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2013年12月31日火曜日

パレードと鐘の音


平成25年、2013年が終わる。日本が23時59分を迎えたときも、世界の各地では、まだ新しい年までに数時間が残っているのだが、「紅白歌合戦」が終わって程なくすると、日本では新年を迎えることになる。ふと、昔は「輝く!日本レコード大賞」も大晦日の放送であったことを思い出す。そして、年を重ねるごとに「間に合うのか…」というドキドキは程なくおさまり、東京というまちを中心に日本が回っているのだな、など、ひねた見方をするようになっていったような気がする。

3度目の年男も過ぎた昨今、大晦日の風物詩となっているのが、大阪でのピクニック「愛と表現のために」と、應典院の本寺である大蓮寺での「除夜の鐘」である。ピクニックと言われてもピンと来ないかもしれないが、これはcocoroomの上田假奈代さんらによって2007年から行われているもので、2010年に開催した際の案内が、まだ、ネット上で見つけることができる(http://booksarch.exblog.jp/11664614/)。かつて「御堂筋パレード」があった時代には主宰者らが「堺筋パレード」などと呼んで、強靱な社会システムによって区別されてしまう市民の動きを自ら揶揄して語るなどしていた。実際は「ただ歩く」というものなのだが、なぜ歩くのか、どのように歩くのか、といった内容面に内容を見いだそうと意味を掘り下げてみたとしても「non sense」であり、趣旨文にある「このパレードは、歩くという行為によって、ながれゆく日常のなかで忘れそうになるこころを、身体に取り戻す現代社会における表現とつながりのレッスンであり、愛のために行うものである。」という言葉のとおり、歩くという行為への意思(decision)こそに意味を見いだすことができることを、この5年ほどの参加を通じて実感している。

去る12月11日、「愛と表現のために」の主宰者の一人、上田假奈代さんに、私の「この一年」を話したところ、それを一つの詩にしていただいた。應典院で開催されている「詩の学校」でのことである。「もうがんばらんでいいん つつまれる」と掲げられたその詩には、まさに今日のことが織り込まれている。一つの連をそのまま抜き出すと「大晦日に除夜の鐘をつく人々のお世話をする仕事をする/世の中に大晦日に働く人たちは やっぱり何人もいて/そのなかのひとりとして/家族の、あるいは家族を持たぬ人の一年のおしまいに/ごぉーんとつく鐘の音を いくつも 聴いている/ごぉーん/ごぉーん」とある。無論、この連だけでなく、「ことばを人生の味方に」という詩人のことばは、大晦日に仕事をする私を、そっと、やさしく包みこんでくれる。

ということで、平成25年、2013年の大晦日もまた、ただ歩くという行為で、忘れることと想い起こすことの両方を尊んだ後、除夜の鐘を撞きに来られる皆さんのお世話のため、私はお寺で過ごすのである。そしてそうして年末にもまた「活動」に明け暮れる夫が不在の自宅では、妻が何年ぶりかの障子を張り替えにあたっていた。改めて、微に入り細に入り、生きることを支えてくれている妻に感謝の気持ちを高めつつ、来年の多幸を願うこととしたい。みなさん、良いお年を、そして来年をよいお年に。

2013年12月30日月曜日

まちに出る素養

2013年も、間もなく終わる。年は終わるが、終わらないことも多々ある。何より、2012年度の仕事で片付けられていないことがある。なんとも恥ずかしく、しかし、どれほど寛容であっても堪忍袋が四次元であるはずはなく、尻に火が付いた状態で、象の歩みのようだが、その積み残しに対して手を動かしている今日この頃である。

昔、と言ってもそんな大昔でもなく、それこそ一昔前は、師走と言えば、なんだか慌ただしい雰囲気がまちを取り巻いていた。しかし、私の感覚がそうなのかもしれないのだが、最近は、なんだか数字だけがカウントアップされて、1月1日にリセットされる、そんな気がしている。要するに、年末へのカウントダウンが進む、という気がしないのだ。「もういくつ寝ると、お正月」のフレーズが馴染み深かったのは、遠い昔のことである。

そもそも、一昔前には、この時期には「まちに出る」ことが強制的に求められていた。ところが、手のひらの中からインターネットにつながる今、「まちに出なければならない」ことは、量的には減っている。もちろん、それと対照的に、質的には減っていない。いや、むしろ「出なくても済ませられる」ものを「出ずに済ましていいのか」という行動規範が問われていると捉えるならば、むしろ「まちに出る」ことの質的な意味は、出るか出ないかの判断をする者の素養を深く問うものとなっているだろう。

それでも、何かと「まちに出る」ことが多い私は、年末が差し迫る中、何度か電車の遅延に遭遇した。そうした遅延の背景が、自ら生命を絶つことを選んだことによる列車事故、ということが時々ある。すると、誰かが舌打ちをし、誰かが「またかよ」とぼやき、誰かが手のひらの中から鉄道会社などへの愚痴を短く乱暴な言葉でつぶやく、そうした風景に立ち会うことになる。実は、この1年、ホームに滑り込んでくる列車にふっと身を投げれば、片付けられていないことから解放されて楽になるのでは、と考えてしまうことがなかったわけではないのだが、そうして自己完結した思考による行為は、全く持って自己完結しえないのだという思考を覆い被せることで、なんとか生き抜いてきた1年であったことを、2013年を終える2日前に綴っておくことにしよう。

2013年10月6日日曜日

まちとの距離を思う秋

慌ただしい一日だった。昨日から岡山駅西口そばの国際交流センターで開催されている、日本福祉大学通信教育部のスクーリングにお招きいただいたため、午前中は岡山で過ごした。テーマは「地域再生」で、應典院を事例に、いつもの(ユーリア・エンゲストロームによる「活動理論」を下敷きにした)「ロール」と「ルール」と「ツール」づくり大切、という話をさせていただいた。まちづくりに引きつける必要があったのだが、「まつりづくり」などと、少々言葉で遊びながらの講演と質疑応答となった。

2011年9月18日の大阪スクーリングに続いて、今回もまた、日本福祉大学の雨森孝悦先生の縁による出講となったため、昼食をご一緒させていただいた。その間、別の機会でお会いすることはなかったのだが、年齢をお聞きして、驚いた。その一方で、「この年になると、変わらず、つつがなく過ごすことができるだけでありがたい」というようなことは、まだまだ言えそうにないと実感した。まだまだ、あまちゃんな私である。

午後は京都に移動して、キャンパスプラザ京都の6階で開催の立命館大学人文科学研究所「グローバル化とアジアの観光研究会」に参加した。月1回、共通教育総合センター会議でご一緒させていただいている藤巻正己先生からのお誘いで、である。実はこの研究会で話題提供をされた タマサート大学(Thammasat University)のカンナッパ先生(Dr. Kannapa Pongponrat)とは別の経路から連絡をいただき、10月8日の朝にヒアリングを受けることになっている。ご所属は「College of Innovation」というから、さしずめ「イノベーション学部」となるが、東日本大震災とボランティアツーリズムについての研究のため、京都大学の支援を通じて、今秋から2年がかりの研究を展開するという。岡山からの移動の都合で、第一発表者の依田真美さん(北海道大学)がまとめの話をされているときに入室することになったのだが、後半のディスカッションでは(若干予想をしていたのだが)藤巻先生から指名を受け、コメントをすることになった。

かねてから、言葉のあいだに前置詞を入れて概念に迫ることにしている私は、まず「ボランティアツーリズム」の2語のあいだにどのような言葉を入れるのがよいのか、と考えて、ツアーのホストとゲストとの関係から「ボランティアによるツアー(ホストがボランティアのツーリズム)」と「ボランティアとしてのツアー(ゲストがボランティアのツーリズム)」の違いを指摘した。そして、ボランティアに行きたいという衝動(いわゆる動機尊重モデル)と、ボランティアを続けたいという衝動(これを動機づけ尊重モデル、とでも言うことにしよう)の両方に関心を向けることで、ボランティアの関心を利己的・利他的の2つに区別しなくても済むのではないか、と示した。また、東日本大震災では発災直後に「(まだ)ボランティアには行かなくてもいいんですよね」という、付加疑問文の形式で「現地のため」を御旗に自己完結した判断への承認が求められることが多かったことを伝えた。何より、復興やまちづくりに効率性が求められるのは妥当ではない、そうしたことは言うまでもないのだが、はからずもこの土日が地元(実家)の秋のお祭りであることを思うと、少しだけ切ない思いを抱きつつ、(京都の)家路へと向かった。

2013年9月19日木曜日

バイヤーとクラークとソムリエ


1泊2日で、立命館大学サービスラーニングセンターの学生スタッフ「学生コーディネーター」の合宿に参加している。合宿は年に2回、開催され、2つのキャンパスのあいだで、交互に会場が設定されている。2015年の予定とされている「大阪いばらきキャンパス」が開学したらどうなるのか、それはそれで、難しい問題だ。ともあれ、今回はびわこ・くさつキャンパスの「エポック立命21」での開催である。

基本的に、学生による活動は学生による自治がきいていることが望ましいと考えているで、企画の詳細には立ち入らないようにしてきているが、詰めの甘さがどうしても気になってしまう。特に「これでいいんじゃね?」という流れになったときは、なかなか黙っていられない。原研哉さんの『デザインのデザイン』からの受け売りだが、「それでいい」というときの「で」が、投げやりの「それで落ちつける」なのか、納得した上での「それで落ちついた」のか、問いかけずにはいられないのだ。すなわち、合点がいった「それで」に収まるまでには、いくつもの「これが」「あれが」が浮上して、文字通り「が」が張られ、やがて強烈な自己主張が共同主観へと収斂されているはずである。

立命館大学サービスラーニングセンターが設置された背景には、1999年度に産業社会学部によって開講された「ボランティアコーディネーター養成プログラム(Volunteer Coordinator Trainig Program:VCTP)」がある。誰かと誰か、大学と社会、人と活動、そうした2種類以上の要素をつなぐ存在として、代のため人のために動く立場への実践的な学習を経て、学習した知を実践する機会として、学内のボランティアセンターでの学生スタッフとなる、そうした流れがあった。VCTPは、社会人と共に学ぶ、10単位のパッケージ科目という、他に類のない正課科目群であったが、残念ながら、2012年度をもって終了した。そのため、時にボランティアコーディネーターながら、ボランティア経験が浅い、というスタッフが、徐々に増えてきている。

「野球をしない野球解説者」という例え話で、現場を知ることの大事さを語っていた時期があるのだが、今回の合宿では顕在的・潜在的の如何を問わず、課題から問題を抽出し、解決のための行動計画を策定する、という内容が盛り込まれていたため、新しいアナロジーとして「バイヤーとクラークとソムリエ」で説明していくことにする。要は、どのようなボランティア情報を獲得するのか(商品の売り手であるバイヤーの姿勢)上では、どのようにボランティア情報を提供するのか(商品の買い手へのクラークの姿勢)だけでなく、「自分はどのようなものを獲得し、提供される側は何を求めているのか」を見極める(実際に味わっていて特徴の表現がか可能なソムリエの姿勢)が大事だ、ということである。端的に言えば、実際に活動せず(ワインで言えば、呑まずに)、周囲の情報(産地、原料、仕込み方、売れ筋、値段などのスペック)だけで判断していては、求める相手に選択や判断をあおることはできないだろう、ということである。逆に言えば、ボランティアの活動をせずにコーディネートに努める姿勢に対して、お酒が得意かどうかにかかわらず、年代の違いや、ワイナリーの違いなどを、実際に口に含んで確かめているソムリエの有り様から学びがあると思われるのだが、果たして、この話、伝わるかどうか、まずは学生たちに「テイスティング」を促してみることにしよう。

2013年9月18日水曜日

causation or correlation

Today was an English day for me. Because our English class was restarted in Nakanoshima. During this August, our lecturer Mr.Tad went back to USA, so our classes were not scheduled. But, today we were reunion with everyone.

Today's topic was about "economic geography". We discussed a cultural gap between metropolitan area and provincial area by using an article "Geography as destiny for many workers" (web edition "In Climbing Income Ladder, Location Matters") published in July 22th, 2013. By this kind of gap, the American dream has been realized. In other words, provincials should face the gap against urban life, and they have challenged to enrich their own life, daringly.

Through the discussion, Mr.Tad paid an attention about the difference between causation and correlation to us. In short, he asked us that interest in economic disparities and resident area is absolute or relative. In short, he asked us whether the relationship between economic disparity and resident area is absolute or relative. Actually, income mobility is reflected the historical and cultural context in each region, and such characteristics don't change easily. But, sometimes restriction provides us the new way to change our situation.

After the English session, I went to the Outenin-temple to attend the feedback meeting with interns. I found many in their talk. respect and gratitude to the other intern in their story. Their story was full of gratitude and respect to the other interns. Of course, these mutually interact is not envisaged from the start of the intern. So, co-relation is quite an important matter to train each other.

2013年9月17日火曜日

「やれよ/やるよ」と「する/しない」


朝から立命館の朱雀キャンパスで過ごした。朝一番はBKCの地域連携に対する教養教育の関わり方と、教学機関としてのサービスラーニングセンターにおける社会連携機能のあり方についての意見交換を、教学部の次長と行った。午後からはある学内研究資金についてのプレゼンテーションに、参加メンバーの一人として出席した。その後は夕方まで、台風18号による被害への立命館災害復興支援室の向き合い方について、情報収集と方針決定が断続的に行われることになった。

ちなみに、この間楽しみにしてきた『あまちゃん』がいよいよ佳境に入ったこともあって、起きると毎朝7時半からの「早あま」を楽しみ、さらに余裕のあるときには8時からの「朝あま」にて芝居の中で聞き取れなかった台詞を確認するために字幕付で見る、というともすれば奇妙な行動を続けている。見ていない人にはまったくわからないだろうが、今日のクライマックスは松田龍平さん扮する「ミズタク」こと水口琢磨が、橋本愛さんが演じる「ユイ」をけしかけ、震災以降の沈鬱な状況を打開するという部分である。余談だが、時に芝居なのか素なのかわからなくなるという点で、能年玲奈さんの「アキ」と共に、実に素晴らしい演技と演出がなされているのが『あまちゃん』の深みだ。今日は突如、北三陸(架空の市という設定であるが、ほぼ、久慈と置き換えて考えると合点がいく場面が多い)を突如訪問した地元系アイドルGMT5に対して、かつてはアイドル志望であったユイが散々の悪評(ベロニカだけは直接ではなく環境に対しての批判であった)を叩いた後を見計らい、ミズタクが「じゃあ、ユイちゃんだったら?」と問いかけ、アイドル活動の再開に向け「やりなよ」と差し向けたのを契機に、アキのおばあちゃん役の夏さん(若干、老いのしぐさが大げさなように思うが、宮本信子さんが好演している)が「やればいいのに」と言葉を重ね、最後にユイの兄役のヒロシ(イケメンキャラを劇中でいじられるという、何とも絶妙な設定を小池徹平さんが見事に演じている)が「やれよ」とたたみこむ、ホップステップジャンプ式の言葉のリズムと、そのリズムを生み出すタイミングとしてアキも含めたアイコンタクトのリレーが、見ていて心地よかった。

長らく抑えてきた思いが一気に解き放たれ、それまで密かに認めてきたアキとユイによるユニット「潮騒のメモリーズ」の活動再開へのシナリオ(ユイが手書きでノートに綴っていた)の存在も明らかにされ、私も「琥珀の勉さん」(塩見三省さんが実に深みのある芝居を重ねている)のように「やったー!」と叫びたい気持ちであった。しかし、虚構の世界で復興への展望が開かれていく中、現実の社会では多くの課題に直面している。朝一番の打合せは、意思決定への「筋」と「制度疲労」への次の一手を模索しなければならなかったし、午後のプレゼンテーションでは「実践的研究における実践的な意義は認められるが、果たしてそうした実践を研究として位置づけていくとき、何が壁となっているのか(転じて、我々の研究プロジェクトがどのようなブレイクスルーをもたらすのか)」が問われ、夕方からの台風18号災害への構えの整理では新たに知った事実に対する「緊急度」と今の状態で抱えている業務とのあいだで「重要度」を考慮し、誰と共に誰に対して、誰がどこまでどのように行動を起こすのか、まさにシナリオの検討が重ねられた。加えて、そのシナリオの検討のあいだ、ある学生からのビジネスプランコンペへの相談を受けたのだが、これが「起業への」相談ではなく、「アイデアの実現への」相談で、後は「やるか/やらないか」の問題であると結んでしまった。朝の『あまちゃん』に重ねるならば、「できるか/できないか」を自問する方には「やるか/やらないか」という問いへの姿勢を明確にしていただだかないと、企画書の精度が上がるだけで、そこに綴られた世界が現実のものとはならないのだ。

目の前に見ているものを他人事にしていては、物事を動かし出来事を起こすことはできない。価値を創出する際には、自他のあいだで価値の調整に時間と労力を割かなければならないのだ。ささやかだが、これから2年半かけて、そうした取り組みを4人の教員と3人の研究協力者と共に、東北で行っていく決意を固めている。無論、それと並行して、近くの被害にどう向き合うか、何を「する/しない」の判断は、9月18日の昼、なされる見込みである。

2013年9月16日月曜日

ASAPで

台風18号は、日本列島の各地に大きな爪跡を残した。とりわけ、今、住まいを置いている関西、そして京都にも甚大な被害をもたらした。その全容は時が経つにつれて明らかとなっていくことであろう。にしても、早朝に家へと吹き付けた強風と、激しさを増していく豪雨の音は、並の力ではないことを強烈に実感させられるものであった。

京都市内では晴れ間さえ見えてきた午後、久しぶりに安斎育郎先生と面会する機会を得た。安斎先生とは、私が学部生の頃、世界大学生平和サミットや、その後の社会活動で大変お世話になった。時を経て今、災害復興支援室に関わる教員として、立命館大学国際平和ミュージアムの名誉館長で、国際関係学部の名誉教授、そして放射線防護学を専門とする研究者にお目にかかるというのは、何とも感慨ひとしおである。そう、今日は、この間、安斎先生らが取り組んで来られた福島への支援活動の広がりをいかにもたらすか、という案件で、立命館大学国際平和ミュージアムの担当でもあり、立命館災害復興支援室にも設立当初から関わる社会連携部の次長と共に、「安斎科学・平和事務所」にお邪魔したのである。

安斎先生と言えば、澱みのないおしゃべりはもとより、そこに時としてマジックを織り交ぜることでの意表を突いた展開、さらには克明なデータに基づく説得力ある論理構成を敬愛してやまない。今日もまた、事務所にお伺いするなり、まずは東京電力福島第一原子力発電所の廃炉への政府予測の見通しの甘さ、続いて廃炉への労働力を確保の困難さと「原発労働」における六重・七重に及ぶ「搾取構造」の根深さ、そしてメルトスルーした状態での汚染水漏れの深刻さ、さらには今このときも地元に帰ることが保証されぬまま仮設での暮らしを余儀なくされている15万人の方々の切実さ、それらの解説をいただいた。それに続き、安斎先生から、放射能汚染の中で暮らしている200万人の福島県民をいかに支えるかについて考え、取り組んできたことについて説明をいただいた。中でも、ポニー工業が開発した「ホットスポットファインダ−」を用いて、2013年5月から、福島市内の保育園などに対して、園児・保育者・保護者に対する放射線量率分布の測定に取り組んで来られた結果と提言(例えば、室内でのみ保育を重ね続けていると、結果として「転ぶ」という経験を持たず、ちょっとした転倒など些細な怪我で頻繁に骨折してしまう、といったことなど)は、原子力に関する「スペシャリスト」ならぬ「ジェネラリスト」(安斎育郎『原発と環境』復刻版のまえがき、iiページより)でいらっしゃることを、ありありと感じる実践であった。

安斎先生によれば、放射線による被害は、医学的影響(これは身体的影響と遺伝的影響に分かれ、さらにそれぞれに対して確定的影響と確率的影響とに細分化されるという)、いのちを落としたり寿命を縮めたりする心理的影響、そして風評被害といった社会的影響の3つがもたらされるという。安斎先生は中でも測定結果をもとに、どうすれば地域に溶け込んで暮らしていくことができるかの解説や講演や個別指導を行いつつ、再除染が必要とされる場所を明らかにする活動を行って来られた。今回は、その取り組みを継続、発展させていくためには、どのような手立てがあるのかを探ると共に、汚染してしまった以上、どのようにして低レベル放射線のある状態に向き合っていくのか(例えば、研究機関の整備、技術者の養成、博物館の設置、海洋生物や気圏動物の監視)、また風力や太陽光などによる発電の拠点化など、多岐にわたる意見交換を行わせていただいた。ちなみに安斎科学・平和事務所の英語名称「Anzai Science & Peace Office」は略称が「ASAP」であり、ここにもas soon as possibleとの掛詞という洒落を垣間見るのだが、はからずも今、できる限り早く、しかしあせらずに、この問題に取り組んでいく着実なチームづくりが求められて

2013年9月15日日曜日

5年間のときを経て開く箱

父の古希を祝うために宿泊した「浜名湖かんざんじ荘」で迎えた朝は、私たちの結婚から5年を迎えた記念の日でもあった。前日の天気予報では台風の接近が懸念されたのだが、結果として傘は不要で、周辺の散策をすることになった。朝食をいただいて、チェックアウトの後、まず向かったのは宿のすぐ向かいにある「浜名湖オルゴールミュージアム」であった。オルゴールという名前が掲げられているものの、実際は「バンジョー・オーケストラ」などを含む、70台ほどの「自動演奏楽器」の博物館で、スタッフの方による25分ほどの澱みのないプレゼンテーションは、なかなか興味深いものであった。

その後、大草山を後にして向かったのは、まさに舘山寺の名前の由来となった「舘山(たてやま)」であり、「舘山」と名付けられた島一帯を境内地とする「曹洞宗秋葉山舘山寺」を参詣した。父も母も、そして子も、「舘山寺(界隈)」には何度も赴いているものの、「舘山寺(というお寺)」まで足を運ぶのは初めてであった。意外なことに、舘山寺は弘法大師が直接開いたお寺とされ、建立時に自ら刻んだという石像も遺されていた。また、明治に入って一旦、廃寺となったものの、檀家に寄らず、旅の方を迎え入れる供養と祈願のお寺として、現在まで営みを重ねてきているとのことである。

そうして舘山寺へのお参りの後、浜松まで来たので、ということで、鰻をいただいてから帰ることにした。舘山寺の方面まで来たので、気賀の「清水屋」さんに行こうか、と母が提案したものの、弟夫妻の都合で、浜松市内方面が好ましいということになり、下江の「鰻昇亭」へと向かうことにした。いつもは天竜の「納涼亭」を好むため、鰻昇亭は8年ぶりくらいに訪ねることになったのだと思う。かねてからの鰻の高騰、また観光客の迎え入れなども重なってか、以前の店構えに感じたような「張り」が今ひとつなかったように思うが、ひつまぶし風のセットと、「えびサラダ」を楽しませていただいた。

その後は浜松駅まで父の運転で送ってもらい、徐々に台風の訪れを感じる空のもと、新幹線で西へと向かった。乗り継ぎがよく、浜松駅で降ろしてもらってから、1時間半あまりで京都の家に着いてしまった。実家に無事の到着と、小雨が降り始めたことを電話で伝えた後、結婚5年を迎えた日に行うべし、と約束をした、結婚式の来場者の方々が5年後の私たちに宛てたメッセージ集が収められたボックスを開くことにした。当時在職していた同志社大学大学院総合政策科学研究科のソーシャル・イノベーション研究コースの院生の皆さんが企画したものなのだが、なんとも、5年の月日の「重さ」を見つめ直す、貴重なきっかけをいただくことができた。

2013年9月14日土曜日

区切りの祝い

父の古希の祝いのため、妻とともに実家に帰省した。ただ、母の計らいで、祝いの席が舘山寺温泉に設けられたため、磐田ではなく、浜松への旅、である。こどもの頃から舘山寺方面には遊びに行ったことがあるものの、お酒を飲むようになって家族で出かけるのは初めてである。1泊2日の短い滞在だが、一生に一度の祝いの席を、6月に結婚した弟夫妻も含め、3夫婦で祝う機会となった。

駅まで迎えに来てくれた父に、勘の鋭い妻はすぐに気づいた。決して長くはない道のりであり、自分たちの足でなんとかなる距離であっても、せっかくの配慮をありがたく受けとめての迎えである。ただ、今回の出迎えの場面では、改めて父も古希を迎える年になったのだな、と感慨深い思いを抱いた。その一方で、いつまで経っても、子は子である。

宿は大草山山頂の「浜名湖かんざんじ荘」だ。昭和の響きがこだまする「国民宿舎」として開業されたものの、バブル華やかな頃に建て替えられ、平成の時代に入ってサブプライムローン問題からリーマンショックへと導かれる頃に、遠州鉄道グループが指定管理者となって運営を引き継いでいる宿である。にしても、立地は抜群で、到着するなり、全国唯一の湖上ロープウェイに乗り、さらに「フラワーパーク港」へと向かって、サンセットクルーズを楽しんだ。弟夫妻はお嫁さんの仕事の都合があったもようで、クルーズの後、夕食から参加した。

部屋食でも、小部屋でもなく、レストランでの夕食であったため、なかなか区切りの年を祝うモード、という感じを醸し出しにくかったのが残念だが、3夫婦、転じて3ヶ所で暮らす3家庭が、一つの家族としてつながりを確認する、貴重な時間であったように思う。それでも、お酒の強い・弱い、社会派な話題を好む・好まないなど、それぞれの個性が出た夕食であった。ちなみに家族で宿泊を伴う夕食をいただくのは、父の還暦のお祝いが最後だったように思うので、かれこれ10年近く前になる。そのときにはそれなりに深酒をし、皆でカラオケを楽しんだりしたのだが、時を経て、今回は風呂上がりにマッサージチェアに並んで、それぞれに100円を入れ、無言のまま日々の疲れを癒すという、なんとも、年を重ねたからこそ違和感のない、そんな風景を共にすることになった。

2013年9月13日金曜日

課題は解決しようにもできないもの?

「課題解決」ということばをよく目にするようになった。もっぱら「ソーシャル系」と括ることができる、そうした動きに対して、よく用いられている気がする。ただ、この表現は今に始まったものではなく、少なくとも、阪神・淡路大震災の後、「コミュニティ・ビジネス」(この表現も「・(なかぐろ)」を入れるか入れないかで流派が分かるという、なかなかの謂われがある用語であるが、ここでは立ち入らない)が注目される頃、よく目にした。それまで、いわゆる理系に属し、特に環境システム工学という学問に身を置いてた者としては「問題解決」ということばに馴染みがあり、解決のためには問題を発見し、対処し、そのまま放置せずに解決を図る、と言われてきたため、当時、指導をいただいていた大阪大学の渥美公秀先生の運転で茨木の駅へと向かう車中で何気なく問いかけたところ、「課題解決という表現はおかしい」と仰った。

「課題は解決する対象ではない」というのが、渥美公秀先生による「一旦、英語に変換してみる」という論理的思考を経た指摘であった。つまり、課題(subject)は解決する(solve)ものではない、ということである。それこそ、解決する対象(object)に対して、解決策(solutuon)を導き出す必要がある、という論理なのだ。この「英語への変換」に合点がいったため、この思考パターンによる概念への接近の妙について、同志社大学大学院総合政策科学研究科による紀要に投稿した。(「ソーシャル・イノベーション研究におけるフィールドワークの視座:グループ・ダイナミックスの観点から」『同志社政策科学研究』9(1), 1-21,2007年)

それから5年あまり、本日の打合せで「課題解決」が連発した。立命館大学サービスラーニングセンターで起用している学生スタッフ、「学生コーディネーター」との打合せの際、後期の体制についての議論において、である。考えに考えての使用ではなく、何気なく用いていることがわかったので、改めて表現にこだわることが、物事の核心に迫ることに繋がる、と、注意を促した。つまり、課題として浮上した観点を掘り下げていくことで、具体的な問題を抽出し、それらへの対応策を考えて適切に対処を始め、そして継続的な営みを重ねて、課題が立ち現れた状況と、問題を生じさせた構造を変えていく、そうした実践への関心を高めることを狙いとした。

振り返ると、私が学生だった頃は、たやすく「検索エンジン」で検索して、何かが見つかったわけではない。「検索エンジンにはディレクトリ型とロボット型とあって…」という具合に、そもそもシステム自体の理解をした上で、その道具をどう使うかを考えていた。極端に言えば、手のひらの中で広い世界と繋がってしまうという狭い世界を生きているのが今なのかもしれない。はてさて、そうした時代に、いかにして課題の根を辿っていくという問題解決思考を身につけてもらえるか、それこそ課題である。

2013年9月12日木曜日

ただ、何かをするということ。

幼少の頃、好きだったテレビ番組の一つに「8時だョ!全員集合」があるのだが、なんだか今日は、あの番組のように、コーナーとコーナーのあいだが目まぐるしく変化する、そんな一日を應典院で過ごした。まずは應典院の月例の会議が行われた。そして程なく、来客対応、それが終わって應典院寺町倶楽部のニュースレターの編集会議、さらには新聞者の取材対応、という具合である。ちなみに日が落ちてからは、應典院の近くに歯医者に行く、という具合で、「全員集合」の前半コントの終わりに流れる曲(盆回り)が脳内をこだまする、そんな一日であった。

ただ、今日だけでなく、当面の印象に残るだろうと感じるのが、午前の終わりにお越しになったお客さんのことである。彼は2010年1月の「コモンズフェスタ」に訪れ、そのときに開催されていた「ことばくよう」という、阪神・淡路大震災から15年を迎えて行った企画に参加していた。建築と写真が好きで、当時にして一定の水準のカメラを持参して、あちこちを撮影していたこともあり、よく覚えていた。その後も月1回発行している應典院のメールニュースを購読を重ねてくださったというが、あれから3年あまりのときを経て、私に「お説教をしてほしい」というメールが届いたのであった。

秋田光彦住職も、著書『葬式をしない寺』にて、イベント開催時以外の應典院が持つ「場所の力」に触れている(例えば、第三章の冒頭で紹介されている「ここにいていいでしょうか」で記された挿話が、その端緒である)。今日、彼の往訪への衝動は、まさに應典院の「場所の力」が受け入れたのだと思う。震災から15年の折に行った應典院による「ことば」を扱った取り組みで、彼は「他人の思いを引き取らねばならないという緊張感で、手が震えた」という。建築としての應典院に惹かれて訪れた空間で、人の死と生に向き合う時間を過ごした彼は、その後、成果主義の職場にて、自己否定の感覚に責めさいなまれ続けたのだが、改めて、かつて思いを寄せた空間と、その空間で過ごした時間に思いを馳せ、しんどい思いを携えつつ、足が向くことになったのだろう。

専門機関への相談ではなく、お寺に説教を求めてやってきた彼と、まずは住職と共にお話をして、その後1時間ほど、対面で語り合った後、應典院近くのカレー屋さんに向かった。ふと「電話相談」の話になり、「言葉になるときには、もう解決しているんですよね」とつぶやいた。傾聴がactive listeningという英語で表現され、そうした姿勢が相談には重要と、私もいくつかの場面にそう語ってきたが、「ただ聴く」そして「ただ傍にいる」という「ただ」の行為(とりわけ浄土宗では、「ただ一向に念仏すべし」という、法然上人のご遺訓)は、存外難しい。夕方の取材で、アーツカウンシルについて「鏡の前に立たされた表現者たち」という比喩表現を用いたのだが、「する」ことが求められる世の中にあって、消極的に「させられた」という感覚に浸り続けるのではなく、積極的に「しない」という選択肢を取ることの大切さを、岐阜から足を運んでくれた彼と「場所の力」に、改めて気づかせていただいた気がしている。

2013年9月6日金曜日

移動の効率と旅の情緒と


京都市のソーシャルビジネス支援事業による、島根県大田市、大森にある「中村ブレイス」へのスタディーツアーで、ゲストハウス「ゆずりは」に宿を得た。これは中村ブレイスの中村俊郎社長が手がけた40番目の地域再生拠点であるという。中村ブレイスでは、医療用コルセットや義肢・義足・義手等の義肢装具を手がける中、「ビビファイ」という商品名で知られる人工乳房もつくっている。このゲストハウスは、特にオーダーメイドでの人工乳房を求める方に、工房へ滞在した折、ゆったりとした時間を過ごしていただくため、2012年11月に新築された。

ただ、昼からの会議に出席しなければならなかっため、朝食を慌ただしくいただいた後、そそくさと京都へと戻った。ちなみに朝食は、昨日の懇親会の会場ともなった「咄々庵」で頂戴した。 ここは、徳川幕府の成立により、天領地となった後に代官所へ仕えていた地役人の武家屋敷であり、界隈で唯一現存することもあってか、国指定の史跡とされている。なお、「ゆずりは」も、「咄々庵」も、中村ブレイスから石見銀山株式会社に運営が委託されている。

石見銀山から京都に向かう旅程は、なかなか悩ましい。いや、これは京都に限ったことではないかもしれない。実際、昨日は、京都産業大学の大室悦賀先生が随行し、講師の役割を果たすはずが、前日からの大雨も重なって、東京からの移動が叶わず、不参加となった。私もまた、JR大田市駅からの鉄道ルート、あるいは出雲空港(出雲縁結び空港という愛称が付せられている)からの航空ルートなど、いくつか検討した結果、1日2本ある広島行きの高速バスで向かうことにした。

7時54分に大森バス停を出た高速バスは、途中、8時頃に世界遺産センターを、8時半頃に島根県立島根中央高校(ここは全国から生徒を募集し、入学後1年を経てコースを決定するという総合選択制をとるという、興味深い取り組みを行っているようである)に最寄りの川本合同庁舎前を通過し、道の駅瑞穂に置かれた田所バス停で休憩の後、予定より少し遅れて10時30分を過ぎたところで、広島駅新幹線口に到着した。約2時間半のバスに対して、「のぞみ」での1時間38分の乗車で京都に辿り着く。13時からは立命館災害復興支援室の事務局会議だったのだが、朝の段階で島根にいたという感覚は、どこか遠くに追いやられてしまう。移動の効率ばかりを追い求めてしまいがちだが、旅の情緒を楽しむことができる余裕を持ちたいものである。

2013年9月5日木曜日

中村俊郎さんが支える「中村ブレイス」


かねてより興味を寄せていた「中村ブレイス」さんにお伺いすることができた。京都市による「ソーシャルビジネス支援事業」の一環で位置づけられたスタディーツアーに参加したためである。このツアーは、先般、立命館大学の講義「地域参加学習入門」に、京都市役所から商業振興課の仲筋裕則係長をお招きした折に学生たちに紹介くださったものなのだが、他ならぬ私が最も関心を示した。なぜなら遡ること1998年、私がTwitterなどのアカウント名に用いている「NPOスクール」と名付けられたプロジェクトにて、その総合コーディネーターを務めた中村正先生が、ボランティア活動は人を幸せにできるのか、といった問いを投げかけた折の議論の題材として、中村ブレイスによる人工乳房づくりの話をされたためである。ちょうど、ビートたけしさんのエッセイ「ボランティア亡国論」とあいまって、今でこそ浸透した「ビジネスを通じた支援」のあり方に迫る端緒として、強烈な印象を憶えたのであった。

よって、朝から貸切バスにて島根県は大田市、大森を目指した。この事業は事務局がASTEM(京都高度技術研究所)を務めているということもあり、大学コンソーシアム京都の在職中にお世話になった方と再会する機会にもなった。ただ、京都から島根は遠く、朝7時半に京都駅八条口を出たバスは、何度かの休憩を経て、14時頃に中村ブレイスに到着となった。道中では、中村ブレイスが紹介された「カンブリア宮殿」(2008年8月11日放送)と、中村ブレイスの創立30周年記念として制作された映画『アイ・ラブ・ピース』が流され、いい予習の時間となった。

中村ブレイス、転じて中村俊郎社長の軌跡は、2011年に上梓された『コンビニのない町の義肢メーカーに届く感謝の手紙:誰かのために働くということ』(日本文芸社、2011年)に詳しい。今日は、そのご著書をはじめ、多くのお土産をいただきつつ、明治36年に建てられた旧松江銀行の本店を移築・改装した「なかむら館」にて、社長からじっくりお話を伺った。ご自身の地元(石見銀山を擁する大森のまち)への思いは文字や写真から伺い知ることができるであろうが、実際、現場にお伺いしてこそわかるのは「人との出会い」を通じて「いただいた希望のことば」をもとに、「皆さんから期待をされること」を大切にされていることである。製品づくりでは「一人の人が喜ぶベストを尽くす」厳しい指導者として若手を育て、そしてまちづくりでは「育ててくれたまちが夢もないまちにならないように」と一銭も公費をもらわらずにリノベーション等を進めてこられた。

「ブレイス(brace)」とは「支える」という意味だ。40年前の創業時、叔父の要望に応えて造ったコルセットに満足してもらえたからこそ広がりが生まれたことが原体験となっている中村社長にとって、採算ベースに乗せるためにデータから迫るのではなく、自分にしかできないことをして喜ばれることしてきた生き方・働き方は、結果として「欲がないと思われるかもしれないが、欲はある」という表現に収斂されるのだろう(要するに、経済的な欲ではなく、社会的・文化的な欲がある、という意味だと理解している)。中村ブレイスの社是は「Think」である。社員の方々(特に、寺岡さん、大森さん)との触れあいと、中村社長にご招待いただくかたちとなった夜の懇親会などを通じて、人の喜びを導き出すために考え抜くことが、支え、支えられる関係、そして押しつけではない支え合う関係をもたらすのだと、ささやかな興奮と共に眠りにつくこととなった。

2013年9月4日水曜日

自律と連帯は表裏一体である(という)

今日は朝から「言えない会議」をある場所で行っていた。あるまちの、ある施設の指定管理者を選定する、という会議である。こちらは透明性よりも公正性を重視し、選定の後に議会で可決されるまで、委員の名前等も含めて非公開とされているのである。少なくとも、あるまちのある施設の指定管理者に就いていることをここに記しつつ、小泉内閣の時代に生まれたこの制度が、競争的環境のもと経済的な合理性を徹底的に追求していくことが「いい行政」なのではない、という主義を抱きながら選定にあたっていく決意を固め(なおしてみ)ることとしたい。

9月に入って雨が続いているが、今日の関西は、格別の豪雨に見舞われたように思う。今日は應典院にて9月25日から行われる写真展の下見が入っていたのだが、遠方から来られる皆様には足元の悪い、あいにくの環境となった。ちなみに展示する写真を撮られた方は、御年92歳である。今回は1984から1993年までに撮影された西トルキスタン、インド、ネパール、マチャプチャレ、アラスカ北極圏、アンナプルナ、サハラ砂漠、ラダック、エベレスト、ビスターリ、インカ、チチカカ湖、ギアナ高地、東アフリカの風景、30点あまりが展示されるとのことだ。

雨となって残念だったのは、夕方から、cocoroomの上田假奈代さんによる、釜ヶ崎界隈のまち歩きが行われるためであった。よって、傘をお供に歩くこととなった。これは大阪ガスのエネルギー・文化研究所の弘本由香里さんが主管しておられる、上町台地コミュニティ・デザイン論研究会の活動の一環で、同志社大学の新川達郎先生、京都大学の高田光雄先生、京都精華大学の筒井洋一先生らと共に、多様な視点からまちを見つめた。かつては200軒ほどあったドヤが80軒ほどになり、高度経済成長を支えた方々の「終の棲家」化となる中で、「サポーティブハウス」として性格づけがなされてきたこと、その一方で地域での暮らし方が施策に翻弄されること、加えて事業者も「多様なパートナーと共に支える」場合と「自社の系列の事業者で囲い込む」場合とのあいだで支援の透明性が左右されること、など、風景の中に身を置きながら、それぞれの日常生活の背景を解いていただくことで、一人ひとりの人生を支えることとの難しさに改めて直面する機会となった。

その後は、地下鉄動物園前駅から、大阪ガスビルに向かい、長らく神戸で地域力、市民力、場所力を重視したまちづくりを進めてきた小林郁雄さんを招いて、お話を伺った。今回お話をいただいた内容は、近刊の『地域を元気にする 実践!コミュニティデザイン』にその大要が収められるとのことだが、水谷頴介さんを師と仰ぐ方々の「自律と連帯」の強さを、「まち住区」というキーワードをもとに展開された各種の実践から、深く感じ取るところであった。ちなみに、小林さんによれば、「自律というのは、ネットワークして始めて自律に意味がある」のであり、「自律していないものをネットワークしても、有象無象が集まっているだけ」であるため、「それぞれがちゃんとしているから連帯する必要があるし、連帯して意味があるのはそれぞれが自律しているから」「自律と連帯は同じ概念を表と裏から語っているだけ」とのことである。終了後の懇親会でも、最近の乱立する「ワークショップ」に対して「町医者に予防接種ばかりさせて小銭稼ぎをさせているのでは?」と、なかなか辛辣な指摘をされるなど、阪神・淡路大震災のずっと前から地域に根差してきた方ゆえの、まちづくりの「同音異義」を紐解く貴重な場をご一緒させていただいた。

2013年9月3日火曜日

比喩でずらす「レベル」と「クオリティ」

2日連続で、朝から立命館大学衣笠キャンパスにある個人研究室へと向かった。昨日は一日はもとより一ヶ月かけても終わらないであろう書類の整理をひたすらに、今日は10月からの研究プロジェクトを進めていく上での顔合わせのためである。ちなみに昨日は、午後から学生たちとの打合せで、終わり次第にビアガーデンへと向かう予定だったが、あいにくの雨のため、大学近くの非チェーン店、クレジットカード不可なお店でいただいた。舌が肥えたのか、あるいは料理の経験が重ねられたためか、学生時代に通った頃に受けた印象とは異なり、ちょっとだけ残念な思いを抱いてしまった。

夕方からは、学生の頃、立ち上げに参画した、きょうとNPOセンターのプロジェクト会議に向かった。1998年の設立だから、かれこれ15年の関わりになる。今、動いているプロジェクトは、一言で言えば機構改革のプロジェクトだ。組織の「設立趣旨(mandate)」と果たすべき「使命(mission)」とを対比させていく中で、市民活動支援と地域づくりの「二歩先」を見通すのが目的である。そういう意味では、第一世代の我々が常務理事として関わり続けていることそのものを見つめ直さなければならないのかもしれない。

比喩を素材として博士論文を仕上げたこともあって、私の語りには、頻繁に比喩が織り込まれる。比喩を盛り込むことは、単なる例え話、あるいは余談ではなく、概念をずらすことによって、新たな発見をもたらしたいという願いを込めることを意味している。今日であれば、事業のレベル(到達すべき水準)とクオリティ(判定される品質)との相関関係について、自動車を比喩として用いた。具体的には、ハイレベルな仕事というのは「ハイクラス」と置き換えることができ(馴染みのあるトヨタ車で言えば、カローラではなくクラウン)、ハイクオリティな仕事とは「ハイグレード」と置き換えることができ(同じく馴染みのあるトヨタ車で言えば、デラックスではなくロイヤルサルーン)」などである。

比喩を通じて概念が拡張されることについては、ケネス・ガーゲンによる『もう一つの社会心理学』に詳しいが、用いた比喩にまつわる世界(杉万俊夫先生の表現にならうなら「集合体」)に馴染みがなければ、「ずらし」は成立しない。そう、「ずらす」という言葉を引き合いに出すなら、私が比喩を用いてしていることは、長年にわたって床の上に比較的重いタンスや本棚などの家具が置かれたとき(これは、畳や無垢のフローリングの床を想像していただきたいが、カーペット等でも同じような現象は起こるだろうが)、その家具をちょっとずらすと、色が違っていたり、型が遺っていたりする、その場に立ち会うことに似ている。要するに、漫然とそのまま置かれてきたものに手をかけることによって、一定の時間の経過のなかで遺された痕跡を見つめて、その次にどうしたらいいかを考えていく、そんな場と機会を生みたいのである。ちなみに、今日の「レベル」と「クオリティ」の話は、さらにマークIIやカムリといったミドルクラスの車種、さらにはプリウスのようなハイブリッドカーなども登場して、「エポックメイキングなソリューションとパッケージ」という視点から、社会システムを論じていく、という壮大な物語があるのだが、はてさて、これが「ずらし」(shift)として成立するか、あるいは単なる「まどわせ(puzzle)」に留まっているのか、次の会議までのあいだの反応を見ていくこととしよう。

2013年9月2日月曜日

フィクションによるリアリティの喚起


NHKによる朝の「連続テレビ小説」『あまちゃん』の世界の話で、2011年3月11日を迎えた。2008年の夏からの物語が、23週目の133話目で迎えた「その日」である。普段は「週あま」あるいは「録あま」な私も、先週土曜日の終わり方が気になり、「早あま」をした。ちなみに「早あま」とはBSプレミアムで7時半から始まる放送を見ること、「週あま」は同じくBSプレミアムで土曜日の朝9時半から一気見すること、「録あま」とは文字通り録画して観ることで、その他にも総合テレビでの8時からの本放送を観る「本あま」や12時35分からの「昼あま」、さらにはBSプレミアムでの23時からの「夜あま」という呼び名もある。

『あまちゃん』については、かねてより宮藤官九郎さんの脚本、大友友英さんらによる音楽、そして井上剛さらんらによる演出、それぞれに高評が寄せられているが、今日の放送は、震災を扱う作品の中でも、伝説に残るものの1つになると確信した。それは、「地震」の後の世界に生き、実際に「震災」の只中を生きている私たちに、とてつもないリアリティを呼び起こすものとなっていたためである。実際の映像(例えば、NHKの鉾井喬カメラマンが捉えた名取川河口付近から遡上する津波のニュース映像など)は用いられず、津波の映像が流れていると思われるテレビを食い入るように見ている人々、そして(架空の)北三陸観光協会に設置されていたジオラマでの表現(被害状況の再現)などにより、「あの日」が伝えられた。テレビだが静止画を多用し、音楽といよりも音を大事にした構成がなされることで、冒頭に流れる軽快な番組テーマから覚える印象が際立つため、それが小さな救いをもたらしているような気もした。

ちなみに大友さんと井上さんという組み合わせは、後に映画化された『その街のこども』にも見られる。こちらの作品は2010年1月17日の23時から、当日の朝に催された「東遊園地」での追悼のつどいの様子も盛り込まれ、阪神・淡路大震災から15年を迎える前日とその日の様子を、関西に暮らした経験のある2人の役者(森山未來さん、佐藤江梨子さん)を中心に描いたドラマである。『その街のこども』では、冒頭の「時報」の音(ちなみに、5時46分ちょうどを迎える「ポーン」の音が鳴らない、というものだが、実際の地震は5時46分52秒に起きている)が、当時への思いを駆り立てる演出として、私の涙を誘った。今回は、ジオラマに重なる、青いガラスかアクリルが、津波被害への記憶をわしづかみにした。

転じて、リアルな素材よりも、フィクション(つまり、ドラマ)の世界にリアリティを感じるというという構図は、「フィールドノーツ」よりも「エスノグラフィー」が重要とされる、フィールドワーク(この文脈においてアクションリサーチと置き換える方がよいだろう)にも通じるはずだ。例えば、テープ起こしによる「トランスクリプト」はリアルな語りを文字化したものだが、それを適切に編集(つまり、加筆・修正)することによってリアリティが高まるという具合である。その昔、名古屋の「レスキューストックヤード」によってまとめられた『いのちを守る智恵:減災に挑む30 の風景』の意義について、ハナムラチカヒロさんとお話した際に、「知恵を伝承する上では、フィクションとノンフィクションが巧妙に混ざり合う」と伺ったことをよく憶えている。はてさて、ノンフィクションとフィクションに対する、リアルとリアリティの違い、これを考える題材を、15分で2011年3月11日の14時46分前後から20時8分まで進められた今日の『あまちゃん』は提供した。

2013年9月1日日曜日

災害研究を巡る視点:生き残ったものの罪と恥/めざす・すごす・のこす


2013年9月1日は、関東大震災から90年にあたる。そんな日に、立命館大学衣笠キャンパスで開催された、日本質的心理学会第10回大会の会員企画シンポジウム「ポスト3.11震災社会の現在・未来:今から私たちがなすべきことは?」を聴講した。企画者は茨城大学人文学部の伊藤哲司先生、京都大学防災研究所の矢守克也先生、熊本大学教育学部の八ッ塚一郎先生であった。伊藤先生は存じ上げないものの、矢守先生と八ッ塚先生は、日本グループ・ダイナミックス学会で長らくご一緒させていただている上、私の師である渥美先生と共に、杉万俊夫先生のもとで、阪神・淡路大震災から積極的にアクションリサーチをされているので、大きな期待と共に参加させていただいた。ちなみにシンポジウムは3名の話題提供のもと、伊藤先生、八ッ塚先生、矢守先生の順にコメントが寄せられ、3つのグループに分かれて意見交換の後、全体で意見交換をする、という流れで進められた。

茨城大学の伊藤先生は、「東日本大震災は現在進行形の問題」と、議論に含みを置いた。それを受けたところもあるかもしれないが、八ッ塚先生は吉村昭さんが『関東大震災』『三陸大津波』など、一人の作家が一定の時間をかけて監修することによって、はじめて〜であり、「〜すべき」といった断定的な表現はふさわしくなく、だからといって沈黙するのも適切ではなかろう、と、緻密な議論へと牽制した。これに呼応するかの如く、矢守先生は「東日本大震災の○○学」と「○○学の東日本大震災」との標記の違いに、前者には出来事に対する外在的な姿勢を、後者には出来事に対する内在的な責任を見て取れると、学問分野の違いに注意を向けた。こうして、ここに生きる人々の、東日本大震災という現在進行形の問題への問いを掘り下げていく議論への準備がなされたのである。

私は、話題提供者の一人である、京都光華女子大学の鮫島輝美さんと、八ッ塚先生とのグループに入り、「アクションの主体をリサーチの対象化とすること」について掘り下げていくことにした。ちょうど、鮫島さんが、パトリシア・アンダーウッドさんによる「サイバイバー・ギルト(罪)」と「サバイバーズ・シェイム(恥)」の対比を紹介したためでもある。また、私もまた、2011年3月25日の、大阪大学卒業式・学位授与式での鷲田清一先生の式辞は、何度も引用しているが、その中にある「生き延びた」ではなく「生き残った」という感覚に見られる、「被災しなかったこと、あるいはそれがごく少なかったことへの申し訳のなさのようなもの」、すなわち偶有性を伴う罪悪感について、引っかかりがあったためだ。このことはまた、改めて論じてみることにするが、10人ほどのグループでの議論を通じて、何か(それこそ、鷲田先生の仰る「隔たり」)を感じたとき、まずは行為を「する/しない」で峻別され、その結果において「できた/できなかった」の判定がなされるとき、罪と恥のいずれかが去来するのではないか、と考えた。

阪神・淡路大震災から5年を経て出版された『ボランティアの知』に感銘を受け、渥美公秀先生のもとで学んだ私は、震災を研究する際には「リサーチとなるかどうかにかかわらずアクションを進める」ことが重要という感覚が浸み渡っている。この点を踏まえつつ、今日のシンポジウムでは、「アクションがリサーチになった」と言える指標として、八ッ塚先生が触れた、「セザンヌの色彩感」(modelではなくmodulate、つまり「写す」のではなく「転調」するということ)が参考になると、妙に腑に落ちた。ちなみにこのコメントに続いて、矢守先生は「フランス革命」を引き合いに出し、「アクションが出来事の一部になる可能性」(バスティーユ牢獄に向かった一人ひとりにとっては革命の担い手になったという自覚はなく、ちょうど、吉村昭さんのような仕事により、後にトータルに特色づけられるということ)を指摘した。渥美先生のもとで学び、今は災害研究の分野で一番弟子と言えるであろう宮本匠くんは、「めざす」復興と「すごす」復興とのあいだで、研究者の向き合うモードが違うと指摘するが、私はそこに加えて、何を「のこす」のかという観点を加え、研究では文字を遺さないといけない中でも、現場では約束を遺すことの大切さを、今後も掘り下げていくこととしたい。

2013年8月31日土曜日

こどもとアートと秩序

昨日、8月30日から應典院では「キッズ・ミート・アート」という催しが開催されている。大阪の城南女子短期大学の主催により、應典院の本寺である大蓮寺と、大蓮寺によって設置されたパドマ幼稚園との連携で企画・運営された事業である。文字通り、こどもたちがアートに出会う機会を生むというもので、10名の作家さんらの参加で、多彩な場が生み出された。2日間で200名を超える参加者を得た。

今回の企画・運営にあたっては、私は前線に立たず、2名のスタッフと3名のインターンが核となった。ただ、企画の当初、あるいは要所では、少しだけ関わらせていただいた。そのときに論点となったのは「主体性」についての考え方である。よい出会いのためには、誰が何を決定するのがいいのか、選択肢はどのように提示されるのがよいのか、といった。私は一貫して「申し込む」という行為自体が、よい出会いを疎外しないか、と問いかけることにした。

約4ヶ月にわたって準備がなされた上で本番を迎え、そのプログラムの最後に用意されたのが「ART MEET US」というトークセッションであった。実は「キッズ・ミート・アート」という催事名を含め、「ART」か「ARTS」かで、小さな論争を重ねた。ただ、こうして言葉にこだわってしまう私は、トークセッションを終え、特に「即興楽団UDje( ) 」のナカガワエリさん、そしてトークのゲストに迎えた山本高之さんの語りを通じて、「言葉に整理すること」に潜む暴力性を見つめることになった。要は「そんなつもり」ではなくても、誰かの促しによって「そうなってしまう」ことの隔たりに、ある種の緊張感を持たねばならない、ということである。


トークの中で、秋田光彦住職が「秩序」という視点を織り交ぜた。アートはある種の秩序を壊す、といった意味だったと思われるが、表現「させる」ことによる秩序では、相互の関係は極めてもろく、そして、抑圧的である。経済学者・シュンペーターが用いた「創造的破壊(Creative Deconstruction)」の大切は、膠着した状況下で新陳代謝が必要だ、という具合に、生命メタファーを用いて説明がなされるところであるが、強靱なリーダーシップや強烈なインパクトによってもたらされる秩序は、集団内での凝集性が希薄なゆえに、生み出された瞬間から減衰もしくは崩壊への一途を辿りそうだ。転じて、時に変化0の時間をも維持しながら、相互作用によって変化を続けていく即興表現に、他者を尊重した秩序の生成と発展を見た、そんな1日であった。

2013年8月15日木曜日

西陣での地蔵盆

カレンダー通りの仕事、という表現も、あまり聞かなくなってきたかもしれない。悪く言えば、行事などに左右されない働き方である。役所仕事、などと言えば、もっと聞こえが悪くなるだろう。ともあれ、妻は束の間の夏休みがあけ、今日から仕事に向かった。

昨日、静岡から帰ってくる道すがら気になったのが、今、住んでいる界隈で、地蔵盆の支度がなされいたことであった。何の注釈もなく地蔵盆という言葉を用いることができるのは、既に静岡で過ごした時間よりも、関西で暮らす時間が長くなったことのあらわれかもしれない。それはさておき、特に関西に限ったことではないようだが、この間暮らしてきた京都や大阪では、8月の下旬の風物詩として、よく目にしてきた風景の一つである。特に、8年間過ごした上京区の京町家では、大家さんのガレージが会場とされたこともあって、よくよく、馴染みがあった。

地蔵盆は、その名のとおり、地蔵菩薩の縁日である24日に行われる「地蔵会」がもととなっている。ただ、こうした縁日の取り扱いにあたっては、新暦と旧暦のあいだで、開催日の決定に揺れが生じる。そうした中、旧暦の7月24日が新暦のお盆だから地蔵盆、として位置づけられると見るのが妥当なようである。ただ、そうして「盆」という名前でつなげられた「地蔵盆」も、地蔵菩薩の縁日が24日ということに(いい意味で)引きずられて、8月24日の前後の土日を中心に開催される、というのが、上京区で暮らしていた折の、私の理解である。

ただ、この4月から居としている京都市北区の住まいでは、慣例として8月15日になされてきたようなのだ。以前、今の家で暮らしていた方から聞くところによると、西陣の織屋さんが多いまちのため、あまり多くの休みを取らないよう、お盆と地蔵盆を同じ時期に開催することにした、という。すっかり、子どもも減り、機音も希となってきたまちであるが、やはり、まちに歴史有り、である。そろそろ、このまちにも、きちんと関わっていかねば、と思う、そんなお盆の一日であった。

2013年8月14日水曜日

地元に帰ってみて

1泊2日の地元暮らしを終えて、京都に戻ってきた。今回は妻の地元だけの滞在で、私の地元には9月に戻る予定である。ただ、今回は父親の古希を祝う会が催されるため、実家に滞在する時間は少ないと思われる。ちょっと変わった帰省になりそうだ。

ともあれ、今日は朝から漁港に向かい、賑わいの中に身を置いた。お盆の時期だからなのか、お盆の時期だけど、なのか、いずれか定かではないが、お昼前から周辺の道路は車でごった返していた。ご多分に漏れず、新鮮な食材と、威勢のいい呼び込みが、食欲を誘った。そして、一通り、雰囲気を味わった上で、いよいよ海の幸を味わうことにした。

いやはや、常にこうした食材に恵まれている地元はいいな、と、つくづく思った。無論、飛躍的に物流システムが進化している今、何軒かお店を回れば、どのまちでも、ある程度の食材が手に入るかもしれない。しかし、旬のものを、なじみの店で買う、ということは、本当に贅沢なことである。実際、同じようなエピソードを「美味しんぼ」から挙げようと思えば、枚挙にいとまがないだろう。

漁港からの帰りに、落ち着いた店構えの珈琲屋さんに立ち寄った。1988年からあるという、豆挽きハンドドリップ珈琲と手作り菓子のお店である。振り返れば、妻が小学生の頃からあった店だが、伺うのは始めてだったとのこと。まだまだ、地域に根ざしている多くのお店がある、そんな地元へのまなざしを向けていかねば、などと思いながら、1時間半あまりの新幹線の車中で、再びコーヒーを飲むのであった。

2013年8月13日火曜日

地元に帰ってみる

NHKの朝の連続テレビ小説「あまちゃん」が人気である。第1話から見ているわけではないが、すっかり私も虜である。これは「ゲゲゲの女房」のときもそうだった。いつしか、次が気になって仕方がなくなっているのだ。

劇中では「地元に帰ろう」という曲が歌われている。詳しく書くと2万字を超えてしまいそうだが、GMT5というグループの曲である。このグループは、当初は47都道府県を代表するアイドルを集めて、ユニットをつくっていく、という「GMT47」という構想があったことをもとにしている。それが紆余曲折を経て、GMT6で活動を始め、シングルをリリースする際にはGMT5となった。想像のとおり、GMTは地元(GiMoTo)を意味している。

そうした歌が劇中で流れている今、今日は地元に帰ってみた。ただ、地元と言っても、私の実家ではなく、妻の実家である。都道府県で言えば、同じ静岡出身であるため、地元と言っても差し支えなかろう。わずかな時間の滞在でも、喜んでくれる親が有り難く、しかし、申し訳なく思う。

帰省にあたって、お昼の時間にあわせて列車を選び、駅につくなり、そのまま家族と合流して、お店へと向かった。向かった先は「伊豆の国市」の「ミス高原バーベキュー」である。昔ながらのお店で、妻によれば、幼少の頃から皆で通った場所とのことで、昔ながらの情緒が残ったところで、炭火で焼く鶏が大変美味であった。その後、「韮山反射炉」にも立ち寄ったのだが、地元という感覚に十分に浸りながらも、逆に地元に暮らす人たちは、地元を離れた人々が地元を楽しむ場所をどう楽しんでいるのか、などをふと思う、そんな帰省の初日であった。


2013年8月12日月曜日

「孫子の兵法に学ぶ…」に学ぶ

昨年、「孫子の兵法」をモチーフに、就職活動に関する本を書いたらどうだ、という提案をいただいた。鳥取県智頭町で地域経営の仕組みづくりに携わって来た寺谷篤さん(現在は「篤志」と名乗っておられる)からの投げかけである。就職活動をめぐる学生たちの悲喜こもごもに触れる中で、今一度、働くとは、生きるとは、生き抜くとは何かということを問いかけてはどうか、という提案であった。そのため、守屋洋さんによる『孫子の兵法がわかる本』も頂戴し、3回ほどお目に掛かって項目を整理し、既に「あとがき」まで書いてあるのだが、肝心の本文に着手できぬまま、今に至っている。

そんな中、今日、東北からのバスで戻った後、午後から運転免許の更新に出かけたところ、講習で用いられた映像のタイトルが「孫子の兵法に学ぶ安全運転への道」というもので、大変興味深く視聴することができた。この手の映像は、運転者に対して、いきおい「こういうことになるぞ」とばかり脅すような構成とされることが多いように思う。しかし、この作品は「彼を知り、己を知れば、百戦危うからず」という要旨をもとに、事故が招かれる「自分の特徴」と「相手の特徴」を紐解く、という趣向であった。タクシー会社の協力を得て収集したドライブレコーダーの映像を用いて、講談師の方が「いったい何故こんなことが起きてしまうのか!」という決めぜりふのもと事故が起きる原因を知る、という構成に関心が向いた。

25分の物語を通じて、「人馬一体で馬を操った」ことに引きつけ、「車を操るも人を操るもこれ人なり」と前置きをし、「車を凶器に変えないために己を知る」そして、「死角に注意」し「思い込みは事故を招く」ことを踏まえ「相手の特徴を知る」ことの大切さが説かれた。また、多発傾向のある事故における相手の特徴としては、「一時停止しない自転車」、「バイクは遠くに見える」、「子どもは動く赤信号」など、具体的な例が取り上げられた。無論、自分に迫り来る危険を全て予測することは困難であるから、「いつ何時も余裕を持って運転する」ことの大切も説かれた。そして、物語は「おごりの心が油断を招き自滅を招く」と、「常に平常心で」運転するように、とまとめられる。

なかなか秀逸な構成であったと思う。そもそも、孫子の兵法は、自分たちで「会議をすること」と相手と「比較検討をすること」が重要であることを訴えた書である。そして、比較検討の際には、道(方法論)・天(現場の変化)・地(現場の変化)・将(リーダーの力量)・法(規則など統治システム)の「五事」に対して、7つの観点(七計)から勝算を判断していくという。運転が勝ち負けではない、という論理的な批判もできそうだが、こと、就職活動は、しばらく前には就職「戦線」などと言われてきた。このところの、アルバイトがTwitterに「武勇伝」のような画像を投稿して、極めて倫理観の低い行動を晒していることを思えば、「心しだいで車は凶器」となるというこの「孫子の兵法に学ぶ 安全運転への道」を手がかりとしながら、「孫子の兵法に学ぶ よい仕事への道」が書けそうな気がしてきた。

2013年8月11日日曜日

感謝の重ね合わせ

台湾・淡江大学と立命館大学による学術交流フォーラム「TRACE2013」も、昨日のクロージングダイアログとフェアウェルパーティーを無事終えたことで、本日のエクスカーションを残すのみとなった。エクスカーションというと大層に聞こえるが、要するに、観光である。淡江チームが16時15分出発予定の仙台空港発の直行便で台北に戻るため、朝7時半にホテルを出発し、松島へと向かうことにした。今日もまた、学生たちの主導による企画なので、我々スタッフは、その流れに乗るばかりである。

松島へはJRで出かけた。2泊させていただいたホテルのご厚意で、立命チームの荷物は夜まで預かっていただくこととなった。淡江チームは松島海岸駅から仙台駅経由でそのまま仙台空港アクセス線で空港へと向かうため、改札内のロッカーに預けることにした。集合時間に10分ほど遅れた学生もいたのだが、荷物の段取りが順調に進みそうで、喜んだのも束の間、仙石線の宮城野原駅付近で発生した人身事故により、運転を見合わせているとのアナウンスが構内には流れていた。ただ、朝6時代の事故から2時間弱で運転再開となり、ホームに着くと程なく入線してきた列車で、松島海岸駅へと向かうことができた。

松島では、金銭面での配慮もあってか遊覧船には乗らず、伊達政宗ゆかりの観瀾亭から景色を眺め、拝観料に含まれている松島博物館の展示を見て、五大堂をお参りし、瑞巌寺の境内を散策して、円通院へと足を運んだ。途中、地元アイドルらしき集団に出会い、観瀾亭から遊覧船乗り場を経由して五大堂までは、奇しくも同じ道筋をたどった。後で調べると、「みちのく仙台ORI☆姫隊」というユニットだそうだが、何とも、その立ち居振るまい(正確には、立ち居振る舞わせられ)に釈然とせず、「震災復興支援アイドルユニット」としてのプロデュースのされ方に、いささか疑問を覚えてしまった。その一方、円通院でガイドをされている色川晴夫さん(後で調べたところ、松島町議会の議員でいらっしゃるとが判明)は、台湾から来たメンバーがいることがわかると、説明を差し置いて、支援への感謝を述べられ、また別の季節に伺い、お目にかかりたいと感じた。

昼食は円通院のお隣、洗心庵さんでいただいた。後に携帯電話を置き忘れたことを、松島空港にて気づくことになるのだが、淡江チームと立命チームが一緒に食事をいただく最後の機会ということもあり、仙台名物の牛たん定食をつつきながら、楽しい時間を送ったようだった。そして仙台空港で涙の別れとお見送りをした後、学生チームとスタッフは分かれて、20時発の夜行バス出発までの時間を過ごすことにした。ちなみに我々スタッフは仙台駅3階の北辰鮨 さんで立ち食いのお寿司をいただいて、少々お茶をして、19時15分のホテル集合に、心地よい気分で戻ったのであった。

2013年8月10日土曜日

5行16列に並んだ振り返りシートと共に

台湾・淡江大学と立命館大学との学術交流プログラム「TRACE2013」も7日目を迎え、いよいよ「クロージングダイアログ」が開催される日になった。4日のオープニングレクチャー以来、どのような学びを重ねてきたのかを振り返り、今後に向けての誓いを立てる、そんな場を設けたのである。会場は2013年1月に、全国アートNPOフォーラムin東北の会場となった、ほっぷの森Aiホールである。その名は、障害のある人の就労支援に取り組む「ほっぷの森」と、バリアフリーのアートプロジェクトを展開する「アート・インクルージョン」と、両団体に由来するところであり、明るい壁と整った音響設備が、充実した議論を行うのに最適だろうと、無理を言って使わせていただいたのだ。

3月に淡江大学で開催されたフォーラムに端を発した今回のフォーラムゆえ、私は企画段階から携わってきたが、常に選択肢を広げる立場を貫き、むしろ決して意思決定を主導しないよう努めてきた。ややもすると、それが一部のメンバーにとっては「わかりにくい」、「面倒くさい」といった印象を与えたかもしれない。しかし、選ぶことよりも選び抜くことが難しく、選び抜くことよりも考え抜くことが難しく、考え抜くことよりも(ただ)感じることが大切なときがある、そうしたことが実感されるためには、必要な姿勢であると、阪神・淡路大震災の経験から感じ、東日本大震災においても考えてきた。しかし、まったく干渉をしない放任型ではなく、必要に応じて干渉する信任型のため、時と場と機会によっては、唐突に干渉されたと小さな反発や反動を受けとめなければならないときがある。

今回のフォーラムでは、その学びの質を維持、発展させていくため、5日のプログラム以降、学生たちが用意してきた「振り返り用のツール(ジャーナルと呼ばれていた)」に加えて、1日ずつA4版の白紙1枚をつかって、「印象に残った言葉」と「印象に残った風景」を遺していくこととした。振り返りというと軽く感じる人たちがいるかもしれないが、サービスラーニングという教育手法において「reflection」とは、「reciprocity」(互恵)と並んで、鍵とされる概念である。今日は、そうして5日から1日ずつ、1枚の紙に2つの要素がまとめられた紙が、かつて卓球台として使われてきた木のボードに、5行(8月5日から9日まで)16列(16人分)で掲げられ、それぞれの振り返りシートを鏡のようにして、自らの感覚とを対峙させていった。

今日はクロージングダイアログの名のとおり、学術交流のフォーラム(すなわち、場)を閉じるにあたり、上述のとおり、リフレクションシートの共有を、日々の写真から作成したスライドショーとあわせて行った後、活動を通じて得た思いを小グループに分かれて共有する「シェアリング」、復興に向けて今何ができるかの「グループ・ディスカッション」、復興に向けて今何ができるかの「個人総括」を行った後、立命館災害復興支援室の担当部長である今村正治さんと、アート・インクルージョンの理事である村上タカシさんからコメントをいただいた。今村部長からは、「伊勢神宮の式年遷宮」を引き合いに出し、永遠に残すことを前提にせずに何かをつくる営みの尊さを思う反面で、永遠に耐えられるものをつくろうとする営みの愚かさを憂う、良い意味での批判的な側面が盛り込まれたのに対し、村上さんは被災後の仙台を見つめ、仙台に関わってきた者の実感として、復興の営みとは「短距離走でも、マラソンでもなく、駅伝のようなもの」な気がすると語った。ダイアログ終了後は、せんだい・みやぎNPOセンターの紅邑晶子さんに紹介いただいた野菜中心のレストラン「パンフレーテ」さんでフェアウェルパーティーとなったのだが、そこで盛り込まれた数々のサプライズに、参加学生らが何らかのたすきを受け取って、次の世代、別の場所へと一歩を踏み出していったのだろうと確信しつつ、心地よい酔いに包まれる仙台の夜であった。

2013年8月9日金曜日

福島からの/へのパスポート

台湾・淡江大学と立命館大学との学術交流プログラム「TRACE2013」も9日で6日目となった。今日は気仙沼の「唐桑御殿つなかん」の名残惜しく出発した後、仙台バスの運転手、栗村さんの機転で、一関から東北自動車道経由ではなく、南三陸から一般道を経由して向かうこととなった。そのため、津波到来の直前まで防災無線で避難を呼びかけたことで知られる遠藤美希さんらが亡くなった、南三陸町の防災対策庁舎と、南三陸さんさん商店街に立ち寄ることとなった。ちょうど、防災対策庁舎の前では手を合わせて深々と礼拝をしている少年の姿が目に留まったのだが、以前立ち寄ったのは2013年1月の風景と異なり、吉川由美さんらENVISIによる「福幸きりこ祭」の後も残されてきた金属製の巨大きりこの一部が撤去されており、「地震と津波の前の風景」と、「地震と津波の後の風景」と、そして「地震と津波の後に地震と津波の前を思ってもたらされた風景」と、時間の経過を風景から感じ取った。

途中、南三陸にて、涙を浮かべつつ、改めて悲しみに浸った学生たちは、東北学院大学をお借りして開催する公開勉強会「震災による原発事故で福島が抱えた問題と経験から学ぶ」に向かった。実は、この「TRACE2013」は、3月8日に淡江大学で開催された学生フォーラム「震災復興と東アジアを担う若者の使命」を受けて、東北でのフィールドワークを盛り込んだプログラムを実施しようという運びとなったため、いわゆる被災3県の各所にて、それぞれの地域の課題を見つめることを構想していた。そのため、今回の企画では、4月から5月においては、今日は福島県のいわき市等での仮設住宅での交流活動を行う予定であった。しかしながら、両大学のやりとりを重ねる中で、全体の旅程の調整から、福島行きを止め、立命館大学も参加している「大学間連携災害ボランティアネットワーク」を取りまとめている、東北学院大学の協力を得て、福島からゲストを招いた場を設けることとした。

今日は福島から、学生たちと同世代と言える若者3人を招いた。話題提供の順に鎌田千瑛美さん(peach heart共同代表)、佐藤健太さん(一般社団法人ふくしま会議理事)、そして安達隆裕さん(一般社団法人福島復興ソーラー・アグリ体験交流の会)である。鎌田さんには「『自分らしく生きる』本音で話せる場づくりを」と題してお話いただき、そこに佐藤さんが写真と統計等を用いて「地震と津波と事故」の前と後とで何が変わったのかを紹介いただいた。休憩の後に、安達さんから「私の目に映るふくしま」と題して話題提供をいただいた後、4グループに分かれてディスカッションを行うこととした。

今日伺った3人のお話は、このところ立命館災害復興支援室のfacebookページで広報協力をした福島大学によるプログラムへのコメントに対して、言いようのないもどかしさを覚えていた私に、「する」ことよりも「いる」ことの大切さ、「目標達成」よりも「継続実施」の重要さを、改めて問いかけてきたように思う。「直後から絶えず問われた『選択』」の中を生きてきた鎌田さん、海洋汚染のデータを目にして「魚にはパスポートがない」と広範囲への影響を指摘した佐藤さん、そして「原発からの距離、という線量を無視した区切りによる分断」に静かな怒りを表明する安達さん、それぞれの言葉をどう自分事して受けとめられるか、自らが試されている。終了後、今回は13人の学生が参加した懇親会を佐藤さんと共に行い、さらに学生時代からの仲間である桜井(政成)くんも合流し、日本酒バーへと繰り出したが、「外遊びが出来ない、海で泳げない」こどもたちに「当たり前を提供する」ことで、保護者たちが「私たち自身ものびのびすることができた」と紹介した安達くんの言葉を振り返りつつ、「当たり前」と思える時間を共にしながら、その場に関わる人が「のびのびすることができた」と思える、そんな場づくりに取り組んでいきたいと、ささやかな決意を固めた夜であった。

2013年8月8日木曜日

内で結び、外に開く


淡江大学と立命館大学との学術交流プログラム「TRACE2013」も8日で5日目となった。今日は大船渡の立根公民館の掃除に始まった。ただ、全員で掃除する前に、早起きした者だけ、約1週間にわたって立根公民館に拠点を置いていた、立命館大学による大船渡での2つの夏祭りの後方支援スタッフ派遣プログラム「チーム大船渡2013」の見送りを行った。こちらの便はサービスラーニングセンターの坂田謙司先生を中心に、学生オフィスが主管となって展開されたものである。

畳の上で寝袋にて休み、畳の間での振り返りを行うなど、これまでの日々とは異なった雰囲気の中で時間を過ごした学生たちは、一路、陸前高田へと向かった。昔ながらの醤油や味噌づくりに取り組んできた八木澤商店の河野通洋社長から、産業面での復興過程についてお話を伺うためである。そうした流れになることを道中でfacebookに投稿したところ、仙台で若者らの地域参加や社会活動の支援に取り組む渡辺一馬さんから、「会長と話すと涙が出てきて、社長と話すと笑いたくなります」とコメントをいただいた。6月に河野会長と膝をつきあわせてお話させていただいたときには、「異常なくらいポジティブであった」当時を振り返って、「あんまり頭、良すぎると、全部ネガティブに考えて、ドツボに入る」し「ネガティブに考えたら自殺しか考えない」と仰ったくだりに胸が熱くなったが、今回は河野社長による震災後も震災前からの地域内でのつながりを大切にしてきた背景として「選択肢のある人生が一番豊か」という投げかけが胸に響いた。

陸前高田は八木澤商店でのレクチャーとお買い物、そしてバスの車窓から「軌跡の一本松」を眺めるに留まったが、それも急ぎ足で気仙沼に向かわねばならなかったためである。河野社長のお話と質疑応答、またお買い物が長くなったことも重なって、気仙沼の斉吉商店さんには約30分遅れて到着したが、斉藤純夫社長や斉藤啓志郎さんをはじめ、お店の皆さんに歓待をいただいた。ここでは食事の後、斉藤社長に加えて、台湾に留学されていたアンカーコーヒー&フルセイルコーヒーの小野寺紀子さんと共に、私たちからの質問に応えるかたちで意見交換が進められた。残念ながら学生たちから積極的な問いかけはなされたなかったものの、「遠洋漁業のまちとして、常に外を向いている」ゆえの、開かれた雰囲気の中で、これまで訪れてきたまちの風土との比較を行うことができた。

2時間ほどを斉吉商店さんで過ごした後、バスは今夜の宿、盛屋水産による「唐桑御殿つなかん」へと向かった。底抜けに明るい菅野一代さんに、途中のセブンイレブンまでお迎えをいただいて、到着して程なく、一代さんからのお話と、夫の和亨さんによる乗船体験、そして順番に風呂に入り、夕食と交流会と続いた。つなかん、斉吉商店、八木澤商店など、今日、お世話になった皆さんは、「気仙沼のほぼ日」の皆さんとのご縁でつながった方々であり、同時に、それぞれに、もともとはアーティストのCD制作のための資金調達を支援するサービスに取り組んでいたミュージックセキュリティーズ株式会社による「セキュリテ被災地応援ファンド」にも参画しているという共通点がある。(八木澤商店ファンド斉吉商店ファンドアンカーコーヒーファンド盛屋水産つなぎ牡蠣ファンドなど、募集が終了しているものが多いが、八木澤商店しょうゆ醸造ファンドなど募集中のものもあるし、単発の支援としての【買って応援 「セキュリテセット」】 などもある。)地域内で結びあわされ、地域外に開かれた雰囲気に、なんとも言えない魅力を覚えている気仙沼なのだが、今回、夜の交流会にて、和亨さんの口からこぼれた「あいつ(一代)も相当無理している」「ありがとうって簡単に言わないほうがいいよ」という言葉が気になって仕方なく、また何度か足を運びながら、「あのときのあのことば」を掘り下げてみたいと思った一夜であった。

2013年8月7日水曜日

自助と公助のあいだ

台湾・淡江大学と立命館大学の学術交流フォーラム「TRACE2013」も4日目となった。今日は宮古から大船渡にやってきた。大船渡は立命館大学と2012年4月に復興に向けた協定が締結されたまちでもある。よって、この期間、キャンパスアジアプログラム、夏祭りの運営支援、そして私たちのグループと、3つが関わっている。宿泊拠点も地域の方のご厚意で、公民館に泊まらせていただいており、畳の上で寝袋が並ぶ、という風景が、大船渡で活動する立命館のグループでは大抵見られることとなる。

朝8時半に宮古を出たバスは、9時40分頃に旧大槌町役場に立ち寄った。辺りを見渡すと、草の伸びた土地が広がっている中、3時18分で止まったままの時計が玄関ホールの上に掲げられたままの建物が、人々の言葉を奪い、悲しみを駆り立てる。朝に宮古の魚菜市場に行ったものの、水曜定休のため、新鮮な海の幸をいただくことができなかった、などといった俗な思いは、遠くに追いやられる。続いてトイレをお借りするのに、旧・大槌小学校を改修した新・大槌町役場にお邪魔したところ、2代目ビリケンさんが大阪からやってきていた。(ちなみに、震災の後、大槌町の4つの小学校に通う児童たちは一つの仮設校舎で一同に学んできたが、2013年3月に、4つの小学校が正式に統合され、名称は同じでも新しい大槌小学校となり、引き続き仮設校舎で学んでいる。)

そして向かったのが、大船渡市役所である。ここでは、炭釜秀一さん(企画調整課係長、鈴木宏延さん(防災管理室係長)、山口浩雅さん(復興政策課係長)の3名から、大船渡市における復興計画の策定経過についてお話を伺った。学生からは、「避難所運営の難しさ」について、「集団移転に対する住民の反応」、「計画策定に対する市民参加の範囲」、「防災教育の内容」などについて相次いで質問が投げかけられた。最後、炭釜さんから学生への期待として、まず「未来に向かって人生を歩む中で、大きな災害があったことを忘れないで欲しい」(つまり、人・財産、思い出、多くのものを喪ったまちであるということ)、次に「色んな手立てでボランティアをするときには、軽い気持ちで来て欲しくない」(つまり、自己満足、自己完結して、一度限りで終わらせる人たちが多いということ)、そして「物心両面での支援や備えを受けてきたが、いつ、どこで、どんな災害が起こるかわからないので、特に心構えの備えをして欲しい」(つまり、今は支援をする側かもしれないが、いつ何時、支援される側となるかはわからないということ)が伝えられた。

夜には盛町で開催されている灯ろう七夕まつりに出向いた。ここでは立命館の赤いビブスをつけた学生たちがお祭りの支援をしており、その様子を垣間見ることとなった。そして夜には、今回の参加メンバーの一人が大船渡生まれということもあり、彼の叔父にあたる方からの差し入れをいただきながら、立命館大学の卒業生で大船渡市の商業観光課に勤務する平野桃子さんと懇談をした。今日の一日を通じて、「自助」と「公助」のあいだにある「共助」の存在の大切さに迫ったように思っている。

2013年8月6日火曜日

地域参加と機会損失


台湾・淡江大学と立命館大学との学術交流プログラム「TRACE2013」3日目、今日は宮古市内の2つの場所で学生らによる企画が行われた。台湾の伝統デザート「愛玉」ゼリーづくりと、死者への弔いなどに用いられる「天燈」飾りづくりを行う、というものである。ゼリーづくりというと手間がかかりそうだが、愛玉という亜熱帯植物の種を水の中で手もみするだけで成分がにじみ出て、その後は常温で置いておくことで、固まっていく、というものである。「天燈」は、言わば「飛び上がる走馬燈」のようなもので、ちょうど熱気球のように気化熱を用いて、小さな紙風船のようなものに思いを綴り、中には油をしみこませた紙を入れ、火をつけることで天に上昇するものだ。

今回は、鍬ヶ崎蛸ノ浜にある集会所「ODENSE2」と、中央通商店街の「おでんせプラザ」の2箇所で、この企画を実施した。ODENSE2での開催には、立命館災害復興支援室による後方支援スタッフ派遣プログラム第7便の参加者による継続活動団体「R7」のメンバーも合流した。ODENSE2とは、立命館大学理工学部の宗本晋作先生が中心となって建築したものであり、同じく震災後に宗本先生らによって宮古市の重茂地区に立てられた簡易集会所ODENSE(1とは言われていない)の工法やデザインモチーフが用いられている。ちなみに「おでんせ」とは「おいでください」という敬語表現の方言であり、多くの方に集って欲しいという願いを見て取ることができる。お昼前からの雨も重なって、人の出入りはあまり多くなく、ODENSE2で20名ほど、おでんせプラザで5名ほどの参加者を得て、無事に企画は終了した。

終了後は、宗本先生を含め、鍬ヶ崎のまちづくり協議会の皆さんのお招きで、懇談会に出席させていただき、石井布紀子さんと久々の再開をするという貴重な時間を送ることができた。ちなみにこの懇談会は、末広町商店街の「つくし」で開催されたのだが、この参加費が「2,000円+飲み代」と案内したところ、「いくらかかるか不安なので参加しない」という学生が続出した。今回、立命館大学生が10名、淡江大学生が6名参加しているが、出席したのは立命館大学の2名だけである。「人数は直前でも構わない」と仰っていただいていたものの、結果として料理を30人前ご用意いただいていたことを現場で知り、かつてのドラマ「スクール☆ウォーズ」の元となった、京都市立伏見工業高校ラグビー部の逸話として、部員が試合をボイコットし、監督が相手チームに謝罪するシーン(プロジェクトXにて再現されている)を想い起こした。

機会損失という言葉がある。その名からも想像できるように、ある資源を投入しないことによって何らかの結果や成果や波及効果を得る機会を喪失してしまい、再度、そうした機会を創出しようとしても、膨大なコストがかかる、ということを示唆する概念である。ちなみに昨日の夜は、ファミリーレストランに向かう学生たちをよそに、1945年に開店し、東日本大震災により休業、2012年1月に移転の後に再開した喫茶「たかしち」さんでいただき、今日の昼はODENSE2の建設の際にも学生たちに便宜を図っていただいたという鍬ヶ崎の「魚正」さんにお邪魔した。それぞれにマスターや大将と呼ばれる方々の「主」としての姿は、結果として「客」の側に迎え撃つ上での心構えが求められるような気もするが、復興について触れるならば、やはり、まちの担い手である一人ひとりに誠実でありたいと願うところである。

2013年8月5日月曜日

守られるいのちと、守るいのち


台湾・淡江大学と立命館大学との学術交流フォーラム「TRACE2013」の2日目は、仙台から岩手県の宮古まで移動した。東北自動車道で盛岡まで向かい、国道106号線をとる。今回、お世話になっている仙台バスの運転手、栗村さんによると「ずいぶん道がよくなった」そうだ。栗村さんが宮古に向かったのは10年以上前とのことだが、震災後の復旧もあいまって、そんな印象を覚えたという。

今日は宮古と言っても、目的地は田老である。宮古であって宮古でない、と言うのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも、2005年3月までは、田老は下閉伊郡田老町であって、宮古市ではなかった。今日は、あるいは今日も、立命館災害復興支援室のプログラムで宮古に入るにあたっては、最初に田老を訪れる。それは宮古観光協会が実施する「学ぶ防災」に参加するためだ。

『美味しんぼ』108巻にも、震災後の田老の様子は描かれているが、震災前の田老は、「万里の長城」という異名も付けられた、X状のスーパー堤防と、標語「津波てんでんこ」が継承されていく原点のまちとして、よく知られていた。X型の堤防は、昭和8年の三陸大津波の後、地理的・財政的・産業的な側面から断念した高台移転の代替案として、昭和9年(1934)から昭和33年(1958年)にかけてつくられたことを端緒としている。24年かけて造られた1350mに及ぶ防潮堤の完成後、後に第2防潮堤と呼ばれる582mの防潮堤が、北に向かって「逆くの字型」となった第1防潮堤の北東に、昭和37年(1962年)から昭和41年(1966年)に造られ、さらに第1防潮堤に対して南東方向に、501mにわたる第3の防潮堤が昭和48年(1973年)から昭和53年(1978年)につくられた。こうした構造物に加えて、碁盤の目のように区画整理されたまちの四つ角に「隅み切り」と呼ばれる切り込みを入れるなど、いわゆるインフラ整備で「いのちは守られるもの」のではなく、人の力が及ばない津波からは逃げることで「いのちは守るもの」という文化が根付いていった。

「学ぶ防災」のプログラムは、5人のガイドの方によって展開されているというが、今日、ご案内をいただいた澤口強さんも、また、何度かお話を伺っている元田久美子さんも、(当然のことなのだが)人々の知恵の大切さを説く。例えば、田老第一中学校の用務員さんが、高さ10mの防潮堤の向こうに見えた水柱を見た瞬間に「ここではダメだ、直ぐに赤沼山に逃げろ」と判断したこと、などだ。なお、個人的な印象だが、何度かガイドの方の案内を伺う中で、ネガティブな語り(例えば、第1防潮堤と第3防潮堤は津波対策のために国土交通省の河川局が管轄し、第2防潮堤は高潮対策のために水産庁の管轄したが、そうした管理主体や施工方法等の違いによってもたらされたこと、など)を織り交ぜた情緒的な語りは減り、一定の「型」に落ち着いてきたように思う。ともあれ、「学ぶ防災」のプログラムの最後は、たろう観光ホテルの6階の客室で、当時、予約されていたお客さんを待ちながら、到来する津波の様子を映像で記録していた松本勇毅社長からお話を伺ったのだが、映像に遺された「はやくにげでー、津波、きったよー」と呼びかけた、ホテルの向かいに住んでおられたおばあちゃんが「今も、行方不明」と仰ったことに、逃げるということは自分のいのちを守る方法であると共に、自分のことを思ってくれる人を助ける方法であることを、改めて痛感したところである。

2013年8月4日日曜日

弱さと行動力

11時間、バスに揺られて仙台にやってきた。バスで訪れるときには近鉄バス「フォレスト号」が多かったのだが、今回はいわゆる「高速ツアーバス」から移行されたと見受けられる便であった。ともかく、制度上は8月1日から「高速ツアーバス」は廃止され、新たな「高速乗合バス」の基準のもとで運行されているため、安全上の問題は払拭されているのだろうが、快適さという点においては、上記の「フォレスト号」とは比較にならない。なぜなら、通常の観光バスと同じく4列シートで、トイレ設備がない車両のため、運転手が交代をする2時間ごとに車内灯が全点灯し、トイレ休憩の時間が取られたためである。(その一方で、トイレ設備がある車両であれば、逐次、用を足すことができることもあって、運転手交代時には乗客の乗降のために扉は開閉されず、室内灯を全点灯させる必要もない)。

ともかく、そうしてやってきた今日の仙台は、11日までの滞在の1日目でしかない。3月にお邪魔した台湾・淡江大学と立命館大学による学術交流フォーラム「TRACE 2013(Tamkang and Ritsumeikan University Academic Conference and Exchange Program 2013)」の随行のためだ。4日は仙台、5日と6日は岩手県宮古市、7日は岩手県大船渡市、8日は岩手県陸前高田市と宮城県気仙沼、9日と10日は仙台、そして11日に再び夜行バスに乗り、12日の朝に京都に戻る、という旅程である。今日はバス到着後、エバー航空の直行便で台北から仙台に入る淡江大学の学生とスタッフさんをお迎えし、仙台市内でセミナーとウェルカムパーティーが行われた。

台湾の皆さんを迎えるまでのあいだ、フリータイムとなったので、せんだい・みやぎNPOセンターにお邪魔した。ちょうど、同じビルの4階から7階へと引っ越し作業をしている只中という、多忙を究める中でお伺いしたのには理由がある。それは、2年前に亡くなられた加藤哲夫さんが、生前に記されたポストイットが見つかった、という知らせを、加藤さんから代表理事を引き継がれた紅邑晶子さんよりいただいたためである。あのやさしい、独特な字で「京都の山口くんがお坊さんになりました!! ジャ〜ン!」と記された75mm角の黄色のポストイットをいただきつつ、紅邑さんとはランチもご一緒させていただいて、加藤さんが生前好んだイタリアンのお店で、「仕事の向き不向き」や「組織の始め方と仕舞い方」や「地元への思い」などについて語り合うという、贅沢な時間を過ごさせていただいた。

そして16時からは、東北学院大学ボランティアステーションの其田雅美さんのお取りはからいで、東北学院大学と淡江大学・立命館大学との合同セミナーを開催させていただいた。私は「復興と支援のダイナミックス ~ 遠隔地から駆けつけることで紡いだ実践知」と題してお話をさせていただいたが、このたび、ボランティアステーションの所長になられた東北学院大学の郭基煥先生の「バルネラビリティー(人の弱さ)とコスモポリタン(定住をめぐる行動感覚)」についてのお話は、既刊の『震災学』第1号に綴られた内容を掘り下げていくものとして、大変興味深いものであった。郭先生の「知れば知ろうとする程分からないことが増加する、それが被災地でのパラドックス」、「最期の声への想像力を持つことが大事」、「現地に駆けつける支援者は皆、死者を救えなかった<遅刻者>だが、それが断罪されるためには被災された方への安易な理解を避ける必要がある」、「防災とは現実を直視して生を目的にした営みだが、復興とは(逆に)死から始まり死者からの視線に耐える営みである」、「災害ユートピアは東日本大震災に限って生じる現象だが、post 3.11の生き方とは公共問題への関わりを高めることだろう」、「(台湾からの皆さんを迎えているためにあえて言うならば、と前置きした上で)東アジアのバルネラビリティーは、村上春樹の言う『二日酔い状態』にあることで、『安酒で酔っぱらっているかのように、国家・国民のプライドを誇っていることではないか」といった問題提起が胸にこだましつつ、学生たちの創意工夫と趣向に充ちたパーティーを終え、この文章を綴っている次第である。

2013年8月3日土曜日

「間」と「業」

明日からの東北行きを前に、昨日、居間に新品のエアコンを付けることしした。不在にする1週間のあいだ、妻が熱中症になってしまうのではないか、と気に掛けたことが事の発端である。猛暑日が続いたこの夏、工事をお願いする電気屋さんも忙しいようで、針の穴に糸を通すようなスケジュールの中、なんとか出発に間に合うこととなった。今更の対応に「間の抜けた」こと、あるいは「間が悪い」と批判を受けそうだが、社会心理学の一分野として位置づけられている「グループ・ダイナミックス」を専門にしていることもあって、「あいだ」や「ま」について、高い関心を向けている私である。

「間」が抜け、悪かったかもしれないが、てきぱきとエアコンを設置していく業者さんの業には感服した。先の参議院選挙に対して、内田樹さんは「効率とスピードを求めた結果」と指摘したが、「効率」と「段取り」の違い、そして「スピード」と「レスポンス」は互いに似て非なるものがあるだろう、。その名も『あいだ』なる著作がある木村敏さんによれば、個々の実践や行為(これを「ノエシス」という)は、実は実践や行為の対象となるものの前後の動きを見はからって(つまり、タイミングを見て)直感的になされ、そうした相互の関係(ノエシスどうしの関係性)によって環境の中での全体構造(これを「ノエマ」という)が構築されていく、と述べている。これに習えば、効率が良く、速いスピードで物事に対応するのは一見「ノエマ的」だが、実は、個々の現象は単独では存立しえず、互いが認識可能な関係と認識困難な(つまりは背後にある)関係の性質(これを関係性と呼ぶのだろう)が冷静かつ大胆に調整され(つまり、ノエシスが起こり)、人が環境の構成要素の「間」で生き抜いている(ノエマが現れる)。

実は、昨今の「スキル」重視、別の言い方をすれば「○○力」珍重には、どうも馴染めない。それは(上記でネチネチ、悶々と記したとおり)本来、互いの関わりを通じて、環境の中で関係が調整されていくはずの事柄を、個々の力量、個々の思考に解体して決着をつけていくことを妥当としていると思われるからである。理屈の話をしているので、理屈っぽい書き方になってしまっているのは自覚しているが、要するに、「間の抜けた」ことや「間の悪い」ことをしている人には、「間が抜けていますよ」や「間が悪いですよ」とは言えないものの、関係の問題を力量の問題として受けとめてしまう人には、「あなたは間が抜けている」や「あなたは間が悪い」というように、「あなた」を責めるような言動を行わなければならなくなってしまうことが困るのだ。端的に言えば、関係の中で最適解を導かねばならないとき、個人で正解を探り当てるような思考パターンにはまってしまうと、そこには他者からの呼びかけが雑音として受けとめられかねない、ということに憂慮を重ねている。

だからこそ、「スキル(能力)」よりも「ノーム(規範)」、「マインド(精神)」よりも「ソウル(魂)」を大切にして欲しいと、多くの場面で語っている。明日から1週間ほど東北に行くのだが、そこで直面する(そして、今、直面しなければならないであろう問いのために直面している多くの問いも含めて)、現代社会に覆い被さっている大きな問いは、安易な理解こそが解決を困難にさせていく。個々が「業(ぎょう)」を磨くよりも、個々が「業(ごう)」を引き受けることが必要なのかもしれない。人間関係にモヤモヤしながら、文字をネチネチと綴って、小さな不安を抱えながら、立命館災害復興支援室の業務での東北行きへの準備を重ね、夜行バスで彼の地へ向かうのである。

2013年8月2日金曜日

祈りでも、叫びでもない、告白としての詩

例年、お盆の時期は、應典院の本寺「浄土宗大蓮寺」で開催される「詩の学校特別編」で迎えている。「それから」と題して掲げられるこの催しは、今年で12回目という。これは、毎月1回、水曜日の夜に、應典院の研修室Bにて開催されている上田假奈代さんによるワークショップの一環である。そして、この時期だけは、変則日程で開催されるのだ。

まず、18時半から大蓮寺の本堂で、秋田光彦住職による法要と法話が行われ、続いて大蓮寺の墓地にて詩作と朗読が行われる。雨の場合は、大蓮寺の墓地が應典院の「気づきの広場」から見渡せることもあって、應典院にて開催されるのだが、私が應典院に着任した2006年以降は、雨にあたったのは1回限りで、後は墓地で言葉が紡がれてきたように思う。ともあれ、墓石のあいだに蝋燭を入れたグラスが置かれ、わずかな灯りを頼りにしながら、それぞれが死を思って、詩をしたためる、それが「それから」である。今年の参加者は男性8人、女性5人の13人で、例年よりも少し、少ない目であった。

「それから」では、「住職の法話」と、「法話を受けて詩作の方法を説明する際の(上田假奈代さんによる)講話」、そして各々の「詩作と朗読」と、3つの場面で言葉が重ねられる。本日の法話は、この春に住職が末期ガンで今生を終えた方からの呼びかけで病室に訪れた折、生命の「終わり」のための準備を重ねても、いのちに「終わりはない」ことを互いに見つめ合った、という挿話から、「生死一大事(しょうじいちだいじ)」が説かれた。これを受けて、上田さんは、2年前に飛び降り自殺をしたという、かつての「詩の学校・京都校」に参加していた方のお兄さんが編纂し、このたび届けられたという、その方が遺した詩集『さきにいくよの「まえがき」が朗読された。上田さんの艶のある朗読で、「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」などの一節が紹介されていくと、まるで、亡くなったご本人が、この世には不在の彼に「今・ここ」で呼びかけている場面に立ち会っているかのようで、何人かは感極まり、むせび泣いていた。

墓地での詩作は1時間程度で、その後30分以上かけて、それぞれが紡いだ言葉を全員を前に読み上げていった。それぞれに「リアルな死」と「リアルな生」を織り交った物語が編まれていくのだが、今年、特に印象に残ったのが、3年ぶりに参加した方の詩である。リフレインが繰り返されることで、情緒を醸し出したその詩は、「祈りでもなく、叫びでもなく」、自らの思いを家族に告白する、ある意味で激しく、ある意味で静かな、感謝と敬愛に包まれた詩であった。今年もまた、よい時間を共にさせていただいたことに、感謝と敬愛の思いをここに綴らせていただきつつ、紡がせていただいた駄文を、自らの備忘のために記させていただくこととしよう。


いのちに灯火の比喩を
今日、セミが死んでいた。
1週間のいのちを尽くして生き抜いた姿は
電柱の脇に寄せられていた
その上で、セミたちが泣いていた。

グローバル社会と言われる中では、風物詩や旬を意識しなくなってきるようだけど、
目を閉じて、耳をすまして、立ち止まって、まわりを見渡せば、
変わらない毎日と思う日常生活の只中に、
無数の死と生と、罪深くいのちをいただいて生きる人間の業と、
けなげに行き抜いたいのちの痕跡を見いだすことができる。

例えば、あの日、まちは死んだように思われた。
KOBEからは6772日、TOHOKUからは875日が過ぎたが、
一変した風景に立ち尽くしたとき、
その横で、常に、人が泣いていた。

風に揺れ、消えゆく蝋燭の灯りと、
壁を越え、射し込む駐車場のLEDと、
2つの灯りが墓場の石柱にあたる中で、
今日もまた、いのちに灯火の比喩を思い、お盆を迎えている。

2013年8月1日木曜日

験す教員、試される学生たち

「何学部の先生なのですか?」とよく訊ねられる。が、なかなか説明を理解してもらえない。私の所属は立命館大学共通教育推進機構である。学部を横断して講義を展開する教養教育を担当している、いわゆる「パンキョー(一般教養)」のセンセイなのだ。

学部に所属しない教員で、しかもサービスラーニング手法を用いた科目を担当しているために学期末試験によって評価を行わないのだが、学期末の試験の際には、学部単位で運営される監督体制の応援に駆り出される。今年は法学部による4つの科目の監督者を担った。ちなみに、昨年度まではびわこ・くさつキャンパス所属であったこともあって、スポーツ健康科学部の試験のお手伝いに声を掛けていただいた。その中で印象に残っているのは、長積仁先生による科目で、講義時に配付した「押印済(公認印、という言い方がわかりやすいかもしれない)」のA4版の色紙1枚のみ持ち込み可能、という条件がついたもので、それぞれが必死に準備して試験に臨んでいる様子を確認することができた、というものである。

私が担当したということは明らかとされていないが、試験時間割が公開されていること、また試験そのものが終了した今だから差し支えないと思われるので、今回、監督者となった科目に対する、ちょっとした雑感を記させていたくことにしよう。まず、7月29日の朝一番に行われた「政治学入門」は、圧倒的に論述への力点が高いと思われるものの、回答の書きはじめの位置を「インデント」してしまうと、結果として充分な論理展開を行えぬまま、記入欄が尽きてしまったのではないかと思われた。7月30日の午前に行われた「社会と福祉」も、語彙選択問題の後で2問の論述問題が設定されていたが、回答用紙の裏表をどのような配分で用いるか、あらかじめ目安がつけられていないと、2つの問いのあいだの理解度に差があることが歴然としてしまうのではないか、と思われた。こうした回答用紙の適切な使い方がさらに求められたのが7月30日の午後の「科学技術と倫理」で、フーコーから電子著作権まで、つまりは古典から現代のトピックスまで、幅広い事柄への理解ができていることを、単語レベル、文節レベル、そして文章レベル、それぞれに適切な分量でまとめる必要があった。

そもそも、試験によって問うことができる理解度には限界があるだろう。しかし、教員が設定する問題に対して、どのような回答がなされるのか、それによって、試験を通して問うことができる理解度というものがあることを、4科目の試験監督を担うことで再認識することができた。例えば、8月1日の「社会保障論」で「棄権」した学生は、論述問題には自らの経験をもとに手がつけられたものの、穴埋め問題には自らの知識が至らなかったのではないかと思われた。このように、試験というのは、「正解」を「解答」しなければならない問題によって絶対的に「合格・不合格」を験すことが可能であるが、それに加えて唯一の正解は存在しないものの設定された問題をどのように「回答」するかによって(極端な例だが、論述に対して散文で記しては、残念ながら緻密な論理を問う場合には不適切となるように)相対的な「優劣」が試されていくのであろう。

2013年7月10日水曜日

hangover?


朝から若干グロッキーな一日だった。実は、前日の講義の後、3月の台湾・淡江大学と立命館大学とのプロジェクトでお世話になった国際教育推進機構の堀江未来先生と、サービスラーニングセンター科目を共に担当している共通教育推進機構の桑名恵先生との会食にお誘いをいただいていた。立命館には、こうして学部に所属せず、学部を横断した教育を担う「機構」所属の教員がいる。今回、そうした機構所属の教員どうしで、ざっくばらんに語り合おう、ということになり、多忙な先生方の「あいま」をぬって会食することになったのだ。

もともと、飲食が好きということもあるが、気心の知れた人と共に過ごす場は、普段にも増して、お酒がおいしい。昨日の場も、まさにそんなひとときであった。気付けば3人で紹興酒「孔乙己」8年熟成が2本、空いていた。そこに睡眠時間が若干短くなってしまったことも重なって、やや辛い目覚めとなってしまったのだ。

ただ、水曜日の朝は朝日カルチャーセンター中之島校にて、「English with current topics」のクラスがある。今週の教材は「Leaker's Employer Is Paid to Maintain Government Secrets」だった。記事は、元CIA職員、エドワード・スノーデン氏の雇用主に着目し、公民連携に横たわるネオ・リベラリズムについて
迫るものであった。そして、日本でも検討されているNSA(国家安全保障局)が米国において、中国へのハッキング、また同盟国へのスパイ、加えて自国民への情報収拾、極めつけはFISA(Foreign Intelligence Surveillance Act:国際情報監視法)裁判所からの承認の獲得、といった背景を知るに、なんとも、恐ろしい時代になった、と思うのであった。

ただ、今回はそんなグロッキー状態もあいまって、行きの電車の予習がままならず、どうにも英語脳が鍛えられたとは言えない気がしている。ともあれ、徐々に回復していった夕方には、以前から打診を受けていた研究プロジェクトについての「縁結び」の役割を担わせていただいた。それぞれにお忙しい方々と同席させていただき、今後の展開が楽しみである。ということで、夏以降、改めて岩手県の宮古市に通うことが増えそうな気がしている。

2013年7月9日火曜日

場所と時間を横断する一日

今日もまた、予定を綱渡りする一日だった。朝からは、立命館大学サービスラーニングセンターが主管する「いわてGINGA-NET」への課外学習のプログラムについての打合せが行われた。例年、事前学習と事後学習を担当してきたが、今年度は、現地への随行が可能な桑名恵先生に、事前・事後、そして現地での日々の振り帰りを担っていただくことになった。今日は、昨年度までの経験知を共有し、新たな展開可能性について語り合う場が設けられた。 昼休みには囃子方による祇園祭紹介を伺わせていただいた。これも同じく、サービスラーニングセンターの関連である。なぜなら、サービスラーニングセンターによる科目の筆頭に挙げられる「地域活性化ボランティア」(2012年度からは「シチズンシップ・スタディーズI」に名称変更)が開講された2006年度からお世話になっている「時代祭応援プロジェクト」の一環で開催されたためだ。時代祭とあわせて京都の三大祭の1つであるとともに、日本の三大祭の1つとされている祇園祭について見識を深め、時代祭への関心を深めよう、というのが狙いであった。 14時半までのプログラムであったが、並行して展開されているプロジェクトの打合せもあって、13時前には中座をさせていただいた。京都シネマを拠点に展開される「シネマP」と、立命館災害復興支援室の取り組みと関連づけた「減災P」と、それぞれ相談に応じるためである。これは学生に限ったことではないのだろうが、集団的な活動においては、展望(ビジョン)と目標(ターゲット/ゴール)を定めることが、存外難しい。ましてや、期間が定められている場合には、取り組みのプロセス(段取り)やアプローチ(手法)への合意形成も容易ではなく、専ら私は、それらを掘り下げるための「問いをなげかける」役割を担っている。 酷暑の中、束の間の休息を衣笠キャンパス横のカフェ「山猫軒」で取った後は、2コマ連続の講義が待ち受けていた。14時40分からは「地域参加学習入門」で、人と防災未来センターの高森順子さんを招き、「コミュニケーションデザインとコミュニティ」というテーマのもと、震災の手記を追うという実践から、「社会を実感する瞬間」について思考を深める回となった。その後の「シチズンシップ・スタディーズII」では、受講生らが企画して行った前週のトークサロンの趣旨、実施過程、結果、成果を相互評価する1時間半とした。一日を振り返れば、多様な場所と時代を越えた営みに迫った、濃密な一日であった。

2013年7月8日月曜日

リーダーとトップ


朝から衣笠キャンパスで、サービスラーニングセンターの学生コーディネーターとの合宿の打合せが行われた。サービスラーニングセンターでは、ボランティアセンターという名前で活動していた頃から、大学と地域とのあいだを結ぶために、学生スタッフを起用している。名称が変わった今でも、学生たちの学びと支える学生として、衣笠キャンパスにて33名、びわこ・くさつキャンパス21名が活動している。スタッフと称しているが、金銭的な報酬は支払われないものの、選考を経た後、大学が設置した機関のメンバーとして、年2回開催される合宿の最後に、センター長から「任命」の証書が渡され、各々の自覚と責任が喚起されている。

昨年度まではびわこ・くさつキャンパスの所属だった私も、今年度から衣笠キャンパスの所属となり、両キャンパスの組織風土の違いを見てきた。ただ、両キャンパスともに、特に気になってきたのが、明確な意思決定の構図が定められてこなかったことである。すなわち、「リーダー」は置いても「トップ」を置いてこなかったのだ。そのため、今年度から設置された「代表」や「副代表」の職にあたる人々には「ダンドリスト」という呼び名が付けられ、事態を前に進めていくための集団として維持・発展がもたらされてきた。

リーダーとトップとのあいだでは、異なる言葉であるから当然なのだが、役割や職責が異なる。その違いを明確にするために別の表現で言い換えるなら、統率者と統括者は異なる。統率を取るものは複数いてもよいが、統括をするものが複数いては、組織全体が機能しない場合がある。リーダーの対義語はフォロワーであり、トップの対義語はボトムかもしれないが、トップには「the top」つまり、最高位からの序列が存在する。

午後からはサービスラーニングセンターの運営会議であったが、ここでも「サービスラーニングセンター長」という、絶対的なトップが存在する。転じて、センターの事業や授業をリードするリーダーは複数いる。もちろん、組織にはそれぞれの文化があっていいのだが、それが我流ではなく亜流になったとき、集団の活性化への芽が摘まれてしまうだろう。要するに変わらぬ「型」を尊重し、自らの「流儀」を追究する、その両者があってこそ、組織の文化は深まるだろう。

2013年7月7日日曜日

アナログな機械仕掛け

京都に生活と仕事の拠点が移った今年、5年ぶりに自動車を所有することにした。正確に言えば、大阪暮らしのときにも250ccのオートバイを所有していたので、法律上は軽自動車を所有してきたことになる。「持たない暮らし」にあこがれつつも、どうしても「持つ」ということへの欲を捨てきれない。なんとも、難しいものである。

5年ぶりに所有した自動車は、知る人ぞ知る「カリーナED」である。形式はST162、後期型のG-Limitedだ。こういう表現でピンとくる人は相当、車に通じている方であろう。5ナンバー車で4ドアのハードトップという構成は、今後、二度と発売されることはないだろうし、それ以上に中古車さえも購入が困難なのが実情である。

今では珍車となってしまった愛車が、大きなトラブルに見舞われた。駐車場に停めて用事を済ませたところ、いざ動かそうと思っても、ウンともスンとも言わないのだ。「かかりつけ医」ならぬ「かかりつけ工場」に電話をさせていただいて助言を得た上で、任意保険の付帯サービスに盛り込まれていたロードサービスに連絡させていただいた。とても長く感じた30分ほどの後の見立てはセルモーターの摩耗で、初めての現象であれば「たたけばなおる」という見立てであった。

手はかかっても、謂われのあるものは愛おしい。結果としてサービススタッフの方がプラグレンチでコツコツと叩く呼吸をあわせてセルを回したところ、何事もなかったように、エンジンは回った。ということで、地球環境にはしばしの許容をいただいて、エンジンを止めることなく、工場へと入庫、しばらく検診と加療をいただくことになった。今ではコンピューター等による制御で、システムのブラックボックス化が進んでいるが、人もモノも、こうしたアナログな側面にいとおしさを覚えてしまう、七夕の休日であった。

2013年7月6日土曜日

語り、黙り、見つめなおす。

しゃべるのは好きだが、時々、黙るのも好きである。故事に「沈黙は金、雄弁は銀」がある。この概念に哲学の視点から考察したものとして、ドイツの哲学者・カーライルによる「衣装哲学(あるいは衣服哲学)」があるというが、未読なままだ。ともあれ、肯定と否定とのあいだを頻繁に往復する思考実験も好きなので、時にしゃべり、突然黙ることさえある。

そういう意味で私は、周りとも、また周りからも、「つきあいやすい/つきあいにくい」の評価が分かれるのではないかと思われる。昨日から参加しているアミタによる京北での「対話」の場でも、「住み応えを高めるよりも、いかに住み継ぐかを考えることができる人を」、「仏壇のある家が受容する他者性が重要」、「役職の設定よりも役割の創出を」、「覚悟を固めるステージを段階的に演出する」など、まあ、わかるようなわからないようなことを、時折語ってみた。それぞれに「何となく」わかるフレーズだが、結果として、何をどうしたらいいかは「する」人にしかわからない。自分が主体ではなく、対象になってしまっては、こうした言葉は、ただ、聞き流されて、「いろいろな話をした」で終わってしまう。

午後からはまた別の対話の場所に赴いたのだが、そこではなおのこと「語ること」と「黙ること」が重要とされた。茨木市豊川にあるコリア国際学園で開催された24時間サッカーの一環として実施された「哲学カフェ」に参加させていただいたためだ。「越境人になる」を理念に展開されている教育の現場に集った人々は、それぞれに「これまで」と「今」と「これから」をつなぐべく、口を開き、耳を傾け、目を向ける、とても尊い場が生まれていた。大阪大学の本間直樹先生が進行役を務めるグループに参加させていただいたのもあって、その進行の妙技にも改めて学びを得たのだが、それ以上に、コリア国際学園で学ぶ中学生から「いのちより大切なものはあるのか」、「なぜ人は働くのか」といった「なぜ」が問いかけられたときの場の緊張感に、いい意味で圧倒させられてしまった。

そんな心地よい緊張感もあってか、コリア国際学園にお伺いした後は、同じグループで出会ったご近所の方と共に、「大阪茨木モスク」にお邪魔させていただいた。詳細は省くが、茨木市豊川という地域が紡いできた多文化共生の歴史にどっぷり浸る経験を得た。あいにく、夜からはきょうとNPOセンターの次期中期経営計画の企画会議のため、それぞれに中途半端な関わりとなってしまったのだが、それでも、多様な人々の「違い」から始まる対話の意義を、十二分に見つめる半日となった。それゆえ、最後の会議では、「私は違うと思う」という「主張」に基づく「議論」あるいは「討論」の場に辟易としてしまい、「私は違うと立場を固定して主張を重ね続けることは、今日の趣旨とは違う」と、「違い」の我を張り合う結果になってしまったことを、小さく恥じている。

2013年7月5日金曜日

頭の中の知識と身についた知恵

毎週金曜日は立命館の朱雀キャンパスで過ごすことが多い。ただ、今日は衣笠キャンパスでのスタートであった。11時から、平和ミュージアムにお伺いし、友人から投げかけられた展示の実現に向けて必要な事柄をお示しいただくためであった。平和ミュージアムとは学生時代に参加した1995年の「世界大学生平和サミット」が契機となって、幾度となく関係を深め、例えば2012年度に開催された震災関係のミニ企画展では推薦文を寄稿させていただくなど、立場に応じてそれぞれの役目をいただいてきた。

思えば、毎週金曜日に定例の会議が行われている立命館災害復興支援室も、学生時代に「立命館大学ボランティア情報交流センター」を仲間たちと共に設置し、解散まで携わることができたからこそ、こうして関わり続けられている気がする。もとより、始めるよりも、続けることは難しい。そして続けるよりも、きちんと終えることは更に難しい。当時、センターの代表を務めた内山博史くん(現在は谷内さん)とのあいだにあった当初の緊張関係と、事の運びと共に重ねられた対話は、知識ではなく知恵として、自らの身についていると感じてやまない。

ということで、今日は衣笠キャンパスから朱雀キャンパスへと向かった。まずは今夏の淡江大学(台湾)と立命館大学とのプログラムに関する打合せを行った。その後、諸々の案件を協議する事務局会議に出席した。事前の調整がうまくいっていることもあって、最近は会議の予定時間よりも早くに終わることが多い。

そして、いつしか「千本三条・朱雀立命館前」という名前になったバス停から、14時13分発の西日本JRバスにて、旧京北町の京都府立ゼミナールハウスへと向かった。「第2回信頼を感じる共同体づくり対話会 in 京北」という会にお誘いいただいたためだ。第1回に参加していない、しかも途中参加、さらに元となるプロジェクトは自治体と企業の協働によるため、一定の制約条件を自ずから有している、という不自由さの中で、天の邪鬼なコメントを重ねさせていただいた。中でも「名詞で語っている対象を、動詞に置き換えて主体的な行動へと転換してはどうですか」という問いかけが響いたようなので、翌朝にもまた、しかし言葉少なに、調子に乗ったコメントをさせていただくことにしよう。

2013年7月4日木曜日

理論と実践を架橋する「仕込み」

木曜日の朝は應典院から始まる。最近、2006年に應典院に着任した頃を振り返ることがある。当時も京都から通っていたためである。そして毎朝、師匠と兄弟子とのお勤めをしていたのが、やや懐かしい記憶である。

生活と仕事の拠点は京都に移ったが、まだまだ大阪との関わりもある。今日のお昼は内科のかかりつけ医を受診した。診療所は、地下鉄の駅で言えば堺筋線の恵美須町駅の近く、應典院からは自転車で5分ほどで着く距離にある。先月の血液検査の結果をいただいたのだが、残念な結果となってしまった。身体は正直、と言えばそのとおりであるゆえ、少なくともこの1ヶ月、少々、生活習慣の変化に真剣に取り組んでみることにする。

ゲリラ豪雨と言えないこともなさそうな中を戻り、午後からは應典院の月次会議と應典院寺町倶楽部の隔月刊による会報「サリュ」の編集会議が行われた。同時に、下半期の事業スケジュールと内容についての意見交換もなされた。なかなか決めるというところまでは至らなかったが、単純に「例年どおり」の枠組みで実施していかないということだけは確認できたように思う。とりわけ一年の事業の集大成として位置づけられる「コモンズフェスタ」をどうするか、夏のあいだの「仕込み」が鍵となろう。

夕方からは滋賀県の能登川まで赴き、大阪ガスのエネルギー・文化研究所の研究会に参加した。2009年に創元社から刊行された『地域を活かす つながりのデザイン』の「その後」を追いかけている研究会でもあり、年に5〜6回程度の会合と、同志社大学大学院総合政策科学研究科での講義『コミュニティデザイン論研究』の企画運営がなされている。今日は趣向を変え、実践の現場で、理論的な観点を深めようと、滋賀県立大学の近藤隆二郎先生を講師に、子民家エトコロにて開催された。近藤先生のお話からは「巡礼」における身体参加のプロセス、パターンランゲージによる意味的参加の記述方法、1968年から南インドにあるエコビレッジ「オーロヴィル(auroville)」の場のマネジメント、さらには開催前にはアサダワタルくんの話題提供もあって、実に知的な興奮に満ちた会となった。

2013年7月3日水曜日

corpocracy:企業主導の民主主義

この1月から、水曜日の午前中には、大阪・中之島の朝日カルチャーセンターに、英語を学びに行っている。ただ、毎週ではない。大学のセメスターは春と秋の2つの学期に区切られて、1年の前半と後半とに分けられるが、このクラスでは、おおむね2ヶ月が1つのセメスターとして構成され、セメスターとセメスターのあいだには若干の休みが入る。今日は新たなセメスターの初回講義であり、いつものとおりにThe New York Timesを教材として、Tad先生の導きにより、ウィットに富んだ対話が進められた。

今週の題材は「Obama’s Covert Trade Deal」であった。日本ではとかく農業の面で語られるTPPだが、この記事ではインターネット著作権について、薬の許認可について、国家の管理を越えた金融の自由化について、という具合に、多方面に影響が及ぶTPPが、議会ではなく大統領が先決する案件であることの問題について迫っている。Tad先生は冒頭で、オバマ大統領が「benevolant dictator」(慈善的な先制者)と呼ばれていることに触れた。そして受講生との意見交換を通じて、記事の題名にも埋め込まれているとおり、TPPがポストWTOを射程に入れた「貿易の協定」という側面よりも、対中国への「national league」(国家の同盟)という構図にあることに迫っていくこととなった。

今日の対話の中で、「democracy」ならぬ「corpocracy」という言葉を学んだ。すなわち、企業主導の民主主義という新たな統治の概念である。確かに、TPPは国家における議会制民主主義を越え、グローバル企業を中核とした、自由競争への市場解放を求めた運動とも言えよう。交渉プロセス自体も非公開という、なんとも奇妙な民主主義が行き着く先は、どのような世界なのか、グローバリゼーションへの小さな絶望と、ローカリゼーションへのささやかな希望を携える他はなさそうだ。

英語のクラスを終えた後は、應典院へと向かった。まずは発行が遅れている「サリュ・スピリチュアル」の編集作業にあたった。そして夜には9月21日・22日に應典院で開催予定の「市民メディフェス」の打ち合わせだった。現場がある人どうしの密な会議の気持ちよさに浸りつつ、京都への家路につくのであった。


2013年7月2日火曜日

伸びしろと糊しろ

火曜日は出講日である。大学に職を得た人にしか通用にしないかもしれないが、要するに、講義のためにキャンパスに出向く日、だ。ある種の自由業として位置づけられる大学の教育職員(すなわち、教員)には、タイムカードがない。数年前、立命館ではタイムカードの導入が検討されたというが、結果として教育と研究の両面を担う労働者であるが、専門職であるという前提のもとでの裁量労働として位置づけられてきている。

特にフィールドワーク、アクションリサーチなどを研究手法としている私にとって、なかなか研究室に座っている、ということはない。ただ、それは大学教員が主たる仕事ではなかったときも、自分のデスクに座って、固定電話にかかってくる案件に対応する、というようなワークスタイルではなかった。振り返れば学生時代も、自宅の留守番電話に多くの録音が残され、「折り返しの電話」が求められたため、比較的早い段階で携帯電話を購入したことも、今に続くライフスタイルやワークスタイルに一貫する何かを見いだせそうだ。

そんな私が担当する講義は、自ずから、いかに生きるか、どんな仕事をするか、ということがテーマに盛り込まれる。本日であれば、5限の「地域参加学習入門」ではギャップイヤーを取り上げ、サービスラーニングセンターの白井恭子さんの話題提供とあわせて、いかにして大学と大学以外との接点を持つか、ということに迫った。そして、5限の「シチズンシップ・スタディーズII」では、約1ヶ月にわたって学生たちが立案をしてきた企画の本番を迎え、事前に参加を募った10名の学生らと共に、「着物で夏の京都を旅するプラン作り(と実際に足を運ぶための約束を結ぶ)」というワークショップに立ち会った。ちなみに昼休みから3限のあいだは「コアタイム」と称する時間を提供しており、通常は研究室で学生の来訪を待つ「オフィスアワー」を、逆に講義室に教員が足を運び、学生たちが自主的・自発的に集まって相談をし、学生たちの悩みや迷いに助言する、そうした趣向を採っている。

既に前期セメスター(セメスターとは学期のこと)の講義は本日を終えるとあと2回を残すところとなっているのだが、大講義は大講義なりに、そして演習は演習なりに、学生の学びと成長を実感することができる。総じて、それは態度と言語に出る。板書しかしない、もっと言えば机の上に鞄を置いていた学生たちが未来の自分への「ネタ帳」よろしく積極的にメモを取り、コミュニケーションペーパーと呼んでいるシートには授業時間以外に得た体験や知見をもとに質問やコメントを綴り、何より学生どうしが直接対話をする機会には自ら進んで他者に働きかけていく、といった場面を出合うと、フィールドとデスクの両方が大事であることにどうしたらより関心が向くか、さらなる工夫を重ねたくなる。そんなこともあり、サービスラーニングセンターでは自分の伸びしろに関心が向くように、「自分で自分の可能性を閉ざさないで」と、大学と大学以外への「糊しろ」を手を変え品を変え、呈示しているのである。

2013年7月1日月曜日

「引き継ぐこと」と「受け継ぐこと」

1年の半分が過ぎた。昔は6月の衣替えで詰め襟の学生服から白の開襟シャツとなるなど、季節の移ろいに応じて、身のまとい方と周囲の風景の変化が同調していた。ことさらに地球温暖化の影響に触れたくはないが、結果として定着してきたクールビズ、はたまた節電の取り組みなどにより、場所によって室内と外気の温度差が多様になってきているように思う。ある場所では寒すぎると感じることもあれば、ある場所では夏の到来を確かなものとして覚えるときもあろう。

そんな7月1日は、6月末までにしなければならなかったことを、どのようにやり遂げるのかを見つめる一日となった。朝からは京都市役所に赴き、理事長を仰せつかっているNPO法人(インドネシアのジョクジャカルタ特別区と京都府の有効府州提携をもとにした、二地域間での手仕事の協働事業の推進組織「てこらぼ」)が3月決算であるがゆえに、締め切り当日の事業報告書類を提出した。窓口での対応を通じて、抱え込む傾向にある自分を反省すると共に、行政職の方の文言、さらには一言一句への固執に対し、いい意味で仕事への向き不向きを考えさせられた。ともあれ、無事、受理がなされた後は立命館大学衣笠キャンパスに向かい、東日本大震災の復興関係で村本邦子先生と打ち合わせ、共通教育総合センター会議、サービスラーニングセンター学生コーディネーター月一ミーティングと、建物を渡り歩く午後となった。

こうして多くの場に足を運ぶ中、「引き継ぐこと」と「受け継ぐこと」は異なる、ということを伝える機会があった。具体的には、サービスラーニングセンターの学生スタッフである「学生コーディネーター」の中核メンバーとの対話の中で、夏休み以降の組織運営体制についての議題が出たとき、である。学生による組織というのは、基本的な修学年数である4年というサイクルが、運営基盤にある種の波をもたらすことがある。よって、代が変われど、誰が要職に就こうと、「引き継いでいかねばならないこと」があるのだが、逆に執拗に「受け継いでいかねばならないこと」があるわけではない、そう捉えている。

なぜなら「引き継ぐこと」は個人ではなく立場で行うものであり、「受け継ぐ」ことは立場に就いた個人で行うものと言えるからだ。すなわち「引き継ぐかどうか」は継承する(引き継ぐ)側も継承される(引き継がれる)側の趣向にかかわらず必要とされるが、「受け継ぐかどうか」は継承する(受け継いで欲しいと思う主体)側の決意や態度よりも継承される(受け継がれて欲しいと思う対象)の意思や素養に左右される。引き継ぎ方や受け継ぎ方も、いずれも組織の文化であることに変わりはないが、引き継ぎは組織の制度(システム)であるのに対して、受け継ぎは組織の様式(スタイル)である、そんなことを、久しぶりに赴いた、路地の奥の隠れ家のようなお店で、お世話になった建築士の方と夜のお食事を共にしつつ、夜な夜な考える2013年の折り返し地点の一日であった。

2013年4月9日火曜日

単位は取るもの?得るもの?

2013年度の春の講義が始まった。もろもろの事情で外部のお仕事をグッと減らさせていただいたのもあり、年度を通して非常勤講師の立場で関わらせていただくのは、同志社大学大学院総合政策科学研究科の「臨床まちづくり学研究」のみである。よって、これから半年は、基本的に衣笠キャンパスでのみ、講義を担当させていただく。この「基本的に」と掲げているのは、私がサービスラーニングセンターの科目を担当しているためであり、それらが教養教育という枠組みで展開されているゆえ、一部はびわこ・くさつキャンパスや、時にはキャンパスプラザ京都などでも場が設けられる可能性があるためである。

何より、サービスラーニングという教育手法を取り込んだ科目は、時間割に固定しにくい学び方でもある。それでも、立命館大学サービスラーニングセンターでは、いわゆる実習系科目だけでなく、座学系・演習系に位置づけられる時間割を固定する科目も開講している。そして今日から半年間、私は火曜日の5限に衣笠キャンパスで開講されている「地域参加学習入門」、6限に「シチズンシップ・スタディーズII」を担当する。いずれも、講義名だけでは中身と深みが分からない科目であろう。

5限「地域参加学習入門」(明学館96)は220人程、6限「シチズンシップ・スタディーズII」(敬学館234)は10名の講義だ。大規模科目では学び方を学び、小規模科目では「活動家」と誘う塾のような場づくりを目指す。例えば、5限の「地域参加学習入門」では、知る人ぞ知る「石を拾う」ワークを織り込んだ。そして、6限の「シチズンシップ・スタディーズII」では、アニメ版の「のだめカンタービレ」第7話(Lesson 7)を用いて、指揮者とコンサートマスターの関係、そしてオーケストラのメンバー以外が指揮者に投げかける問いがオーケストラ全体の環境を整える方法を発明させた、という物語を借りて、「創発」と「暗黙知」に迫るワークを実施した。

大学で教える仕事をさせていただいているのは、2003年に、田村太郎さんのピンチヒッターで、甲南女子大学の文学部・多文化共生学科の「NGO論」を担当させていただいて以来だが、そのときに「教える側」が「ただ伝える」だけでは「伝えたいことが伝わらない」だけでなく「予想だにしないことが伝わってしまう」という実践知を得た私は、どのような場面でも、受講生の学びを大事にしなければ、と心して臨んでいるつもりである。そのため、今日もそれぞれの講義では、受講生からの言葉を得たのだが、ふと、ある学生が、楽して単位を取ることができて、「当たり」といった表現を用いているのを目にした。当該学生に伝わるかどうかわからないが、学びは「楽しい」方がいいし、そもそも何かが「わかる」のは「楽しい」ものだが、決してそれは「楽」な「手段」で済ますことでは実感を得ることはできず、「こうありたい」という自己変革への「目的」を見いださなければ、学習したとは言えないのである。ふと、6限の終了後、さしずめ「夜学」のような雰囲気に包まれたキャンパスを出て、小さな学生街のように並んでいる食堂で、受講生たちと夕食を食べた後、そもそも「単位は(学生が大学から)取る」ではなく「単位を(大学から学生が)得る」ものなのではないかと、学びとは何かを考える講義初日となった。

2013年4月8日月曜日

春という季節

「春はお別れの季節」と歌ったのは「おニャン子クラブ」だが、私にとって春は「出会いと出会い直し」の季節である。例えば大学の科目の受講生などは、新たな出会いの象徴だ。その中でも、昨年度の講義を受けて、より深い学びを得たいと、私が担当する別の科目を受講する学生にも出会うことがある。この場合、新たな年度での出会い直し、となる。 

今日は、より正確に言えば今朝は、この「出会い直し」を含む、受講生との「出会い」のための選考を行った。立命館大学サービスラーニングセンターの科目のうち、現場との関わりを通じて学ぶ(すなわち、サービスラーニングという教育手法を用いた)科目は、「予備登録」が必要とされているためである。予備登録という言葉ではピンと来ないのなら、register(登録)のためにpreparation(事前準備)が必要な科目、と捉えていただいたらいいだろう。そうしてentry(応募)された内容に対して、一部は受入先からの助言をいただきながら、受講の可否を判定していくのである。

予備登録では、短い分量ながらも、なぜ、その科目を受講したいのかという「物語」を問う。ここで「動機」を問いかけているわけではないところが重要である。なぜなら、動機は後からついてくるためだ。もっと言えば、続ける理由(いわゆるモチベーション、すなわち動機づけ)を見いだす過程において、過去を想起する中で、「来た道」と「行く道」をつなぐ上で、その「原点」を回想的に語るのが「動機」だと、私は捉えている。よって、選考にあたっては、「私こそが相応しい」という自己アピールの度合いよりも、「仲間と共に悩んでいきたい」という(学びの)環境とのフィット具合を、受講可否を判断する観点としている。

こうして、大学における受講生との出会いや出会い直しだけでなく、多様な活動の現場においても出会いや出会い直しを経験する。例えば、今日の夜は、2006年度から携わっている、インドネシア・ジョグジャカルタとの「手仕事・手作業・テクノロジー」の「コラボ—レーション」を進めるプロジェクト「てこらぼ」の例会であった。さしずめ月例会のように多彩な顔ぶれが会するのだが、今日は長らく欠席が続いていた方の参加を得たので、改めて新たな「何か」を生み出すためには何が必要なのかを、後席も含めて活発な議論を行うことができた。ちなみに昼には、この半年間お世話になるTA(ティーチング・アシスタント)さんとの出会いもあり、そこでは彼の指導教員と間接的に出会い直したりで、何とも、いい春を迎えたものだと、心地よい酔いに包まれて家路についたのであった。

2013年4月7日日曜日

恩送りの実験、始めます。


訳と縁があって、住まいが大阪から京都に変わることとなった。ついては、もろもろの家財の整理を始めた。そんな中、捨てるのも気がひけるし、ヤフオク!(このたび、Yahoo!オークションから名称変更…)に出すのも少々手間、Amazonのマーケットプレイスの「商品」にする程ではない、というものを、「友達」に譲っててみようと考えた。ということで、Facebook上での、小さな社会実験を始めることにした。

恩送りとは、このところ、私が関心を向けて来た概念である。以前から、小説から映画になった作品『ペイ・フォワード:可能の王国』にも興味を抱いていたし、少なくとも江戸時代くらいまで時間を遡れば、お互い様の暮らし方は、特別なものではなかった。しかし、特に東日本大震災の支援に携わる中、渥美公秀先生の「被災地のリレー」という指摘も相まって、実感をもって頻繁に語りの中で用いるようになった。それは「恩返し」という二者関係ではなく、複数の人々のあいだで「恩」を送りあうことが「縁」が結ばれると思う場面に立ち会ってきたためである。

私が専門とするグループ・ダイナミックスにはいくつかの流儀があるが、中でも、集合体の雰囲気(集合流)をよりよい方向に向けていく(ベターメント)をもたらす協働的実践を方法として採っている私たちは、「規範の伝達」という観点に着目する。そこでは、社会学的身体論が理論として用いられる。平明な解説は杉万俊夫先生が行っているが、重要なことは「規範」の生成、維持、発展、消去にあたっては、集合体のメンバーのあいだで「贈与と略奪」が頻繁かつ濃密に繰り返される、という点だ。「贈与と略奪」とは、やや乱暴な表現として受けとめられるだろうが、他者との関係構築は「不等価交換」でも、ましては「等価交換」の繰り返しでもない、と捉えるのである。

交換という論理においては、他者とのあいだで価値基準が存在する、という視点が根差している。よって、等価交換も不等価交換も、交換する側とされる側のあいだで、例えば金銭的価値などが象徴するように、気付くか気付かざるかは問わずに「共通の価値の尺度」が前提とされる。よって「恩返し」は「感謝」や「後ろめたさ」など、一定の価値基準のもとでなされると捉えることができ、その一方で「恩送り」は一方的に相手の了解可能性を鑑みられることなく贈与され、そうしてなされる贈与を一方的に受領し、我が事物としていくのだ。互いに一方的な営みの連鎖の規模が集合体の内部において拡張していくことで、より「よい」状態がもたらされていく、そんなグループ・ダイナミックスの観点を盛り込み、当面、以下のルールに基づき、ささやかな恩送りの事起こしを始めてみることとする。


1)写真付きの投稿をアップする。
2)コメント欄で質問を受け付ける。
3)譲られる方は原則として早い者勝ちとする。
4)「お譲りします」と山口がコメントした時点で受付終了とする。
5)山口のコメントまでに複数の方が名乗り出ていた場合、複数人のあいだで「譲渡権?」の主張が可能とする。
6)譲渡先となった方は送付先を「メッセージ」で送付する。
7)送料については、定形封筒およびレターパックに入るまでであれば、山口が負担する。
8)レターパックまでに収まらないものは、料金着払で発送する。
9)小物については定形郵便かレターパックかについては、譲渡者は選ぶことができない。
10)このルールが変更となった場合には、この投稿に上書きをして、改定した内容を明示する。

2013年3月23日土曜日

地域経営実践士の初級に

今、「サムライ」と言えば、WBCの3連覇に挑んだ野球チームのことを指すのだろう。3月17日、「塁を盗めそうだったら、2人とも、次の塁を盗め」という作戦が失敗に終わったことで、3連覇という目標を逃したことは、改めて語るまでもなかろう。社会システム論を少々織り交ぜながら「作戦」とは何かを語るなら、それは「他とは区別される具体的な内容」と「それが作動する明確な条件」が必要である。今回は、盗塁という字の如く、「塁を盗む」にあたって「this ball(このボールで盗みにかかれ)」ではなく、いくら強権の捕手でも大きな動作の投手という状況を鑑みれば「green light(行けたら行け)」という(ある種の明確な)指示があったのだが、2塁ランナーが「(盗みにかかった以上、戻ってはならないのに)戻ってしまった」ことと、「(全員のバランスがうまく取れないときには)走るな」といった指示あるいは条件づけが必要であったのだろう。

運動と言えば、専ら「社会運動」な私にとって、サムライと聞けば野球(侍ジャパン:電通の登録商標らしい…)でも、サッカー(サムライブルー)でも、ホッケー(サムライジャパン)でもなく、諸々の実践現場の担い手に対する資格(士:さむらい)を連想してしまう。今日は、本年度、試行的な取り組みとして、京都大学の宇治キャンパスで実施されてきた「日本・地域経営実践人財養成講座」の特別講義と修了式に参加した。通常「人材」とされるところを「人財」と扱うのは、人は材料ではなく、まちの財産である、とするという視点に基づくものであり、人が「有用か無用か」は、予め区別されないという意味なのだろう。なぜなら、この取り組みの仕掛け人は、長らく鳥取県智頭町の「地域経営」の仕掛け人となってきた、寺谷篤さん(転地療養で京都に移住後は、篤志さんを名乗っておられる)であるためだ。

講座というよりも「塾」という性格が強い、この1年の試行的な実践は、この3月11日の「一般社団法人日本・地域経営実践士協会」の設立へと結実した。今日はこの間の「塾長」であり、法人の理事長に就任した岡田憲夫先生による特別講義が行われ、地域経営のためには「小さな事起こし」が必要であると説かれた。それは、各種の実践は「おのれのためだけにするのか」という問いかけであり、それぞれに共有し、共感しあう公共空間こそが「マチ」であり、それを持続的に発展していくには「事起こし」によるソーシャル・イノベーションこそが求められる、という論理である。岡田先生は、そのイノベーションへの「ベクトル」(それぞれが満たされる望みの度合いと方向)こそが「まちのビジョン」となるため、一人からでもできるが一人だけでは続いていかない「小さな事起こし」を、「必ず実現する」「必ず実践する」ために、「必ず計画する」ことが鍵であると、熱弁をふるわれた。

岡田先生の講義の後、通し番号で8番の「認定証」を岡田先生から授与された私は、「事起こし」が小さくて済むのは「当事者の参加があってこそ」する言葉に応えるかのように、「ぶれとずれの違い」、「図化と表化の合わせ技」、「ドリルによる問いの問い直し」の3点を、認定証を受け取った者の決意として述べた。「ぶれとずれの違い」とは、このところの政権交代に伴う流行言葉を揶揄しつつ、「ずれる(diviate)」という自動詞ではなく「ずらす(shift)」という他動詞で物事を捉えることで、主体と対象と目的が明らかになる、という観点である。そして「図化と表化の組み合わせ」とは、図によってある構造や状況に概念的に迫るのであれば、表によって概念や実態の構成要素を系統的に整理することも大切である、という観点である。そのため、今後、「士(サムライ)」として地域経営の実践に取り組んでいく(ことができる)者としては、直面する現状を「ドリル」のように捉えて、その答えを探る中、改めて自らに突きつけられた「問いを問いなおす」こととしたい、と発意するところである。

2013年3月22日金曜日

議事は判決だから…

金曜日は会議デーである。そのため立命館の朱雀キャンパスで過ごすことが多いが、今日は朝から夕方まで、衣笠キャンパスで過ごした。立命館の会議は概ねテレビ会議システム(SONYのIPELAという、IP接続による他地点接続による会議システム)が導入された部屋で行われるので、前後の予定で参加会場に融通がきく。最近でこそ、学生たちもskypeなどを使って「画面の向こうで同席」することが多いが、skypeなどは個人間で機器と機器とが接続されるが、上記のIPELAでは会議室を接続するという理念のもと、相当の投資を伴いながらも、「この部屋の向こう」でも会議が続いているという前提が担保されている。

テレビ会議システムが活用されることで、同時に複数のことが動いていく。9時半からは「災害復興支援室定例会議」で、朱雀キャンパスをメイン会場に、衣笠キャンパスとびわこ・くさつキャンパスとが接続され、特に次年度の取り組み計画と課題の整理、連携協定を締結している岩手県大船渡市との記念事業の意見交換が主な議題だった。続いて、11時からはサービスラーニングセンターの運営会議で、11の審議事項を含む18の議題が2時間で議決された。立命館大学のサービスラーニングセンターは教学部に位置付いているという特徴があり、いわゆる教授会のような正課科目を扱う部分と、一方でいわゆるボランティアセンターのような各種の活動を扱う部分と、両側面を有しているので、自ずから会議の議題の幅は広く、量も多い。

会議は議長の「捌き」と「裁き」のいかんによって、進行の度合いと結果が左右される。そう、会議は、事前の「議題」の整理(すなわち、捌き)と、その場の「議事」の進行(すなわち、裁き)によって、組織の充実度と参加者の満足度を決定づけるのだ。以前、IIHOEの川北秀人さんによる『NPOマネジメント』では、「会議の議事録は判決文」という表現を用いられていた。多くの会議に参加し、また時には事務局の役割を担うことや、時には司会の立場を担うこともあるので、折に触れて、この比喩を想い起こす。

転じて、遅めの午後から夕方は、「会議」ではなく「研究会」と「懇親会」であった。同じ会でも、性格は全く異なる。研究会は、この1年、一部は公開で実施してきた「ボランティア・サービスラーニング研究会(VSL研究会)」で、一般には非公開で意見交換をした内容(他大学の訪問調査と、学びの効果に対する評価について、など)について総括し、次年度の課題と展望を整理した。そして、夜には京都が学生のまちであることを実感できるお店の一つ「地球屋」で、学生オフィスによる「2012年度立命館大学学びのコミュニティ集団形成助成金」を獲得した「そよ風届け隊」の福島でのボランティア活動の振り返り会を終えての懇親会にお邪魔して、福島大学の学生さんらと共に、楽しい時間を過ごさせていただいた。

2013年3月21日木曜日

Design your Community with Energies

2004年から、大阪ガス株式会社のエネルギー・文化研究所(CEL)の研究プロジェクトに参加させていただいている。当時、財団法人大学コンソーシアム京都に勤務していた私は、在職4年を経て、それまでのインターンシップやリエゾンオフィスといった産官学地域連携の事業から、研究事業の担当への異動の只中にあった。そして、1997年の「京都・大学センター」時代からお世話になっていたボスが、出向元に戻ることになり、事務局のトップが交代するという変化の只中にもあった。そんな折、2002年度から(当時のボスのはからいにより、研修という位置づけのもと勤務時間の調整をお許しいただくこととして)大阪大学大学院人間科学研究科に社会人入学させていただき、渥美公秀先生のもとで上町台地界隈におけるネットワーク型のまちづくりについて研究していたご縁もあり、CELの弘本由香里さんから、大学コンソーシアム京都への委託研究の提案を頂戴した。

その後、2006年に同志社大学大学院総合政策科学研究科のソーシャル・イノベーション研究コースの助教授に任用いただいた後は、組織間で協定が締結され、新川達郎先生を代表者とする共同研究や、それまで3年間にわたって大学コンソーシアム京都の「単位互換科目」の「コーディネート科目」として開講されていた『コミュニティ・デザイン論』を、大学院科目として設置するなどの展開がもたらされた。今日は、その科目『コミュニティ・デザイン論研究』の今年度の総括と、次年度の展望を議論する研究会が行われた。本来であれば講師陣が全員揃えばいいのだが、それぞれに多忙な方々は更に多忙を極めている時期である。よって、4人での研究会となった。

今日の研究会では、新川先生を中心に、改めて「コミュニティデザイン」とは何かについて、意見交換を重ねることとなった。例えば、コミュニティデザインという概念がイメージ先行になっているのではないか、などである。よって、各種の実践に注目が集まるからこそ、改めて各地の事例の中で見られる「デザイン」の上での意図を、丁寧に紐解いていく必要がある。そこでは、目に見える側面、すなわち建物だけではなく、共同体の維持発展のプロセスへの視点を深めていこうと確認した。

とはいえ、2013年度の『コミュニティ・デザイン論研究』は、ゲストとして話題提供等をさせていただくのだが、いわゆる非常勤講師(同志社では「嘱託講師」と呼んでおり、立命館の「嘱託講師」とは全く別の意味合いで同じ名称が用いられている)は勤めない。よって、研究会での貢献を中心として、コミュニティデザインにまつわる歴史的背景、ハードにまつわる人の動き、クリエイティブな人たちが何を目指したかといった、人と物と出来事の関係について掘り下げていくこととしたい。ちなみに今日の研究会の後は、ガスビル食堂にて会食をさせていただいた。その折、新川先生から、東日本大震災における集団移転の問題について、東北における「平均的な敷地面積(100坪)」と「用地買収と提供(65坪程度)」、それらに対する「(中層の災害公営住宅への)政策誘導」から、「二重三重に選択肢が限られている」中で「選択肢から選び抜くまでの時間」と「仮設からの退去のタイミング」とのせめぎあいが生まれていることなどを伺い、またも大きな問いに向き合うことになった。

2013年3月20日水曜日

これはアーツカウンシルではない?

『Ceci n 'est pas une pomme(これはリンゴではない)』(1964年)などで知られるルネ・マグリットの絵を見たのは、阪神・淡路大震災の後のことだった。それ以前にも教科書か何かで見ていたが、そのときは「ふーん」という感じで受けとめた気がする。しかし、阪神・淡路大震災で被害を受けたまちでのボランティア活動を続ける中、当時、住んでいた京都とを往復するあいだに、兵庫県立近代美術館で開催されるはずだった個展が大阪駅の大丸ミュージアム梅田で開催されることを知った。そして、印刷物で見た作品を目の前にして、改めて「言葉」と「絵画」の組み合わせによる「作品」から、不思議な感覚に駆り立てられたことを、よく憶えている。

あれから18年ほどが経った春のお彼岸の今日、お寺で檀家・檀信徒の皆さんをお迎えした後、午後からは大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)で開催された「大阪アーツカウンシル」の「報告・説明会とシンポジウム」に向かった。既に15日には東京、17日には高槻と、2会場で開催されたものであるが、今回は「シンポジウム」も併催された。シンポジウムは、2012年1月に、私が事務局長を努めさせていただいている「大阪でアーツカウンシルをつくる会」の緊急フォーラムでもお招きをした、ニッセイ基礎研究所の吉本光宏・主席研究員の基調講演と、「報告・報告」に続いて行われた。コーディネートはアサダワタルくん(日常編集家)、パネリストは太下義之さん(三菱UFJリサーチ&コンサルティング主席研究員)、木ノ下智恵子さん(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任准教授)、弘本由香里さん(大阪ガス(株)エネルギー・文化研究所特任研究員)、福本年雄(ウイングフィールド代表)であった。

昼過ぎまでの大蓮寺での法要と、夜に應典院にて開催されるお彼岸関連企画のために、enoco会場では「報告・説明会」における「対談」の聞き手を務めた後、シンポジウムの途中までしか参加できなかった。しかし、應典院寺町倶楽部の小林瑠音さんによる「Twitter中継」と、comos-tvによるパブリックビューイングがなされたので、それらによって内容を追いかけることができた。なお、comos-tvは「中継」のみであって、アーカイブ化はされているものの、オンデマンドで視聴はできない。例によって、この日の内容は後日、報告書にまとめられるのと、上記のcomos-tvで不定期に再放送される可能性があるので、それぞれ、今後の動向にも関心が向けられれば、と願う。

ネットを通じた中継で会場の発言を追っていると、上記の吉本さんが「大阪のアーツカウンシルはアーツカウンシルではない」といった発言をされたことを知った。確かに、初年度の「評価」を中心に据えた自治体主導型の展開では、英国を発祥とする世界的な潮流に対して、行政改革の一環として、さしずめ事業仕分けの執行機関といった傾向も指摘できるだろう。ちなみに会場には、東京で「2年の任期と報酬」について小さな希望(例えば、諸外国からも招聘可能)と大きな失望(例えば、位置づけの低さ)を抱かれたように見受けられたやくぺん先生(渡辺和さん)、高槻で「行政の側に立つ専門家による評価は価値の査定になるという観点への懸念」を訴えられた天野画廊(天野和夫さん)のお顔も拝見した。さて、「これはアーツカウンシルではない」との指摘を得た「大阪アーツカウンシル」の船出は、果たしてシュルレアリスムか、はたまた人をおちょくっていると受けとめられるか、制度設計を担った私(たち)の責任は、重い。

2013年3月19日火曜日

会議へ、会議から

研究室の引っ越しから一転、今日は会議の連続だった。一つは大阪ボランティア協会の理事会・評議員会である。大阪ボランティア協会はこの3月で谷町二丁目へと引っ越すため、福島区吉野の大阪NPOプラザでの会議は今日が最後であった。午前中いっぱいの議事を終え、そそくさと昼食を食べて向かったのが大阪市公館での「大阪市芸術活動振興事業専門家会議」である。

大阪ボランティア協会は「社会福祉法人」であるため、評議員の代理出席が許されておらず、その一方で「定足数」の基準が比較的厳しいために、私も含め、出席率が比較的高いように思う。ただ、議事の内容が理事会と重複することもあって、理事会と評議員会は合同で開催される。ちなみに理事会も評議員会も、錚々たる方々が名を連ねているため、末席を汚しているようなものだ。それでも、あるいは、だからこそ、「皆様から発言を」と、会場にマイクが向けられた折には、発言の切り出し役を担うことが多い。

今回、マイクを手にして、事業の内容の整理が進んでいるのに対して方法の精査が進んでいないのではないか、そして各種の事業の趣旨は明確だが対象が不明瞭ではないか、さらに協会による中間支援機能としての「つなぎ手」の立場で展開する事業もあっていいのではないか、といった問題提起をさせていただいた。言うまでもなく、これは大阪ボランティア協会に固有の問題ではなく、ネットワーク型の組織に見られる傾向であろう。いかにして、主語を「私」にせず、相手を「主役」にできるか。こうして「自分が役に立つよりも、他者を役に立てる」ことができれば、求め、求められるという二者関係が、求め合う、助け合う、頼り合う、そんな相互の関係へと深化していく。

こうした投げかけに続いて、コミュニティ・サポートセンター神戸の中村順子さんや、たんぽぽの家の播磨靖夫さんなどが発言をなされた。とりわけ、播磨さんの「論理と哲学と余裕」がなければ、「状況に追われ、対応に追われ、社会変革までもたらせない」と訴え、「みんな大事ではなく、何が大事なのか」を示すことができなければ「小さな痛みに寄り添えなくなる」と述べた。返す言葉がない、というのはこういうときの状況を表現するのかもしれない、などと思いつつ、「大阪市芸術活動振興事業助成金」に向かった。応募された74件の審査を5時間あまりの合議により決定したのだが、ここでもまた「論理と哲学と余裕」の3点セットが、自分事として突き刺さってくる、そんな場面に立ち会ったような気がしている。

2013年3月18日月曜日

心太方式の引越

心が太いと描いて「ところてん(心太)」と読む。なぜ、そんな字が充てられたのかを調べたくなることが、小さな現実逃避なのだろう。時折ウェブで参照する「語源由来辞典」によると、遣唐使が「テングサを煮て溶かして、型に流して固めて食べる」という製法に対して、「こころふと」という呼び名がつけられてことが謂われとのことだ。要するに、テングサが「凝海藻(こるもは)」と呼ばれていたこととあわせて、「太い海藻」(ふと)を「凝る(凝り固める)」(ここる?)から、「こころふと」そして「心太」となり、その後、熟語の湯桶読み(ゆとうよみ)が適用されて「こころてい」に、さらに江戸時代には「ところてん」へと落ち着いたとのことだ。

語源はともかく、このたび「ところてん方式」で、すなわち「後から棒でつつかれて」出て行くことになったのが、立命館大学びわこ・くさつキャンパスのアクロスウィング424研究室なのである。4月から衣笠キャンパスを所属とする雇用となるため、年度末までに個人研究室を移さねばならないことは、秋口からわかっていたことである。しかし、私が衣笠に移るにあたって、その後、公募された共通教育推進機構のサービスラーニングセンター科目の担当教員が、私が使わせていただいた研究室に入ることが、後々明らかとなった。その方の任用には関わっていなかったものの、結果として同じ学会、同じ大学院で博士の学位を取られた方なので、気楽にお迎えを考えていたら、大学の事情がそれを許さなかった。

考えてみれば当然なのだが、部屋を「明け渡す」、ということは、まず「(使用の期間が)明ける」前に「空ける」、そして「渡す」という段取りが必要なのだ。つまり、家のリフォームで言えば「居ながら」ではなく、完全に「がらんどう」にした上で、部屋のクリーンアップ(消臭や消毒などもされるのかもしれない…)がなされ、そして「引き渡し」となる、という具合である。転じて、上記のように「知り合い」のあいだで「鍵だけ渡せばいいや」では済まないのだ。これを大学の事情などと言うと、私の方が非常識だ、と言われるのだろうが、少なくとも「クリーンアップ後に新使用者に年度当初から供用」というタイミングを鑑みれば、現使用者である私は年度末を待たずして完全撤収をしなければならないのである。

かくして、「荷物があるなら、予め送っていただいたら引き受けますよ」と、直接交替で考えていた段取りは大幅に見直さざるをえなくなり、3月12日と3月17日に、夜を徹して作業を行うこととなった。そして迎えた本日3月18日、朝10時過ぎからの日立物流さんの職人技がいかんなく発揮されることで、12時半には積み出し、そして14時過ぎから衣笠キャンパス尚学館812への積み込み、そして15時半には完了という、にわかに信じがたい事態にて収拾をつけることができた。途中、この間、何度も「約束」を破られている学生と、南草津駅にて「お説教ランチ」をしたのだが、小さな開放感から「説教」よりは「説法」に近くなってしまったかもしれない、と内省を重ねている。ともあれ、この4月から京都の人として再出発を図ることになるので、皆々様のご愛顧と、「次の何か」に備えて、身の周りは常に整えておきたいと誓う一日であった。

2013年3月17日日曜日

pass(合格)後のpath(小径)

昨日、17日に引き続き、立命館大学の大学院課が主催する、2013年度大学院新入生向けセミナー「大学院で獲得する“充実”」の教員セッションにお招きをいただいた。昨日は衣笠キャンパスだったが、今日は朱雀キャンパスでの開催であった。なぜか、びわこ・くさつキャンパスでの開催はない。しかし、今日はBKCでの長い夜を送ることになるのであった。

教員セッションと掲げているが、プログラム上は座談会1とされ、比較的若手の教員が大学院時代をどのように過ごしたかの話題提供を交えて「大学院で学べること」について語り合う、というものであった。私のペアは両日とも経済学部・経済学研究科の坂田圭先生だった。2名の現役院生をお世話役に、両キャンパスそれぞれ8名ほどの参加者と1時間ほどを過ごした。参加者は進学が決定している方もいれば、今後の進学を希望している人もいて、さらに進学先や希望先の研究科も混ざり合う構成だった。

坂田先生が「大学院の研究生活」と題し、「大学院とは?」「進路とタイムテーブル」「大学院での学び」「就職活動」と、起承転結でまとまりのある話を用意されたのに対して、私は「pass後のpath」と題してミニワークショップと解説を行うこととした。詳細は割愛するが、ミニワークショップでは「感情曲線を描く」こととし、そこから「社会のトピックを個人のエポックにする」ことの意味、それが研究を進めていく上で「問いを問いなおす」契機となる、と示した。結果として、自らの能力(skill)を高めるだけでなく、職能(ability)が高まるよう経験知を豊かに、というメッセージを投げかけることとなった。ゆえに、合格(pass)した後、細く長い小径(path)かもしれないが、未知なる軌跡を大胆に描いていっていただきたい、という「オチ」をつけて、場を後にした。

朱雀から向かったのは、高槻である。15日に東京で開催された「大阪アーツカウンシル(仮称)」設立にあたっての報告・説明会の「高槻バージョン」である。東京では私からの「経過」説明の後で東京藝術大学の熊倉純子先生と対談をさせていただいたのだが、高槻では以前は結婚式場だったというパラダイス感が漂う「高槻現代劇場」の一室にて、共に制度設計にあたってきた帝塚山大学の中川幾郎先生と対話を重ねることとなっていた。この内容も、後程「報告書」に抄録される予定とのことなので、その公開を心待ちにしていただくこととして、ここでは最も印象に残った「(東京への)inferior compelx」という言葉を記しておくに留めたい。その後は参加者の皆さんと「質疑応答」ではなく「拡大座談会」のような場づくりになるよう議論を進行させていただいて、Cafe Neutralでスタッフの皆さんと「今後」の作戦会議をした後、翌日に控えた「研究室の引っ越し」の険しい道のりへと歩みを進めたのである。

2013年3月16日土曜日

遅れた春節と、少し早めの春と

大学コンソーシアム京都に在職していた折、当時、立命館大学政策科学部の教員でおられた田井修司先生からの提案で、中国の内蒙古自治区での沙漠緑化活動に、学生と共に参加した。2001年3月に初めて訪れて以来、同じ年の9月、2002年の3月と8月、そして2005年8月と、合計5回、学生らと共に現地で活動した。ちなみに「沙漠」は「砂漠」のミスタイプではなく、「水が少ない」土地が「漠」として広がっている、という意味からも、むしろ(日本でも)「砂漠」と書かれなければならないのだ。加えて「沙漠緑化」とは「沙漠化した」土地を緑化するという活動であるので、砂が移動して堆積した層の下にまで根が張る灌木(ポプラなど)を植え、その後で根の張り易い樹種(沙柳など)を植え、その後、被覆率向上にマメ科の植物を広げていく、というのが、私(たち)が行ってきた活動である。

この内蒙古での沙漠緑化活動の担い手の一人、エコスタイルネットの増田達志さんと共に、決まってこの時期に「春節パーティー」を開催している。春節とは、旧暦の正月を祝う中華圏のお祭りである。新暦における元旦は1月1日と決まっているものの、それに対する旧暦の正月は年によって異なり、2月10日だった2013年は、もろもろの多忙さも相まって、3月に入ってからの「パーティー」の開催となった。そんなイレギュラーの開催のためか、さしずめ沙漠緑化活動の同窓会の様相を呈する宴も、少人数での実施となった。

そんな季節外れの春節パーティーの今日、朝から立命館大学の衣笠キャンパスで2013年度 大学院新入生向けセミナー「大学院で獲得する“充実”」で、話題提供をさせていただいた。これは立命館大学の「大学院課」という部署が主催するセミナーで、大学院進学を希望している学部生と、この4月入学の入学予定者を対象に「大学院時代をいかに過ごすか」を深める機会とされている。昨年度までは外部の事業者に委託されていたとのことであるが、大学院生たちに「入口」と「出口」の<あいだ>にあまり迫ることができなかったもようで、教員や現役院生らの積極的な参画によって企画運営がなされることになったという。企画運営のリーダーシップは、立命館大学大学院先端総合学術研究科特別招聘准教授で、大学院キャリアパス推進室のお仕事もされておられる西田亮介さんで、先般、サービスラーニングセンターによるVSL(ボランティア・サービスラーニング研究会)でお招きした折は私の都合が合わなかったため、対面では初めてのご挨拶をさせていただいた。

セミナーの様子は明日、17日にも開催されるので、2日分まとめて触れることにして、今日は午後に應典院で開催された「グリーフタイム」にも伺ったことを記しておくこととしたい。グリーフタイムは2009年の9月から、奇数月の第4土曜日に開催されている「悲しみのためのとき」をお寺で創出するという取り組みである。当初は宮原俊也さんと尾角光美さんによって営まれていたが、宮原さんが単独で担った時代を経て、今はその後に宮原さんと共に担ってきた佐脇亜衣さんが場をつくっておられる。今回も、参加者それぞれが「悲しみ」に向き合うときが生み出されていたが、帰り際に佐脇さんとお話したところ、この春から鳥取でのお仕事を始められるそうで、しかし、それでも2ヶ月に1度は應典院にやってきて、この「グリーフタイム」を続けていくという決意を伺って、何とも、春という区切りにこそ、続けることと続けないことを見定めていかねば、と学ばせていただいた次第である。

2013年3月15日金曜日

東京で大阪アーツカウンシルの説明会


かつて、大阪から東京に出かけることは、それだけで一仕事だっただろう。東海道線沿線に住んでいた私は、東京に出ると言えば、決まって「大垣夜行」と呼ばれた夜行列車にて、浜松から出かけていた。1968年(昭和43年10月:いわゆるヨンサントオ)のダイヤ改正で生まれたこの列車も、新幹線の普及や飛行機の割引運賃の設定、さらには規制緩和による夜行バスの価格競争により、最早「過去」のものとなっている。そもそも、所要時間の短縮のため、今でも静岡県内は「のぞみ」号が停車しないのだが、大学受験の折、100系の2階建て車両の1階にあったグリーン車の個室に乗ったときの旅客情緒は、今なお、時折思い出す記憶である。

今日は朝に立命館の朱雀キャンパスでの災害復興支援室の会議を終えた後、日帰りの東京出張に出かけた。毎週金曜日の朝が立命館災害復興支援室の会議日なのだが、「定例会議」と「事務局会議」とが隔週ごとで交互に開催されている。今週は事務局会議の日で、3月11日の「いのちのつどい」の総括などが行われた。また、「いのちのつどい」を前に、台湾の淡江大学で開催された震災復興をテーマとした「学生フォーラム」も開催されていたので、それぞれに「次」に向けた展望を探る機会ともなった。

そうして、一仕事を終えて向かった先の、ちょっと、いや、かなりの大仕事が、東京・千代田区にある「アーツ千代田 3331」での「大阪アーツカウンシル設立に向けた報告・説明会in東京」であった。その名のとおり、大阪での事業を、東京で報告し、説明をする、という機会である。この会は、2月中旬に事業者が公募され、3月に契約がなされ、プレスリリースから2日で公開の議論の場が開かれるという、言葉を選ばずに言えば「無茶苦茶」な業務である。そんな業務をプロポーザル形式によって受けたのが、NPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)NPO法人地域文化に関する情報とプロジェクト(recip)NPO法人アートNPOリンクの協働事業体だ。

この「説明会・報告会」は、東京を皮切りに、17日には大阪府高槻市の「高槻現代劇場」で、20日には「シンポジウム」も含めて大阪市西区の「大阪府立江之子島文化芸術創造センター」で開催される。大阪における一連の改革等の動きに批判的、否定的な方からは、「なぜ東京から開始だったのか」という問いかけがなされ、そこには「話題性を求めるためだろう」などの詮索も働くだろうが、単純に日程調整の関係からこの日となり、しかし「なぜそもそも東京で開催されるのか」ということに対しては、上掲のプロポーザルにおいて、「今後、(大阪アーツカウンシルの)統括責任者が公募されるとされているなら、東京でも、この間の経過を報告し、公募にあたっての経緯を説明する必要があろう」などと記されたゆえんである。ということで、今回は「事業者」ではなく、「事業者(前掲の3NPO法人)および主催者(大阪府・大阪市)のあいだの調整」のなかで、私が大阪府市統合本部の都市魅力推進会議において、基本的にワーキンググループにて非公開で審議された内容を踏まえて「大阪アーツカウンシル設立の経緯」をお話させていただくこととなった。ここではその詳細は割愛させていただくが、およそ30分の話題提供の後、先月、2月2日に岩手県大槌町での「ひょっこりひょうたん塾」でもご一緒させていただいた、熊倉純子さん(東京藝術大学)との約1時間の対談が極めて痛快であり、後々、文字化される機会を心待ちにしていただきたい。

2013年3月14日木曜日

脱・戦闘的関係


関西学院大学人間福祉学部実践教育支援室の室長を務める川島惠美先生のお招きで、関西学院大学の「今後の実践教育のあり方を考える研究会」にて話題提供をさせていただいた。川島先生とは、電子メール等で情報交換などをさせていただいたきたが、きちんとお会いしてお話をするのは、先般、関西学院の千刈キャンプで開催された催しが初めてのように思う。その縁結び役として「つなぎ手」になっていただいたのは、ブレーンヒューマニティーの能島裕介くんである。

インターネットを通じて簡単にやりとりができる中にあって、非公開の2時間の研究会に招く上で、川島先生は「つなぎ手」を求め、そして依頼状を手渡しいただくという手順をとっていただいた。こうしてお心配りをいただいた以上、招かれる側としては、どのように応えればよいのかを熟慮することになる。今回、私が臨んだ姿勢は「質問がなくなるまで、その問いに答えていく」というものであった。結果として、マクロビオティックなお弁当をはさんで、10時から14時まで、研究会のメンバーとスタッフの皆さんと語り合うことになった。

そもそも、研究会から私に求められたのは、立命館大学におけるサービスラーニングセンターの事例であったが、既に文献等で理論的観点について整理がなされ、さらには他大学への訪問調査も行われたとも伺っていたので、冒頭部分では「参加者からの自己紹介」よりも、研究会の活動を通じてわかったこと、さらには逆にモヤモヤしていることを伺うことから始めさせていただいた。すると、10名の方から、それぞれに悩みや迷い、さらには今後の展望などを伺うことができた。ここでは詳述しないが、そうしていただいた投げかけは、近いうちに、立命館大学サービスラーニングセンターのFAQにも盛り込んでいきたいと思うことが多数を占めた。招かれた側ながら、得るものがあったということ、これはサービスラーニングの鍵概念の一つ「互恵的関係(reciprocity)」と重なるように思う。

そもそも、「メリット・デメリット」を含め、「勝ち組・負け組」といった「戦闘」のメタファーは、一見、勝ち負けの論理から離れた「Win-Win」にも及ぶと考えている。それ以上に、この「Win-Win」こそが「良い関係」と捉えることに、少し憂慮を重ねている。なぜなら、互いに「勝者」であるという認識のままでいられるのは、利害関係に配慮した戦略的協調がなされた結果であって、それは両者とは別の領域に敗者を置く構図にあるのでは、と思うためだ。そういう意味で、お弁当をいただいてから、ある助手の方からの質問で、「サービスラーニングの手法で学んだ学生にはどうなって欲しいと思っていますか?」に対し、「自分の知らないことを知り、本を読み、文を書き、他人と語ることを楽しいと思える、そんな謙虚さを携えられるようになって欲しいですね」といった返しが意外だったようで、ぜひ、個人的かつ直線的な個体の成長ではない集団での学びの充実を図るセンターとして、今後、両大学のあいだで切磋琢磨しあう関係が育まれれば、と願うところである。

2013年3月12日火曜日

キャンパス間の移動準備

春は何かと異動の時期だが、この4月からは、立命館大学共通教育推進機構准教授という立場は変わらずとも、びわこ・くさつキャンパス(BKC)から、衣笠キャンパスへと、拠点が変わることになった。とはいえ既に2011年度の後半から、衣笠キャンパスの科目を専任教員として担当し、2012年度からは、最早BKCでの科目は担当してこなかった。とはいえ、サービスラーニングセンターの副センター長という立場もあって、BKCには週1回のペースで通うようにはしていたし、何より草津市とのサービスラーニングに関する協定もあって、少なくとも前期には週1回のペースで草津市役所7階の「草津未来研究所」に「総括研究員」という立場で赴いていた。ともあれ、この4月からは、草津市役所との関わりも変えさせていただくこととなり、恐らく草津には衣笠からBKCへのシャトルバスで移動することが増えそうな気がしている。

思えば約2年前、残り半年の任期を残しつつ、同志社大学大学院総合政策科学研究科から移籍するにあたり、新町校舎の臨光館419から、BKCのアクロスウイング424への研究室の引っ越しは、難を極めた。社会人院生の方々の論文執筆スペースとして提供もしたのが懐かしい記憶だが、それ以上に、5年の任期のあいだで膨大に増えた書籍や書類の整理もままならない中で、引っ越しのその日を迎えたためである。その年の修了生の方々や、過去のゼミ生の皆さんの協力もあって、2トン車2台でなんとか運び込み、「押し込むように」搬入して、2年が経ったことが、にわかに信じがたい。ところが今回はそうした「荒技」は許されておらず、そもそも物理的な面積が狭くなる上に、次の使用者のためのクリーニングの段取りのため、3月18日の一点突破で、引っ越しを完了させなければならないという条件があるのだ。

ただ、2年前の同志社から立命館への引っ越しは自費によったが、今回はリサーチオフィスの計らいで業者さんの手配と、その費用の負担はいただけることになった。逆に言えば、だからこそ、その前準備を怠ることはできない。ということで、本日は研究室で夜をあかす覚悟で、BKCで1日を過ごすべくやってきた。そしてその覚悟は、固い決意として守らねばならなくなった。一応、目に見えて「変化」は見えるが、道のりは、遠い。

これまた幸いなことに、向かいの420研究室が空いていることもあって、そちらを「仮置き場」(かつ作業スペース)として使わせていただくことも認めていただいた。とはいえ、いわゆる「断捨離」を強行に実施しなければ、3月18日が迎えられない。言うまでもなく、愛用のscansnapで「取り込んで捨てる」という時間的な余裕もない。ということで、お昼の荷物の受け取りと、夕方からの地域連携に関する会議を終えた後の今宵は、BKCでの一番長い夜(その1)となった。

2013年3月11日月曜日

あいだにある<いのち>

東日本大震災から2年、今日は立命館での「いのちのつどい」に参加した。立命館は前任校の同志社と異なって、宗教的な裏支えがない。しかし、なぜ「いのち」のつどいなのか。こじつけに思われるかもしれないが、それは「立命館」という学園の名称の「真ん中」に「命」という文字がある、そこに意味を見いだしたいと考えたためでもある。

2011年4月21日に発足した立命館災害復興支援室は、小学校から大学院までを有する総合学園として、今次の大震災に何ができるかをコーディネートすべく、およそ2年にわたって各種の取り組みを展開してきた。昨年の3月11日は京都マラソンの開催のため、その休憩ポイントに立命館大学衣笠キャンパスが用いられたこと、さらには周辺地域の移動に制約があることなどから、とりたてて震災から1年で何かをしよう、という動きにはならなかった。ところが今年は、2011年末から16便にわたって運行してきた「後方支援スタッフ派遣」プログラムに参加した学生・教職員、さらには教育面、研究面の幅広い取り組み、それらを現地との関係が深まってきたことから、この「つどい」の場を催すことにした。第1回と銘打ってはいないものの、今年だけで終えないようにしよう、という決意で臨んだ場でもある。そのため、命名も、今年開催されれば60回を数える「不戦のつどい」へのオマージュを捧げる名称とした。

今年は衣笠キャンパスをメイン会場に、びわこ・くさつキャンパス、そして朱雀キャンパスでの3拠点同時展開とした。キャンパスごとに微妙に内容は異なるのだが、14時46分を前後した「追悼のとき」だけは、同じ枠組みとした。先述のとおり、「御本尊」などがないゆえに、代表者による献花に続き、大阪のマッチポイントさんの協力を得て、アートキャンドル(メイン会場は3本の太い蝋燭に11本の細い蝋燭を並べ、サブ会場は2年目を象徴する太いキャンドルを2本とした)への献灯、そして1分間の黙祷が行われた。何とも言えない、静かなときが流れた。

今次の大震災の支援に携わった人であれば何度も実感させられたであろうが、この大規模・広域・複合型災害においては、地震の発生時刻だけでなく、津波の到達時刻もまた、深い意味を持つ時間である。しかし、地震の発生時刻が同一であるのに対し、津波の到達時刻は、地域によってまちまちである。逆に言えば、ここにこそ、「被災された地域」を「被災地」と一括りにしてはならない、という気づきを見出せるだろう。あの日から2年、衣笠キャンパスに集った約180人の方々と同じときを過ごす中、びわこ・くさつキャンパスでは85人が、そして朱雀キャンパスでは48人が、さらには全国、また世界のあらゆるところで、それぞれ祈りと誓いの場を過ごしたことに尊さを感じてやまず、今なお2668人が行方不明とされていること(注:2013年3月11日時点/最新情報は警察庁の「東日本大震災について」の「警察措置と被害状況」参照)に悲しみを覚えずにはいられない。

2013年3月10日日曜日

復興の踊り場に立って

明日で東日本大震災から2年となる。明日になれば、東日本大震災から2年が過ぎた、あるいは、3年目に入った、などと言われるのだろう。私は講演の機会をいただいたときには、決まって「日数」を示し、わかりやすい単位でくくることで、簡単に整理してしまわないように訴えている。それにならえば「あの日」から760日の今日、梅田のスカイビルで開催された「3.11 from KANSAI〜一歩、また一歩〜」に参加した。

振り返れば、阪神・淡路大震災は、「そのとき」よりも「あのとき」の経験を活かすなかで、多くの出会いとその後のつながりが生まれたのだが、今日、お邪魔したのも、そうしてつながりがひろがっていきた中でお世話になりつづけている赤澤清孝さんからのお誘いをいただいたためであり、会場では早瀬昇さんや田村太郎さんをはじめ、多くの方にお目にかかった。今日の催しは多様な企画が織り込まれていたものの、参加したのは「支援組織対象企画」と銘打った最終プログラム「被災地で復興に取り組む団体を関西の智恵や経験で支えよう!」であった。岩手から臂徹さん(一般社団法人おらが大槌夢広場 理事・事務局長)、宮城から兼子佳恵さん(NPO法人石巻復興支援ネットワーク代表理事)、そして福島から鎌田千瑛美さん(一般社団法人ふくしま連携復興センター理事・事務局長・peach heart共同代表)の3人がお越しになり、その3人の語りを田村さんがコーディネートし、全体の司会を赤澤さんが担う、というものであった。プログラムの前半ではそれぞれ地域の「今」と「ちょっと先の未来」が語られ、後半は参加者が興味を抱いた語り手を囲んでのトークセッションとなった。

田村さんによれば、今は復旧の過程と異なって、目に見えた進展を見いだしにくい「復興の踊り場」の状態にあるというが、それゆえトークセッションでは、先般、大槌での「ひょっこりひょうたん塾」にお邪魔したご縁で、臂さんとの語りを選んだ。若干、予想はついていたものの、各セッションでの対話の内容を全体で共有、という時間が用意され、はからずも内容を紹介するお役を臂さんにご指名いただいた(田村さんからすれば「やっぱり」だったようだが…)ので、13人による45分ほどの内容を、次のように3点にまとめて報告させていただいた。まず地元で復興を担う人たちは「日程調整からプロジェクトの調整」を目的にした情報共有会(水曜日の午前中)を行ってきているということ、次に地域内での行政・民間のネットワーキングは「行政による地区ごとの地域復興協議会を縦糸とすれば、復興まちづくり会社の下部組織としてのまちづくり分科会が横糸として位置づけられそう」であること、とまとめた。そして今後の関西からの支援のあり方としては、「テーマに沿って利害調整が必要となってくる段階に入る中で、顔を見える関係でつながると多様性が閉じ、つなぎやすいところにつないでしまう」だろうから、当事者による支援活動が「小手先の動き」にならないよう、「外部のリソースとして頼ってもらえるだけの関係を、地元の方々と結ぶこと」と述べた。

ちなみに、この復興のイベントの前には、兵庫県立美術館での「フィンランドのくらしとデザイン」の最終日に駆け込みで鑑賞しにいったのだが、皆がムーミン関連の展示に関心を示すなか、私はインダストリアルデザインとテキスタイルのコーナーに時間を割いた。人だかりとなっているムーミンのコーナーを抜けたとき、一緒に行った妻が「ムーミンはスウェーデン語で書かれている」と言った。その話を、その後の復興イベントにおいて、上掲の兼子さんが「支援を受ける中で劣等感があった」と涙ながらに語る場面でふと、想い起こした。暮らしや仕事を語ることばを、私たちはきちんと持ち合わせ、選び、そして自覚的に用いているのか、時代を見つめる眼差しについて深く問いなおす一日となった。

2013年3月9日土曜日

市民のエネルギーと自治への渇望


始発で飛び、最終便で戻るという1泊2日の台湾出張から帰国した。7時の関西空港発、しかも第2ターミナルビルからの国際便は、大阪に住んでいないと搭乗が困難であることを学習したところであるが、同時にLCCの最終便は、帰宅にも不安をもたらすこともまた、学んだ。35分ほど遅れての搭乗口案内となった台湾・桃園空港から、現地時間で20時20分頃出発したピーチMM028便は、関西空港に22時26分に到着した。ただ、ピーチの到着便が遅れたが如く、リムジンバスの到着も遅れて、はからずも22時30分のバスに22時37分に乗車して、家路についた。

こうした動きを取ったのは私だけで、淡江大学と立命館大学の共同による学生フォーラム「震災復興と東アジアの未来を担う若者の使命」に参加した代表団の学生及びスタッフは、7日の午後にキャセイパシフィック航空の便で入り、9日の昼過ぎの便で戻った。要するに、7日に別用が入っていた私は、往復同じ航空会社でなければ経費が高額になるということで、結果としてこのような旅程となったのである。それゆえ、本日はお昼過ぎまで学生らと行動を共にし、それ以降は単独でしばしの台湾を楽しませていただくこととした。ちなみに朝7時半過ぎに学生たちと待ち合わせをして、大学から手配済のバスで市内中心部へと向かったのだが、ここにも淡江大学の学生たちが随行し、結果として午前中いっぱい、台湾観光の案内役を買って出てくれた。

学生たちとは台湾の地下鉄「MRT」の淡水線「圓山駅」で正午に待ち合わせをしたのだが、時間どおりに戻った学生は皆無だった。少々の後ろめたさを覚えながらも、101タワーなどで異国の地を存分に楽しんだことを、それぞれの表情や、バス乗車前の記念撮影、さらには涙を浮かべながらのハグなどから、充分に感じ取った。私もまた、感情の高ぶる学生たちが窓越しに手を振り続けるバスを路上から見送る側となった後は、中正紀念堂付近に向かった。ちょうど、午前中に、スタッフと共に向かった故宮博物院でのFacebookでのチェックインを見た松富謙一さんから「日式住宅の残る青田街に」とご案内をいただいたためである。

そうして青田街を散策し、小さなキャリーバッグを抱えながら、中正紀念堂に向かうと、遠くから騒がしい声が聞こえてきた。中正紀念堂の位置する「226記念公園」の西側「自由広場」の先で、反原発の大規模なデモがなされていたためだ。歌、ラップ、演説、旗、幟、フェイスペイント、仮装、行進、などなど、台湾第四原子力発電所の廃炉を求める訴えと、独自した国家としての自治を求める訴えが、多様な表現によりなされていた。ちょうど帰国前、ある学生が「台湾で印象に残ったのは?」と聞いたところ「地下鉄のICチップ入りのトークンや、信号が変わる直前になるとLEDによる歩行者用信号で人が走り出すデザインとなっていた」などを指しながら「日本より進んでいる」と言っていたのだが、そうした「見える側面」の背景だけでなく「行動の背景」にある精神性に、もう少し、深い思考を重ねていきたいと、圧倒された風景から強く感じた次第である。

2013年3月8日金曜日

約束と役割と…


東日本大震災から2年を前に、3月8日から9日にかけて、1泊2日の日程で台湾の淡江大学への出張に出かけている。用務は、淡江大学と立命館大学との共同主催による学生フォーラム「震災復興と東アジアの未来を担う若者の使命」での参加である。最も大きな任務は、「Distant Suffering and Great Earthquakes:距離を越えて繋がり合うこと〜2つの大震災からの学び〜」と題した基調講演で、逐次通訳を入れて30分の持ち時間をいただいた。フォーラムには淡江大学の日本語学科の学生を中心に20名程度、立命館大学からは公募した学生13人が参加した。

基調講演では、「感情移入と共感の違い」を説明することで「支援」とは「する」側と「される」側との相互の関係が取り結ばれることが重要であること、距離を越えて思いを寄せる「Distant Suffering」では他者の苦しみを「わかりあえない」からこそ自分事として捉えられるうる何かに重ねて「共に苦しむ」ことから対話が始まるのではないかということ、そしてよりよい未来を展望する上では過去の経験に学び「競争から共生へ」と行動の選択肢を判断する際の論理を変える必要があること、この3点を伝えた。基調講演の後には、立命館と淡江の学生が、それぞれ「震災と私」を20分ずつ語った。そして予め参加者が用意してきたテーマごとの「テーブルトーク」を30分ずつ2セッション行われ、それらのトークを通じた内容から、印象に残ったワードやフレーズをA4の紙に書き出す「フリップディスカッション」が行われた。全員が一つの円になり、何が気になっているのかを語った後は、改めて語りたい人、あるいは語り直したいテーマを学生たちが見つけ、(1)3人から5人以内で、(2)両大学の学生の混成とすること、という条件のもと「グループセッション」となり、35分ほど語り合った。

グループセッションの後、7つに分かれたグループから、簡単に内容の共有がなされた後で、まとめのスピーチを再びさせていただいた。当初は日本語学科のMa先生の予定だったが、事情でお越しになれなくなったので、グループセッションの内容に触発され、「約束と役割」という2つのキーワードを投げかけることにした。そもそも、基調講演の際に、立命館の学生から「ボランティアで支援する際の動機」について、淡江の学生から「原子力発電の事故など、前例のない事柄に対して、過去から何を学ぶというのか」といった質問がなされたことも、無関係ではない。ここで「約束」とは「名も無き個人として関わり始めた匿名での関係が、やがて互いの特性などを知り合う顕名での関係となっていく過程には、有言か無言かにかかわらず、小さな約束を立て、それを守ることが大切」ということであり、その上で「復興の過程が終わりを迎えるのは、支援される側だった人たち支援する側へと立場が変わり、担い手としての役割を果たせたと思うときではないか」という問いかけをして、フォーラムを終えることにしたのだ。

実はフォーラムの前日から「チェキ」を用いてのまち歩きのワークショップを両大学の学生が行っていたこともあって、ある程度の「関係」ができつつある中でのフォーラムであった。しかも、今回は大学内の寮に宿泊をさせていただいたこともあって、夜まで多様な交流があったとも聞いた。フォーラムの後は淡江大学の国際部によるパーティーをご用意いただいたのだが、そこでも国際部長の先生から、「学生たちが自分の意見を言い、自分たちの考えを整理していくという、素晴らしいフォーラムだった」と、評価のお言葉をいただいた。ただ、圧倒的にお世話になった今回のフォーラム、果たしてどのように「恩返し」をするのか、私たちが担うべき役割は大きく、そして必ずや、日本にお招きをするという約束を、夜の台湾のまちでスタッフやボスらとの歓談の中、決意を固めるのであった。