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2017年6月6日火曜日

悪い加減

 「いいかげん」というのは「良い加減」のことなのだ、と知ったときには、それは加減の良く効いた表現だと感じた。この手の類の日本語表現はいくつかある。似たところで挙げるなら「適当」という言葉もまた、使い手と文脈によっては意味が異なって受けとめられるだろう。極端に言えば、カタカナを用いて「テキトーな人」などと表現すれば恐らくネガティブに受けとめられ、一方で「適当にしておきましょう」を「適切にしておきましょう」に置き換えれば、一定の節度や素養が求められるということに想像がつくだろう。

 学生だったころ、特に社会人大学院生だったころには、鷲田清一先生の著作に多くの気づきを得た。今、朝日新聞で「折々のことば」を連載中ということもあって、鷲田先生の感性に日々、何らかの学びを得ている人も多いのではなかろうか。数々の著作の中でも、私が授業で用いる書籍の一つに『〈弱さ〉のちから』がある。この中に「加減とか塩梅、潮時とか融通、ほどほどとか適当というのは、ほんとうは経験を積んだひとの深い智慧ををあらわすはずの言葉なのだが、適当に済ますやつだとか、いいかげんなやつだとかいうふうに、良い意味では使われないことが多い。」(p.220)という箇所がある。

 今日は訳あってオールボーの役人さんと触れる機会があったのだが、何とも、仕事の加減が悪い方々に相次いで関わることとなった。公務員の世界では、縦割り、杓子定規、そうした仕事ぶりがどの国においても共通する、などと片付けたくはない。ただ、逆にデンマークが「世界一幸せな国」と標榜するのであれば、もうちょっと、仕事の仕方を考えてもらいたいと、痛切に感じた。詳しいことには立ち入らないが、「それは私の仕事ではない」という立場を理解しないわけではないが、言われた通りの対応をしても埓があかない状況を、それこそオールボー大学でPBLが積極的に導入されているように、対話を重ねながら問題解決を図ってもいいのではなかろうか。

 「たとえば他人とのつきあいのなかでここが引き際だと判断すること、じぶんの身体においてそろそろ限界だと感じること、子どもに対してここで一言いっておくべきだと考えること、他人との交渉のなかでそろそろ潮時だとおもうこと、これらの判断や感覚は、科学者や技術者のくだす判断に劣らず精密である。」(鷲田清一『〈弱さ〉のちから』2001年、講談社・刊、p.220)これは先程、引用した箇所の直後に「しかし、」と逆接で続けられている文章である。「もう日本に帰ろう!」といった短絡的な思考には至らなかったが、釈然としない感覚が残った。一方で、鍵の落とし物コーナーがセルフサービスで持ち帰るよう「最上段は今月、2段目が先月、3段目が2ヶ月前、4段目が3ヶ月前」と整理され、「決して混ぜないように(Bland ikke noeglerne sammen/Do not mix the necks together)と促されていたあたり、日本的な価値観とは異なる世界に暮らしているのだな、と痛感して、役所を後にした。


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