が建ち並ぶ京都の夷川通に「井川建具道具店」がある。前の前の家の改修のとき、何度かお世話になったお店である。お店の看板にも、また運搬の車にも「新しいものと古いもの」と書かれているのが印象的だ。扱っているものも確かなのだが、それ以上に、新品と中古という区分けではなく、新しいもの、古いものと称しているところに、お店の姿勢や決意を感じとることができるだろう。

こんなことを想い起こしたのは、2013年の1月から通っている大阪・中之島での英語のクラスに足を運ぶ道すがら、同じ年に解体された大阪朝日ビルの跡地での建設が進んでいる風景を目にしたためである。既に東側にそびえたつ中之島フェスティバルタワーとあわせて、高さ200mのツインタワーが並ぶ光景が、この3年のうちに現れるのだろう。ちなみに今日の英語のセッションでは、3月1日のニューヨークタイムズに掲載されたUCバークレーのDavid L. Kirpによる「Make School a Democracy」が議論の素材となった。米国で生まれたジョン・デューイの方法論がコロンビアで活かされた、という話で、古典の中に根差した知見と、それを現代に活かす知恵が重要となることを再確認する機会となった。


2015年4月7日火曜日

「楽単」と捉えられる「カモ」

前期の講義が始まった。今年も前期は火曜日が立命館大学の衣笠キャンパス、水曜日がびわこ・くさつキャンパスに出講する。後期には月曜日の夕方から同志社大学の今出川校地に出講させていただく。持ちコマ数は若干減ったが、時間割に乗らない部分での動きが増え、講義の一環として地域で過ごす時間がより求められる年になりそうだ。

5月から始まる変則の通年科目を3クラス持つ関係で、年度当初は火曜日の2限の「地域参加学習入門」と、6限の「シチズンシップ・スタディーズII」から始まる。いずれもサービスラーニングセンターによる科目である。ちなみに「地域参加学習入門」は、「地域参加活動入門」と呼ばれた時代から、具体的には同志社が本務校であった2010年度から担当しているため、今年で6年目を迎える。一方で「シチズンシップ・スタディーズII」は、2012年度で終了となった「ボランティアコーディネーター養成プログラム」の科目群を整理し、2013年度から開講されたものであるため、今年で3年目となる。

長きにわたって同じ科目を担当していると、一定の評判が学生たちによって伝えられていく。特に「地域参加学習入門」は、400人の大規模科目なのだが、筆記試験もレポート試験もなく、小レポート4回と最終レポートによる平常点評価ということもあり、楽に単位修得ができる「楽単」とされている。そして、そうした科目の担当である私は「カモ」だという。Twitterで検索キーワードを工夫すると、そうした類のツイートに複数出会うことになる。

いくつかのツイートの中で、どうしても気になることがあって、引用しながら返信をしたものがある。それは単位は教員が「あげる/あげない」ではなく、成績に応じて学生が「得るか/得られないか」の問題と伝えるためだ。R2020とも呼ばれている、2011年度から2020年度までを計画期間とする立命館の10年計画では、学習者中心の教育が柱の一つとされており、それに応えるべく、楽かもしれないけど楽しい学習環境、時に苦しいけど学びの実感がもたらされる講義設計に努めているつもりである。「地域参加学習入門」に対して寄せられた言葉に、何となくモヤモヤを思いながら、講義を終えると、毎回、講義の最後に回収しているコミュニケーションカード(質問やコメントの用紙で、私の場合は毎回設定しているワーク用のメモ欄を追加して都度都度作成しているもの)が乱雑に置かれているものを、誰の指示も受けない中で整理を始めた受講生らがいて、こういうことができる素養を習得して欲しいのだ、と、次回の講義で紹介すべく、急いでレンズを向けた。


2015年4月6日月曜日

学習の歴史を語り継ぐ

いよいよ大学も講義が始まる頃合いとなった。今日までは新入生を中心にガイダンスの期間であった。この間、2回、びわこ・くさつキャンパスと衣笠キャンパスで、立命館大学のサービスラーニングのプログラムの説明をさせていただいた。ガイダンスの参加者も含め、例年よりもプロジェクト科目への登録が伸びないのが気がかりな今日この頃である。

サービスラーニングセンターによる正課科目のガイダンスでは、前年度までの受講生が自らの学びの経験を語る時間を設けている。今日も時代祭応援プロジェクトで学んだ4名の学生が語りを担ってくれた。この3回すべてに、参加可能が学生が当番を決め、あらかじめ共通のスライドを作成して臨んでくれてきた。2回目には受入先である平安講社第八社から、ご担当の方にお越しいただき、現場の側から見た学びの意義を語っていただいた。

歴史を意味するhistoryという言葉が、「his story」という具合に「彼の物語」として語られるようになった状態であることに因んでいるという説を聞いて、なるほどと思ったことがある。実際はギリシャ語historiaに由来しているとのことで、俗説である。実際、語源を辿ると、historyはギリシャ語historiaに由来しており、そのhistoriaは「知る」ことを意味するラテン語のhistorに「ia」という接尾語がついてたものだという。それにより「過去を知ることにより学ぶこと」という語義となったと、New Oxford American Dictionary 2nd editionに示されている。

「あのとき」何が「できた」のか、そして「できなかった」のか、こうして現在から過去に回帰した語りで自らの立ち居振る舞いを語ったとき、それは体験が経験として昇華されたと認められるだろう。重要なことは、できたことだけを武勇伝のように語らないことである。「べてるの家」風に言えば、「弱さの情報公開」ができる、そうした強がらない強さを得たとき、学びと成長を他者が実感できると言えよう。「地域への思いと地元への思い」、「学部と世代を超えた関係づくり」、「裏側に立つことの面白さ」、「行事の背景を説明する責任」、こうした学生たちの語りが重ねられる季節であることを、桜の花が咲き始める頃に思うようにしたい。


2015年4月5日日曜日

徐々になじむ

雨の日曜日である。いよいよ桜は今週で最後のようだ。昨日は車窓から楽しむだけだったことが心残りで、平野神社を訪れることにした。さすがに多くの方々で賑わっていた。

何より、昨日は車窓からの眺めばかりだった。ゆえに歩いて楽しむことにした。徒歩圏内に花を愛でる場所があるのは幸せなことである。ただ、傘が必要な天気なのが残念だった。

例によってレンジファインダーのカメラを持ち歩いたが、ファインダー像のとおりには写らないところが、撮る楽しみをもたらしてくれる。そんな楽しみに浸っていると、他の方々がスマートフォンや一眼レフ、その他ミラーレス一眼などで撮影されている姿が気になって仕方ない。特にレンズにフードを逆側にかぶせたまま使っている方を見ると、「もしかして、箱から出して、そのまま使っておられませんか?」などと訊ねてみたくなる。単に意地悪な問いかけに終わってしまうのだが、取扱説明書を見れば、あるいは他の方の撮影の様子を見れば、何よりそれが何のためにあってどんな機能を担うものなのか考えてみれば、すぐにわかることのはずだ。

平野神社の帰りには隣のパン屋さんに立ち寄った。とはいえ、今日の外出はパンを買うのが当初の目的であった。なじみの店とまではいかないが、この間、何度か足を運んでいる。その一方で、4月から毎日使い続けているカメラとレンズには、徐々になじんできているように思う。

2015年4月4日土曜日

に合うリズム

新年度最初の週末は大きな予定もなく過ごしている。あいにくの天気で桜を楽しむのもこの週末限りとなりそうだ。そこで妻を街中に送るついでに、カメラを片手にまちに出ることにした。しかし、車で移動したのは失敗だった。

この時期に限らず、やはり京都は観光地である。岡崎の疎水沿いの風景が素敵だろうと向かってみると、案の定、大勢のひとだかりができていた。加えて周辺の駐車場も満車、道路も渋滞であった。逆に言えば、色とりどりの木々を車窓から眺めることができた。

既に満開を過ぎた桜ということもあって、時折吹き抜ける風は、その花びらを道路へと舞い散らせていく。木々の下を一定のスピードで駆け抜けることができれば、それは桜のトンネルとなるところである。しかし、動きの止まった路上で迎える花びらは、まるで桜のシャワーのように感じられた。少し情緒的に語ってしまっているが、うららかな春を感じたことには相違ない。

渋滞を抜け、再び信号で止まると、フロントガラスに花びらが一枚だけついていた。途中までは車で来なければよかったと思っていたが、その場面に出会えただけでもよかったことにしよう。その後は喧噪のヨドバシカメラでカメラ用品を買い、馴染みのお店で夕食をいただき、既に祇園祭のお囃子の練習が鳴り響くまちの情緒を感じ、帰宅した。何となく、レンジファインダーのカメラを使うリズムは、京都のまちを歩いて楽しむテンポと合っているのだろうと思い、次のまち歩きの機会に思いを馳せている。


2015年4月3日金曜日

チャージ、その後に。

かつて梅棹忠夫先生は、教育はチャージ(充電)、文化はディスチャージ(放電)と喩えた。このモデルは教育も文化も教育委員会が所管してきた自治体文化政策への問題提起となり、いわゆる「行政の文化化」を後押しした。中川幾郎先生や、小長谷由紀先生らの著作によれば、この言葉が使われ始めたのは1970年代というが、未だ「文教」という言葉が残っているとい現代である。変えたい人たちは変えるし、変えたくない人や変えようと思わない人にはどんな言葉を投げかけても変わらないのだろう。

今日、應典院で「まわしよみイスラーム」と題した会を催した。2012年度の総合芸術文化祭「コモンズフェスタ」の企画委員会において陸奥賢さんが発案した「まわしよみ新聞」の方法を用いて、イスラームについて問いを深めようという場である。まわしよみ新聞については、陸奥さんによるウェブサイトや書籍などにより、その方法が広く公開されていることもあり、今や日々どこかのまちで取り組まれている。通常は特定のテーマを掲げることもなく、ましてや「わかったことをまとめていく」壁新聞の様相を呈するのだが、今回はその反対にイスラームに関連づけて記事を切り抜き、互いの意見交換を通じて「何がわかっていないのかをわかっていく」ための手段として用いることにした。

ちなみに昼には今年度の初回となる立命館災害復興支援室の定例会議がなされた。東日本大震災から4年を経る中、今年度から副室長が1名の増員となり、不肖ながらその立場に就かせていただくことになった。昨年度までのチーフディレクターという役割を引き続き担いながらの役職であると捉え、引き続き「支援者主体」ではない支援、すなわち担い手ではなくつなぎ手となって、共によりよい未来を見据えていくことができるような事業が進むよう努めていきたい。今日の会議では早速5月に、立て続けに気仙沼に行く方針が決まり、これから数々の調整を進めねばならない。

そうした会議を経て向かった初回の「まわしよみイスラーム」では、私ともう一人の進行役を除いて8名、合計10名の参加者を得たが、主催者側のまとめの言葉として「好き嫌いを越えて他者に向き合っていく姿勢」の大切さに触れることにした。教えや行為の意味(価値)ではなく、教えや行為が実行される意思(価値観)が大事にされなければ、一連のIslamic State(IS)による事件を紐解くことが困難であると改めて感じたためである。2015年の1月3日にヨルダンのパイロットが殺害されたことを受け、今年度は偶数月の3日に應典院で「まわしよみイスラーム」、偶数月の3日に阪急曽根駅近くにあるNPOそーねの拠点「練心庵」にて 『イスラーム概説』(訳出:黒田美代子)の読書会がなされていく。この20年にわたり、文化施設としてまちに活かされてきた應典院でイスラームを学ぶとは、何とも玄妙なチャージ・ディスチャージ・チャージと反復がなされてきたことの証左なのではないかと、デジタルカメラながらに手動レバーによりシャッターチャージが必要とされるR-D1sにて夜桜を撮りながら、そんな思いにふけるのであった。


2015年4月2日木曜日

焦点・露出・幕の速度

世界初のレンジファインダーデジタルカメラの改良型、R-D1sを使い初めて2日目である。早速、カバンの中にしたためて家を出ることにした。いつもはギリギリまで何かをすることが多いものの、カメラを取りだし、構え、撮影する余裕が欲しいと、1本早い列車に乗ることができる時間に家を出た。そして、バス停に向かう道すがら、早々にカバンから取りだし、目の前に広がる世界にレンズを向けてみた。

レンジファインダーというのは、文字通り距離(range)を測る(find)機構のことであり、撮影範囲を確認する装置(ビューファインダー)との組み合わせて用いられる。一眼レフカメラあるいはミラーレス一眼カメラなどはビューファインダーもしくは液晶画面に表示されたレンズの実画像をもとに撮影するのだが、レンジファインダーでは異なる作法が求められる。ブライトフレームと呼ばれる撮影範囲を示したファインダー内に表示される枠を、使用するレンズにあわせて切り替えることではじめて、構図を決めることができるのだ。

親が使っていたオリンパスXAをよく借りたこと、大学生になってから日沖宗弘さんの「プロ並みに撮る写真術」を読んで中古のCanon 7を購入したこともあり、それなりにレンジファインダーでの撮影経験を重ねてきた。ちなみにXAはレンズの絞り値を決めるとシャッター幕の速度が自動的に設定される露出優先カメラだったが、Canon 7はセレンという物質が塗られた金属板への受光量から露出を算出する外部電源不要のセレン光電池式露出計が内蔵された機械式カメラであった。それ以前にもオートフォーカスのコンパクト(とは言えないものも含めた)カメラ(ニコンAD3、コニカBiGmini、オリンパスIZM300など)、電子式の一眼レフカメラ(ニコンF3)などを使ってきたこともあり、写真の原理については一定、理解を重ねてきたつもりである。ところが、今ではすっかり携帯電話やタブレット端末での撮影が増え、焦点と露出と幕の速度を合わせて、一枚の写真に仕上げていく感覚からは遠ざかってきていた。

R-D1sも中央部重点平均測光方式による絞り値優先自動露出での撮影が可能なのだが、一眼レフやミラーレスと異なり、どう写るかを確認してシャッターを切ることができない。特にブライトフレームではおおよその撮影範囲しかわかりえないこともあり、どんな絵(あるいは画)として目の前の風景を切り取るのかを考えつつ焦点と露出と幕の速度を合わせ、どんな風に切り取られるかを想像しながらシャッターを切る必要がある。ちなみに今はMマウントレンズについてはフォクトレンダーのノクトン40mmF1.4シングルコートしか持ち合わせていないが、レンズの癖との対話も撮影にあたっては重要な要素である。今日は應典院、京都市の中京区役所のプロジェクト科目の打合せ、立命館の災害復興支援関係の打合せなどと続いたのだが、行く先々というより、その道中で何度かカメラを構えることになり、はてさて、レンズ沼と呼ばれる泥沼の世界にはまらぬように、しかし時にはそんな危険な世界に足をつっこみながら、世界を見ていくことにしよう。


2015年4月1日水曜日

伝統をもとに時代に応え、時代を越えて伝説となる。

新年度は雨の幕開けであった。お気に入りの折りたたみ傘の収納袋をなくしてから、極力、傘を持たずに済ませようと思うようになってしまった。それでも今日は傘を持たないわけにはいかない天気と服装だったので、昨年3月にヘルシンキ市の青少年課でいただいたオレンジの折りたたみ傘をお供にすることにした。薄暗い空の下ではあるが、頭の上に鮮やかなオレンジが広がっていると、何となく明るい気分になり、そうしたことをフィンランドの人たちも狙ったのではないか、などと思いながら目的地へと向かった。

今日は應典院も含めた大阪・浄土宗大蓮寺の関係組織の新年度の総会が行われた。私も一組織を統括する立場として出席し、年度当初にあたって運営方針などについて話をさせていただいた。冒頭の切り出しは、時代に応えて後にも語り継がれるのが伝説、時代を越えた価値を継承できると伝統、という比較であった。もちろん、こんなきれいに分けることはできないが、1997年の再建から10年を迎える直前の2006年、應典院の主幹に就いて10年目を迎えるにあたり、60周年を契機に始めた園舎リニューアル工事が竣工したパドマ幼稚園のスタッフの皆さんに何かを感じて欲しかったのである。短い時間の語りとなったが、締めのことばは、inとbyとthroughの3つの前置詞を紹介し、施設の「中で」なされること、施設の担い手「によって」なされること、そしてそうした施設が拠点として活かされる「ことを通して」世の中にもたらされる意味を大切にして欲しい、とした。

こうして多くの言葉を用いているものの、特に最近は言葉が過剰な気がしている。先般、大阪での打合せの折、ある方が「言葉の力を信じる、なんていう人がいるけど、僕はお金の力を信じているよ」と仰っていると知った。確かに、綺麗な言葉ばかりが並ぶと、まるで光が乱反射するかのように、互いの要素が相殺されると共に、その場での居心地は悪くなっていくだろう。ちなみに先の打合せでは、その言葉が紹介された後、別の方が「コミュニケーションっていうのは、摩擦に耐えるってことだと思う」と述べ、それぞれのメモ帳に書き留め、場を鎮める言葉の力を感じたように思う。

先般、写真家の齋藤陽道さんにより宮沢賢治さんの『春と修羅』が「写訳」されたことを知り、圧倒された。言葉も写真も、世界を表現するためにある。このところ、ノイズキャンセリングヘッドホンをつけて移動することが多いのだが、ノイズを機械的に排除するのではなく、ノイズの中でも澄み渡る(はずの)何かを探る、そんな姿勢が大切なのだろう。言葉にしきれない感情をできるだけ論理的に表現しようと努めてみたが、そうしたことを思う年度末から年度初めに、以前から探し歩いていた「伝統の」Mマウントを付けた「伝説の」レンジファインダーデジタルカメラ「R-D1」の改良版「R-D1s」の中古に巡りあうことができたので、風景を切り取る新しい道具に迎え、世の中を丁寧に見つめていくこととしたい。


2015年3月25日水曜日

出席者に託すということ

「春はお別れの季節」という文字を、節をつけて口ずさんでしまう(「おニャン子クラブ」の解散コンサートを小学校6年の夏休みに見た)世代である。とかく、大学教員をしていると、facebookのタイムラインには、ゼミの卒業生との集合写真が流れてくる。しかし、私は学部ではない(学部を横断して教養教育を展開する共通教育推進機構)所属のため、そうした場を共にすることがない。少しだけさみしさを抱くこともあるが、逆に言えば、ゼミを持たない教員としてのお役目をいただいている。

昨日から今日にかけては、「出会いと別れを繰り返し」ていく時代の中、立命館大学サービスラーニングセンターの学生スタッフの合宿に参加した。学生スタッフは年に2回募集されており、2004年に衣笠キャンパスで開設されたボランティアセンターを母体として2008年度に設立されたセンターゆえ、大学ボランティアセンターのボランティアコーディネーターという性格を持っている。合宿では、活動を担う上での能力に対する研修を行うと共に、役割に対する一定の理解が促される。そして合宿への参加を通して初めて、センター長から学生コーディネーターとして任命されるのだ。

ところが、今回の合宿には任命予定の36名のうち20名が一部参加もしくは欠席ということになった。また、来年度からは3キャンパス体制になるのだが、1つのキャンパスは個人の「やりたいこと」に焦点を当てた議論に終始しそうな流れになっていた。そこでたまらず、組織の一員としての自覚や責任をどう考えているのか、と問いかけることにした。結果として学生たちは黙ることしかできず、恐らく相当もどかしい思いを抱いたことだろう。

任命証が渡された後、コメントをする機会があったので、2つのことを伝えた。一つは「欠席した人たちから何かを託されたのか」という問いかけをすることで、たとえ出席できなくても参加する方法はあることである。もう一つは「社会と自分を語る言葉を豊かにするために、語彙だけでなく語り口を増やして欲しい」ということで、手始めに読んで欲しい3冊の本(加藤哲夫『市民の日本語』、大平健『やさしさの精神病理』、鷲田清一『「聴く」ことの力』)を紹介した。合宿の後、大学コンソーシアム京都に在職中にお世話になった富野暉一郎先生の退職記念大感謝祭にお邪魔したが、まさにこの場は出席している者によりよい未来を託す場だったように思い、心していかねばと背筋が伸びる思いで会場を後にするのであった。


2015年3月12日木曜日

遺すものをどう残すか

自他共に認めるモノフェチである、と思う。モノフェチの傾向の一つとして、モノをスペックやコードネームで語るという傾向があるのだが、例えば本日、走行10万キロに達した現在の愛車も、4ドアのST162の後期型、エンジンは3S-GEなどと語ることができる。そうした習性に加えて、持ち物も飾り物もお蔵入りの物が多いことからも、れっきとしたモノフェチと言われそうだ。ちなみに人物、ということばにも物という文字が入っているが人物にも高い興味を抱いている自覚がある。

そんなモノフェチな私は、今日、建物の撮影というお仕事を担った。身を置いているお寺、應典院の本寺、大蓮寺が経営してきた「パドマ幼稚園」のリニューアル工事が完了に近づき、程なく開催される竣工式のリーフレットの作成のためである。私が幼稚園の頃に比べると、プライバシーへの厳しい配慮が求められていることもあって、撮影には細心の注意が求められる。今回は撮影だけでなくリーフレットのデザインも依頼されたため、仏教の師、秋田光彦園長による文字表現を手がかりに、仕上がりのイメージを構想しながら現場に立った。

最近は撮影の仕事も減ってきているが、静物の撮影はSONYのDSC-R1に頼ることが多い。恐らく2006年、同志社で働き始めた頃に、在庫僅少状態になったときに新品を底値で買ったものだ。高校時代、水越武さんの写真に魅せられ、ご自身が使っている機材に関心を向け、それがライカとコダクロームで撮影されたものを知った。あいにくライカには手を出すことはできなかったが、写真家になられた当初の槍・穂高での撮影にはニコンも使っておられたといった情報に触れ、真似してニコンとコダクローム、そして昭和の時代の東京オリンピック前後に発売された85mmF1.8などを入手し、多くの場面を切り取らせていただいてきた。

その後、すっかり時代はデジタルが隆盛となり、フィルムでの撮影は趣味の一つになってきた。DSC-R1の「撮って出し」のJPEG画像は、初期のCMOSセンサーだからなのか、あるいはT*コーティングのためか、リバーサルフィルムで撮影したときのような心地の良い色の乗りと抜けがたまらないし、135フォーマットで換算するところの24mmから始まるズームレンズに助けられたことも多い。それでも、撮ってから消していくデジタル撮影と、残り枚数を考えてシャッターを切っていくフィルム撮影とは、撮影の作法だけでなく、場への向き合い方も異なる気がしている。先般も東北やインドネシアにフィルム機材を持っていったが、もし、良品の中古に巡り合えるなら、EPSONのR-D1sを入手し、エルマリートの非球面28mm、程度の良い6枚玉ズミクロン35mm、沈洞エルマー50mmなどをカバンに入れてみたいと、夢の旅の夢を見るのであった。

2015年2月25日水曜日

古都で考え語ること

インドネシア出張、3日目はジャカルタからソロへと移動した。さしずめ、東京から奈良、という感じだろうか。無論、ソロを京都になぞらえる人もいるだろう。ただ、京都府と友好府州となっている隣町、ジョグジャカルタの方が京都に重ねられる場合が多いだろう。
ともあれ、ソロもジョグジャカルタも、共に古都である。そして、王室が残り、多くの文化資源も遺されてきた。今日はジャカルタからソロに到着して、そのままバティックの工房の一つ、ダナルハディのバティックミュージアム(Museum Batik Danar Hadi)に向かった。併設されているおしゃれなカフェレストランで昼食をとり、オーナーによる12,000点の蒐集物から年代や意味にあわせて系統的に展示された作品を、M.Al.Kadhafiさんに案内いただいた。

バティックが面白いのは、色やモチーフに具体的な意味が重ねられており、丈の長さなども含めて、男女の違いやTPOにあわせた使用のルールが定められていることが大きいだろう。例えば、1840年から1910年のオランダ統治時代にはヘンゼルとグレーテルや赤ずきんちゃんや白雪姫さらには軍隊のモチーフが描かれた作品が作られていたし、インドネシアの独立後にはそれまで王室のみに用いられてきた柄が広く用いられて自由の象徴として位置づけられ、イスラームの文化圏ではモチーフに動物の頭は描かれない、といった具合である。また、制作された場所の地質的な特性により、赤が強い、藍が強い、といった特徴があらわれたりもする。昨日訪れたジャカルタのテキスタイルミュージアムでは2600点から3ヶ月ごとに常設展を入れ替えているというが、こちらは現在も制作が重ねられている工房ということもあり、バティックのことだけを深めるなら、相当の学びを得ることができるだろう。

夜はマンクヌガラン王宮近くのジャワレストランOmah Sintenで、この間コーディネートをいただいているフジモトヤスヨさんと共に食事をとった。ちなみにソロには2つの王室が残り、まちの南側にあるのが(比較的保守的と言われる)カスナナン王宮、そして北側のあるのが(比較的開放的と言われる)マングヌガラン王宮とである。9月1日からソロでの滞在制作を続けているフジモトさんは、昨年の10月25日、ちょうどジャワ暦の新年を迎えるにあたり、このマングヌガラン王宮を一周する行列と、王宮内での祝宴に参加されたそうだ。ホテルも併設されたOmah Sintenでは、東屋仕立てのレストラン部分で、道路を挟んで王宮を望むテーブルにて「そういえば、このところ毎日、朝日を見て、夕闇に染まっていく空を見て、日付が変わるまえに寝ているな」と、生活のリズムが自然と合ってきている、そんなことを考え、語るのであった。



2015年2月24日火曜日

インドネシアでご縁を紡ぎ直す

インドネシア出張、2日目は終日ジャカルタで過ごした。月曜日に日本を出て、金曜日の朝には戻るという、比較的短期の出張である。今回は立命館大学研究部による若手支援のプロブラムに採択いただいた「悲嘆の受容と伝承の方法論に関する研究 〜当事者による語り直しの場づくりへの視座〜」の一環で、災害多発地域の一つでのフィールドワークのために訪れた。インドネシアにはつい先ごろ、1月31日の深夜便で日本を出て、2月3日には帰国するという弾丸出張でジョグジャカルタを訪れている。こちらはガジャマダ大学での学生ワークショップの進行役を担うべく、立命館災害復興支援室による校務での出張だった。

 研究での出張にあたり、特に海外出張の場合は現地でのコーディネーターが欠かせない。今回はソロに滞在中の作家であるフジモトヤスヨさん(cyabon)が骨を折ってくださった。フジモトの滞在は文化庁による平成26年度新進芸術家海外研修制度に選出されたためである。工芸分野での採択で、染と織について調査を重ねているところであり、上記のテーマとあわせて、いくつかの場所にご一緒いただいている。

 今日は午前中からFine Art Limaran Batikのインサナ・ハビビ(Insana Habibie)さんとの面談であった。ハビビさんとは昨年3月に京都文化博物館で開催された企画「島々の染と織」でもお目にかかっていた。そんなご縁もあり、先週からインドネシア入りをされていた株式会社細尾の細尾真生社長と、フジモトさんと3名で再会した。そして、ご自身の作品に重ねている思い、特にインドネシアの中でもファッションのまちで知られるバンドンを拠点としつつ、古来より細かな作業で知られるプカロンガンにて制作が重ねられている背景などについてお話を伺った。

 ハビビさんと共に会食の後、そのまま車で送っていただいて、ジャカルタのテキスタイルミュージアム(Museum Tekstil Jakarta)へと向かった。ここでは学芸員のアリ(Mis Ari, S.Pd)さんに対応をいただき、服飾文化の歴史から紐解く時代の様式などについて知ることができた。また、この博物館では思わぬ出会いがあった。それはアチェの地震でも文書修復の専門家としてインドネシアでの災害支援に取り組み、現在はJICAを通じてインドネシア国立考古学研究所(ARKENAS)にて紙資料の保存・修復等のために11ヶ月現地に滞在しておられる坂本勇先生とお目にかかれたことで、阪神・淡路大震災当時に伊丹などで支援にあたられたこと、またその後には神戸で『翔け神戸』の著者である大仁節子さんたち共に活動したことなどを伺い、「大仁さんの撮影した場所を、立命館の学生が継続して定点観測させていただいているんです!」と、数々のご縁ご縁に感謝を重ねる一日であった。




2015年2月23日月曜日

想像ラジオが語りかけてきた

「たとえ上手のおしゃべり屋」と自分で語る程でもないのだが、たとえ話を交えてしゃべるのが好きである。好きなだけであり上手かどうかは定かではないと、自己評価は横に置いておくとして、語り方や綴り方の中に、多くの比喩や隠喩、そしてレトリックを駆使している自覚はある。事実、2005年に書き上げた学位論文でも、ネットワーク組織の有り様を長縄跳びのアナロジーで捉えたし、2009年の論文でも参加型学習の意味と意義を半返し縫いをメタファーに紐解いた。社会構成主義に立つケネス・ガーゲンの著書『もう一つの社会心理学』の訳者である渥美公秀先生が、メタファーとは概念間を結びつける「視覚代理物(visual substitution)」であると同書で示していると研究指導を重ねていただいたことが、今につながる語り方・綴り方の礎石となっている。

そんな「たとえ屋」の私が今日の出来事を綴る上で、「初登場第一位」という表現を使いたい。まるでラジオのリクエスト番組のようだが、あながち外れていない。なぜなら、その対象は『想像ラジオ』という作品なのだ。ただし、それは実在のラジオ局の番組名ではなく、いとうせいこうさんの小説の名前である。

例によって年末にいそいそと再開したブログも、1月中旬の授業再開と阪神・淡路大震災の周年事業などに従事するなか、きちんと途絶えてしまっていた。ただ、今日、一気に読了したこの小説は、依頼された原稿さえ仕上げられず、ましてや日々の業務もままならなくとも、何かを綴ろうという衝動に駆り立てるものであった。無論、この小説が東日本大震災を扱ったものであること、また2013年に出版されたこと、加えて渥美先生が昨年上梓された『災害ボランティア』においても触れられていたことなど、これまでも何度も読もうと思いながら、日々の出来事に浸りきっていると、どうしても手を伸ばすことができなかったが、たまたま出発直前にゲート横の本屋さんに立ち寄ったところ、刊行したての文庫版が平積みとなっており、運と縁の巡り合わせと手にしたのだ。


ブログが途絶えている間、京都や大阪や神戸でバタバタしつつも、インドネシアのジョグジャカルタ、シンガポール、そして気仙沼と出張を重ねてきたが、今日からジャカルタである。地震や津波や火山噴火など、多くの厄災を経験する中で、生活文化を通じてどのようにその経験が継承されてきているのかに触れることが目的だ。その往路にて、冒頭に記した「たとえ上手のおしゃべり屋」(p.82)という設定のDJアーク(東日本大震災により福島県にて38歳にて亡くなっていったとされる芥川冬助)が主人公となり、想像の世界で繰り広げられるラジオ番組が文字化された小説を読み、誰が読んでいるかもわかりきらず、特に反応も寄せられないブログなのだが、それでも書こうと発意した。気温は30度を超えて湿度も90%を越えるインドネシアにて、思い上がりと思われるかもしれないが、全編が2者(作品中では作家Sさんと、大震災の半年前の秋に事故に巻き込まれて亡くなった君)の対話に終始する第4章の、144ページにあるこの言葉「あなたは書くことでわたしの言いたいことを想像してくれる。声が聴こえなくても、あなたは意味を聴いてるんだよ。」のように、この文章を読んでくれている誰かを、そしてその人の言いたいことに想像をめぐらせ、誰かの想像力によって作り出される世界に語りかけ(なおし)ていくことにしよう。

2015年1月9日金曜日

オートとマニュアル、デジタルとアナログのゆらぎ。


 久しぶりに移動の多い一日だった。朝はガソリンスタンドで給油、その後ヨドバシカメラ京都へお買い物、そしてそそくさと昼食をとって立命館朱雀キャンパスへ向かった。災害復興支援室の事務局会議がほぼ定時で終わると、エレベーターホールで広報課の職員さんと日程調整をして、急いで立命館大学びわこ・くさつキャンパスから程近い滋賀県社会福祉協議会へ向かった。1時間程度の打合せを終えると、翌日に迫った岩手行きの準備でモンベル京都、動物病院、さらに立命館大学衣笠キャンパス、とわたり歩いたのだ。
 余裕がないときこそ、車か公共交通機関か、移動手段に悩む。当然のことながら、公共交通機関で移動した方が、移動中に作業を進めることができる可能性がある。しかし、座れなかったときには、全く作業は進められず、むしろ風邪などをひくリスク、さらには車内の騒音で気疲れする可能性が高い。そんなことを考えてしまうようになり、最近は(もちろん、運転に求められる注意は払うのは当然として)無心になる、深酒を避ける、そういった観点から、あえて車で移動することが増えた。
 ちなみに仕事ではマニュアルが嫌いだが車はマニュアル車で、仕事にはデジタルな機材を用いるが趣味にはアナログな機材を好んでいる。メカ好きでモノフェチなのだ。ただ、そうしたメカやモノへの思いは、身体感覚から切り離されたものではない。むしろ、皮膚感覚というか、自らの活動のリズムと合うものによって、長く使っていきたいと愛着が湧いていく。
 今日は久しぶりに自分の身体感覚に合うモノのために、買い物に出かけた。リバーサルフィルムである。しかし、高校時代に水越武さんの写真に出会って以来、15年あまり愛用してきたコダクロームは2009年に販売が終了している。明日から應典院ではコモンズフェスタの後半戦だが、私は悩んだ末、初めて使う「プロビア100F」を携え、岩手県久慈市を初めて訪れる。

2015年1月8日木曜日

贔屓のメーカーで好みのスタイルを


 モノフェチという自覚がある。多趣味ということも重なって、年を重ねるごとにモノが増えてきた。それでも、自宅と職場の引っ越しを経て、少しずつだが、モノを減らしつつある。思い出の詰まったものも多いのだが、思い出を平面に封印するかの如く、写真に遺してから手放し始めている。
 スティーブ・ジョブズもまた、モノへの相当なこだわりがあったという。ウォルター・アイザックソンによって著された伝記には、自宅の家具を選ぶのに8年を費やした、といった挿話が紹介されている。また、普段使いのものも、イッセイミヤケの黒のタートルネックに、ボトムスはLevi'sの501、目にはドイツ・Lunor社のClassic Roundのアンティークゴールド、足元はニューバランスのM990(992)、という具合に選び抜かれていたことはよく知られている。いわゆるライフハックと呼ばれるような、ちょっとした仕事術をまとめたウェブなどでは、facebookの創業者であるマーク・ザッカーバーグも毎日同じTシャツを着ているというが、それは「できるだけ決断の数を少なくしたい」からだという。
 今日、新しい靴をおろした。ザッカーバーグほど無頓着ではなく、ジョブズほど偏執ではないが、贔屓にしているメーカーや、好みのスタイルがある。例えば、眼鏡は眼鏡研究社、ボトムスはWranglerのドレスジーンズ00082、革靴はtrippen、という具合である。一時期はmade in Japanにこわだわってオニツカタイガーなどを選ぶなどしてきたが、気付けば一番の仕事道具であるコンピュータがAppleということで、それを貫くことはできないという壁にぶち当たってしまった。
 今日おろしたのは、いつもと変わらない黒の靴、しかしスニーカーである。後に知ったtrippenもそうであるように、こだわりの靴づくりの歴史を持つメーカーであることにひかれて、大学時代に愛用していたニューバランスを久しぶりに選んでみた。時折、雨に降られる京都だったが、新しい靴は甲が高めの私の足を絶妙に包み込むものだった。今日は朝から立命館大学衣笠キャンパスでサービスラーニングセンターの会議、その後新春ランチ、そして夜は京都シネマの支配人の横地由起子さんと歓談、という具合だったが、誰にも新しい靴に気づかれなかったので、スニーカー記念日として記しておくことにしよう。

2015年1月7日水曜日

「わかる」と「かわる」


「場に正面があるという空間は珍しいのではないか。」今日は朝から應典院で年始のお勤めがあった。冒頭の発言は秋田光彦住職の講話の一節である。宗教空間において御本尊を前に皆がお念仏を唱えることの意味について、逆に生活空間では「テレビの方を向いて集う」といった間の取り方に注意を向けてのお話だった。
 應典院でのお勤めの後、大学での講義の前に今年最初の英語のレッスンに向かった。今、通っているクラスではInternational New York Timesの記事をテキストに語り合うこととなっている。今日のテーマは米国の裁判制度における検察と警察の関係についてであった。昨年7月のニューヨーク州Staten Islandでの事件(違法タバコを販売していたとして捕らえ、窒息死)、8月のミズーリ州Fergusonでの事件(警察の指示に従わなかったと、射殺)、9月のノースキャロライナ州Charlotteでの事件(交通事故で近隣住民に助けを求めようとしたものの強盗と間違えられ、射殺)と、相次いで警察が故意故殺とされていく背景が扱われた。日本でも刑事事件に裁判員制度が導入されて久しいが、刑事と民事とも扱われる点、有罪か無罪かの評決のみ(量刑は扱わず、司法取引があることも一因だろう)を行う小陪審、起訴か不起訴かを評決する大陪審など、Tad先生の絶妙な進行もあって、内容の理解が深まった。
 英語を学んだ後は、立命館大学びわこ・くさつキャンパスでの「現代社会のフィールドワーク」の講義に向かった。この2ヶ月ほど重ねたフィールドワークの発表の回だった。5つのチームに分かれ、「人はなぜタバコを吸うのか?」、「なぜ関西人はノリがいいのか?」、「BKCの設備はどのように決まっているのか?」、「なぜ男性もKAWAIIと言われるようになったのか?」、「日本人は小心者か?」といったテーマを掲げてのフィールドワークがなされてきた。多様な人々に尋ね、映像も用いて実験がなされ、関係者に直接ヒアリングを行い、仮説を鍛え上げ、諸条件を変えて複数の調査を重ねるなど、精力的な動きからもたらされた結果を分かち合うことができた。
 この講義では脳味噌で理解する(understand)ことと経験的に実感する(realize)こと、2つの「わかる」を重ねて欲しいと伝えてきた。頭と身体、あるいは熟慮と脊髄反射、そうして理解と実感を重ねることで、結果としてある場面に対する行動様式を習得することができると考えたためである。ちなみに『「わかる」ことは「かわる」こと』という書物(養老孟司・佐治晴夫、河出書房新社、2004年)もある。脳味噌で考えているうちは、まだまだ「腑に落ちる」「膝を打つ」段階まで至っていない、そんなことを朝から考え、夕方には学生らの学習成果から感じる、そんな一日だった。

2015年1月6日火曜日

質の高いLifeのために


 今年に入って「これだけはやめよう」ということを1つ決めていた。それは近距離のタクシー移動である。このところ時間を買う感覚でタクシーに頼ることが多かった。しかし、時間に余裕を持ってバス等で移動し、目的地の近くでコーヒーを飲むなどした方がよほど質の高い仕事ができると考えたためである。
 新年から6日、自分に課した「近距離タクシー禁止令」は、早くも崩れ去った。今日は朝から立命館大学の朱雀キャンパスで1月より着任の新総長、吉田美喜夫先生に立命館災害復興支援室のブリーフィングを行うことになっていた。終了後、衣笠キャンパスに向かって講義2コマという予定だったが、なかなかの手ごたえを感じることができたことも相まって、説明要員を担った災害復興支援室の事務局スタッフの皆さんと共に昼食をいただくことにした。そのため、慌ただしい移動となり、タクシーを使わざるを得なかったのである。
 慌てて衣笠キャンパスに向かわねばならなかったのは、3限の「地域参加学習入門」で、NPO法人サリュの皆さんをゲストにお迎えしたためだ。今回はスタッフの瀬端さんとメンバーの大西さんにお越しいただいた。講義後に回収したコミュニケーションペーパーと呼ばれている感想・質問の用紙を見てみると、精神障害、作業所、それらの存在を知らない学生もいた。何気なく目にしている人々が目には見えないしんどさを抱えていることに想像力を巡らせていく手がかりを見出してもらえたら、と願っている。
 ちなみに私は「サリュに行くと生活にメリハリが生まれる」という大西さんのフレーズが印象的だった。QOL(Quality of Life)という概念が提示されて久しい。以前、立命館大学文学部のサトウタツヤ先生が、原子力災害の只中にある福島の方々にどう向き合っていくのかを考える際には、「Life」という一つの単語に、人生、生命、生活、3つの意味がある、ということに注意を向けよう、とお話されていた。そんな話を想い起こしながら、6限の「ソーシャル・コラボレーション入門」では生協購買部で売っていた福袋を配りつつ、「ニーズ」からの企画提案だけでなく「シーズ」からの企画立案もある、ということを説き、長い一日を終えた。

2015年1月5日月曜日

2015年の初仕事

長い休みが明け、今日から通常モードである。今年は4日まで、メールを返信しないという自己ルールで縛っていた。それでもタブレット端末で着信は確認していたし、完全にネットから離れていたわけでもない。それでも心なしか、ある種のストレスからは解放されていたように思う。
 2015年の初仕事は同志社大学大学院総合政策科学研究科の講義から始まった。5限の「臨床まちづくり学研究」である。ちょうど昨日、サンデーモーニングの新春特番でル・ボンの『群集心理』が取りあげられていたので、いくつかの題材を紹介しつつ、集団意思決定について迫ることにした。その後はリレー講義「コミュニティ・デザイン論研究」にオブザーバー参加した。
 この日のご担当、高田光雄先生のテーマは「コミュニティ再生と建築・居住文化」で、異なる価値観の共存が成り立っているのが「よい」まちであること、そのためのまちづくり組織では仕組みとして「タイトでオープンなコモンズ」ができていること、そのためには時間軸の視点を導入して「シナリオアプローチ」によるプロセスを重視する必要があること、この3点が説かれた。要約すれば、価値調整型のまちづくりでは、やがて互いの利害を巡って喧嘩となり、調整役が消耗する。一方で震災前から多くの取り組みを重ねてきたまちは、現在や過去の話ではなく将来像を語り合うことができるため、価値共有型のまちづくりが展開されていると捉えられる。これこそが熟考と議論を重ねた熟議(deliberation)であると、阪神・淡路大震災の際の100を越える復興まちづくり協議会の活動や、京都の姉小路界隈を考える会の活動を事例に示された。
 興味深かったのは、東日本大震災以降注目を集めたレジリエンスについて丁寧な解説がなされたことであった。高田先生によれば、最近はResilience(回復力)が変化した状況から回復することの大切さを指摘するために用いられているが、古くから都市計画等で言われてきた文脈になぞらえれば、予測困難な環境変化への対応としてRedundancy(冗長性)、Diversity(多様性)をを含んだ概念として捉えることが重要ではないか、とのことであった。これを踏まえた上で、計画論における「シナリオアプローチ」が、マクロレベルでは経済や人口や都市圏(すなわち、社会)が縮退化するという将来予測が困難な中で変化への対応力を強化し、ミクロレベルでは家族や価値観(すなわち、ライフスタイル)が多様化するという住民の行動の把握が困難な中での個人同士の相互理解を促すために実施される上で妥当となる、と語られた。終了後は焼酎の品揃えが群を抜いている烏丸今出川の「一揆」にて、新川達郎先生や、このリレー講義のとりまとめ役の弘本由香里さん(大阪ガス株式会社エネルギー・文化研究所)や学生の皆さんと共に、価値の共存と共有の場をご一緒させていただいた。

2015年1月4日日曜日

幸せの辛さ

 同窓会から一夜明け、帰省も最終日となった。日付が変わるまでは飲まなかったけれども、14時から22時半まで、3つの場を渡り歩いた。何種類かのお酒をいただいたので、若干のダメージが残っての朝だった。ちなみに一次会ではジーンズの下に1枚仕込んでいたために、まるで土偶のような体型となり、その締め付けのきつさから、ほとんど食事を取ることが出来なかったことも、酔いの回りに影響しているだろう。
 高校卒業以来、地元を離れて暮らしているが、生まれてから18年のあいだ育ってきた故郷での時間よりも、関西で過ごした時間の方が既に長くなっている。そのため、ふと目が留まった風景をことさらに懐かしく思う場合や、あまりの変わりように驚く場面が多々ある。今日は母の実家に両親そろって年頭の挨拶に行くということで、帰る方向が同じということもあり、共にお邪魔した。この道中でも、変わらない風景と、変わりゆく風景、そして同じ変わる風景でも朽ちていく風景も目にしたのであった。
 母の実家では、母のきょうだいが集い、共に昼食をいただいたのだが、その場では程なく孫の話で盛り上がっていった。写真を見せ合い、それぞれが見聞きした物語を伝え合う場が生まれるのだ。 その流れとなれば、こどもがいない私の家族は自ずと話題に上りようがない。いくらか時間が経つと、気遣いも重ねられつつ、順番に我々の話にもなるのだが、なかなか辛い場である。
 連日の疲れも相まって、会食は中座を許してもらったものの、やはり何年経っても子は子である。子の幸せを願う気持ちは、それぞれに変わらない。結果として、弟夫婦からの洋菓子、いとこからの草餅、実家からは林檎、手作りの栗きんとんと梅酒とゆず酒、お歳暮のお裾分けのボンレスハム、そして地元の名店(竹茗堂)のウス茶糖、と大きめの不織布の袋いっぱいを携えての道のりとなった。袋の重さに親たちの思いを感じると共に、きょうだいやいとこの幸せをきちんと祝いきれているかと自問しつつ家路についた年始である。

2015年1月3日土曜日

密の一体感と疎の連帯感

 よりよい未来のためには、思い出に浸ることなく前を向け、といった格言を見聞きすることがある。確かに一理ある。だからと言って、まったく過去を振り返ることなく、それまでの人生を否定してしまう必要はないだろう。浸りすぎもよくないが、時に古き良き思い出に浸り、忘れていた何かを想い起こし、そのときには語り得なかったものを語りなおすことがあってよいはずだ。
 今日は高校卒業から約22年を経て、初めての同窓会が開催された。実は昨年も1月4日に同窓会が開催されたのだが、連絡窓口となった個人の名前が際立ち過ぎたようで、学年全体での会という位置づけが浸透しなかったようだ。しかし、今年は同級生(同じクラスの仲間)たちだけの盛り上がりではなく、何がなんでも同期生(同じ卒業年の仲間)で改めて縁を結びあわせる必要があった。それは40歳を迎える年に、学校全体の同窓会の当番学年となる習慣があるためである。
 この間、39名の実行委員が頻繁に集い、8月16日に開催予定の第89回の年次総会のために、今日の日の160人規模での会への準備が重ねられてきた。私もその端くれなのだが、何せ、地元から離れて暮らして久しい。それでも、昨年に続いて校歌斉唱の場面で指揮の役をいただいた。ただ、今年はプロのピアニストとなった金澤亜希子さんの伴奏によるという贅沢な場ゆえ、金澤さんと相談し、磐田に根づいている残りの37人の実行委員を壇上に呼び込み、共に歌うというサプライズ演出をさせていただいた。
 同級会は通常3年生のクラスを単位として行われるが、実は私にとっては1年生のクラスのメンバーの方が馴染みが深い。当時からの一体感の高さは参加率にも反映されて、3年生のクラスでは12人のテーブルとなったが、1年生のクラスで括ってみると(実際、これは当日盛り込まれていたクイズで明らかとされたのだが)22人の参加であった。結果として、3次会は1年生のときのクラスでの開催となり、さらには今後も「モトヨン(元4組)」同窓会が開催されていくこととなった。転じて、3年のときのクラスは、当時はあまり一体感がなかったものの、逆にあのときの連帯感のなさが今となっては良い思い出かもしれないなどと語り合い、密と疎の両極から当時を振り返る1日となった。

2015年1月2日金曜日

白の世界から青の世界へ


 應典院に身を置き、大蓮寺の除夜の鐘のお手伝いをさせていただくようになり、決まって帰省は年明けになっている。この2年は京都住まいをさせていただいているが、その前の京都暮らしのときには、元旦に大家さんのお宅でお招きをいただき、夕方まで歓談を重ねることが慣例となっていた。あいにく、その大家さんとはお酒を交わすことがなくなってしまったが、年賀状や電話で、時には素敵な家を住み継いでいただいた友人を介し、近況を交わすことができている。
 そして今、帰省する先は2つになった。一つは妻の、そしてもう一つは私の、である。かつて室生犀星は「故郷は遠きにありて思ふもの」と詠んだ。昔とは違い、物理的な距離の移動は容易になったが、精神的な距離には丁寧に向き合っていきたいものである。
 私の家族も、妻の家族も、やはりそれぞれ年を重ねている。もちろん、我々も、だ。あと何回、こうして変わらず年を越し、共に新たな年を迎えられるか、そんなことを考えるようになってきた。一度、きちんと京都に招かないと、もしくは皆で共にどこかに出かけようか、今度きょうだいと相談してみようか、そんな思いにも駆り立てられる。
 今日は京都で58年ぶりの大雪だったという。家を出て駅に向かう道は、一夜を経て所々アイスバーンとなっていた。約1時間遅れで到着した駅で見上げた空は、澄んだ青だった。視界いっぱいに広がる青と、暖かな日差しが、懐かしい記憶に包んでくれたような気もしている。遠くにありて思うのもまたよいのだが、やはり故郷に浸るのもまた、よいものである。

2015年1月1日木曜日

呼ぶことと応えること


 新しい年が始まった。今年は喪中ということで、年頭の挨拶を控えさせていただいている。先のご案内が叶わず、年が明けて早々、寒中見舞を作成してるという非礼をお許しいただければと願っている。なかなか定型のものを使うことができず、迫られてから作るという習慣は何とかしたいものである。
 そんな元旦は應典院の本寺、大蓮寺の除夜の鐘が響く中で迎えた。今年で7年連続9回目となった。大晦日の23時から受付開始で、23時30分に浄土宗の日常勤行から始まる除夜の鐘は、ほぼ0時に54回目が撞かれるよう進められる。そして0時になると大蓮寺の本堂にて修正会(しゅしょうえ)と呼ばれる法要と、秋田光彦住職の法話が行われるのだ。
 今年、最初の法話は「呼応」がお題とされた。いや、正確に言えば、それがお題となった。新年の挨拶を枕に、まずは昨年の出版以来、各方面で話題にのぼっている東田直樹さんの『跳びはねる思考:会話のできない自閉症の僕が考えていること』(イーストプレス)が紹介され、「話しかけられれば、それに答えようとする気持ちは障害があってもなくても同じだという気がします 。答えられないからこそ、尋ねてほしいのです。」の部分が読み上げられた。そして、そこからお念仏が唱えられる理由が語られたのである。
 よく「呼べば応える」という言い方がなされる。しかし反応を期待する前に(またそうした言語的な応答とは、期待する答えを求めるためになされるものではないことは言うまでもないとして)、まずは呼びかけが必要なのだ。ちなみに修正会には、大晦日の「年の瀬ピクニック」でお目にかかったクリエイティブサポートレッツ(浜松市)の皆さん(cocoroomが呼びかけた年末年始の釜ヶ崎の越冬を支えるボランティアに参加)もお参りいただいた。はてさて、どんな風に感じられたのか、3月のアートNPOフォーラムでお邪魔した折などに尋ねてみることにしよう。