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2017年6月11日日曜日

文化を読み解く・未来を書き描く

 今日は朝から近所のスーパーに空き缶とペットボトルを持っていった。5月末、お客さんを招いたこともあって、貯めておいたキッチン横のスペースが目立つようになってきたためである。いざ、持って行こうとすると、いつも買い物に使っている大きめの布バッグ一杯になるくらいの分量になった。帰りに買い物をして帰ろうと、あまり混雑していない日曜の朝を狙って、お店に行くことにした。

 その理由はデンマークではアルミ缶とペットボトルの飲料にはデポジットが乗せられているためである。こちらに来て2ヶ月あまりが経つが、今日、初めてデポジットの返金をすることになり、1つずつ、スーパーの入り口にある機械に入れていった。そして、1つあたり、空き缶は1クローナ、ペットボトルは1.5クローナであることとを知った。ちなみに、コペンハーゲンの空港では、赤十字社による「あなたのボトルを寄付して」と記された回収ボックスが通常のゴミ箱とは別に置かれているのを観たことがあり、また、列車や街中で、デポジットの返金を狙ってか、丁寧に狙いをつけ素早く回収していく方の姿も見たことがある。

 ふと、大学を卒業して程なく「ではの神」にならないように、と諭されたことを思い出した。ある一面を切り取って、「〜ではね…」と、自慢気に語らないように、という意味である。藤子・F・不二雄先生の作品『ドラえもん』で言えば、スネ夫がよく言いそうな台詞である。ちなみに、LINEの「意識高い系になれるスタンプ」の中にも、吹き出しの中に「北欧ではね…」という言葉が添えられ、得意な顔をして語っているものが収められており、時々使う機会がある。

 先般、パソコンのドライブを整理している際、かつて、NHKの『視点・論点』で詩人の長田弘さんが「文化とは習慣である」というテーマでお話になっていたことに気づいた。2010年11月3日の放送分で、その内容は後日、岩波新書の『なつかしい時間』にも収められているが、10分間の語りの中で、「技術の極めて早い展開が、同時に広めてきたもの」として「習熟の欠如」を挙げ、「経験知というもの、経験して知るということが大切なことでなくなった」と指摘した上で、「メールなどですぐあからさまな表情を持つ絵文字に頼るようになったのは、今、私たちが持つ言葉が、それだけ表情をなくした言葉になっている、その乾きのせいかも」と述べて、「言葉のダシのとりかた」というご自身の詩を紹介された。「デンマークでは資源の有効化のために、空き缶やペットボトルを…」、と、一つの現象を捉えて「進んでいる」と紹介するのではなく、そうした社会システムが根ざしてきた背景を見つめ、自らが浸ってきた文化と照らし合わせながら、よりよい未来を見据えていくことができるよう、文化の読み書き能力を高めていきたい。


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