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2017年6月14日水曜日

表出される力

 既に2年前に発表されたMac OS El Capitan(Mac OS X 10.11)をサブのノートパソコンに入れて1日、なかなか悪くはない。何せ、Macを使い始めたのが漢字Talk 7.1の時代であり、長くMac OS 9の環境を使ってきたものあって、システムフォントと言えばChilcagoとOsakaに馴染んでいた。その後、UnixベースのOS XはMarverics(10.9)までLucida Grandeとヒラギノ角ゴシックだったが、ネコ科の動物の名前から地名へとシリーズ名を変えたYosemite(10.10)ではHelvetica Neueに、そしてEl CapitanからはiOS 9とApple Watchと揃えてSan Franciscoという欧文フォントが用いられることになった。

 日本語では書体などと訳されるフォント(font)という言葉を英英辞典で引いてみると、泉(fountain)という言葉にある程度の馴染みがあるように、ラテン語を起源とした言葉で、教会で洗礼を受ける際に聖水を入れた容器、湧き起こってくる力、そうした意味合いがあるようだ。その点で、インクの壺で補充してペン先を適切に維持・管理していけば永遠に書き続けることができる「fountainpen」を万年筆と訳した方のセンスには脱帽である。一方で、書体そのものに力があるということにもうなずける。今日の朝は、福島県楢葉町の一般社団法人「ならはみらい」と立命館災害復興支援室が関わる「ならは31人の<生>の物語」について、インターネットでやりとりを重ねたが、書体の選び方によって、人生の、生活の、そして生命に関する語りの伝わり方が変わってくる。

 もっとも、文章が持つ力というのは、決して書体のみによってもたらされるのではなく、用いる言葉、そしてレイアウト、さらに全体を包み込む雰囲気の洗練さ(あるいは、洗練のなさ)という意味でのデザイン、それらの総合的なバランスによる。今日、長らく待ちわびた郵便が届いたが、それもまた、ポストを開けた瞬間に、「あそこから来たあれだ」という力を感じるものであった。差出人はデンマーク政府の移民局である。この数週間、もっと言えば住民登録をしてからずっと待ちわびていた書簡であった。

 事務仕事の業務分掌を縦割りとして否定的に捉えるか、他人の領分を侵害しないために自分の領分から踏み外さないと批判的に捉えるか、さらには自らの職務に忠実であると肯定的に捉えるか、人それぞれかもしれないが、少なくともデンマークの行政機関における仕事の仕方には、ささやかな疑問を感じるところがある。ちなみに米国の宗教社会学者のロバート・ベラーは著作『心の習慣』において、米国の個人主義を(1)聖書的個人主義、(2)共和主義的個人主義、(3)功利的個人主義、(4)表現的個人主義に分類した。乱暴な整理だが、(1)と(2)のように他者が尊重された上での個人(一人ひとり、それぞれが)は特に近代国家の成立と成長の中で社会システムを作動させる上で重要な要素となってきたものの、(3)と(4)のように他者に対する個人(それぞれ、一人ひとりが)は現代の社会システムにおいて構成要素を区別していく主体に過ぎない。モヤモヤすることが多いものの、それをスパッと言葉にできていない自分もまたもどかしいが、ともかく、シェンゲン協定加盟国圏内入って3ヶ月を迎えつつある中、滞在許可が下りているにもかかわらず、いっこうにOpholdskort(英語ではresidence card:いわゆる在留カード)が届かなかかった中、市役所、警察(デンマークでは警察署に移民局の手続き窓口がある)、東京の大使館、それぞれに「ここではない」と言われ、まるで「あんたが悪い」と他人を遠ざけていくかのような役人さんたちの態度、そこに埋め込まれた社会システムの外へと追いやるかのような力の加減を、おそらく忘れることはないだろう。


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