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2017年4月30日日曜日

アンデルセンの国の桜

デンマークに来て1ヶ月が経つ。思えば遠くにきたもんだ、という文字を見て、旋律が思い浮かばれるのは、よほどの音楽好き、テレビっ子、あるいは海援隊と聞いて音楽グループだとわかる方々だろう。ともあれ、異国のまちにやってきて1ヶ月が経つが、多くの方の支えをいただいて、充実した日々を過ごすことができている。小学館のてんとう虫コミックス『ドラえもん』6巻に収められている「夜の世界の王さまだ!」にある「あったかいふとんで、ぐっすりねる!こんな楽しいことがあるか」にも通じる、当たり前のことが普通に行えている幸せ、その実感なのであろう。

今日はコペンハーゲンで開催されている「Copenhagen Sakura Festival」へ、妻と共に足を運ぶことにした。4月9日、オールボー大学でのお花見会で知り合った方にお誘いをいただいたためだ。ブルガリア出身で、デンマークに留学した彼女は、その他にも英語もドイツ語もできる。何より、日本への留学経験もあり、アニメや漫画の世界に魅せられたとのことで日本語での会話も文章も流暢にでき、今後、大学で働きたいという願いが日本で叶えば、この上ない喜びという。

人魚姫の像から程近いランゲリニエ公園(Langelinie Park)で開催される「Copenhagen Sakura Festival」は、今年で10回目を迎えたという。風光明媚な場所で開催される理由は、アンデルセン生誕200年を祝って、デンマークでも店舗を構える広島の製パン会社「アンデルセン」の高木誠一社長(当時)が、コペンハーゲン市に200本の桜を寄贈し、植樹された場所であるためだ。在デンマーク日本国大使館による大使館通信43号によれば2006年5月15日に除幕式が行われたという。また、今年はデンマークと日本の外交樹立150年ということで各種、記念事業が催されているが、150年を祝う特設サイトによると200本の桜は2007年に初めて花を咲かせたとあり、今後も、向こう数十年にわたって桜が愛でられていくのだろうと思うと、なんだか感慨深いものがある。

昨日はあいにくの天気に見舞われたというCopenhagen Sakura Festival 2017も、今日は快晴の中、大変多くの人でにぎわっていた。会場では思い思いに色つけされた鯉のぼりが迎え、そうした色つけのワークショップや輪投げなどの参加型イベントの他、民謡や神楽の披露、柔道や音楽ライブや忍術としての武術(material art)や和太鼓などのパフォーマンスなどが続いた。会場に着くなり、コペンハーゲンの日本食店等によるランチ屋台村で食事を取ったが、最後は盆踊りでの大団円となった。東北や熊本への思いも寄せられた選曲となっており、「会津磐梯山(福島県)〜薔薇のように咲いて桜のように散って〜東京音頭〜炭坑節(福岡県)〜大漁唄い込み(宮城県)〜おてもやん(熊本県)〜ラーメンたべたい(矢野顕子)〜アンパンマン音頭〜ソーラン節〜桜援歌Oh!Enka(関ジャニ∞)〜さくら音頭(木津しげり・木津かおり)」という流れの中、肌寒さが残りつつも既に葉桜となった木々を愛で、直線距離でも200km以上離れたオールボーへと戻った。



2017年4月29日土曜日

締切とシンクロする仕事と暮らし

締切という言葉は生活には馴染みにくい言葉だろう。恐らく、締切は仕事の世界で用いられる概念である。生活においては区切り、という言葉の方がしっくりくる。恐らく、生活の中に締切という言葉が持ち込まれるとすれば、例えば「家賃の振込期限」や「書類提出の指定日」など、自らの身が誰かの仕事に預けられているときではなかろうか。

転じて、仕事の締切とは、自らが生み出す作品が世の中で日の目を浴びることができるかどうかの区切りと思われる。特に、教員という立場においては、年度当初を迎えるにあたって示す計画文書や年度末を控えて求められる評価文書など、締切が定められる仕事もあるものの、日々の動きにおいては、担当している授業について日々の努力の中で遺漏のないよう準備し当日の授業時間を適切に運営するという、締切が曖昧な仕事である。一方で、研究者という立場においては、年中、締切に追われている。所属する学術団体(いわゆる学会)によるのだが、年次大会の発表申込や原稿提出や参加登録の締切、機関誌への投稿や改稿などの締切、こうした期日が明確に示され、しかもそれらを逃したからといって罰則はなく、ただ、自らの研究成果が日の目を浴びる機会を失うだけである。

締切を英語でdeadlineと呼ばれるのは、言い得て妙だと感心する。確かに、身を切られる重いがする。2016年4月、應典院を退任したときにも想い起こしたのだが、依頼元から「オクルニオヨバズ」と電報が届いたという藤子不二雄先生(藤本・安孫子両先生)のエピソードは、今の時代においては、メールで「返信不要」という言葉が添えられた文書を受け取るのと似た気がする。ある先生から「原稿を安楽死させた」と冗談交じりに仰ったお話しを伺ったことがあるが、その先生がお持ちの「本当の締切を知ることが大切」という悪い習慣に浸ってしまっていたことを、年々反省するところでもある。

今日は8月にアイルランドのゴールウェイというまちで行われる国際学会の発表要旨を仕上げた。ちなみに締切は4月30日とされていたが、この締切は2回延長されたものである。実際の学術大会が8月に迫っていることから、これ以上の延長はないと思われるが、締切を1日前にして投稿することができ、晴れやかな気持ちになった。今日のデンマークのオールボーは快晴、気持ちとシンクロしているようで、二重でうれしい一日となった。


2017年4月28日金曜日

専用できること優先されること

コペンハーゲンほどではないが、オールボーも自転車レーンが多い。一部には自転車専用道もある。歩道よりも自転車道が広いのは、ほぼ当然である。実際、自転車の方が一台あたりが通過し、対向車とすれ違うために必要とする空間が大きいから、必然である。

最初、デンマークに来た際に、何気なく歩いていたら、そこは自転車道だったことが何度かあった。街中ではインラインスケーターが一部、バイクレーンを使うこともある。ただ、インラインスケートがバイクレーンを使っていいかどうかは、ややグレーな話のようでもある。ともあれ、渋滞による道路混雑への対応策として、そうして、自転車乗りが尊重されるというのは、なかなかうらやましい。

一方、日本での暮らしを想い起こし、優先という言葉と専用という語用が、もう少しスマートになればいいのに、と感じている。阪急電車では1999年から8年間横浜市営地下鉄では2003年から2012年まで、全車両の全席が優先席だとして、優先座席を置かなかった。しかし、優先席がないことによって優先されてしかるべき方々が優先されない傾向が強くなったもようで、ないいずれも以前とは別の形ではあるが、再導入に至っている。そんな悲しい状況を憂い、「印籠」のように出すパスを高額で販売すれば、一定の需要と受容がもたらされるのではないか、などと夢想することがある。

山がないデンマークだが、季節のせいなのか、天気が変わりやすい。今日は終日、8月にアイスランドのレイキャビクで開催される国際学会にエントリーするための準備をしていたが、一息ついたところで、近所のスーパーへと買いものに出かけた。傘を差して歩く人よりも、小雨に降られながらも急ぎ足で自転車道を駆け抜けていく人の方が多かった。他人の所作に関心を向け、優先ではなく専用の空間が用意されるのも、見渡す限り広がる空があるからかもしれない。



2017年4月27日木曜日

思いやる、助け合う、おもてなす

今日は朝から、オールボー市の西にあるボランティアセンターにお邪魔した。オールボー大学での受け入れ担当教員の一人、Mogens先生にお連れいただいたのだ。Mogens先生によれば、ボランティアセンターは他にも文化部門など複数あり、今回お邪魔した「De Frivilliges Hus」は社会福祉分野のセンターであるという。もともと木炭採掘の企業が使用していたと思われる(「Land Skal Vindes」の建物とあった)近代建築が利用されており、入口ではセンター長のBjarne Søltoftさんに、約2時間のインタビューには副センター長のCharlotte Meng Kristensenさんに対応をいただいた。

建物に掲げられたバナーに、デンマーク語でボランティアを意味するfrivilligと言う言葉を見て、これは「free」と「will」から来ているとMogens先生から説明を受けたこと、また、大阪ボランティア協会の早瀬昇さんがボランティアの「vol」がラテン語の「volo」から来ており、火山を意味する「volcano」のボルとも通底する、という解説を想い起こした。2時間のインタビューでは、デンマークというか、オールボーのボランティア事情と、若者の者会参加についてお伺いした。また、最後には妻のボランティア活動への参画の可能性についても意見交換をさせていただいた。簡単にまとめると、1970代以降、高い税率の中、共働きの家も多く、さらにシングルペアレントの家庭も増える中で、「助けられる権利(right to get help、と仰っていた)」という観点(mindsetと仰っていた)が浸透し、自治体の財政悪化もあいまって、専門職によるケアだけでなく平等・対等な関係のもとで支え合い、時にロールモデルともなりうる人々が介在することが大事とされてきたという。

また、デンマークで市民社会を捉える上で重要なキーワードが「forening」である。お邪魔したボランティアセンターのホームページにも「borger(citizen:市民)」、「frivillig(volunteer:ボランティア)」、に並んで強調されている。foreningは英語ではassociationとなるようで、趣味のサークル活動を意味し、インタビューの中では「folk education program(民俗教育科目)」の担い手にもなっていると紹介をいただいた。その流れで、妻にはボランティアやforeningの活動拠点となっている「Elsk Aalborg(英語ではLove Aalborgとなる)」を尋ねてみてはどうか、と投げかけられた。

ボランティアセンターの後は、オールボー大学の図書館に寄っていただいた。昨日、やっと大学のIDカードをいただけたので、これで晴れて、24時間、図書館に入退館できるようになった。明るく、活気があり、しかしそれぞれの学びが互いに尊重されている空間だった。こうした雰囲気や、半日以上、おつきあいをいただいたMogens先生のお人柄などに対し、Elsk Aalborgが掲げている3つのスローガン「kindness(思いやり)」「Helpfulness(助け合い)」「hospitality(おもてなし)」が、教養人には身についているのだろうと感じた一日だった。


2017年4月26日水曜日

つぐ

私の話には比喩が多いと言われるが、それを正面から受けとめて研究の切り口に据えている。博士論文では「長縄跳び」というメタファーから、まちづくりのネットワークを取り上げた。米国の心理学者、ケネス・ガーゲンによる『もう一つの社会心理学』によれば、メタファーとは概念間を結びつける「視覚代理物(visual substitution)」であるとする。つまり、ある物事・出来事に対して、別の言葉を用いることによって、新たな解釈をもたらすものとなりうる、とされている。

今日はオールボー大学の心理・コミュニケーション学部の文化心理学研究センターでなされている「キッチンセミナー(Kitchen Seminar)」に初めて参加させていただいた。キッチンセミナーとは、研究の初期段階でのアイデアを発表し、建設的な意見交換を重ねながら、予め示された終了時間にて議論を終えるという取り組みである。ヤーン・ヴァルシナー(Jaan Valsiner)教授により、1997年から取り組まれているもので、最初に行われたのがクラーク大学心理学部のキッチンで行われたことから、この名前がついたという。ヴァルシナー教授がオールボー大学に着任された2013年からは、オールボー大学をメイン会場に、ビデオ会議システムにより、他会場とも接続されることになっている。

今日のテーマは「金継ぎ(Kintsugi)」をメタファーとした、精神疾患の方々へのアプローチに関する研究であった。Dominik Mihalitsさんの博士論文のテーマ、「Action with Time」(時間の経過と共にある活動)の一環で取り扱っていこうとしているものである。現在進行形の研究であるので詳しいことは差し控えるが、過去と未来のあり方をつないでいく観点を、金継ぎから見いだすことができるだろう、という着想だった。司会役のPinaさんから「日本の巧みの技よね?」という投げかけをいただいたので、うまく説明ができなかったが、「壊れたとしても、それで終わりではないということ」「作った人、壊してしまた人、治す人、使い続ける人、それぞれの存在に敬意が払われうること」「実際は漆でつなぎあわせており、金は装飾であること」「そうして、ものにいのちが吹き込まれていくようなもの」と示した。

2時間が設定されたセミナーにおいて、15分ほどのプレゼンテーションの後は、後から後から、コメントや質問が重ねられた。例えば「乳がんで乳房を切除した女性たちが「それでも生きている」とタトゥーを入れることとも通じるのではないか?」「人生に光を当てるということで、金が使われていることとと関連づけられるかもしれない」など、である。ちなみにキッチンセミナーは参加前にアイデアペーパーがメーリングリストで共有されるのだが、簡単に目を通した後、出席する直前に、2006年から10年間、身を置いてきた應典院の20周年を祝う集いの場に、ささやかかなメッセージを送らせていただいた。金で継いでいる「もの」とは違い、人が集まり、アイデアが紡がれてきた場に馳せた想いを、ここにも遺させていただきたい。

應典院20年、おめでとうございます。
月日が経つのは早いもので、應典院10周年のお祝いの場に身を置いてから10年が過ぎたことを、驚きと共に想い起こしています。いつものことながら、という表現は差し控えた方がよいのでしょうが、時間との戦いの中で仕上がった記念誌「呼吸するお寺」は、今なお、現代においてお寺を開くことの意義を問いなおす一冊となっていると確信しています。
一方で、10年前の祝いの場を携わらせていただいて以来、8年あまりにわたって、お寺を開き続けること、また開くゆえに適度な緊張感を保つ担い手を勤めることができたのは、ひとえに、あの日集っていただいた方々、また全国また世界から関心を寄せていただいた方々がいらっしゃってこそ、でした。無論、開き続けるにあたっては、至らない点をスタッフの皆さんの支えがなくてはなりませんでした。
振り返ると、應典院における10年という時間軸は、さらに前半、後半で区切りが付けられるようにも感じています。実際、最初の10年の前半は應典院寺町倶楽部の組織のあり方に模索が続き、後半には大蓮寺との一層の連携も重なって死と生にまつわる事業が立体的に組み立てられていきました。
また、この10年については、まさに「行く道は来た道に聞く」かの如く、應典院初期の10年の取り組みを見つめ直し、寺子屋トーク、舞台芸術祭space×drama、コモンズフェスタ、いのちと出会う会、そしてコミュニティ・シネマと、應典院寺町倶楽部における5つの柱を軸として、そうした柱と柱のあいだに、また柱の土台を固める時期として位置づけられるでしょう。前半は事務局中心による試行錯誤が重ねられましたが、後半には東日本大震災を契機に、場の担い手はお寺の外へと広く求めていくこととなりました。
そうして「社会化」 されてきた應典院が20年を迎えるにあたり、應典院および應典院寺町倶楽部の「民主化」が進んでいると、各種の情報発信から伺っています。常々、光彦住職は、應典院そのものが「お寺の原点回帰」であると仰っておられましたが、そうした挑戦と、ある種の挑発から20年を経て、光軌主幹が扇の留め金となり、一人ひとり、一つひとつの場が、改めて大切にされていくのだと、あたたかい気持ちに浸っています。
先般、ベント・モランデル(Bengt Molander)という、スウェーデンの哲学者の書籍を薦められました。そこでは「知識を得ること」と「知るということ」は違うことが詳しく論じられていました。
應典院は、「お寺である」という存在と「お寺でする」という機能の両側面を、巧妙なバランスで成り立たせしめている希有な実践であると、離れたからこそ強く実感するところです。お寺という名詞が動詞として位置づいている、そしてその主語が、寺族に留まらず、極めて多くの方々となっていること、それこそが開かれたお寺としての真骨頂なのでしょう。
駄文を重ねましたが、20年を迎えた應典院に、デンマーク、オールボーというまちから心よりお祝いの気持ちを寄せさせていただきたく、言葉を綴ってみました。そしてこの場を創りあげられた全ての方々に、感謝の思いを重ねさせていただきます。
2017年4月26日 山口洋典



2017年4月25日火曜日

絶対時刻と相対時間

4月25日は、1年のうちに何日かある、特別な日である。今日はJR西日本による尼崎でのJR福知山線脱線事故が起きた日だ。この日になると、折に触れ、あの日のことを思い出す。そして、それは私だけではなく、特に関西在住の方には強く印象に残った方もおられるようで、例えば、ある大阪大学の先生は、決まってこの日に東西線に乗車し、あの時刻にあの場所を通過する列車に乗って9時18分を迎えておられる。

あの年、私は看護師を目指す方に人間関係論を教えていたため、授業内でも事故に触れたことがあったが、その後、お寺に身を置いたことで、あの事故に別の角度から迫ることとなった。それは演劇であった。お寺と演劇が重なるというのも希有なことかもしれないものの、身を置いていたのが大阪・天王寺の浄土宗應典院なのだから、お寺と演劇の親和性は語るに余りある。そして、劇場仕様の本堂ホールにて、事故から10年を迎える2015年の1月、あの事故にまつわる公演がなされた。

今日、2015年の公演にあたり、企画と演出を担っていただいた劇団「満月動物園」の戒田竜治さんに、次のようなメッセージを送った。簡潔にまとめると、7時間の時差がある中では25日を迎えたが、これまで事故や災害の発生時刻にこだわってきた自分を再確認した、改めて外の国に出てみると「そういえば9.11のときには、アメリカは朝だったのだな」などと思いを巡らした、といったことである。そして「きっと、人々の記憶というのは絶対的な時間ではなく、個々にとって絶対的な、全体としては相対的な時間として捉えられているのだろうな」と綴った。小難しく論じているようだが、そうしたメッセージに対し、戒田さんは戒田さんの体験と言葉により、時間と時刻に対する考えを重ねて、言葉が返ってきた。

今日、やっと日本から持って来た宿題の一つ、ある本の翻訳を終えた。文化の違いをどこまで「翻って訳すか」が大事だ、と、学術の師匠、渥美公秀先生に手解きを受けたこともあって、かなり、他の訳者の方々とトーンが違う自覚のもと、監訳いただける方々にお預けすることにした。言葉で遊んでよいのなら、役者もまた、翻訳者なのかもしれない、などと感じている。演劇では多くの人々の眼前に世界を実体化させるが、そうした才能がない私は、ただただ、語句の選定と文章のリズムに工夫を重ねるのであるが、時折雹が降るような不安定な天気のデンマークにて、言葉と時の流れについても、いくつかの観点から触れた一日だった。


2017年4月24日月曜日

はじまりの月曜日

月曜日である。私のカレンダーは月曜始まりの設定にしている。宗教によっては土曜日に始まり金曜日に終わるとする方々、土曜日が安息日であるとする方々、日曜日を安息日とする方々など、多様である。ただ、日曜日に休んでから一週間が始まるという感覚を引きずっている私は、月曜始まりでないと、どうも座りが悪い。

月曜日ということもあって、朝起きると日本からのメールがいくつか入っていた。今、デンマークはサマータイムゆえ、日本とは7時間の時差がある。そのため、デンマークの朝5時が日本の正午だ。朝型の生活であることは既に述べたが、朝、何となく目が覚めると、お昼の雰囲気をまとって、短文での報告のメッセージがケータイに入っていた。なんだか「イラッ」とせず、むしろ微笑ましく感じて受けとめたのは、こちらでの生活に余裕があるからかもしれない。

裁量労働になって久しい。逆に、ネクタイを締めて通勤をしていた、というと驚く人さえいる。小学校と中学校と高校と幼稚園とが、ほとんど並んだところにあったこともあって、大学生になって初めて、通学することの億劫さを感じた。通勤をするようになり、ある程度の身だしなみを整えなければならなくなったが、そこを億劫という言葉では片付けてはいけないと、身をただすことにした。しかし、9時ギリギリの出社は数知れず、「直出」という勤務様式を知ってからは、そうした方法を利用することも多かった。

今、キャンパスから徒歩3分のところに暮らしている。ただ、未だゲストカードのままということもあって、自宅で作業することも多い。今日もまた、同じく、自宅にて日本からの宿題をせっせと行っていた。そして日の入り時刻の20時50分ごろを前に、西の空に沈む夕陽が誘う色合いを見て、幸せな感覚に浸ったのであった。


2017年4月23日日曜日

交流230Vの国のあたたかさ

デンマークの電力は230Vである。日本は100Vだから、相当な高電圧だ。電力(W)は電圧(V)と電流(A)の積で求められるため、電気製品は電圧が高い方が低い消費電力で済むと捉えられる。もちろん、それも機器次第ではある。

ちなみに、いくつかの機器は馴染みのものを日本から持ってきたが、今回、新たに買ったものもある。中でも、高電圧の恩恵を受けていると思われるのがキッチン用品である。実際、それぞれに消費電力を調べてみると、電気ケトル(OBH Nordica 6411)は1850-2200W、トースター(OBH Nordica 2267)は600〜700W、炊飯ジャー(象印 NS-ZLH10)は640〜680Wであった。電気ケトルの消費電力がもの凄いが、高電圧ということもあってか、相当の早さでお湯が沸く。

そもそも、電気をつくるときに熱が発生しているのだから、電気によって熱をつくるということ自体、ナンセンスである。特に100Vの日本では、単純に言ってヨーロッパの倍以上の電流を必要とするのだから、なおさらである。電気を水に置き換えて話をすれば、同じ器に水を満たしたいとき、水圧が低ければ、より多くの時間をかけて貯めなければならないという具合に、電圧が低ければそれだけの電流が流れるまでの時間を必要とする。そうして見つめ直すと、昔、コンセントから給電するラジカセなどの説明書で電灯線という言葉が用いられていたことから、あくまで100Vの環境は電気で明かりをとるために考えられた規格であったのだと再認識する。

4月も下旬となってきたが、まだデンマーク、オールボーではダウンコートを羽織って外に出ている。家の中は温水パネルによる暖房が効いている上、機密性の高さも相まって暖かい。今日もまた、終日、日本から持ってきた宿題に明け暮れていたのだが、お昼過ぎに近所のスーパーへと買いものに出かけた。ふと、目線を地面に下ろすと、中庭でこどもたちがチョークでお絵かき遊びをした跡に目がとまり、風吹きすさぶ中でも、ささやかなあたたかさに包まれた。



2017年4月22日土曜日

春眠でも暁を覚える

先週の今ごろは日本だった。平成28年熊本地震から1年にかかわってのフィールドワークなど一時帰国をしていた。デンマークの生活ではテレビを見ずに過ごしている。そのため、インターネットを中心に日本の情報が入ってくるわけだが、あれから1週間経った今も、熊本から、また親友・友人・知人たちの投稿で、熊本にまつわる投稿を変わらず目にするのだが、一方で日本のテレビや新聞ではどう伝えられているのか、少し気になるところでもある。

テレビがない生活をしていることもあってか、夜は早く、朝が早い暮らしとなっている。もっとも、日本にいたときにも、朝はラジオで始まっていた。耳学問とはよく言ったもので、慌ただしい朝も、落ち着いた朝も、ラジオのある暮らしにより、ネットニュースだけに依存しない知識や知恵をつけることができていた。それもあって、今、デンマークにいても、時折、日本のラジオに(VPN接続という方法をつかって)アクセスしている。

加えて、夜な夜な飲みに歩くこともないため、生活のリズムが整っているせいか、朝日や夕陽を見ることが多い。少なくとも日本に居たときには考えられない程の頻度で、一日の始まりや終わりのときを丁寧に過ごせている。今、住まわせていただいている部屋の窓から、ちょうど、朝日の反射光が射し込むのと、夕陽が沈んでいくのが見える。それゆえ、余計に、空の色が変わっていく風景を味わう楽しみが得られるのも大きい。

今日はそうした家で一日過ごした。日本の出国時から宿題になっている仕事を、それなりに進めることができた。加えて、午前中には、バルセロナと札幌にいる方々のあいだに立ち、国を越えて人と人とをつなぐ時間を過ごした。そして、夏にバルセロナにお邪魔するチケットも抑えることができた。うららかな春の土曜日、今日もまた、早寝早起きで、明日を迎える。


2017年4月21日金曜日

知識を使うことと行動を通して知ることのあいだ

デンマークには、学外研究という制度により、1年の滞在させていただいている。よって、研究することが第一義である。英語では「sabbatical year」などと呼ばれているものだ。サバティカルという言葉を調べてみると、聖書の「レビ記25:4」から「古代ユダヤ人が7年ごとに耕作をやめた年」という項目があった。英語のsabbath(the Sabbath)が安息日を示し、その語源を辿ると元々がヘブライ語、そこからギリシャ語を通し、ラテン語のsabbatumになったとされており、近代の営みから離れて安息の時を過ごすべし、といった意味も現代においてはありそうな気もしている。

ともあれ、研究休暇として位置づけたとしても、研究をする以上、身を置く場所と、研究を支える人が必要である。今回はオールボー大学のコミュニケーション・心理学部にて、お世話になっている。そして、幸運なことに、2名の先生が受け入れを担っていただいた。4月7日に最初のリサーチミーティングがなされ、今日は2回目のミーティングが行われた。

前回のミーティングにおいて、Mogens先生が「私の研究テーマを紹介するよ」と約束をいただいたので、楽しみにお邪魔した。まずは実践家と共に行う教育の「trappestigen(step lader/はしご、踏み台、脚立)」というモデルについて紹介いただいた。もともと、Jens Rasmussenによる『Information Processing and Human-Machine Interaction』で示されたモデルを、Mogens先生が博士論文執筆の際に再構築したそうで、問題探索、情報収集、シナリオづくり、到達点の再検討、活動の選択、実現可能性の検討、実際の活動を通した問題解決、という流れを取っている。このモデルを前提にし、グレゴリー・ベイトソンによる『Steps to an Ecology of Mind(邦訳は「精神の生態学」』で示された3つの学習段階に即して、学びの場に関しての意見交換を行うことになった。

今日のミーティングでは、来週に市役所のボランティア窓口へのアポイントも取っていただくなど新たな動きもあったのだが、最後に、スウェーデンの哲学者Bengt Molanderの著作『The Practice of Knowing and Knowing in Practices』(2015年)を貸していただいたことが、今後の研究に大きく影響をもたらしそうな気がしている。この著作では「与えられた知識を使うこと(knowledge)」と「行動を通して知ること(knowing)」の違いが示されており、この間、私が授業などで伝えてきた「名詞の動詞化」といった観点を深めることができそうだ。一方で、メタファーについても話題となったのだが、これはknowledgeが「辞書」、knowingが「クラフトワーク」に近い、というMogens先生の説明に触発されてのことである。一方で、米国の社会学者シェリー・アーンスタイン(Sherry Arnstein)の「市民参加のはしご(Ladder of Citizen Participation)」のモデルも含め、個人モデルに基づく機械メタファーは、学びの場における相互作用を低くする可能性もある、といった議論もでき、研究モードにどっぷり浸った一日となった。



2017年4月20日木曜日

言葉と予定が増えた一日

今日は在留証明を発給してもらうため、コペンハーゲンの日本国大使館に赴いた。映画やテレビの影響か、大使館というと、柵を越えて亡命をするというイメージがある。しかし、在デンマーク日本国大使館は、海に面した新しいビルの9階の一角にある。事前にメールでやりとりを重ねていたので、30分もかからず、用は済んだ。

せっかくコペンハーゲンにまで足を運ぶのだから、と、出国前から紹介をいただいていた方とお会いすることにした。コペンハーゲンの南にあるキューゲ(Køge)で教育のお仕事をされている方である。ご紹介いただいたのは、中之島の英語のクラスでご一緒させていただいた方であり、家族ぐるみでおつきあいをされてきたという。メールでのお引き合わせもいただいていたが、昨晩は直接お電話も頂戴し、お会いする前から、改めてあたたかいお人柄に触れてお目にかかることになった。

待ち合わせは繁華街のデパートの地下で、となった。日本人は買い物が好き、と思われているのか、などの思いも巡ったが、比較的落ち着いた地下の喫茶店で待つことにした。濃いめのカプチーノを飲みながら、これまた出国前に餞別の一つとしてサトウタツヤ先生からいただいた『デンマークの教育を支える「声の文化」』(児玉珠美・著、新評論・刊、2016年)を読み進めた。一足先に読了した妻からの薦めもあって、このコペンハーゲン行きのお供にしたのだが、前掲著の鍵概念である「オラリティ」の観点、そしてその背景にあるN・F・S・グルントヴィの教育哲学は、待ち人を迎えるにあたり、極めて有意義だった。

仕事を終えた待ち人がお見えになったのは15時半頃だった。そこからアマー広場などをはじめとして、市内中心部を案内いただいた。その後、ニューハウンのレストランでデンマーク料理とビールをいただきながら、互いの関心について語り合った。それらを通して得たことばは「medborgerskab(英単語に分解するとtogether, citizen, ship)」だった。6月には、グルントヴィの示した理念が今なお残る、教育システムとは切り離された学びの場「フォルケホイスコーレ」に関する年に1度の集会「Folkemødet(英単語に分解するとpeople's meeting)」があることも教えていただき、いよいよ、カレンダーに予定が増えてきた今日この頃である。


2017年4月19日水曜日

こだわり

モノフェチを自認している。何でも買ってもらえるような裕福さの中で育ったわけではない。それでも、何かを買ってもらえるなら選び抜こう、という思いがあったのだろう。それがどのタイミングで強い関心を抱く(fetish)ようになったのか、いくつかのきっかけがありそうだ。

一つのきっかけは、雑誌との出会いを挙げられるだろう。人口8万人ほどのまちで育ってきたが、いわゆる駅近くで生まれ育ったため、家の近所には4軒ほどの書店があった。今で言えばコンビニがそうなのだが、お店に入ってすぐのところに並ぶ雑誌の中で、馴染みのあるもので見たこともないデザインのものが紹介されているものに目が留まった。それから、「これで」ではなく「これが」というものを探すようになった気がしている。

大学に入り、18年生まれ育ったまちを出て京都に暮らすようになり、雑誌の世界が目の前に広がっている感じがした。そこに歴史という要素が加わる。よって、何かを選び抜くことが、何かを後世に残していくことにつながり、大きな物語をささやかに語り継ぐ担い手になっている気がした。そんなことを想い起こしたのは、今日、この数ヶ月かけてきた眼鏡を、別の眼鏡に変えたためでもあった。(昨日までの眼鏡も、今日からの眼鏡も、またもう一つ持って来た度入りのサングラスもまた京都の会社で、そのお店の名前もまた、モノフェチにはたまらなかったりするが、この話は長くなるので、またにしよう)

今日は朝から、オールボーのまちに出かけた。2週間前に開設以来をした銀行口座の手続きを進めに行ったのと、毎週水曜日にファーマーズマーケットがなされていることを妻が調べていたためだった。掛け替えた眼鏡は、いわゆるブルーライトカットのパソコン作業用のものだが、もう一つのものよりも軽いフレームと、柔らかく包み込むテンプル部分(日本語では「つる」と呼ばれているところ)が、心地よいまち歩きへと誘った気もする。いつしか、モノを語りながら物語を綴ることにも関心が向いていったことが、こうした文を書くことによっても自覚している今日この頃である。


2017年4月18日火曜日

長い旅路の航海終えて

「ほんとはいくつ?」と、時々尋ねられる。そこに「出生届が出されてからの年齢では…」などと答えることもある。もちろん、脳年齢、血管年齢、精神年齢、肌年齢など、肉体というか身体をとりまく年齢には、別の数え方や見立てもあろう。ともあれ、同学年の中では、良くも悪くも年齢不詳と思われることが、年々増えてきた。

それもこれも、いくつかの経験をさせていただいて、その経験を携えて多彩な取り組みの場に身を置くことができているためと捉えている。実際、今はデンマークに1年間、滞在させていただいている。そこで「なんでデンマークなんですか?」と問われることが多いが、決まって、阪神・淡路大震災の経験に触れることになる。場合によっては生まれ育った静岡県磐田市で暮らした18年の中からエピソードが、あるいは、阪神・淡路大震災の後の大学コンソーシアム京都での仕事、その後の新潟県中越地震への関わり、さらには東日本大震災のことに触れていく。

今回、平成28年熊本地震から1年のフィールドワークで一時帰国したわけだが、おかげさまで、やっと、手元に荷物が戻って来た。短い滞在の中で、多くの方からお土産を持たせていただいた。それらも2日遅れで手元に戻ってきた。インターネットの時代、記号化された私の荷物たちは瞬時に場所が判明し、運ばれてくるあいだも、逐次、携帯電話のメッセージで進展が伝えられるという具合だった。

最寄りの空港に到着して程なく、「これから運びます」と電話がかかってきたのだが、自宅の前で受け取ったとき、ふと思い浮かんだのが「♪長い旅路の〜」というフレーズだった。美空ひばりさんの「港町十三番地」である。気になって調べてみると、1957年3月10日にSPレコード盤で発売された曲だという。もちろん、私は生まれていないのだが、異国の地で時を越えて想い起こされる、そうした作品が生み出されているということに、ささやかな羨望と大きな敬意を払いたい。



2017年4月17日月曜日

最も〜なものの一つ

英語が母語ではない。しかし、わりと幼い頃から触れる機会があった。同じ町内で誕生日が一日違いという親友がいるのだが、その家のお誘いで、確か小学校2年生のときから、フィリピンより転入されてきた方のお宅にお邪魔して、英語に触れる機会があった。塾やお稽古、という感じではなく、土曜日の午後に遊びに行って帰ってくる感じだった。

しかし、中学・高等学校と、授業として、テストのために、そしてその先にある受験のために、と、手段と目的が反転していく過程で、コミュニケーションの道具として磨きをかけていこうという意欲が駆り立てられることはなかった。ラジオ好きという習慣を見抜いたのか、自分も好きなのか、確かめたことはないが、母は私にNHKのラジオ講座を薦めた。ただ、大学生になった後も、そして働き始めてからも、4月の開講時に始めながらも、なかなか続きはしなかった。今になって思えば、できないことを隠さず、ごまかさず、自分の知らない世界に身を委ねていけばよかったと悔いている。

英語に独特な表現として、「one of the most 〜」など、最上級による比較表現がある。ここで「最も」なら、そもそも比較において最上とされるなら、「〜のうちの一つ」っておかしいのではないか、といった具合に思考が枠に囚われてしまった。日本語による論理構成にこだわる、あるいは受験対策でこだわらざるを得なかった経験が、コミュニケーションの道具を使いこなしていこうという意志を低いものへと導いていったのだろう。状況や活動についての理論で知られるジェームス・ワーチの『行為としての心』(2002年、北大路書房)による「mastery(習得)」と「appropriation(専有)」との対比を用いるなら、習得の妨げとなり、道具としての専有を困難にする、という具合だ。

今日、空港のホテルで一泊し、荷物が戻らぬまま、現在の自宅のあるオールボー空港に着くと、そこにはオールボー大学で4月19日から21日まで開催される「第7回ヨーロッパ社会福祉研究会」の開催を記念して、「Europe's happiest city」のバナーがあった。どうやら、2015年に行われたECの「QOL」調査で、住民の満足度が高く(72%が極めて満足、24%がかなり満足)、安全(96%)で、高い信頼関係にある(91%)と捉えていると明らかになったという。改めてそうしたメッセージを受けとめながら帰宅すると、確かに、バス車内の座席に置き忘れたパスポートが見つかるまち、朝にも晩にも鳥たちのさえずりが響くまち、という具合に「我がまちの一つ」として、幸せな感覚を携えて語ることができそうだ。そして、そのバナーの前で「自撮り」する若者たちの姿を見るに、確かに幸せなまちの一つだと感じ、あたたかい気持ちになって、風吹くバス停に向かったのであった。


2017年4月16日日曜日

回り道

デンマークに戻る日の朝となった。宿を取った新橋から、一駅分だがタクシーに乗った。昨年に初乗り410円制度が導入されたことを知っていたことに加え、100リットルのスーツケースと、靴や着替えや書類などが入ったボストンバック、そしてカメラなどの機材が入ったバックパック、そしてパソコンなど手持ちの品を入れるショルダー・ハンド・ウェストの3ウェイバッグと、4つの荷物があったためだ。日曜日の朝7時の日比谷通りには、あまり流しのタクシーが通らなかったが、学校を出て以来20年あまりタクシー運転手をされてきた方の快い応対の中で、短い時間を気持ちよく過ごすことができた。

今回のフライトはマイルで予約した。利便性とデンマークに戻っているべき日程を考えて羽田空港から出発するルートを取ったため、羽田から北京、北京からストックホルム、そしてストックホルムからコペンハーゲンに移動する、というルートとなった。そして、コペンハーゲンで一泊して、翌日にオールボーまで戻るという具合なのだが、今となってはもう少し調べればよかったと悔いている。通常であればその日のうちに帰ることができたはずなのだが、イースター休暇中の日曜日ということもあり、夜遅いフライトが設定されていなかったのである。17日中に帰国するということなら、17日の朝に日本を出発しても構わなかったし、コペンハーゲンでの宿泊も不要であった。

フライトを変更しなかった理由は、2月のうちに、8月の一時帰国の往路とあわせて予約したためであった。そのため、安易に変えることで、改めて特典航空券の予約枠がなくなってしまうことが気に掛かっていた。また、日本からヨーロッパに向かうにあたり、時差のことを思えば、機内では寝ずに過ごして、出発地の日本時間では深夜の到着となっても、まだ薄明るいうちに到着したデンマークにて泥のように眠れば、翌日からなの動きには支障が少ないと考えたのである。よって、3回の乗り換えが求められるルートであったが、あえて問題なし、としていた。

ところが、問題は随所に起きた。まず出発時には、北京空港周辺の空路混雑につき、出発が30分遅れたことで北京空港には搭乗時間の30分前に到着、しかも一度イミグレーションを通らねばならず、係員の先導による超絶なショートカットでギリギリ間にあった、という具合だった。その後、ストックホルムのイミグレーションでは英語が不得意なグループの方々の後に並ぶことになったため、相当の時間を待たねばならなかったのだ。そして極めつけは、コペンハーゲン空港にて「北京で荷物が積み残されている」という事実を知ったこと、さらには「予約したホテルの名前が変わっていたこと」で、羽田空港の免税店にて購入した炊飯器を手にした東洋人が、イースター休暇で賑わう夜の空港にて、相当な時間、さまようことになったのであった。



2017年4月15日土曜日

縁と運

熊本の朝は雨模様となった。前日のうちにレンタカーを返却していたので、ホテルから肥後大津駅まで歩き、そこから昨日も乗車した無料シャトルで空港まで向かった。珍しく余裕のある行動をしたので、予約不要の9人乗りの車に7番目で乗ることができた。満車となった後も、恐らく7人ほどが乗車待ちをしていたようだが、それらの方々はタクシー2台に分乗し、シャトルよりも早く、空港に向かっていった。

空港では、昨日お邪魔した西原村の農家、曽我さんがお見送りに来てくださった。お菓子と高菜漬けとラーメン、そしてデコポン2個をいただいた。「いまが時期だからね」とは、曽我さんの弁である。明日、デンマークに旅立つことをご存じの曽我さんだったが、出発前に今の熊本の味を食べていって欲しい、という気持ちが重ねられたと思い、道中でただくことにした。こうして、あたたかいお見送りをいただいた後、来年の再会を誓った上で東京へ向かった。

東京には短い滞在となるが、去年、お世話になった後輩との軽い食事と、毎年恒例となったシンポジウムにお邪魔するという予定を入れていた。「ことしもまた、新たな縁を結ぶ会」と題した会は、2003年から、ほぼ毎年お邪魔させていただいている。大阪大学の大学院に進学した2002年の合宿で、この会の「縁結び役」である大熊由紀子さんから「こんな会をしているの」と紹介をいただいたのだ。もともと、医療や福祉を専門としているわけではない私ではあるが、社会心理学やまちづくりといった観点から人々の暮らしや仕事の環境をより良くしていく上で、この会に集う方々や扱われる話題には高い関心を持ってきた。

今年のテーマは「精神医療革命」「医療安全」「施設型福祉の未来」だった。初めてお邪魔したときから、写真記録のお手伝いをさせていただいているが、毎回、話題提供で招かれる方々と間近で触れることができる特権をいただけていると感じている。10年あまりの参加の中で、その後に関係を深めさせていただいた方々もいることを思えば、「運」を待つことや祈ることではなく「縁」を結ぶことが大切なのだとつくづく思う。そんなことを思った今日、今回は終了後に実施されている関係者の懇親会は欠席とさせていただいたのだが、翌日の移動のために取った宿で、予約したタイプとは違う部屋に変わったところ、「お礼に」と、シングルモルトのウィスキー(しかも12年もの)を振る舞っていただけて、これは幸運、と喜んでしまう俗な私であった。


2017年4月14日金曜日

最初は長く1年は早く

映画上映とトークの後、登壇してもらった学生たちと遅めの夕食を「お好み天国」という小粋な名前のお店でいただいた後、平成28熊本地震から1年を迎えるにあたって、熊本の地に赴いた。このところ、1月17日には神戸に、10月23日は新潟に、3月11日は逆に関西で、それぞれ迎えている。それぞれ、阪神・淡路大震災、新潟県中越地震、東日本大震災の発生日である。もちろん、災害はそれだけではないし、今後も新たな特定非常災害が起こることも想定されるが、これまで関わりを持ってきた地域と丁寧に向き合いたいという思いから、「その日」の迎え方にこだわってきた。そして熊本から1年は、西原村にお伺いすることとした。

朝、立命館大学衣笠キャンパスにて書類の整理を行い、銀行に行ってデンマーククローネへの両替などを行って、伊丹空港から熊本へと向かった。熊本地震では、名門大洋フェリーさんの協力をいただいて、立命館災害復興支援室のプロジェクトで西原村に4回お邪魔したのもあって、空路の方が馴染みの薄いという土地である。ただ、振り替えれば、全国コミュニティ財団協会によるヒアリングに随行させていただきつつ地震による臨時休校を解いた立命館アジア太平洋大学(APU)に訪問した4月24日から25日(福岡空港から九州新幹線)、同じく全国コミュニティ財団協会による5月の大型連休でのフォローアップのヒアリング(地震後初めての熊本空港利用)、10月の西原村農業復興ボランティアセンターの「西原村百笑応援団」への改組にあわせて開催された収穫とボランティア感謝祭と、3回はフェリー以外でお邪魔していた。あれから1年、今日は空港もホテルも予約でいっぱいだった。

伊丹からの空路は、たまたまだが天草エアラインの便だった。1機のみの所有だが、天草〜福岡〜天草〜熊本〜大阪〜熊本〜天草〜福岡〜天草〜福岡〜天草と、天草〜福岡3往復、天草〜熊本1往復、熊本〜伊丹1往復の計10便を毎日運航しているという会社である。今回、初めて搭乗させていただいたが、クリアファイルによる手作りの機内誌など、工夫すればこうできる、ということを実感すると共に、一連のあたたかさにファンとなってしまった。そもそも、「また次も」とお願いする、お願いされることよりも、そして「いつか」と思うだけではなく、きちんと次があること、そしてまた「次」が来たときに「またこの次も」と選択することが、大事なものが大切にされ続ける構図なのだ。

熊本空港からはレンタカーを借り、西原村へと向かった。途中、立ち寄ったコンビニエンスストアのレジには「今日は全てが当たりくじ」とあり、復興市場「萌の里」は既に俵山で営業の再開がなされつつもプレハブ店舗を残して営業中だった。その後は2時間あまり、農業ボランティアでお世話になった曽我さんのお宅にお邪魔して、夕方には新潟の山古志村の方々がお越しになっていた古閑地区の公民館で鈴木隆太さんと再会し、改めてこの1年の時間の流れについてお話を伺った。夜のテレビ朝日系列「報道ステーション」には、立命館災害復興支援室の活動で多々お世話になっている塩崎賢明先生が出演されていたが、私が伺った話でも、またテレビの報道で伝えられる中でも、「地震数日の時間の流れの遅さ」と「1年を振り返ったときの時間の流れの速さ」が語られており、しかし、次に伺うのが「1年後」となるのかもしれないと思うと、何とも言えないもどかしさを感じた一日だった。


2017年4月13日木曜日

re-arise(ふたたび、こみあげてくる)/realize(改めて、わかる)

コペンハーゲン空港からの直行便により、朝9時過ぎに成田空港に着いた。出発時刻が多少遅くなったが、偏西風の影響か、予定時刻よりも早くという運に恵まれた。荷物も比較的早く出て来たため、9時45分のリムジンバスで羽田空港に向かった。ここから伊丹空港に向かうのだが、チケット上では14時の便となっていた。そこを羽田空港のカウンターで交渉、晴れて12時の便に乗ることができた。

ところが、羽田空港の滑走路混雑のため、出発が30分遅れ、到着は10分遅れとなった。とにかく急いで立命館大学大阪いばらきキャンパスに向かい、14時から開催予定の立命館大学サービスラーニングセンターによるVSL(ボランティア・サービスラーニング)研究会に出席した。テーマは「学習評価と実践評価」についてだった。早速、オールボー大学でのPBLを学ぶ中で得た知も交えて、コメントをさせていただいた。そして、最後には(1)現場で費やす時間を増やすこと、(2)ファシリテーターとしての教職員の関わりでクリティカルリフレクションを促進すること、(3)問題解決のアイデアを練るよりも問題を特定するために課題を分析する習慣をつけること、(4)ツールの開発よりも学習と実践の相即を図るためにルールづくりと役割分担が鍵となること、これらについて問題提起を行った。

研究会の終了後、線路をはさんでキャンパスの向かいにある無印良品にジャケットを買いにいき、18時30分からの映画「うつくしいひと」(行定勲監督作品)の上映とトークの準備に入った。今回はチャリティ上映会であること、また、立命館災害復興支援室で行っている被災学生支援のための古本募金も行っている。何より、発案は私であっても、会の主催は立命館災害復興支援室であり、トーク部分については日本心理学会の研究助成により行うこととしていた。そのため、司会と進行役とはいえ、既に立命館災害復興支援室の立場を離れた私がデンマークから行けない、というのは、離れたからこそ無責任の極みとなるのであった。

熊本地震から1年を迎える中で、その1日前に企画を行うという仕掛けは、この数年、東日本大震災の前日に「東北の美味しいものを食べよう」という企画を行っている趣旨に通じるものである。京都大学防災研究所の矢守克也先生などによる「Days-Before」の観点に通じるものであると共に、いわゆる「ニーズ調査」で現地に赴いた際に「何して欲しいって、震災の前に戻して欲しい」という声に対して、私なりに応えた企画だ。ただ、平成28年熊本地震では、これまでの地震災害における「本震」と「余震」という構図と異なって、14日の「前震」と16日の「本震」という位置づけがなされているため「いつ」を起点にするのか、その捉え方で悩むところもある。ともあれ、上映後に行われた戸上雄揮くん(立命館大学法学部2回生、立命館災害復興支援室による平成28年熊本地震ボランティア活動「西原村農業ボランティア」の第2便〜4便に参加、その後、参加者らによる団体「くまだす+R」の代表)と、関西学院大学の関嘉寛先生(関西学院大学社会学部教授、立命館と同じく、名門大洋フェリーにて支援活動を行い、益城町を支援)のトークでは、改めて関西から寄り添う際に、支援者を主役にしない場づくりのあり方について思いを巡らせることができた。




2017年4月12日水曜日

奇跡の軌跡

パスポート紛失の疑いから1夜、昨日、窓口にて示された「正午」をめがけて、オールボー駅にあるNordjyllands Trafikselskab(North Jutland Transport/北ユトランド交通)のセンターに向かった。デンマークではたいがいの場所で「番号札」を取って、自分の順番を待つ。恐らく「その他」と書かれている、3つの選択肢のうち、一番下のものを取ってカウンターに行くと「待ってたのよ、昨日のうちに届いたの」と、カウンター奥のデスクに輪ゴムにより受領票でくるまれたパスポートとクレジットカード入りのナイロンのサイフを出してくれた。ちなみに、センターに向かう前、警察にも立ち寄ったが、届け出はなかった。

結局、乗ったバスの座席に置き忘れたであろうという推理は正しかった。大事なものだから手に持つ、このことには賛同と批判の両方が重ねられるだろう。ただ、仮に大事だからこそを握りしめることに理解されたとしても、それを最後まで手にしていなければ意味がないことは明らかである。実際、今回は安心感から気がゆるんで、身体の横とはいえ、手から離し、結果として座席に置かれたまま、バスを降車してしまったのだ。

パスポートが見つかった以上、できることをするというのが次のアクションである。昨日のうちに調べておいたのだが、正午の時点であっても、13時15分にオールボー空港からコペンハーゲンに出発するフライト、また15時45分にコペンハーゲン空港を出て、翌日の9時45分に成田空港に到着するフライトが予約できることがわかっていた。そこで、直ぐにバス停のベンチに座り、予約を始めた。幸いにして空席があったため、今日もまたウェブで予約を進めていくことができたが、座席指定のオプションを選択すると「出発までの時間が短いためリクエストが完了できません」といったメッセージが出た。

そこで、とにかくチケットを購入し、eチケットの発券後、チェックインの手続きの中で座席指定をすることにした。ということでまずは購入、バスに乗車後に、車内でチェックインを進めていったが、市内中心部を出るところで12系統のバスが渋滞、ドキドキの中、手続き締切時間の数分前になんとか空港に着き、ウェブでは「ユナイテッド」のマイレージ会員としていたところも自動チェックイン機にて修正し、無事に搭乗した。コペンハーゲンでは出国のイミグレーションが混雑していたため、ラウンジに寄る時間もなく、搭乗ゲートへ向かった。かくして、1日遅れの一時帰国が叶ったのであった。


2017年4月11日火曜日

パパパ、パスポートが…。

パスポートを紛失した。恐らく、バスの中で、である。大事なものなので手に持っていたのだが、うっかり、座席に置き忘れて降車してしまったのようなのだ。「まさか」と思われるかもしれないが、この説明で合点がいく知人も多いだろうし、友人、同僚、親友、家族は「またか」と思われることだろう。

しかも今日は一時帰国の出発日である。当然、パスポートがなければ出国はできない。ところが、朝の時点でパッキングは終わっていた。それゆえ、パスポートがないまま空港に向かうこととなってしまった。

そこで、まずは最後に買い物をしたスーパー、そしてその向かいにある警察署、さらに最も落としたことが濃厚なバスセンターに問い合わせに行った。悪用が恐かったのもあって、警察署では遺失届を提出した。バスに置き忘れたと思われるものはパスポート単体ではなく、クレジットカードが入ったナイロンの財布であったが、財布の再発見と万が一のパスポート再発券のことを考えて、パスポートのみの遺失を届け出た。

もし、バス車内に置き忘れていたとしたら、明日の正午には新しい状況がわかると説明された。とりあえずは家に帰ることにしたが、間もなく搭乗締切時刻を迎える航空会社に事情を説明しようと東京のオフィスに電話をすると、変更不可能なチケットにもかかわらず、使用前ということで特別に手数料(2万5千円)を負担いただければ翌日の便に振り替える、と提案をいただいた。しかし、仮に首尾良く届けられたとしても、明日の正午にならねば事態がわからないと言われている以上、明日の便(10時10分発)には間に合わないと判断し、やむなく提案を流すことにした。スーツケースを引きずって、トボトボ家に帰ることにし、日本に向けてのお詫びの電話とメールを重ねる一日となった。


2017年4月10日月曜日

居住のためのカードが揃う

デンマークに住民登録してから1週間あまりが経った。徐々に生活環境が整ってきた。昨日のお花見で、人脈も広がった。残り11ヶ月余りの生活に展望が開かれている気がする今日この頃である。

今日はREJSEKORTと呼ばれるカードをつくりに町に出た。いわゆる交通系ICカードである。これは割引率が高いことで知られており、この間、バスには現金で乗車してきたのだが、記名式カードであれば概ね半額になるという割引率の高さで知られている。記名式カードの場合はCPR番号とデンマーク国内の電話番号も必要るのだが、住民登録も終わり、携帯電話のSIMカードも入手している今、作らない理由がない。

町に出ようとバス停に向かう前、ポストを確認すると、大使館から滞在許可証が、市役所から保険証が届いていた。REJSEKORTはDANKORTという、政府が推進する電子マネーのカードがあればオートチャージが出来るのだが、DANKORTは収入のある人でないと作ることができないという。そもそも、銀行の口座さえ保留状態である私が、DANKORTを発行してもらうには、相当の壁があると思われる。思われる、というのは、もし、銀行の口座が開設でき、特に問題が起こさずにいれば、キャッシュカードをDANKORT機能つきのVISAカードに変えることができるかもしれないためだ。

ともかく、今日は無事に写真付のREJSEKORT PERSONALのカードが窓口にて即時発行された。せっかく町に出たので、港の周辺を散策し、スーパーで買い物をして戻ってきた。町から家に戻るにあたって、早速、乗車時に「ポキン」、降車時に「ポキン」と、カードにて乗車した。こうして慣れてきたデンマーク生活も一区切りで、平成28年熊本地震から1年を迎えるにあたり、しばしのフィールドワークのため一時帰国の日を迎える。


2017年4月9日日曜日

日本人コミュニティからのお誘いを

「お花見に行きませんか?」そんなお誘いをいただいた。オールボー大学で客員研究員をされている方のお誘いであった。私より少し前に日本から着任した先生から、メールでいただいたのだ。

オールボー大学では毎月第1火曜日の午後にInternational Staff Officeによる「welcome meeting」が計画されている。あいにく4月4日の開催は中止となり、5月に一元化されることになった。ただ、4月の開催の案内の際、上述の先生に私のメールアドレスがミスタイプされていると気づいていただいたのだ。それがご縁で、上述のようなメールのやりとりが重ねられることとなった。

お花見の声掛け役は、今、オールボー市内で日本語教室をされている方だった。しかも、その会場はオールボー大学内であった。コンピュータ科学部の基本棟である「Cassiopeia」という建物の中庭に、3本の桜があることを知り、企画が進められたという。この桜を囲んでのポットラック形式、つまり持ち寄りパーティーということで、何を持って行こうか悩んだが、日本人とオールボーで日本語を学んでいる人々が集まるということで、サラダせんべいと揚げせんべいを持っていくことにした。

約30人ほどのパーティーとなったが、人も、そして持ち寄った品も、多様性に富んでいた。日本の企業からの駐在で来られたご家族、語学教室の受講生とその友人たち、日本に留学経験のある方、日本から留学で来ている学生、それぞれに、例えば唐揚げ、そうめん、焼きそば、焼鳥、おにぎり、変わり種では手作りのクリームパン、など、枚挙にいとまがない。そのうち何人かとは連絡先の交換をすることにした。帰りには不在配達となったEPSの小包を取りに行ったスーパーに寄って帰ったのだが、お花見に行ったことで、またオールボーの暮らしに広がりが生まれそうな気がした。



2017年4月8日土曜日

ゆとり生活

「ゆとり」と言うと、あまりよい響きとならないのが日本ではなかろうか。いわゆる「ゆとり教育」と位置づけられたことの反動がそうさせているだろう。個人的には、円周率を3とするのは近似ではなく禁じ手と捉えている。こだわるようだが、無理数である円周率を3という整数に置き換えて計算を楽にさせることよりも、むしろπという記号を早々に導入して幾何学への理解と関心を促すことの方が重要だっただろう。無論、円周率を3に置き換える、というのは一側面でしかないのだが、詰め込み型の教育からの転換を図ろうとしたことを評価しつつも、結果としてテストで測ることができる学力への揺り戻しの議論が起こったこと、また結果として塾やお稽古事に勤しませる傾向が出たことに対して、また今後も論争が重ねられていくだろう。

一方で、今年度の私は、これまでの詰め込み型の仕事と暮らしから一変、ゆとりのある生活をさせていただいている。もちろん、1年間のデンマーク暮らしのために、学外研究としての滞在費等を充当いただいている立命館大学と、客員研究員として受け入れいただいたオールボー大学があってのことである。早いもので、今の家に入居して今日で1週間である。先週は家財道具の準備に努めたものの、この週末はおかげさまでゆったりと過ごさせていただいている。

午前中には、日本から持ち帰った宿題を進めつつ、マルチタスキングで、英語での自己紹介文の作成を行った。昨日のリサーチミーティングで、オールボー大学のコミュニケーション心理学部のメーリングリストがあることが紹介され、そこに案内する文章を作成すべし、という運びになったためだ。1つずつ片付けていけばいいのだが、それぞれに相手のある事柄でもあって、なかなか片付かないことが多い。そもそもこうしてブログを書いている時間があれば「あれはどうなった?」と問いが重ねられそうなことがいくつかある。

それでも、仮に日本で仕事と暮らしを重ねていたらできていないであろうことに時間を割くことができているのはありがたい。何より、夕焼けを自宅の窓から望むことができているというのが、全く持って希有なことである。以前、大阪の浄土宗寺院、應典院で働いていたとき、橋本久仁彦さんらによるワークショップの際、ある参加者が「夕焼けをちゃんと見られたら人に丁寧に接することができると思う」と語っていたのが大変印象的だった。手元の資料にさかのぼれば2010年8月31日の出来事のようだが、そんな言葉を想い起こしながら、さらに中学生のころソニーから新発売されたテレビ「ゆとりにとろん」のテレビコマーシャルでの井上陽水さんの歌声をもまた、思い出すくらいのゆとりに浸っている。


2017年4月7日金曜日

類型に拘りつつも囚われずに

デンマークに来て1週間、受入担当教員の2名と、最初のリサーチミーティングを行った。13時から、約1時間50分ほどだった。ラウンジでのコーヒーの調達なども含まれての時間だから、正味の時間はもう少し短い。それでも、英語でディスカッションをすること自体、少なくとも10年ほど前の自分であれば、相当の驚きを持つことだろう。

ただ、受入担当の2人も、母語が英語ではない。Mogens Jensen先生は穏やかだが、デンマーク語の感じが発話の中に時折混じる感じであるし、Casper Feilberg先生は時々ドイツで概念が示されるときがある(以下、ファーストネームだけで記していく)。もっとも、CasperはPBLについての論文で博士号を取得したが、その中ではハーバーマス、フーコー、ブルデューなどの理論が積極的に用いたことも影響しているだろう。また、Mogensはよりよい実践家の輩出のためにPBLを進めているという立場の違いがある。

今日のリサーチミーティングでも、PBLに対する2人の立場の違いは明らかで、だからこそ、2人の先生方に招いていただくことができたことに感謝せねばならない。打ち合わせ場所がCasperのオフィスだったこともあって、本棚から書籍を持ってきて、オールボー大学のPBLの特徴を解説してくれた。今日のミーティングで用いられたのは、その名も『PBL』で、副題に『Problembaseret læring og projektarbejde ved de videregående uddannelser』とあり、インターネットで英語に訳すとProblem-based learning and project work in higher educationとなるから、さしずめ高等教育における問題に直結した学習とプロジェクト研究の方法といった書物である。そこに、オールボー大学のPBLにおける3つのカテゴリーが示されていた。

オールボー大学は、PBLの推進拠点としてUNESCOに選定されている。前掲の3つのカテゴリーとは、その推進役であるAnette Kolmos先生の文献によるところであり、教員によって向き合い問題も方法論についても予め枠組みが定められた「Case/task based project」、専門と方法論だけが定められ扱う問題は学生が自由に選び抜く「The discipline project」、そして現実社会の問題を分析しながら教員から問い直しが促される中で専門性を研いていく「The problem based project」の3つに分けられるという。もちろん、こうして類型に整理されることで、枠組みの理解が進むが、整理されたものをただ受けとめるだけではなく、改めてPBLという教育法が学問的に、そして実質的にどのような成果をもたらすことができるのか、丁寧に見ていきたい。ちなみに次のリサーチミーティングは21日で、今度はMogensが自身の教育実践と研究を紹介してくれるとのことである。


2017年4月6日木曜日

「フルストップを入力せよ」

デンマークでの生活環境だけでなく、オールボー大学での研究環境も整いつつある。全ては個人番号(CPR No.)の取得に始まるのだが、実は番号そのものは、日本のデンマーク大使館から届いた滞在許可の書類に示されていた。6ケタの数字の後、4ケタの数字が並ぶのだが、前の6ケタは生年月日から構成されている。後ろの4ケタが何らかの法則(法則がないという法則、つまりランダムなのかもしれない)で振られているのだが、この個人番号でプライバシーが暴かれる、という方向よりも、これでプライバシーが守られる、と考えられるのは、政府に対する高い信頼があるからかもしれない。

そんなわけで、住民登録をしたことで、改めてCPR No.が書かれた証書を手にしたと大学に伝えると、メールアドレスやIDの発行手続きが進められていった。特に書類を書くわけでもなく、原本を提出する必要もなく、擬態語を使うならサクサクと進んでいく。それでも、ID用の写真は実際にオフィスに赴いて撮影しなければならないようで、朝から大学に向かった。ちなみに、撮影から発行の段取りを取ってくれる係の方(英語の案内メールではJanitorとあったので、直訳すれば用務員となってしまう…)は、いくつかの学部の建物の管理も担っているようで、「9から10時か13時から13時50分のあいだに」との指示が届いた。

指示の主であり、もろもろの手続きを進めてもらっているのは、文化心理学の研究センターでリサーチコーディネーターという職にあるスタッフなのだが、ID用の写真撮影の前に、メールアドレスの設定ができた、という案内が届いていた。そのデフォルトパスワードもまた、CPR No.をもとに作成したものであるとされていた。もちろん、そのままではなく、いくつか、追加で入力が必要とされていた。それなりにパソコン関係には詳しいので、戸惑うことなくできると思っていたが、いっこうに繋がらない。

ということで、写真撮影の手続きの折、彼に「ハイフンはいらないよね?」などと確認しながら、「何度やってもつながらない」とボヤくと、「フルストップをちゃんと入力しないと」と、横からキーボードを叩いてくれた。フルストップとは、いわゆる「ピリオド」のことだった。何のことはない、今となっては「with a full stop both before and after」の意味がわかるのだが、試行錯誤の最中には、まったくもって気づかない視点だった。そんな今日は、晴れてオールボー大学コミュニケーション心理学部のメールアドレスの開通記念日である。


2017年4月5日水曜日

銀行口座を開設に

3日の住居の契約と住民登録、4日の荷物の受け取りと続いて、今日は銀行に口座の開設に行った。住民登録をした足で行けばよかったと、後になって思う。しかし、時間は戻せない。またも、バスに乗って市内に出た。

デンマークにはいくつかの銀行があるが、結果としてDanske Bankとした。直訳すればデンマーク銀行となり、メガバンクの類に位置づけられる。理由はホームページにて英語の案内が多いことと、家賃の振り込み先もまた、同じ銀行だったためだ。もっとも、日本とは制度が異なるので、同一銀行だから振り込み手数料が無料になるとは思っていないが、何かとつぶしがきくのではないか、という安易な安心感のもとで契約に伺った。

いざ手続きとなったが、A4用紙両面でいくつかの質問に回答しなければならない。中でも、銀行側から見ると、給料が支払われているかどうかが最重要の問題とのことである。今回、私はオールボー大学の客員研究員として招聘状をいただき、大使館から滞在許可をいただいているものの、オールボー大学からは給与を受け取らず、学外研究制度により訪問する元となった立命館大学から給料が保証されている立場にある。そのため、今度は国際送金を受け取る可能性があるのか、あるとすれば年間何回くらいで、どれくらいの額か、など、担当の係の方から質問が重ねられた。ちなみに無給でも就労者としての資格ある私に対し、妻は無職という位置づけのため、銀行口座は開設できず、私の口座を共有するというのがこちらの流儀という。

無事、書類を提出すると、「自宅に手紙がつくので、届いたらそれを持ってきてね」と案内、約1週間ほどかかるそうだ。ちなみに、私の分は銀行口座開設と同時にデンマーク政府による電子手続きに必要なID(NemID)の発給もお願いできたので、妻の分だけ、市役所にて発給手続きをすることとする。いわゆる「申請書」の記載も不要で、窓口で言えば「このコードと改めて郵便で届くコードを入れて手続きを終えてね」と、実に小気味よく手続きが完了する。銀行に行く前、交通系ICカード(rejsekort)の発行のために交通局(のようなところの)窓口に行ったが、こちらは写真を忘れたので、また、近々伺うこととしよう。


2017年4月4日火曜日

ついに荷物と対面す

今日はオールボー大学により、ウェルカムミーティングがなされる予定だった。Facebookにてイベントが設定されるくらい、公式の、公的な催しであった。このウェルカムミーティングは、原則、毎月最初の火曜日の昼に設定されているものである。しかし、3月から4月にかけて新たに身を置き始める人々の出席率が悪いらしく、直前になって、来月に合同で、ということになった。

参加する気で満々だった私は、かなりの肩すかしとなった。実際、このミーティングでは、スタッフどうしの親睦を深めることはもとより、デンマークで暮らしを始めるにあたり、個人番号(CPR No.:Civil Registration Number)の発給、税制への理解、銀行口座の開設の仕方、電子政府推進にあたっての利用登録など、多々のガイダンスも得られたはずだった。当然、来月のミーティングまでには、それぞれに手続きを進め、理解を深めなければならない。さしあたって、明日は銀行に出向くことにする。

今日は昨日、不在票の入っていた、日本から送った荷物を引き取りに、歩いて15分ほどのスーパーへと向かった。今、日本では再配達をめぐって、配達員に相当の負荷がかかっていることが問題とされているのに対し、デンマークではそもそも再配達という制度そのものがないようである。そのため、自ら策を講じて、ある程度、配送先から近い場所に一元的に預けられた場所(郵便局の取り次ぎ店)に取りに行かねばならない。

何せ、段ボール3つということもあり、手で運ぶには適さないし、バス停3つ分とはいえ、段取りよく運び込んで降ろす自信もない。そこでタクシーの利用を考えたものの、電話ではうまく呼び寄せられない。タクシーを呼ぶアプリが見つかったものの、日本で作成されたアカウントではダウンロードさえできない、といういくつかの壁を乗り越えて、なんとか自宅にタクシーを呼び、スーパーまで行き、運び込み、自宅まで戻っていただいて荷ほどきをすることができた。その後は、日本でやり残した宿題として、原稿執筆に時間を割いたのだが、なかなか研究モードまっしぐら、といかないのがもどかしい今日この頃である。


2017年4月3日月曜日

偶然の出会いと必然の不在

今日は朝9時にオールボー大学へ向かった。受入担当のCasper Feilberg先生とのミーティングのためであった。あらかじめ、この1年の滞在期間中の予定を整理して持参したが、それらはまた、海外出張中のもう一人の受入担当教員、Mogens Jensen先生が戻ってからにしよう、ということで、ゲストIDの貸与の上で、大学の施設案内などをいただくことになった。まずは受入にあたって諸々の書類作成などをいただいたMorten Kattenhøjさんのオフィスに伺い、家の契約書などを仕上げた。

その後、博士課程の共同研究室やカフェテリアの案内の後、契約書を得たということで、住民登録をしに、市役所に向かうことにした。デンマークでは住民登録をすることで個人番号(CPR No.)が発給され、それが健康保険の適用を受ける際の証明となり、加えて、銀行口座の開設や、公共機関の電子乗車カードの作成などにも用いられる。大学でもCPRナンバーの発給により、IDやメールアドレスが作成されるとのことで、結果として、このCPRナンバーがないと何も始まらない、ということになる。少し緊張しながら市役所に向かうと、そこはリノベーションがなされた素敵なオフィスで、係の方もあたたかく、15分から20分ほどで登録が終わった。

せっかくまちに繰り出したので、買い物とランチをして戻ることにした。買い物はトースターとフレンチ式のコーヒーメーカー、ランチは中華のビュッフェにした。そして、1つ前のバス停で降り、食料品を家の近くのスーパー(昨日行ったføtexの反対方向にあるFakta)で求めたところ、帰る道すがら、先月に日本からオールボー大学にお越しのご一家にお会いした。共にウェルカムミーティングに招待をいただいていた関係で、既にメールではやりとりしてたものの、明日から学会で出張されるという予定の中、偶然にもお目にかかることができた。

ただ、帰宅後には少し悲しいお知らせに触れることになった。日本から送ったEMSの不在票が入っていたのだった。あいにく、日本と違って再配達という枠組みがなく、歩いて15分のføtexまで取りに行かねばならないのだった。ともあれ、少し独特な玄関扉の閉め方や共同使用の洗濯コーナーなどの使い方を習得することができたので、それはそれでいい一日だったと思うことにしよう。


2017年4月2日日曜日

ないものはない店?

デンマークで最初の日曜日である。住まいが大学の(ほぼ)構内ということもあって、教会に通う人の列を見る、鐘の音が聞こえてくる、ということはない。昨晩は時差ボケなのか22時ころには眠りについてしまった。それゆえ、朝は早かった。

大学の計らいで、自宅にはインターネットを通していただいている。昨晩、若干の眠気の中で、日本とのVPN接続をできるように設定した。そのため、日本の朝のラジオ番組などの情報を、8時間遅れで手にいれることができるようになった。テレビ番組のオンデマンド放送も観ることができるものの、テレビのない生活に挑戦してみようと、今は思っているところである。

午前中、昨日とは違って、徒歩圏内のスーパーに足を運んでみた。名前はføtex、日本ではロックバンドBOØWYの綴りで目にするアレが入ったお店である。「オ」の口をして「ウ」と言う感じ、と耳学問で習ったが、徐々に発音を習得していくことにしよう。で、このføtex、品揃えは幅広く、概ね、何でも揃う。

それでも、「あれがあれば…」というものが思い浮かぶ。もちろん、ないものはない。品揃えが悪いのではなく、そういう品があるということが選択肢にないのだろう。この土日で、ある程度の住環境は整ったので、これからは研究環境をきちんと整えねばならない。こちらはモノよりも気持ちが大事なので、良いムードの中、適切なペースをつかんでいこう。


2017年4月1日土曜日

ライフラインとしてのインターネット

大学近くのホテルで滞在した朝、4月からお世話になるオールボー大学の受入担当教員の一人、Casper Feilberg先生の自宅にお邪魔した。私たちの到着が当初、金曜日の夕方で、既に大学のInternational Accomodation Office(IAO:留学生や諸外国から訪れる博士研究員、教職員の居住環境を支援する窓口)が閉まっている時間ということもあって、家の鍵を預かってくれていたのだ。あいにく、到着便がずれたこともあり、翌朝に伺うことにしたのだ。お連れ合いとお子さんたちもあたたかく迎えてくれ、ささやかなおみやげとして、日本から持って行った手ぬぐいのセットの中から、お好みのものを選んで渡すことにした。

家は大学のキャンパスから程近く、キャンパスマップの中にも建物名は書かれず、色づけされて表示されていた。リノベーション済とのことであったが、建てられてから年相応の時間を感じる建物であり、部屋だった。それでも、妻と2人で暮らすには充分な広さと、シンプルな中に合理性が追求された北欧っぽさを感じる住まいである。ホームセンターに行っていくつかの箇所を直したい欲求に駆られているが、徐々に快適な住まいを追求していくことしたい。

まずは荷ほどきをし、お昼を前にまちに繰り出すことにした。IKEAを中心とした家具やキッチン用品がセットされている上、布団などはIAOに用意いただいていたので、トイレットペーパーや洗剤といった消耗品を調達に出たのだ。住まいというか、大学の近くにもスーパーがあるものの、7月に一度訪問したときの感覚を頼って、「あそこに行けばあるだろう」というお店に伺うことにした。日本で言えば関東では成城石井、関西ではいかりスーパー、そんな感じのする「salling」の食品コーナーでいくつか食材も手に入れ、いよいよデンマーク生活のスタートである。

まちに出たもう一つの理由はSIMカードの調達のためだった。事前の調査では、コンビニ等でLebara社のプリペイドSIMを購入できると聞いていたのだが、なかなか店頭では見つけられなかった。結果としてFaktaというスーパーのレジで見つけたものの、これはチャージ用のバウチャーで、SIMカードそのものは別の店で買ってくれ、とのことだった。結果として、一旦は中に入ったものの、陳列棚では見つけられなかったセブンイレブンのカウンターで訊ねてみると「Yes, sure」と、レジ内から取り出していただき、あえなく入手することができた。さっそく、SIMフリーの端末に入れ、先程のバウチャーに書かれた2つのコードを入力、これでデンマークでの電話番号と通信環境を手に入れたのであった。