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2014年12月31日水曜日

誰かに見せるのではなく、自分を示す。

この数年、大晦日と言えば決まってすることがある。大掃除、お節料理などと言うことができれば風流なのだが、なかなかそうはいかない。時には年賀状を必死で書いていたこともある。ところが、この数年は、決まって昼から大阪で過ごすことになっている。
 一つは「年の瀬ピクニック」である。これは地下鉄動物園前駅の地上、元大阪市交通局の霞町車庫に建てられていた複合文化施設(ただし、1997年の開発当初は複合娯楽・商業施設)「フェスティバルゲート」が2007年に閉鎖されることになって以来、同施設に入居していたアートNPOの有志によって実施されているものだ。フェスティバルゲートは行政による、いわゆる遊休地の活用という名目で、銀行主導の公益信託が設けられての開発であったが、2004年に3銀行が運営から撤退し、運営会社は倒産した。この「年の瀬ピクニック」は、倒産を前に、2001年に設置された大阪市ゆとりとみどり振興局による「芸術文化アクションプラン」に基づいて展開された新世界アーツパーク事業によって「活用」されたアートNPOが、10年を計画期間とするアクションプラン実施途中にもかかわらず撤退を余儀なくされたことに伴って企画された、ささやかなデモなのだ。
 もう一つは「除夜の鐘」のお手伝いである。12時31分、大阪市役所を出発点に旧フェスティバルゲートまで歩く「年の瀬ピクニック」の後に大蓮寺・應典院へと向かうのだ。大阪市役所から概ね堺筋を南下するため、黒門市場付近での途中離脱もできるのだが、それはせず、終着点までご一緒させていただく。ただし、到着後の記念撮影に続いてcocoroomで鍋を囲む会があるのだが、そちらは失礼して、夜23時半から皆さんをお迎えをする準備に向かうのである。
 この「年の瀬ピクニック」と「除夜の鐘」も、特別何かするわけでもなく、ただ歩き、ただ鐘を撞く、それだけだ。しかし、大晦日にのわざわざそれをすることに、それぞれが意味を見いだしうるものである。ちなみにデモを行う場合には道路交通法77条に定められた道路使用許可のために警察署への申請が必要となるが、それに加えて大阪市では「行進及び集団示威運動に関する条例」が定められていることもあって、企画有志の一人、cocoroomの上田假奈代さんは事前に相談に行き、申請が必要のない形態での実施を重ねてきている。それゆえ、道路思い思いの表現(通常はプラカードと呼ばれているもの)を重ねるのだが、誰かに何かする(パフォーマンス)ではなく、自分がどうあるのかが示される(デモンストレーション)中、何気なく新しい年を迎えていく。

2014年12月30日火曜日

片を付ける

 比喩やレトリックに関心があると言うと聞こえはいいのだが、人に言わせれば単に屁理屈な輩と片付けられていることだろう。それは言葉巧みに、という表現自体が否定的な意味合いで用いられることからも推察できる。また、ケネス・ガーゲンの「もう一つの社会心理学」でも記されているとおり、比喩はその意味を理解する過程で解釈者の「視覚代理物(visual substitution)」になる。それゆえ、比喩やレトリックを使うことは既存の解釈を突き崩す方法の1つとなるのだが、逆に言えば、そうした概念のずらしが功を奏さないとき、言葉ではぐらかされたと感じられてしまうのだ。
 先日も「整理と整頓は違う」と、ささやかに主張を重ねる場面があった。他人から見れば散らかっていても、そこに何らかの秩序や法則がある場合、あるいは使用頻度の高さなどにより身体的・感覚的に配置が認識できる場合、そうしたときには、欲しいものが極めて短時間で見つけられることになる。これは整頓はできていなくても、整理ができている、と捉えられることである。逆に、ゴミ屋敷化する空間は、整理ができず、結果として整頓ができなかった結果ではないか、などと考えることもできそうだ。
 年の瀬も迫る中、今日はハードディスクと机上とこたつまわりの書類の整理に暮れる一日となった。昨日開かれた應典院の忘年会にて、秋田光彦住職が「この数年触っていなくて困っていないものは、捨てても構わないはず」と仰っていた。しかしこの話には続きがある。数年来触っていないから今なくなっても困らないというものも、他人から必要かと問われると、久しく触れていないゆえに懐かしさがこみあげて、結局捨てられなくなる、という具合である。
 ふと、高校時代の友人から「きっと、倉庫のように広いところに住んだとしても、その広さを合うだけのモノにあふれるだろう」と言われたことを想い起こした。転じて今、住まわせていただいている家の玄関付近をタイル張りの土間空間に設えた。公共空間と生活空間のあいだとして、何か面白い場にできればと思うのだが、何を入れるかの前に何を入れないかを考えた方がよさそうだ。年明け早々に開催される高校の同窓会のことを思いながらも、いっこうに進んでいないと思われている手元の書類に片を付けねば心地よい年始は迎えられないと、肩を落とす年末である。


2014年12月29日月曜日

レシーブとリターン

 今年は毎日、日記を書こうと決めていた。正確に言えば、去年もまた、そう決意していた。結果として、比較的長く続いた方とはいえ、毎日は続けられなかった。特に4月になって、新たな年度を迎えて、倍近く増えた授業の運営にてんてこまいになってしまったことが一つの要因だったように思う。
 年の瀬となり、この1年を振り返る場に立ち会うことが多いのだが、今年はレシーブとリターンの違いを語ることで、来年度に向けた決意をあわせて示すようにした。いつものとおり、比喩を交えての論理展開である。バレーボールとテニスとを対比してみると、レシーブとリターンの違いは区別しやすいだろう。どちらも相手のコートにボールを返すことなのだが、レシーブは受けるもの、リターンは戻すもの、そうした表現で違いを示すことができそうだ。
 この一年は、まったくもって相手からの受けの姿勢が多く、きちんと相手に返せていなかったのではないか、そんな気がしている。しかも、なんとか受けて、ギリギリ返した、そんなことばかりだったように思う。皮肉なことに、サービスラーニングセンターという組織に所属を得ているのだが、よいサーブに対してよいリターンを戻した上で、互いにラリーを重ねていくだけの余裕を持てなかったのだ。しかも、余裕のないリターンゆえに際どいリターンエースにはならず、単に自滅への道をたどることになる。
 今日は應典院の大掃除と忘年会となった。ただ、朝から読売新聞の取材、また午後は住職の用務で作業に貢献することがほとんどできなかった。リターンどころか、レシーブもできなかった、という具合である。そんなわけで、約15年前の浄土宗21世紀劈頭宣言の筆頭に掲げられた「愚者の自覚」ということばをかみしめるべく、日記を綴ってみるのであった。

2014年10月15日水曜日

写真の共有とデータの送付


「データ、ありがとうございました。」学生からLINEのメッセージが届いた。先月、広島に災害救援のボランティアで共に駆けつけた学生からであった。この間、パソコンのトラブルもあって、送付する約束が後手後手に回っていた。

約束を果たしてほっとしたところで届いたメッセージに、ささやかな違和感を覚えた。確かに写真を送ったのである。確かに送ったのはデータだ。しかしデータにお礼を言われるのか、という具合である。

研究を仕事の一つにしていることも重なって、データが重要なことはよくよく感じている。データの数、誤差、傾向、それらから何らかの意味を見いだしていくのが研究である。とりわけ、得られたデータから何がわかるかだけではなく、わかったことに対してどうしたらよいかを示すのが、私の専門としているグループ・ダイナミックスの流儀だ。その点、今回、学生たちに送ったデータが、今月末の学外での発表機会にうまく活用されることを願ってやまない。

思えば、写真だけでなく、音楽も、また手書きのメモさえも、デジタル化してデータとなっていく。今なおファクシミリを電送と表現している人に時折出会うが、もはや電話でさえもデジタル化されて相手に届いていく。情報通信ではノイズがない方がよいとされるが、現実世界ではノイズにあふれているからこそ、よく見て、よく聞き、わかりたいと思う衝動に駆られることもあるように思う。とはいえ、こうした思考を表現することもまた、キーボードを通じてデジタル化されていることに気づかされると、明日からの気仙沼にフィルムカメラでも持っていこうかなどと考えてしまうものの、もっと他に準備をすべきもの、何より片付けなければならないことが多いと、現実に引き戻されるのである。

2014年9月2日火曜日

サンガメンバーと檀家の違いに見るもの

ニューヨーク滞在の2日目は、ニューヨークの中心部から少しはずれたところにある天台宗のニューヨーク別院にお邪魔した。場所で言うとコロンビア郡となる。応対をいただいたのは、聞真ネエモン住職(Ven. Monshin Paul Naamon)と、妻のShumonさん、そして日本から修行僧として2年前にやってきたアシスタントのKyoshoさんである。また、総代のPeterさんとDavidさんも顔を出しておられた。

このお寺(慈雲山天台寺)が開かれて今年で21年になるという。Naamon住職は千葉のお寺と比叡山に学び、比叡山の風景に重なるこの地でお寺を開くことにしたとのことだ。もともと馬小屋だった建物をセルフビルドで改築し、坐禅のための場所をつくったという。最初の6年は細々と活動をしていたが、その後、天台宗の海外普及事業団から連絡が入り、視察の上で「別院」にという提案が寄せられたことで、今の形になったと説明いただいた。言うまでもなくクリスチャンが多いニューヨークだが、この地域は(チベット仏教、韓国仏教、日本仏教、創価学会、立正佼成会など合わせると)仏教者の比率が高い地域とのことだ。

そうした中、Naamon住職からは、日本と米国とではお寺のあり方に2つの違いがあると説いていただいた。一つは墓や納骨など家単位でのシステムをもとにしていない点、もう一つは先祖の供養を通じた関わりは行われずに個々のライフイベントへの関わりを求められている点である。Naamon住職のお話は、Shumonさんが「行間」を含めて通訳をされたのだが、そのお言葉を借りるなら「日本で言うところの神道と仏教を融合させたような感じ」であるが「ちょうどキリスト者が洗礼やミサにやってくるようにお宮参りや結婚式や地鎮式を頼まれる」とのことだ。加えて、いわゆるホスピスチャプレンのように、死に向かう人々のもとでお話をする、そうした取り組みも行われているという。

そのため、Naamon住職は、お寺に集う人々を「檀家」ではなく「サンガメンバー」と表現する。サンガとは仏教において衆生が帰依すべき3つの宝(三宝:仏、仏の教え〔法〕、教えを大切にする仲間〔僧〕)のうちの一つ(僧伽)だが、仏教は一人ひとりがいい人生を送る(to follow better life)ことができるよう、寛容(tolerant)で平穏(peaceful)で包容力がある(not exclusive)ゆえ、サンガメンバーも、それぞれに信仰がある(カトリック、ユダヤ、ムスリム、人によっては無宗教という人も)という。それでも共に信じ支え合う仲間の関係が成り立っているのは、毎週水曜日に瞑想の会(食事を持って集まり、最初はディスカッション、その後に勤行と坐禅、そして夕食会、全体で3時間ほど)で時間と空間を共有しているゆえ、と解く。転じて「日本のお寺では年末年始やお盆やお彼岸など、年に数回しかお寺に集っていないのではないか」という指摘しつつ、お寺が地域コミュニティのインターフェースになるには、「改宗を望んで接するのではなく、対話を通じて教えを伝えていく」という仏教者の姿勢が大切と、渥美公秀先生による協働的実践の論理を使うなら、「布教とは言わない布教」の実践を垣間見る一日となった。

2014年9月1日月曜日

1日6食となる日

私にとっての2014年9月1日は、一日6食をいただく日となった。ストレス食いではない。日付変更線をまたいでの旅に出たのだ。出発前の日本時間での食事に加え、搭乗後に出される機内食をいただくため、合計で6食を取ることになるのである。

今回は9日に帰国という8泊9日の米国への旅だ。振り返ると、米国の本国に行くのは2002年以来になる。今年度、立命館大学研究部による研究推進プログラム(若手研究)において「悲嘆の受容と伝承の方法論に関する研究」というテーマで支援をいただいたので、そのフィールドワークとして足を向けることにした。最大の関心は、2014年4月に開館した「9.11記念館」への訪問である。そこでは、いかにして当事者による語り直しの場づくりが行われているかに視座を置くことにしている。

昔と違って、関西からのアメリカ東海岸へのアクセスはあまり良くなく、今回は成田経由の便での渡米となった。ユナイテッド航空の運行による便とあって、事情をよく知る方にとっては想像のつくように、機内食や機内サービスでは、あまり盛り上がらない。それでも、出されたものは残さずにいただく旅路である。ふとそう思ったら「太陽にほえろ!」のラガー刑事が思い浮かんでしまった。

無事にニューヨークに到着し、タイムズスクエアのホテルにチェックインした後、長い一日の最後の食事はKorean Wayにあるベジタリアン向けの韓国料理店でいただいた。案内してもらったのは大学時代の旧友で、昨年に一児の母となった奥さんである。ろうそくの灯りが置かれた掘りごたつ式のテーブルで食事を共にする中で、ニューヨークに住み、働く中で、改めて日本に寄せる思いがあることを知った。3時間ほどの再会であったが、2回目の晩餐のうちの地上編として、この4日間のニューヨーク滞在の「ツボ」(食事やオフタイムのスポット)を得ると同時に、共同での論文執筆への可能性も生まれた充実のときであった。

2014年8月31日日曜日

ゆがみとへこみを携えて

移動が続く8月の末、不注意で移動させてはいけないものを移動させてしまった。駐車していたレンタカーのサイドブレーキが甘く、緩やかな下り坂で車が動いてしまったのだ。幸いにして集落の皆さんの知恵と配慮で事なきを得たが、一つひとつの所作に気が抜けてしまっていたのだと恥じている。何より、誰にも怪我がなかったことが不幸中の幸いであった。

最近の車はわざと壊れるようになっている、と、昨晩の懇親会である方が話しておられた。「クラッシャブルゾーン」という言葉も使われるとおり、巧妙に成形されたプラスチックのパーツを、金属のフレームが支えている。つくられた空間に向けてプラスチックは凹み、かかった力に応じて金属が歪むのだ。普段ダンプに乗っている方からは、「ものは壊れるし、車は治せば済むから、とにかく怪我がなくてよかった」と、何度も励ましていただいたのだが、やはり凹んだ箇所や、歪んだ部品を覗き見てしまうと、心情としては落ち込まざるをえない。

そんな事故を起こしてしまった私もあたたかく包み込んでいただいた新潟・小千谷の塩谷集落には、また秋に訪れる。まずは9月末の稲刈り、次に10月23日の新潟県中越地震の慰霊祭である。あの地震から今年で10年ということもあり、10月の初旬に開かれる会合にもお邪魔させていただくかもしれない。立命館大学の学生たちも2012年からお世話になっているが、震災10年で人が減っていく集落の現実を受けとめるべく、大学間連携による活動拠点を整備しつつあることが、頻繁に訪問する背景となっている。

私は立命館大学では学部に所属する教員ではないため、いわゆる「研究室」要するにゼミを持ってはいない。その代わりと言っては語弊があるが、全学を対象にした教養教育の一環として、サービスラーニング科目を担当しており、それゆえ、学部や回生を横断してのフィールドワークを展開できている。ゼミと違って1年単位でメンバーが替わっていくものの、継続して参加する学生もいることも重なり、現場での受け入れの調整をいただいている「塩谷分校」のリーダーの方からは、「立命館は素直な子たちで、好きだ」と仰っていただけて、格別の喜びを感じている。転じて、昨晩のミーティングでは、別の大学の大学院生に「経験の長さや立場の違いを踏まえてリーダーの自覚を持つこと」「大学間の垣根が取れることで顕在化する相違点に注意を向けること」「現場以外の場所でも会う意味を大事にすること」などを(偉そうに)指摘したのだが、それらはまた自分への課題であることを伝えきれず、また現場あるいは現場以外で語りあうことにしよう。




2014年8月30日土曜日

新潟・小千谷の山あいで踊り明かす夜

気仙沼、大船渡をめぐった8月の末、新潟の小千谷にやってきた。前日まで花巻にいたので、うまく移動ができるとそれほど遠くないのだが、飛行機の直行便がないこと、また変更不可の往復チケットで予約していたこともあって、一旦、伊丹に戻っての移動である。飛行機は新潟付近を通過するものの、飛行機に途中下車はないので、自ずとそうなる。

小千谷にやってきたのは「二十村郷盆おどり」への参加のためである。これは7年前から始まった、4つの集落による合同の盆踊り大会だ。今年は新潟県中越地震から10年を迎えることから、地震の後で始まったことは明らかである。復興の過程で、同じ節まわしで踊る集落の持ち回りで、1つの場をつくる取り組みが始められたのだ。

今年は荒谷という集落での開催であった。私は塩谷集落で実施されている、田植えや稲刈りや学習会や見学会などを通じた地域間交流の取り組み「塩谷分校」の関わりで、塩谷から参加させていただいた。田植えや稲刈り等で塩谷を訪れる、また訪れてきた学生たちも、浴衣や法被姿で参加した。大阪大学から2名、関西学院大学から5名、そして立命館大学から4名、という具合である。

集落ごとに異なる法被をまといつつも、皆さんの身体は馴染みの節回しで自然と動いているもようであった。転じて、大阪大学の渥美公秀先生のもとで学んで京都大学防災研究所に在職中の宮本匠くんや、関西大学の草郷孝好先生など、日頃はなかなか会えない方々にも再会したことが、不思議なようで不思議ではなかった。あいにくの雨模様で一時中断を強いられたものの、「次に降ったらやめましょう」という長の決断のもと、太鼓と歌にのって、予定の時間を超えて踊り明かすことになった。中断して程なく小千谷高校3年生の生徒さんから「太鼓、どうでした?」と満面の笑みを浮かべながら訪ねられたときの彼女のその明るい表情、加えて来年の梶金集落の長の「ちっこい文化を大事に」「がんばっていきましょう」という呼びかけから、隣り合う集落との一体感のもと、踊り明かすという楽しみは、やはりその場にいないとわからないと痛感したのであった。

2014年8月14日木曜日

大学が休みのときには…

立命館大学は夏期一斉休暇中である。しかし、休みのときにこそ働く人たちがいる。例えば、今日は電気工事で大学が停電となり、13日から15日は成績管理機能も統合された学生情報システムにログインができない。そもそも、学生たちにとっては「長い夏休み」も、大学全体にとっては「それまで」と「これから」をつなぐ大事な時期である。

そうした中、今日は学生たちの自主活動団体の相談を2件、承っていた。ところが、上述のとおり、大学構内での打合せが叶わない。機転を利かせた1つめの団体(福島県で仮設住宅に暮らす方々の支援を継続的に行い、この夏で6回目の取り組みとなる)からは、「大学の近くの喫茶店にしましょう」と提案があった。大学周辺の地域に目を向けているからこその選択肢なのだろうと、復興支援の現場での立ち居振る舞いも想像できてうれしかった。

学生からの相談の多くは「いいグループ」だが「いいチーム」にはなれていない、という組織化の問題に通じるように思う。無論、私の関心がそこにあるからかもしれない。ともあれ「仲良く」「雰囲気がいい」という、一見、肯定的に捉えられる立ち居振るまいを紹介してもらった後には、決まって「なのですが」と逆接で結ばれ、「これからどうしたらいいかが課題なんです」などと続く。

そんな折、リーダーの学生から、「本も読んで勉強してみたんですが」と、読み通した痕跡の残る本がテーブルに出されたところ、「なんか違うんですよね」と言葉が重ねられた。その違和感を大切にして他者に丁寧に関わっていって欲しい、という意味で、「包み込み型」(for you)と「浸り型」(with you)とで、関係構築の方法や作法は違うよね、ということを、具体例を交えて(例えば、足湯には温度計やストップウォッチが必要なのか、など)示してみた。これはもう一つの団体にも通じるのだが、特に外部資金を得ようと、何らかの応募書類に記入する折、必要に駆られて誰かを「役職」者にし、その反面で、一人ひとりのメンバーの「役割」は軽視され、結果として個々を機能別に分化したグループに所属させることで組織づくりは完了できた、と捉えているように思う。もう一つのグループ(関西の若者たちにHIV/AIDS等の普及啓発を行うべく、京都YMCAによるエイズ文化フォーラムのスタッフとなっている)は、同じ喫茶店でも市内中心部のチェーン店での相談となったのだが、その前のグループとの議論も踏まえつつ、「原体験がないとモチベーションは高まらないのでは?」「スキルを認めならオファーしよう(身方にボールを回そう、とも)」「〜だけど、を、〜だから、に」「〜な夏2014、などと統一のお題を出して、夏休み明けに持ち寄っては?」「一般名詞で語らず固有名詞で名付ける」「身内を敵にしない」などと、キャッチフレーズ風に今の膠着状態を解くべくフレーズを投げかけ、最後は「悪知恵とは経験値だ」などと結んでみたものの、この夏の学生たちの伸びしろを期待してやまない。

2014年8月5日火曜日

風化と劣化・風評と定評

「一生のうちに3回だけ何でもお願いできるカードがあったら、今回その1回を使う。」そう言われてしまうと、なかなか断れない。当初、今日は科学技術研究費による研究プロジェクト「地域のまちづくりと連携した市街地型公的住宅団地の再生」の研究会に参加する予定であった。しかし、研究会に出席する返信をした7月の末になって、急遽、日帰りでの福岡出張となった。

朝から福岡に向かったのは、「ふくしまから、はじめよう。サミットキーマン会議」に出席のためである。先般、7月23日に大阪で開催された折、立命館災害復興支援室が協力団体として並んだこと、加えてその場に私が参加したことが直接のきっかけだ。そもそもそうした場に協力する運びとなったのは、さらに遡ること2013年12月20日に学校法人立命館と福島県とは「相互の人的・知的資源を活かした連携・協力及び福島県の新しいイメージづくりの情報発信を目的とした協力」を目的とした協定を締結しためである。

会議の冒頭、福岡側の参加者から「福岡で福島を取り扱うにあたって、福島県は何をテーマに据えたいのか」が問われた際、広報課の方は「風化と風評被害にどう向き合うか」と応えられた。すると、進行役を務めた田坂逸郞さんは「風化した後、風評を払拭したとして、47都道府県の1つに戻るのでよいのか」と言葉を重ねた。いわゆる「devil's advocate」などと言われる天の邪鬼な返しを重ねながら、地震と津波と原子力災害を受けた(そして今も被害の只中にある)福島に対して、誰が何にどのような関わりを重ねることで、誰の何をどこまで支援できるのか、16人で議論が進められた。他人事が我が事になるにはどうしたらいいか、数字を正確に把握したいモチベーションがない人に何をどう伝えるといい関係が広がるのか、ネガティブイメージを止めるのかポジティブなイメージをつくるのか、いかに仕事をつくりだすか、福島から福岡へのラブコールをどのような言葉で表現するか、手段を確定する前にどう見て欲しいのかのブランディングを先にしなければならないのではないか、一点突破のテーマを定めるとしたら何か、まずは重点エリアを定めてはどうか、モノが行き交う関東での対策とは違う観点となることを大前提にすべきではないか、現状を見ることから始めないといけないのではないか、などなど、それぞれの立場から問いが投げかけられていった。

それぞれの都合もあって、全員が顔を並べての議論は1時間15分だったのだが、終了後の雑談で「災害の風化の中でも記憶の劣化が一時の風評ではなく確かな定評をもたらしているのではないか」と問いかけさせていただいた。会議中の議論の中で、ポジティブとネガティブという二項対立の図式で捉えられることが多かったこともあって、そうした視点をずらすための言葉遊びでもある。そもそも、社会問題に取り組むということは、主体も対象も価値中立的に当該の問題(イッシュー)を捉えていないために、当事者が言葉や数字を重ねれば重ねる程、ポジティブな人はよりポジティブに(○は◎へ)、ネガティブな人はよりネガティブに(▲は×へ)と、両者の溝は広く、深くなっていく。立命館は大分県別府市に立命館アジア太平洋大学(APU)を置いているのだが、今日、APUの副学長が参加できていたら、もっと鋭く「次の一手」を考えられただろうに、などと思いながら、同じ立命館からの出席者である文学部の心理学専攻の学生と共に「認知的不協和」などの話をしながら帰路に就くと、理研のCBDの笹井博士の自死・自殺の報道に触れ、評価や評判とはかくも人を苦しめるものだと感じる一日であった。

2014年8月4日月曜日

騒がしさと隣り合わせの闇の中で

今年も「それから」の時期がやってきた。大蓮寺・應典院での「詩の学校」特別編である。毎月開催されている通常の回とは異なって、秋田光彦住職の協力のもと、墓地での詩作と朗読を行うというものである。進行役は変わらず、詩人の上田假奈代さんだ。

「それから」には、少し不思議な印象を覚える人もいるだろう。夏目漱石の小説の題名にもある。確認させていただいたことはないが、大蓮寺・應典院での墓地での詩作と朗読の場に名付けられた意味は、「死別」の「それから」を思う時間と空間に対して名付けられたのだろう。事実、案内文にかえて綴られている上田假奈代さんの詩は、「死と詩が同じ発音をもつのは、たんなる偶然ではないと思う」で始まる。

今日は朝から関西国際交流団体協議会による「ESD(持続可能な開発のための教育)実践による人材育成〜学校と地域(NPO)の連携を中心として」にお招きをいただいた。「グローバル化の中のローカルな実践〜地域に根差したボランティア活動による学びの意義」と題して、1時間半の話題提供をさせていただいたのだが、ボランティアの活動時間を記録する「ESDパスポート」に対して、批判的な発言をしたことで、昼食の折に何人かから「あれは…」と丁寧な説明をいただくことになった。いわゆる「見える化」の意味、また活動への契機や発露を生むということについて、一定理解をしているのだが、ツールの使用が前提かつ先行することで、主体性を(対象に)「発揮させる」という学習から教育への逆転が導かれることが気になっての発言であった。

ビュッフェスタイルの昼食をいただき、應典院にて来客対応を経て、「それから」を静かに迎えた。そのあいだにも、手際よく仕事を仕上げる兄弟子と会話をさせていただくなど、変化に富んだ一日だった。以下に、「それから」にて、佐世保やパレスチナやウクライナなど、遠い彼の地の悲しい事件を思って書いた詩を留めておくことにする。加えて、この詩の朗読の後、私の逃げと甘えの構図に対して住職から厳しくも適切な叱責をいただいたことを忘れぬためにも、その事実を記しておくことにしよう。


騒がしさと隣り合わせの闇の中で

鳴く。蝉が鳴く。
それは季節のあかし。
1週間の命が奏でる、
7年分の声。

笑う。共に笑う。
それは喜びのあかし。
あなたがいるから私がいると、
互いの存在に気づくとき。

走る。車が走る。
それは生産のあかし。
忙しさに身を委ねる、
働く人々の音。

飛ぶ。飛行機が飛ぶ。
それは文明のあかし。
手の届かない空を横切る、
重たい塊の影。

光る。まちが光る。
それは都会のあかし。
喧噪の只中を灯す
文明に落とす影。

泣く。人が泣く。
それは悲しみのあかし。
闇の中に光を求める
やさしいあなたの涙。

2014年7月28日月曜日

ささやかでも長く確かな支援を

東北での3日間を終え、日常の暮らしに戻っている。最近の日常と言えば、会議や打合せの合間にメールを捌く、といった日々である。締切をとうに過ぎた原稿を抱えているものの集中して執筆するモードになれず、後手後手に回っている。瞬発的な集中力をいかに高めるかではなく、仕事まで捌くモードにならないようにせねば、と自省と自戒を重ねる日々である。

朝はサービスラーニングセンターの「主事会議」から始まった。名前こそ会議だが、機関としての意志決定の会議ではない。今回の議題は9月に予定されている学生スタッフ(学生コーディネーターと呼ばれている)の合宿と、2015年4月に迫る大阪いばらきキャンパス(OIC)開学に伴うサービスラーニングセンターの展開についてであった。2012年に「立命館スタンダード」という名のもとに、新しい教養教育のあり方が定められた。そのためサービスラーニングセンターではそのうちの「社会で学ぶ自己形成科目」(いわゆるC群)の科目をキャリア教育センターと共に展開しているが、(朱雀キャンパスでは学部教育が実施されていないため)衣笠キャンパスとびわこ・くさつキャンパス(BKC)の2キャンパスのみを射程に組み立ててきた前提が崩れることもあって、体制問題は組織の位置づけまで掘り返す議論が求められている。

朝の会議の後は教育開発推進機構の河井亨先生とのランチミーティングであった。衣笠キャンパスの東門を出て少し歩いたところにある「藤井」にお邪魔した。恐らく15年ぶりくらいの再訪だろう。今なお、時間的、空間的(そして、ちょっとだけ金銭的に)余裕のありそうな学生たちがあふれていて、なんだかうれしかった。

ランチミーティングでは夏休みの課題である「論文執筆の共著」を確認して、午後はOICの開設準備室で副室長を務めておられる服部利幸・政策科学部教授を話題提供者に招いたサービスラーニングセンターの研究会(ボランティア・サービスラーニング研究会:VSL研究会)が開催された。学生スタッフの組織化、茨木市市民活動センターなど地域団体との関係、各学部(当面は政策科学部と経営学部)による地域連携の取り組み、3つの基本理念を実現するための展望、他キャンパスでの取り組みとの関連など、論点は多岐にわたった。そして夜は7月21日付けで常勤監事に就任されたことに伴い、立命館災害復興支援室長を退任される上田寛先生の謝恩送別会であった。合計9名のささやかなイタリアンナイトであったが、上田先生のあたたかいお人柄に触れ、ささやかでも確かな取り組みを重ねていこうと決意を固める一夜であった。

2014年7月27日日曜日

スピード感への広く・鋭い視点を


夏の1回目の東北往訪、3日目が最終日である。朝は「唐桑御殿つなかん」で、偶然宿泊日が重なった伊波敏男さんの一団と朝食の際に懇談させていただいた。しかも、7月5日から、料理長として今井竜介さんが働き始めたこともあって、朝食は牡蠣のオムライスという洒落たものを頂戴した。伊波さんたちを大漁旗をモチーフにした「福来旗」でお見送りし、出発までのあいだ、一代さんと竜介さんと、しばし「おじゃっこ」(茶飲み話)で盛り上がった。

気仙沼とのご縁、また「唐桑御殿つなかん」とのご縁は、糸井重里さんの事務所「ほぼ日」の皆さんとつながったことによる。今は立命館アジア太平洋大学の副学長となられた今村正治さんが、立命館災害復興支援室の担当部長でいらっしゃった頃、東京での「へんなミーティング」に招かれたことがきっかけで、その翌月の災害復興支援室による「後方支援スタッフ派遣プログラム」の第19便において気仙沼を行き先の一つに追加することにしたのである。ミーティングが5月16日、学生10名と教職員2名が訪れたのが6月6日から11日のうち9日と10日であるから、今思えば即断即決の物凄いスピード感だ。そして今、まさに「唐桑御殿つなかん」の隣の民地にて、東北ツリーハウス観光協会による「100のツリーハウスをつくろう」というプロジェクトの一つを、立命館が参画して形づくろうという運びになっている。

この1年ほどの関わりであるが、訪れるたびにささやかな変化を感じ、変わらずにあたたかく迎え入れてくださる方々の思いが深まり、物理的な距離に対する精神的な距離はますます近づいている気がする。もちろん、気がするだけであるから、一方的な感情移入を互いの共感であると勘違いしないようにせねばならない。それでも、わずかな時間の談笑の中で、女将の一代さんから「もう、親戚みたいなものだから」と仰っていただいたり、電話ではなんどかやりとりを重ねた料理長から「おもしろい方ですね」と言っていただけるだけで、また次の約束を結び、その日を心待ちにしたくなる。ちなみに竜介さんが入ったことで、「盛屋水産」と「唐桑御殿つなかん」がより一体感を増してきているようで、次に行くときは竜介さんに料理長以外の肩書(○○長)が並んでいるのだろう、などと夢想してしまった。

気仙沼からは南三陸を経由して名取の閖上に向かった。南三陸では防災対策庁舎で手をあわせ、さんさん商店街でENVISIの皆さんによる「きりこボード」の鑑賞と昼食休憩を取った。そして閖上では、いつものとおり長沼俊幸さんから震災当日から「これまで」と仮設住宅の「今」と住宅再建などの「これから」について、1時間半あまり、じっくりご案内をいただいた。今回長沼さんからは、地域の嵩上げが進む中、土地の買い上げの手続きはあっけないくらい簡単に済まされてしまったこと、facebookを通じて活動基盤を発展・拡張させている復興支援プロジェクト「STEP」があること、中学校の遺族会の方に亡くなったお子さんの名前が入ったコカコーラを探して届けておられる方がいること、何より地域の方にはあまり好評が得られていない慰霊碑が8月11日に除幕式を迎えることなどを伺い、3日間の東北滞在を終えるにあたって、また次の機会のための視点を広く、鋭くいただけたように思う。

2014年7月26日土曜日

沿岸部を縦走し力尽きる夜


この夏1回目の東北往訪、2日目は宮古から気仙沼へと移動する一日であった。岩手県から宮城県への126kmの移動である。しかし、単に移動するだけではなく、途中でいくつかのまちを訪れ、東北の「今」を見て回るのだ。そのため、朝8時に宿を出て、国道45号線を南に向かうものの、気仙沼の宿には19時頃に到着した。

朝食は宮古市内、魚菜市場でいただいた。昨日の夜に夏祭りの準備をしている高校生たちに出会ったが、魚菜市場でも同日にお祭りのようで、朝から設営と、楽しみを心待ちにいち早く足を運んだ方々で賑わっていた。市場で朝食をいただいた後に向かったのは、同じ宮古市ながら重茂半島であった。姉吉集落では「此処より下に家を建てるな」の文言で知られる大津浪記念碑を見て、千鶏集落では立命館大学の建築計画研究室(宗本晋作研究室)が建設した仮設集会所「ODENSE」にお邪魔した。

その後は本州最東端の魹ヶ崎がある重茂半島の奥にまで足を伸ばしたので、そのまま半島をぐるっと回る行程とし、牡蠣などの養殖いかだに太陽の光がまばゆく映る山田湾や、人波あふれる吉里吉里の海水浴場などを横目に見ながら、旧大槌町役場へと向かった。何度か足を運んでいる旧大槌町役場も、震災遺構として一部保存が決定されたことに伴い、4月10日から解体に着手がなされ、囲いの様子から拝察するに、玄関を含む正面部分を除いて撤去が進められた状況にあった。町長を含め40人が亡くなった場所で慰霊の祈りを捧げて、車窓から釜石の鵜住居地区など多くの悲劇が生まれた地域を通りながら、大船渡へと向かった。大船渡では仮設の飲食街(大船渡屋台村)で昼食をいただいたのだが、ここはお店どうしで互いに注文が可能という、相互連携の仕組みと仕掛けを置いている点が興味深い。

大船渡での昼食の後、陸前高田の「軌跡の一本松」に保存作業が終了してから初めて間近で見ることができたのだが、その脇の空間に渡されている嵩上げと高台移転のための土砂運搬のベルトコンベア「希望の架け橋」を間近で見た存在感にも圧倒させられた。続いて向かった八木澤商店はあいにく休日だったものの、河野通洋社長と偶然お目にかかることができ、少しだけ意見交換もさせていただいて、気仙沼へと向かった。気仙沼では既に定宿の一つ、「唐桑御殿つなかん」に今回もお世話になるものの、今回は先に「舞根森里海研究所」にお邪魔して、「森は海の恋人」の畠山信さん(お父さまは畠山重篤さんで、同NPOの理事長)と懇談をさせていただいた。夜は「つなかん」での地元食材を堪能する夕食の後、唐桑を愛するラグーンガイドツアーの千葉正樹さんと交流をさせていただいたものの、体力の限界で猛烈な睡魔に勝てず、なんとも失礼な態度となってしまったことを恥ずかしく思う、そんな一日であった。



2014年7月25日金曜日

再来のまちでの去り際の余韻

「ホームランを数えてるうちは四番にはなれない」。これは高校野球を題材に多角的な角度から人間関係を描いた漫画(などという仰々しいが)「タッチ」(あだち充)の中で出てくる台詞である。喫茶店によく置かれているサンデーコミックスなら23巻、私が揃えているワイド版であれば10巻に収められている「10割だよ」(全257話中227話)で描かれている。主人公(と言ってよいだろう)上杉達也(明青学園)との対戦に燃える相手高校(須見工)の新田明男が、後輩(5番の大熊)の問いかけに対して答えた言葉だ。

何かを狙っているわけではないのだが、岩手県宮古市に何回目になるかわからないがやってきた。前回お邪魔したのは7月12日の仮設集会所「ODENSE2」の感謝祭であり、そうして一つひとつを遡っていけば、通算何回目かは明らかになる。とはいえ、今回は立命館の業務モードではなく、改めて「今と人」に会うためにやってきた。旅のお伴は、インドネシアのジャワ島中部地震に伴う京都府国際課によるインドネシア・ジョグジャカルタへの支援でご一緒させていただいている香老舗・松栄堂の方々と、應典院のスタッフ、合計4名である。

朝6時に家を出て、8時15分の飛行機に乗って、田老の防潮堤に着いたのはほぼ16時であった。こうして改めて時間を記すと、関西からの距離を痛感させられるのだが、そうした距離があっても、あるいはそれだけの距離があるからこそ、足を運ぶことに意味がある。ふと、映画にもなった森山未來さんと佐藤江梨子さんらによる『その街のこども』の有名な台詞に「行かなだめなんです」を想い起こす。何度か宮古に足を運んできた者としては、この「それでも」行くということ、さらには何かをするのではなく、そこにいることが大切となることを、足を運ぶごとに実感してきた。

宮古では、宮古観光協会による「学ぶ防災」のガイド(今回は鈴木重男さんで、2012年の夏に仮設住宅での支援活動でご縁をいただいて以来、をお願いして防潮堤や嵩上げの工事が進んでいる今・現在の田老についてお話を伺い、その後は夕暮れの浄土ヶ浜を散策した。夜は浄土ヶ浜旅館・海舟で夕食を取り、宮古セントラルイン・熊安の隣にある土蔵を改装したカフェバーHAMACAにてマスターのセンスで出されるお酒を楽しんだ。はからずも、明日には宮古の夏祭りが開催されるようで、宮古市中央通商店街振興組合が協賛するビアガーデンにて振る舞われる「たこ焼き」の予行演習のため、山田高校の生徒2名がHAMACAにて鉄板と格闘していた。関西からやってきた我々の血が騒いでしまい、横から茶々を入れ、これでまた一つ宮古への思いが深まったと感じつつ眠りにつくのであった。(蛇足だが、『タッチ』の作者、あだち充さんが登場人物の現場の立ち去り方を特徴的に描くことを「あだち去」として着目した方がおられるのだが、まさに今日はそんな感じでカフェバーを去っていったような気がしてならない。)

2014年7月24日木曜日

ルールで縛らずルールを紐解く

NCISというドラマがある。米国の海軍・海兵隊にまつわる犯罪捜査チームを描いた作品だ。日本ではiTunes Storeでの取り扱いがなく、DVDもシーズン2までしか出ていないこともあって、あまり知られていないだろう。ちなみにFOXチャンネルでは2014年7月にシーズン11の初回放送が終わり、ラルフ・ウェイト(Ralph Waite)氏の追悼として、チームのリーダーであるリロイ・ジェスロ・ギブスの父、ジャクソン・ギブスの死にまつわるエピソードが涙を誘った。

NCISはチームワークと組織のマネジメントを考える上で絶好の作品である。中でも法律が重視される犯罪捜査であるにもかかわらず、リーダーは「ギブス・ルール」という独自の規律を自らと仲間に課し、白と黒のあいだに分け入っていく。ただ、ギブスには役柄として寡黙で威厳に満ちた佇まいが求められているため、ルールにまつわる背景や解説は、仲間たちの語りや回想によってあぶり出されている。今日は朝から應典院で執務をしていたのだが、應典院のみならず、私が全員が見えるところに座る、ふとした会話に突如絡んでいく、といった立ち居振るまいの一部は、このNCISから着想を得ているところがある。

ちなみに大学での講義が一区切りしている今、会議や研究会が目白押しである。今日も福島からの来訪を受けて打合せがなされ、夜には立命館大学「教学実践フォーラム」が開催された。なお、今夜のフォーラムのテーマは「Deepening Reflection 2」とされ、1月21日に実施の「Deepening Reflection」の続編であった。前回は経済学部の金井萬話題提供者であったが、今回は坂田謙司先生(産業社会学部)と石原一彦先生(政策科学部)の実践に対して、コメンテーターというお役をいただいた。

実践から何らかの知見を得るでは、現場を包み込むルールを紐解くことが欠かせない。今夜の「Deepening Reflection 2」でも、1月の「シリーズ1」での「いかにして失敗事例に目を背けず振り返るか」と「指導のために抱く怒りを感情的ではなく伝えるにはどうしたらいいか」という視点をもとに、「現場からのフィードバックと現場へのフィードフォワードのループを保つことの大切さ」を確認した上で、「共異体としての学びのコミュニティをどう維持・発展できるか」、「個々の学生のgenerality(一般性)を高めるよりも、学生間のgenerativity(世代継承性)をどう育むことができるか」、「プロジェクトを通じた学びであれば金銭面のマネジメントにも踏み込んではどうか」が今後の論点になるだろう、と発言をさせていただいた。果たして「シリーズ3」があるのかは不明だが、これだけ実践的な学びが展開される中で、通常、実践を縛る足かせのように捉えられるルールを、担い手の責任感や倫理観を規定するもの(英語で言えばnorm)として丁寧に紐解くことが殊更に大切になってきているだろう。とりわけまちづくりや復興の実践に携わっている者としては、秩序を重んじてルールを厳格化している「管理」としてのマネジメントではなく、よりよい関係を開くための「運営」としてのマネジメントのルールへの興味を禁じ得ないのである。

2014年7月23日水曜日

ファンとメンバーのあいだ


大阪の天王寺区の北の端にある應典院に職を得て、あと1年半で10年になる。静岡を出てくる際には、大阪で働くようになるとは思いもよらなかった。加えて僧侶の立場となるなど、想定外もいいところである。ボランティアの世界にどっぷりと使った大阪ボランティア協会の早瀬昇さんに対し、早瀬さんのお母さまが「お地蔵さんになったと思って」とお父さまに諭したという逸話があるのだが、これを大学時代には『基礎から学ぶボランティアの理論と実際』の冒頭部分で目にし、2010年12月の寺子屋トークで耳にし、それぞれに笑ったことをよく憶えている。

應典院の特徴は枚挙にいとまがないものの、その一つに開かれたお寺であり続けるために、事業部門を應典院寺町倶楽部というNPOが担うという構図がある。NPOと言ってもNPO法人ではない。お寺を支えたいと思ったとき、通常であれば宗教団体に「入信」するという手続きが必要となるのだが、應典院の場合は市民団体に「入会」すればよいのである。無論、別に入会しなくても多くの事業に参加することはできるので、各種事業を展開している組織に所属したいかどうかが、判断の分かれ目となる。

今日の午後、グランフロント大阪のナレッジキャピタルにある北館8階のカンファレンスルームタワーCで開催された「ふくしまから はじめよう。サミットin大阪」に参加させていただいた。蛇足だが、この「カンファレンスルームタワーC」は、JR大阪駅からの連絡デッキからでは辿り着くことがほぼ困難であり、複数ある2階のエレベーターを何機もさまよい、結果として諦めて帰ろうとしたとき、ちょうど1階ロビーにて案内されていた「生誕80周年記念 藤子・F・不二雄展」 のドラえもんをきっかけに、アクセスルートを発見することができた。ともあれ、このサミットでは、「経験したからこそできることがある」(元兵庫県庁・辻さん)、「技術があっても人がいなければどうしようもない」(三進金属工業・新井さん)、「チアリーダーがリードできるところがある」(クラップスチアリーダーズ・石河さん)、「福島はカタカナで語られ続けてしまっている」(内堀副知事)など、合点がいく発言が多かったが、特に後半のパネルディスカッションのコーディネーターを務められた福島大学の丹波史紀先生が、「関心人口」を増やさないといけないと議論を締めくくったのが印象的であった。「簡単に言えばファンです」という言葉もあわせて、である。

福島のサミット終了後、應典院での「仏教と当事者研究」プロジェクトの一環での読書会に向かった。北海道浦河町の実践に学ぶべく、『べてるの家の「当事者研究」』、『べてるの家の「非」援助論』と読み進めてきたシリーズは今回が区切りとなり、6月の現地でのフィールドワークを経て『技法以前』を深めるという機会であった。2時間あまりの議論の中で、最後には「べてるの家」のファンは「べてるの家」のメンバーの方々と関わりながら誰の何を支えていくのかという議論となり、転じて應典院寺町倶楽部が「ファン」であり「メンバー」によって支えられること、そして應典院というお寺を開く実践では「サポーター」が鍵となることを痛感した。必ずしもファンがサポーターとなり、サポーターがメンバーなるとは限らないからこそ、好意的な関心を寄せていただける方々が、実際に誰かの何かを支援する取り組みを通じて、場の担い手になっていく、そんな組織と事業の有り様を理想に掲げ、もう少しがんばってみたいと思う一日であった。

2014年7月22日火曜日

記録からのリマインダーと記憶からのリメンバー

既に学校は終業式を迎えたのだということを、こどもたちの駅のホームでの服装から実感した、そんな一日であった。私の学童期には「海の日」はなかったが、概ねその時期には夏休みを迎えていた。長嶋茂雄さんの逸話として、バースデーアーチを打つ選手をうらやましく思う、というものがあるのだが、さしずめ学校で誕生日を祝ってもらうことはなかった。もっとも、幼稚園の頃には同じ誕生月の園児たちのお誕生日会がなされたし、働き始めてからは「サプライズ」を用意いただいたこともあり、年に一度の特別な日に特別な時間をいただいてきた。

この数年はSNSの浸透もあいまって、誕生日にはキーボードに向かってお祝いコメントへのお礼を綴るのが一つの風物詩となってきた。しかし、いわゆる「SNS疲れ」ということも重なり、具体的にはfacebookでの基本データでは誕生日情報を公開しないことにした。そんな記念の日の今日は、朝から立命館大学びわこ・くさつキャンパスで打ち合わせ、そして衣笠キャンパスに移動して福島県いわき市で活動する学生たちの月次報告と相談の場を共に過ごした。それぞれのキャンパスのサービスラーニングセンターを使わせていただいたのだが、スタッフから「お誕生日おめでとうございます」と声を掛けていただき、少し気恥ずかしくもあり、やはり嬉しかったりするのであった。

ちなみに朝一番には遅れに遅れている8000字の原稿を1本書き上げた。にしても、最近は脱稿するのが本当に遅くなってきた。日々の時間が細切れになっていることが大きな要因なのだが、昔はそれでも合間でうまく仕上げてきていたように思う。そんなこともあって、あえて今日からは「いつでもどこでもオフィスになる」というフルスペックなノートパソコンを持ち歩かず、ささやかな物書きを重ねていくための道具をお供にすることにした。先週で大学の講義も終わり、情報や知識のアウトプットから、知識から知恵を紡ぎなおしていくアウトプットのためのインプットの機会を増やさねばいけないことも影響している。

そうした中、盟友から深夜にいち早くお祝いのメッセージが届き、その後も何人かからお祝いのことばが寄せられた。ふと、手書きのカードや電話をいただいた時代が懐かしく、それ以上にモノを求めていた時代を懐かしんだ。そして、今やモノよりも物語を大事にするようになり、SNSなど電磁的なリマインダーではなく、手帳や記憶からリメンバーして、祝いの言葉を届けていただいた皆さんに深謝をせずにはいられない。そして、そうしたあたたかい気持ちを自分も忘れずにせねば、と、地元で暮らす誕生日が1日違いの幼なじみな同級生のことを思うのであった。

2014年6月1日日曜日

成長から成熟への転換点


 今日は立命館大学のびわこ・くさつキャンパスの開設20周年の記念イベントであった。当初のスローガンは「20歳のBKC」といった具合に、20年が経ったことを前に出していたが、いつの頃からか前には押し出されなくなった。20歳までは成長の段階、そこからは成熟の段階に移行するから、今後は単なる拡張路線を取りはしない、など自らの年齢も重ねて比喩を遊んでみたくなるのだが、結果として「BKCサンクスデー」という企画名称とされ、主に地域の方々にお世話になってきたことへの感謝と、立命館大学の教育・研究・社会活動を体感いただく機会であることに力点が置かれた。いわゆる「ホームカミングデー」などとされる、OB・OGなどに向けた取り組みではなく、さしずめ大学による縁日である。

 今回、私は2つの企画に携わった。一つは「ふくしまとはじめよう。in BKC」である。こちらは2013年8月23日の内堀雅雄・福島県副知事のBKC来学を直接の契機に、2013年12月20日学校法人立命館と福島県とのあいだで締結された連携協力協定に基づいての企画である。12月20日には衣笠キャンパスにおいて、協定締結記念イベント「ふくしまとはじめよう。京都・立命館」が開催されたが、今回は上記の通り、地域への縁日に重ねて、ステージ企画とテントブースの両面で、福島の地震・津波・原子力災害・原子力事故後の今とこれからを見つめ、魅力と可能性を深めるものであった。

 この「ふくしまとはじめよう。in BKC」は、ステージ企画がαステーションとの連動企画となっため、構想当初よりは出番は少なくなった。先週の新潟県小千谷市での田植えから戻る夜行バスで風邪をこじらせてしまったこともあり、約1500人がブースに、のべ550人がステージ企画に来場いただいた企画の進行を妨げずに済んでよかった気がしている。ともあれ、どんな風に伝わったのかは、6月15日朝のα-KYOTO CONTENTS FILEで放送される予定なので、京都・湖南地区の方々には89.4MHzで、それ以外の皆さんにはradiko.jpプレミアムでのエリアフリーで耳を傾けていただければと願う。ちなみに放送には乗らない部分として、特にテントブースでの物産展の運営を、立命館大学サービスラーニングセンターの正課科目「地域活性化ボランティア/シチズンシップ・スタディーズI」の「減災×学びプロジェクト」の受講生全員が役割分担のもとで手伝いをさせていただいたところ、福島県・伊達市それぞれスタッフの方々から深い感謝をいただいたことに、こちらからの謝意を表しておきたい。

 今日の「BKCサンクスデー」は1日限りのイベントがほとんどなのだが、今回携わらせていただいたもう一つの企画「BKC開設20周年の記念特別展~BKCと草津の20年のあゆみ、そして未来を考える~」は、6月5日の木曜日までユニオンスクエア1階のユニオンホールにて開催されている。こちらもまた、立命館大学サービスラーニングセンターの正課科目「地域活性化ボランティア/シチズンシップ・スタディーズI」の「野路の記憶の物語プロジェクト」の受講生全員が運営の一部を担った。振り返れば1994年に理工学部環境システム工学科に入学した私は、こうした場面に関わる授業もなかったし、何より自分が20年後、母校で仕事をしているなど、想像だにしていなかった。この「BKC20年の歩み展」の中では、古田敦也さんが登場した衣笠新展開(政策科学部開設)とBKC開校をアピールする1993年度のポスター「うちのチームも大したものだが、うちの母校も大したものだ。」が多くの方の懐かしさを駆り立てたものだが、さしずめ「うちの母校も大したものだが、うちの学生も大したものだ。」と言いたくなるくらい、後輩にあたる受講生らの真摯な姿勢に敬意を払い、ここに記しておきたい。

2014年5月15日木曜日

あーせい、こーせい。


チラシの校正を頼まれた。スタッフの分業によって事業は進んでいくため、作り直したくなる衝動を抑え、色ペンで細々と書き込んでいった。こうしたとき、決まって気になるのはデザインよりも、レイアウトである。上下左右の揃えの不統一、同一書体による単調な文面、表記のぶれ、バランスの悪さを指摘し始めると、枚挙にいとまがない。

今でこそ作成機会が減ってきたが、私なりにチラシにはレイアウトの作法を置いている。フォントは3種類、横書きが中心でも縦書きを1箇所以上使う、縦横半分に折っても成立する、この3点である。そのため、A4のチラシだと、148.5mmと105mmにガイドを引いて、そこからパーツを置いていく。決して左上から始めるとはしない。

これはレポートの書き方でも同じなのだが、特にMicrosoft Wordなどワープロソフトで文書を作成する際に、左上にカーソルが点滅した状態から全てを始める人がいる。これは大変不幸なことである。画家がキャンヴァスを前に「うーん」とうなるように、どこから手を付けかにこそ、考えることの楽しみがあるのではなかろうか。

もともと建設・環境・土木系の学部で学んだためか、はたまた親が輸送機械メーカーで働いていたためか、模型づくりや試作を重ねることが大事なのだと骨身にしみている。最近はチラシなどの作成に対しては料理の比喩を用いることにしており、「素材選び」、「下ごしらえ」、「調理」、「味見」、「盛りつけ」、「試食」という流れを説明し、企画書を書き、その内容に関連する写真やフォントを選び、レイアウトをした上で、印刷して原寸でチェック、そしてデザインの詰めを行って、校正という段取りに理解を求めている。ただ、こうして思索を巡らすことが試作、などの駄洒落をついつい重ねてしまいたくなる。そんな印象の方が先に立って、一連の流れを経験知として身につけてもらいにくいのかも、などと思うのであった。

2014年4月26日土曜日

「を」でなく「に」で

もしかしたら長崎にある島に出かけていたかもしれない週末は、京都と大阪を行き来する2日間となった。テレビやラジオからは「ゴールデンウィーク初日の今日」なといった声が聞こえていた。残念ながら、そうした実感はない。いつものとおり、慌ただしく、何かに追い立てられているかのような、そんな状態が今日も続く。

それでも昼過ぎまではゆったりとした時間を過ごすことができた。例えば、ランチは京都大学近く、いわゆる百万遍の界隈まで足を伸ばした。その後は、昔の住まいの近くにあるお店に、夕方に手土産としてお持ちする「じゃこ山椒」を求めて立ち寄った。そして、一旦、立命館大学衣笠キャンパスに向かって、仕事と活動のあいだに位置づく用事で大阪へと向かった。

大阪は應典院での「仏教と当事者研究」プロジェクトの一環で位置づけられた勉強会に参加のために向かった。3月に始まった「母娘」関係を考える場なのだが、前回は直球すぎ(NHKによる『母娘クライシス』関連番組を視て語る、というもの)だったため、今回は少々の変化球で迫ることとなった。というのも、前回に参加者のお一人が『イグアナの娘』を引き合いに出されたところ、番組を通じて訴えかけられたメッセージの重さに包み込まれていた雰囲気が変わったため、今回は「一人一冊、少女マンガを持って集まる」という条件を置いて、自由に語り合うということにしたのである。ということで、お昼からの流れの中で立命館に立ち寄ったのは、書棚に並んでいた『彼氏彼女の事情』を取りに行くためであった。

こうして「母娘関係」を考える場において、「少女マンガ」に視点を置くことで、作品の語りを通じて自分に向き合うという「別ルート」が生まれる。「母と娘」という関係は、場合によっては正面から向き合うことが辛い方がいるためである。案の定、問わず語りの中で、それぞれの「モヤモヤ」が語られる、豊かな場が生まれた。そんなモードに浸りつつ向かった夜の宴席は一人称で「私」を語る機会が多く、その振れ幅に身を委ねつつ、日付が変わる頃まで町家でのおばんざいを楽しんだ。

2014年4月24日木曜日

戦いの後は仲間になる

時折「戦友」という比喩を使うことがある。もちろん、私は人を殺していく戦地に出征したことはない。それでも「戦友」という表現を使いたくなるのは、身近な他人が努力する中で、自分との戦いを重ねてきた経験があるためだ。例えば震災ボランティアの取組NPOセンターの設立地域通貨の導入といった市民活動、その他では論文執筆など、濃密な時間を共有した体験は枚挙にいとまがない。

今日は朝から應典院で過ごした。この4月から新しいスタッフが2名入ったこともあり、いよいよ私が古株となり、昼過ぎにはその2名と事務局次長と共に、今年度の事業の具体化のためのブレーンストーミングを行った。振り返れば、2006年度当初、フルタイムでの仕事に就いた頃とは全く環境が違う。自らがチームに、組織にどう貢献できるか、少し先の未来を展望して考えていかねばと改めて思う一日であった。

そんなことを思いながら、夜は同志社大学大学院総合政策科学研究科のソーシャル・イノベーション研究コース(当時)のゼミ生らによる食事会にお招きをいただいた。私を入れて5名の食事会だが、最年少は私である。2010年度の修了生が主に企画と調整をいただいているのだが、2年間の学びは相当の印象を遺したようだ。今はゼミを持たない「パンキョーの先生」ゆえ、季節の変わり目に設定される食事会での会話は、一定の役目を果たせたことを誇りと思える機会として楽しませていただいている。

こうした思い出に浸りつつ、昨夜、應典院で開催された『べてるの家の「当事者研究」』の読書会にて、「戦い」と「仲間」という話が出たことを想い起こした。北海道の「浦河べてるの家」における当事者研究の内容については、前掲の書物やウェブを参考としていただきたいが、昨日の意見交換では「治らないから、あきらめる」それが「戦うことを放棄したことで、仲間に会える」ことにつながるのだ、と話した方がおられた。仲間づくりというと共感という言葉を用いて説明されるのだが、個々のしんどさを完璧にわかり合えることがない(これを渥美公秀先生は「共感不可能性」という言い方で表現されるが、ここでは立ち入らない)からこそ、わかるということ、そうした想像力を巡らせながら他者とのバランスを取っていく尊い営みこそ、「戦友」という比喩で示される(共感不可能性に基づく)コミュニティなのだろう。

2014年4月21日月曜日

組織のスリム化の只中で

実家の父親に「相変わらず忙しそうだ」と言われた翌日は、綱渡り状態で予定を渡り歩く一日となった。まず、朝8時半から京都市内で2件の打合せがあった。本来であれば余裕のあるはずの打合せだったが、その後に時間割に固定されない科目のレクチャーがあったことをスケジュールに入れ忘れていたため、大変な朝となった。結果として、自転車を運んでくれるタクシー「エコロタクシー」にお世話になり、講義には直接支障のない範囲でギリギリ衣笠キャンパスに到着した。

そして昼からは弁当が出る会議に出て、終了後は隣の部屋に移って会議に出て、約30分の休憩を置いて、再び同じ建物の同じフロアでの会議に出て、と会議続きとなった。ここまで会議が多い組織に懐疑的、などと言葉を重ねたくもなる。しかし、大組織ゆえに、構成員が微妙に重なりつつも、会議の目的が異なるのだから仕方ない。いや、仕方ないのではなく、それこそ大組織での仕事の仕方である。ゆえに、出席という作業で会議の場をこなしてしまうのではなく、資料作成や発言を通した参加を通して行く道を議論し決定していかなければならない。

ゆえに今日の午後の2番目の会議では、今年度は立命館大学サービスラーニングセンターの副センター長を空席としたことの意図を訪ねることにした。結果は「組織のスリム化」のためとのことであった。確かに役職者の数を減らせば調整する対象が減るのであるから、理には適っている。しかし、2015年の「大阪いばらきキャンパス(OIC)」の開設を控えて、意思決定ラインのスリム化をすることが最適な方針なのか、甚だ疑問である。

ともあれ、夕方の立命館大学「びわこ・くさつキャンパス(BKC)」開設20年にかかる記念事業の打合せを経て、夜には現在住まわせて頂いている家の大家さん一家との会食をさせていただいた。まずは現在北海道にお住まいのご一家に、家守をさせていただいている身として、今の家の状況をご覧いただいた。その後は近くの「キッチンパパ」にお邪魔した。お米屋さんの洋食を美味しくいただくことで、会話が弾み、身体は膨らむ夜となった。

2014年4月20日日曜日

空き地と広場

日付が変わるまで続いた同窓会の翌日、昼前には実家を発たねばならなかった。以前の「自分の部屋」は既に物置部屋となって久しいため、帰省時には畳の客間に布団を敷いて寝ることとなっており、今回もその例外ではなかった。今日は朝6時前、そんな寝床にガラス戸の向こうから「行ってくるわ」と母が声をかけた。後で父から聞いたのだが、どうやら日帰りで三重までハイキングに出かけたらしい。

前夜に弟夫婦が来ていたのもあってか、赤飯・春巻などが朝食に用意されていた。8時台にそれらをいただき、徐々に帰り仕度を整えると、父から「トーストを食べるか?」と尋ねられた。さすがに満腹感があったため、その申し出は遠慮しつつ、歩いて10分ほどの駅までの送迎はお願いすることにした。テレビを見ながら眠りに落ちる古希を過ぎた父の姿に、齢を重ねてきていることを再認識しつつのお願いであった。

せっかくなのでと名古屋駅で「のぞみ」に、というのは順番が逆で、ホームでの立ち食い「きしめん」を味わうために乗り換えをすることにして新大阪に向かった。今の自宅は京都だが、應典院にて秋田光彦住職と打合せのためである。この間、棚上げにしてきてしまったこと、そして新たな体制で未来の組織をどう展望するか、内容は多岐にわたった。そして夕方に京都に向かった。

大阪からは自宅に直行せず、妻と待ち合わせ、かつての同僚、そして僭越ながら教え子という言い方もできる方々が新たに始めたお店の内覧会にお邪魔させていただいた。懐かしい顔にお目にかかり、また今日新たに出会う方もおられたが、それも総合政策科学研究科のソーシャル・イノベーション研究コースの設立当初に、立命館出身ながら同志社コミュニティとのご縁に恵まれたためだろう。程なく開かれる予定のお店の名前は「ひとつのおさら」という。移動を重ねた一日、ふと、懐かしい地元の駅前が新たなバスターミナルの整備とやらで空き地の目立つ状態になっていたこと、転じて空き家となっていた町家が素敵な手料理と共に多くの方々の賑わいに満ちていたこと、それらを対比させながら、コミュニティに思いを馳せている。


2014年4月19日土曜日

倫理をめぐるアポリア

久々の旅に出た。単に出張の届けを出していないというだけで、荷物もさして変わりがない。少しだけ違うのは、カメラの交換レンズがいつもより多めなことと、高校時代に来ていた学生服がカバンに詰められたことだ。ちなみに学生服の下は、齢を重ねたことで着用することが叶わなかった。

まず向かったのは東京、内幸町のプレスセンターの10階である。朝日新聞の論説委員を務めた大熊由紀子さんが主宰する「ことしもまた、新たなえにしを結ぶ会」の撮影ボランティアのためだ。由紀子さん(と呼んでください、と仰っていただいているので、そう綴らせていただく)とは、私が2002年に大阪大学大学院人間科学研究科で学び始めた折、新入生歓迎の合宿「チャンプール」にてお目にかかった。それ以来、毎春に東京に出向き、いのちにまつわる問題の最前線で活躍する皆さんが並ぶ舞台に寄せさせていただき、引き込まれる語りを受けとめながら、活き活きと語る姿を写真に収めさせていただいている。

内容については今後、「えにし」のウェブで紹介されるのだろうが、それに先だって印象に残った内容を綴っておこう。第一部は「障害者権利条約」の批准と「差別解消法」成立をテーマに、大阪ボランティア協会の早瀬昇さんをコーディネーターとして、石川准さん(内閣府障害者政策委員長)、蒲原基道さん(厚生労働省障害保健福祉部長)、平井伸治さん(鳥取県知事)によるシンポジウム、そしてさしずめ名刺交換大会「えにし結びタイム」を挟んで、介護の分野で幅広く活動する金谷勇歩さんをコーディネーターに、「medicolor(メディコロル)」というLGBTと医療に関する情報サイトを運営する看護学生の山下奈緒子さんと医学生のまおさん、少年院出院者らのピアサポート組織「セカンドチャンス!」代表である才門辰史さん、そして共に骨形成不全症である安積遊歩さん・宇宙さんの母子であった。第一部に直接関連することではないが、阪大に学んでいた当時、大学コンソーシアム京都で障害学生支援のプロジェクトを進めていたのだが、そのことを由紀子さんに伝えたところ「障害者」の対義語は「健常者」でよいのか、と問われたことを今でもよく憶えている。今日の第二部では、「手術は生命に関わるときだけに」と提案する安達さんと、「手術という手段が封じられると、自ら生命を落としかねない人もいる」と仰る山下さん、このやりとりは生命倫理を考えるアポリアと言えよう。

毎年、夜の部まで参加している「えにし」の会だが、今日は高校の同窓会が地元で開催されるため、昼の部までで失礼をさせていただいた。旧制中学の時代からの歴史ある学校ということもあって、同窓会には当番学年が定められ、文化の継承がなされるように工夫されている。私たち46回生は、今年の春の磐田支部総会では校歌斉唱を、来年の全体総会では運営全般を担うこととされている。ということで、今夜は学生服(の上だけ)を着て、久しぶりに会う仲間たちと共に壇上にて高らかに校歌を歌った。その後は今年の全体総会の運営を担う45回生の皆さんとの懇親会となったのだが、10代における1歳の違いは、かくも強固に絶対的な上下関係を生成・維持するのだな、といったことを感じる一夜であった。

2014年4月18日金曜日

とんちで防災

普段から慌ただしい生活だが、今日もまた、慌ただしい一日だった。夜からの雨が朝にはやんでいたのが、せめてもの救いであった。朝一番は衣笠キャンパスへ向かい、資料の印刷を行った。そして、そこから京都駅へと向かった。

京都駅へと向かいつつも、京都駅そのものではなく、安斎育郎先生の個人事務所「安斎育郎 科学・平和研究所」が目的地であった。先生が取り組んでおられる福島への支援プロジェクトと、このたび採択をいただいた科研費による研究プロジェクト、さらには昨年末から立命館災害復興支援室が進めている福島県とのプロジェクトなどをどう関連づけるか、という打ち合わせでお邪魔させていただいた。安斎先生には1995年夏の「自然科学概論」(京都・大学センターによる単位互換科目で、夏期集中で開講されていた)の際に博識と話術の虜となり、同じ1995年の末に立命館大学などが開催した「世界大学生平和サミット」で少々の関わりを重ねて以来、何度かご縁を重ねてきた。そうした中、今日は2月に福島県への留学生のスタディーツアーにご一緒した立命館大学国際教育推進機構の堀江未来先生と関心のある学生2名と共にお邪魔して、原子力災害の特徴についての解説をいただきつつ、僭越ながら逆に活動への支援の裾野を広げるためのクラウドファンディングについて解説をさせていただいた。

安斎先生は東京大学に設置された原子力工学の講座の一期生でいらっしゃるのだが、放射線防護学の見地から「隠すな、うそつくな、過小評価するな」という姿勢を貫いてこられ、結果として長く立命館大学国際関係学部(着任時は経済学部)に在職され、世界で唯一という立命館大学国際平和ミュージアムの館長を長く務めてこられた。ちなみに笑い話としてしまうのは失礼であり、少々残念なのだが、以前、東日本大震災の復興支援にかかわって立命館大学の在学生と「アンザイ先生」について話をしていたところ、どうもかみ合わない、と思う瞬間があった。よくよく紐解いてみると、どうやらその学生は漫画の「SLAM DUNK」の「安西(光義)先生」を想像していたようである。もっとも、既に立命館大学で教えておられない中では、やむをえないのかもしれない。それでも立命館との縁により、今日のように新たに関わりを重ねる学生や教職員が増えていくことに、ささやかな喜びを感じている。

お昼を安斎先生の事務所でいただいた後には、イオン茨木ショッピングセンターに向かい、茨木市と立命館大学とイオンリテール株式会社との三者による「災害に強いまちづくりに関する協定締結記念」の「みんなで考える災害に強いまちづくりワークショップ」の進行役を担わせていただいた。急ごしらえの企画であったが、3月末に組み立てたもので、「防災グッズ買い物コンテスト〜買って備える私の減災〜」と、「いのちを守る大喜利大会〜とんちで防災〜」の2つをさせていただいた。前者は10名が10が「3日間のサバイバル生活のために、店内で1000円分の買い物をしてきて、その中身を紹介していただく」というもの、後者は5名の方に並んでいただいて、「いのち」を頭にした「あいうえお作文」(いきいき のびのび ちから合わせて【ハヤシさん】/イオン の ちから【イワタさん】/いちご のおと ちいず【ムライ親子】/イオンの のばす ちいき力【ミシマさん】/いのいちばん のまずくわずで ちからつき【ハセガワさん】)、「川柳づくり」(防災は皆で守るきまりごと、防災は訓練だけで終わればいい、など)、「名言募集」(買い物ワークショップのあいだにレクチャーを行っていただいた豊田祐輔先生の選はミシマさんによる「防災とは1%のテストと99%の予習復習である」)、そして矢守克也先生らによる防災ゲーム「クロスロード」をモチーフにした旗揚げアンケートを会場を巻き込んで行った。安斎先生には遠く及ばない話術であるが、「あきらめたらそこで試合終了」ということで、なんとか2時間の枠を盛り立てさせていただき、どっぷり疲れての帰宅となった。

2014年4月17日木曜日

古株の役割

先生と呼ばれる仕事をさせていただいている。先生と呼ばれることは好きではないが、嫌いではない。とりわけ社会人学生が多い環境で教え始めた頃は「先に生まれていない」などと釈明しながら忌避してしまうこともあったが、「先を生きていかねば」と自らを奮い立たせるようになってきた。今の時代、ネットに接続されていれば、指一本でも膨大な情報にアクセスできる。情報群を系統的かつ体系的に知識として整理し、当意即妙にその知識をかみくだいて提示できる知恵が、「先を生きる」人には求められるだろう。

今日は終日應典院で執務をしていた。ちなみに立命館には兼業申請をした上で、お坊さんと大学教員の二重生活をさせていただいている。そもそもお坊さんというのは職業ではなく生き方の一つである。よって、宗教法人での僧籍登録がなされた職員と、学校法人での教育分野の職員(いわゆる教員)とを兼職させていただいている、という具合だ。

ちなみに應典院は今年度から新たに2名のスタッフが参画し、体制に変化がもたらされた。2006年から関わっている私は、既にそれなりの古株である。個々の事業よりも組織の全般を見渡す役割ということも相まって、今日はスタッフ会議のあいだに電話番をする、という役目をいただいた。なんだか『太陽にほえろ!』のボスの気分である。

古株となってきたことを象徴するのかもしれないが、夕方からはかかりつけ医のもとを訪ねた。應典院で働くようになって程なく、少し空いた時間に献血をしようと思ったところ、「献血よりも内科にいかな」と諭されてしまったのだが、それをアサヒビールの加藤種男さんがいらっしゃる席で笑い話として紹介したところ、普段は温厚な加藤さんから「直ぐに行け」と勧められて以来の通院である。あれから約9年が過ぎた。通院後、いよいよ若さにかまけていられない年になってきた、という話を劇団「満月動物園」の戒田竜治さんとの打ち合わせで話しつつ、應典院の近所にて餃子とお好み焼きとビールを嗜む夜となった。

2014年4月16日水曜日

わからないことは難しいこと?

今春の講義も2順目が終わった。1998年、文部科学省の中央教育審議会による「講義であれば1単位当たり最低でも15時間の確保が必要」(『学士課程教育の構築に向けて』、20ページ)」という答申により、15週にわたる講義をするように「きつく」指導されてきたためだ。1991年に大綱化された「大学設置基準」の厳格化である。しかし、2013年1月18日の中央教育審議会大学分科会第112回での審議を経て、既に2013年4月1日からは改正23条「各授業科目の授業は、十週又は十五週にわたる期間を単位として行うものとする。ただし、教育上必要があり、かつ、十分な教育効果をあげることができると認められる場合は、この限りでない。」が施行されているので、事実上の弾力化がなされているはずが、現場レベルでは積極的な議論がなされてはいない。

質の保障のために量を確保するのが適切かどうかは、時と場によるだろう。それは何も大学の教育や、大学での講義に限った話ではない。例えば集団での議論もまた、時間をかければよい話ができるとは限らない。もちろん、短ければ短いほどよい、という話でもない。

最近の学生の感想で気になる表現がある。それは感想を求めると「難しい」と答えるという傾向である。「難しい」という表現は、ある行為に対して何らかの基準があって比較の上で示される評価のことではなかろうか。しかし、学生たちが言う「難しい」には、「理解が及んでいない」状態であるにもかかわらず、婉曲な表現により自らの「及ばなさ」を認めなくて済むようにしているように思われる節がある。

今日の感想の中にも「難しいですね」というものがあった。そうした「わからなさ」は学びへの扉が開いた瞬間であるように思う。ちなみに立命館大学BKC(びわこ・くさつキャンパス)での講義の後、シャトルバスで衣笠キャンパスに移動し、金曜日のイオン茨木ショッピングセンターでのイベントの打ち合わせと、サービスラーニングセンターの学生コーディネーターのリーダー層との意見交換を少しだけ行ったのだが、ここでも「難しい」と答える傾向に触れることになった。改めて、浄土宗の21世紀劈頭宣言にある「愚者の自覚」、さらにはスティーブ・ジョブズが引用したことでよく知られている『Whole Earth Catalog』の最終言「Stay Hungry. Stay Foolish.」に奥深さを感じてやまない4月である。

2014年4月15日火曜日

効率性からの脱出口

昨年度と同じく、火曜日は立命館大学衣笠キャンパスでの講義日である。しかし、昨年度と違って大講義が2限に入っている。2010年から担当させていただいている定員400人の「地域参加学習入門」(2011年度までは衣笠キャンパスが「地域参加活動入門」、びわこ・くさつキャンパスが「近江草津論」)だ。この間、午後に設定されていた科目ゆえ、若干のとまどいを感じながら内容の組み立てと整理を行っている。

講義をどの時間に設定するかで、学生の履修への意欲は大きく変わる。実際、2010年度の「地域参加活動入門」は金曜日の5限に開講したところ、受講生は2ケタという結果であった。翌年からは火曜日の4限に開講してきたが、200名前後で推移してきた。ところが、今年は400人の定員を超え、抽選により受講者が決定された。学ぶ意欲のある学生が受講できないことを申し訳なく思う。

ちなみに火曜日は2限の「地域参加学習入門」の後、4限に「現代社会のフィールドワーク」、そして6限に「シチズンシップ・スタディーズII」と続く。5月になると、いわゆるPBL型(ProblemもしくはProject Based Learning:俗に問題解決型学習)の科目である「シチズンシップ・スタディーズI」(旧カリキュラムでは「地域活性化ボランティア」)と「全学インターンシップ」という科目の受講生どうしの週次ミーティング(立命館大学サービスラーニングセンターでは「コアタイム」と呼んでいる)が5限に入るため、さらに慌ただしい一日となる。ただ、受講生が400人規模、100人規模、そして20人規模と小さくなっていくのは講義する側にとってはありがたいことである。講義のリズムやテンポがとりやすいためだ。

自分の学生時代を振り返っても、時間割を組む際には、どこかで「効率性」を考えていた。「ここが空きコマにならなければ…」などと考えていたのだ。時を経て、立場が変わった今、そうして空きコマを埋めるため、「何となく受講した」学生たちの学びの扉を開くことができれば、と、我が身を振り返って思っている。ということで、今日の2限ではマイケル・ムーア監督のドキュメンタリー「The Choice」を見てペアワーク、4限では先週に問いかけた投票結果からグループ分けをしてキャンパス周辺をフィールドワーク、6限では「大学の何があかんのか」というテーマでフリップディスカッション(A4用紙を使って、テレビのクイズ番組などのようにキーワードを大きく記して語り合う)と、手を変え品を変え、「効率性」を受けとめつつ学びの効果を高める、ささやかな仕込みを続けている。

2014年4月7日月曜日

次の桜の頃には


かつて「泳ぐ頃には」と発表された日取りは一体いつを指しているのか、とやきもきしたことがあった。1993年の8月に米国でApple社が発売を開始したPDA「Newton」の日本語版の発売を巡ってである。冒頭の発言は、本国での発売から時間が経過した1994年の春、当時の日本法人のマーケティング担当の部長(本部長)であった原田永幸さんによるものだ。その後、1995年8月に4代目となるMessage Pad 120がエヌフォー株式会社によって開発された日本語フロントエンドプロセッサ(入出力の日本語化ソフト)を同梱して発売されたものの、原田さんはご自身の名を自虐的にか「泳幸」と名乗るようになったという。

転じて、「桜の花の咲く頃」という表現もある。すぐに想い起こすのは、渡辺美里さんの詞と歌による楽曲だ。1988年にリリースされた名盤『ribbon』の3曲目である。TMネットワーク(当時)の木根尚登さんの切ないメロディーにあわせて「覚えていてね 想いだしてね さくらの花の咲くころに…」のフレーズが、つい口に出てしまう。

今日は「来年の桜の花の咲く頃」には新しいキャンパスが出来上がっている茨木市に向かった。「大阪いばらきキャンパス」略してOICの開学を控え、今、立命館大学は茨木にて各種の取り組みを仕込んでいる。4月10日に発表されるとのことだが、4月18日にイオン茨木ショッピングセンターにて開催される防災イベントにて、私は少しお役を担うことになった。既に「広報いばらき」2014年4月号の24ページに掲載されている「茨木市・立命館大学・イオンリテール(株)との災害時応援協定締結記念調印式」の一環でのイベントである。

大学でも「地域参加」などと冠した講義を行っているため、どうしても大規模ショッピングセンターとは距離を置きたい性分である。しかし、今日、改めてお伺いすると、実に多くの人たちが訪れ、生活リズムの中に根差した施設なのだということを実感した。かつてのApple社によるNewtonはPersonal Digital Assistantという概念を各方面に対して鮮烈に残し、自社の製品ラインからは消滅させた。果たして、今回のOIC開学、さらには行政と企業と共に結ぶ災害時を見越した協定が何をもたらすのか、びわこ・くさつキャンパス(BKC)開学20年となった今、20年前の入学時とは隔世の感がある立命館の動きに対して、内部の人間として各種の思いを巡らせている。


2014年4月6日日曜日

懐かしい顔に会う

日付が変わるまで、「見つけにくいもの」を「捜した」昨日から一転、今日は懐かしい顔に会いに出かけることにした。場所は丹波ワインハウスである。京都市内から車で1時間ほどの旅路であった。途中、国道9号線の千代原口交差点の立体交差化、さらには京都縦貫道の整備など、随所にコンクリートによる地域の変化を感じた。

丹波ワインに訪れることが懐かしい顔と再会することになるのは、2006年から2011年まで同志社大学院総合政策科学研究科のソーシャル・イノベーション研究コース(現在は「ソーシャル・イノベーションコース」)に職を得ていた際に、食文化の観点から関わりを重ねていたためである。具体的には、産官学地域連携の窓口となる「リエゾンオフィス」を中核に同志社大学が設立したNPO「NPO法人同志社大学 産官学連携支援ネットワーク」によるプロジェクトの代表をさせていただいていたのだ。プロジェクトは京都府の地域力再生事業に採択され、「京丹波特産品のブランド化による地域活性化〜農畜産物生産者と若者による食文化ネットワークの構築」 と題して活動を重ねてきた。特に初年度の内容について、プロジェクトの中心を担っていただいた院生の方(西村和代さん)が「地域の活力を生み出す農畜産品ブランド化と食文化の発信へ―京丹波プロジェクト「1年目の挑戦」―」 にまとめてくださっている。

「金の切れ目が縁の切れ目」という物言いがあるが、私にとって京丹波は「所属の切れ目が縁の切れ目」になってしまった感があり、自責の念に駆られつつの訪問となった。今回も「同志社でお世話になった…」という枕詞を掲げて、多くの方にご挨拶をさせていただいた。行政による予算執行に対して批判を唱える研究者が多いことを思うと、大学による地域連携において所属の断絶が予測される人材を中軸に地域の方々を巻き込むことは、大学もまた社会システムの一要素として負の側面を安定的かつ再帰的に作動させてしまっているのだろう。そうした中、京丹波と私の縁は、所属の変化に関係なくつながってきた仲間が、「京都地域創造基金」による「若年性認知症サポートファンド」などの形で、一方的な「供給と消費」や「提案と応諾」という関係ではなく、多くの他者を巻き込んだ動きへと導いていってくれた。

今日はあいにくの雨と風により、桜が舞う中でワインハウスへ向かうことになった。ちょうど、クラシックカーフェスティバルが開催されていたので、人の再会を懐かしむだけでなく、「フロントマスク」などと擬人化される車にも懐かしみの感覚を寄せる日となったが、例のプロジェクトの後に体調を崩された方がおられたこと、あわせて当時に重ねた関係のいくつかは切れてしまっていることを知ることになった。ともあれ、挨拶を重ねた多くの方に憶えていただけていたのがうれしく、はずかしく、また5月の連休にお邪魔することに決めた。車でワイナリーに行くと飲めない、というモヤモヤが残るのだが、この3年ほどのモヤモヤに向き合った一日は、選挙に行った後に実家との電話でさらなるモヤモヤに包まれつつ、赤のフルボディを妻と共に一本飲み干してしまった。


2014年4月5日土曜日

家捜しならぬ室探し

先般「ヤサガシしますね」と伝えたところ、不思議な間合いが生まれてしまった。ふと「どこにあるのか探してみますね」と伝えなおすと、そこで始めて合点がいったらしい。そして「引っ越すのかと思いました」と、言葉が重ねられた。なるほど「家捜し」は「イエサガシ」とも読むことができる。

モノにまつわる物語に固執する傾向もあって、私の身の周りは多くのモノにあふれている。捨てられない上に、新しものにも惹かれてしまうという両面により、モノはどんどん増えていく。ただ、scansnapシリーズの登場と進化、また紙のデジタル化だけでなくカセットテープやVHSテープの内容を専用機材の低廉化、さらには稀少金属の再利用を目的とした小型家電の回収プログラムの定着化などにより、微減ではあるが、目に見えるものは減りつつある。それでも、そうして次のサイクルに持っていく直前には、大抵の場合、そのモノにまつわる思い出を想い起こし、いっこうに片付けが進まない、という逆流現象が生まれる。

井上陽水さんの「夢の中へ」ではないが、今日は「家捜し」ならぬ「室捜し」に集中した一日となった。というのも、大学から充てていただいている個人研究室が、ダンボールの山になって久しかったためである。それはこの数年を振り返っても、2007年の大阪への引っ越し(京町家からマンションへ)、2011年の研究室の引っ越し(同志社から立命館へ)、2013年のキャンパス間での研究室の引っ越し(びわこ・くさつキャンパスから衣笠キャンパスへ)と京都への引っ越し(マンションから2軒長屋の1棟へ)と、モノの移動が頻繁に重ねられてきたことによる。しかも、それぞれの場所から場所へと移動させていく際に、微妙に部屋の大きさが異なっており、結果として「空けずのままの移動」や「仮の梱包のまま幾年月」となってしまってきたのだ。

幸いにしてもっとも捜し出したいものは見つかったが、捜索の過程で、整理魂に火がついてしまった。私の立ち居振るまいを知っている人には信じてもらえないところもあるだろうが、整頓は苦手でも、整理は得意な方である。こうして二つの言葉を厳密に区別して論じている時点でややこしい輩と思われるだろう。ともかく、乗りかけた船ならぬ、開け始めた箱ということで、いわゆる断捨離を続ける中、実に懐かしい絵(1997年頃)と再会し、やはり思い出に浸りながら、遅々として進まない片付けモードとなってしまうのであった。


2014年4月4日金曜日

私学という枠

  最近、私学という枠について考える機会が増えた。例えば、今朝は初芝立命館高校の立命館コースを担当する先生方が、立命館大学サービスラーニングセンター衣笠にお越しになられた。来月担当させていただく講義の打ち合わせのためである。今年で3回目となるのだが、初年度は震災ボランティアについて、二年目は大学以外でも学ぶことについて、それぞれ触れたところであるが、今年は大学に行くということと大学生になるということとでは、微妙に意味合いが異なることについてお話することになりそうだ。

振り返ると、私は幼稚園大学が私学、小学校中学校高等学校は公立で過ごした。大学も第一志望第二志望は国立大学だった(社会人になってから学んだ大学院は国立…)。しかし、縁あって立命館に入学し、そして私大の学長らの懇談会をもとにした大学連合体で働き、その後、私立の幼稚園を経営する寺院に身を置かせていただき、2つの私学で働かせていただいている。そうしていくつかの環境に身を置いてきたゆえに、年々、自分が経営者向きではないことを実感させられてきた。

とはいえ、私学の経営者の方々と交わる機会が増える中で、多方面から寄せられる期待に触れるようになった。特に災害復興支援に関わっていることが大きい。しかし、土地やお金などの資源が用意できさえすれば、大学が組織として動くというものではない。キャンパスをつくることや拠点を置くといった展開は、頻繁な人の移動と熱心な活動が行われるだけではもたらされないのである。

なんだか奥歯にものがはさまったような言い方になってしまったが、どれだけ行動的な組織であっても、恒常的な行動を組織内に位置づけるには、多くの壁が立ちはだかる。そして、その壁は大きく、高く、長く、厚く、簡単には越えられない。ちなみに2002年までは、1964年に制定された「人口の増大をもたらす原因となる施設の新設及び増設を制限し、もつて既成都市区域への産業及び人口の過度の集中を防止することを目的とする」と第1条で示された『近畿圏の既成都市区域における工場等の制限に関する法律』のため、ある種の迷惑施設として大学は位置づけられていた。その頃に比べれば時代は変わったな、と、煉瓦づくりの建物の最上階のレストランで学生たちとランチ(学割・教職員割引有、です…)をした今日、いくつかの場面で感じるのであった。


2014年4月3日木曜日

季節は巡り、時代は回る。

大学で働いていると、半年と1年の周期で、季節の変化を感じずにはいられない。半年の周期での変化は1週間に1回の講義を15回重ねることを標準とした「セメスター」の始まりと終わりである。そして1年の周期での変化は学生たちの学年の変化だ。最近は1週間に2回の講義を重ねていく「クオーター」制を導入も始まりつつあるため、もう一つ、短い周期での変化を迎えるようになるのかもしれない。

今日は1年周期での変化のタイミングで、学生の学びと成長を実感する場に立ち会うことができた。端的に言えば、新入生向けのガイダンスである。この4月で2回生になった学生が、今年度の受講を検討する学生たちに、受講経験を語るという場だ。いみじくも、ほぼ1年前、彼女は同じ機会に「聞く側」にいた。

多くの体験を重ねた後、その体験が腑に落ちると経験談として語られる。逆に言うと、うまく語ることができないうちは、まだその体験が腑に落ちていないときである。このことをもって、私は体験(try)の経験(experience)への昇華(sublimation)と呼んでいる。人間の営みに対して、化学の世界の比喩を用いることに、若干の抵抗があるのだが、ここに純物質と不純物(例えば、理科の教科書ではパラジクロロベンゼンが昇華するグラフが紹介されていた)のアナロジー(類推)も重ねることができる。

日本災害復興学会とNHKとの協働により「復興曲線」という手法(これは宮本匠くんの研究に詳しい)を用いて、被災された方々の「復興感」に迫る実践的研究を展開してきている。そこでは、心境の変化が「底」や「踊り場」などといった観点から語られる。語弊のある言い方となってしまうかもしれないが、純粋な人ほど、感情の浮き沈みが顕著にあらわれると言えなくもない。今日、話題提供をしてくれた彼女は先週も語ってくれたのだが、語る度ごとに内省を重ね、詳述の度合いが深くなっていく姿に、学びと成長を見て取ることができ、学びの場を共にできた喜びに浸るのである。


2014年4月2日水曜日

行く道を来た道に聞く

「行く道は来た道に聞け。」この10年ほど、私と関わりのある方であれば、何度か、この表現を使っている場面に立ち合っていることだろう。これは、上町台地からまちを考える会でご一緒させていただいた、コリアNGOセンターの宋悟さん(現在はコリア国際学園の事務局長)に教えていただいたものである。単純に「振り返ろう」ではなく、「立ち止まろう」、「考えよう」、「認識を改めてみよう」といった教訓を見いだすことができる言葉だと、常々感じてきた。

今日は朝から應典院にて年度当初のミーティングが行われた。この席で、1994年の「應典院再建委員会」の活動本格化から現在に至るまでの組織や事業の変遷について整理した資料を用いることにした。1997年に再建された應典院も、その創建は1614年である。さすがに400年の「来た道」に聞くのではなく、再建計画の策定から20年を振り返りつつ、当面の「行く道」を検討することになった。

私の専門とするグループ・ダイナミックスの中でも、人間科学という視点に力点を置く流派では、未来志向の意思決定(decision making)は過去志向の意味創出(sense making)の双方が必要とされる。そうした思考を重ねる際には、一つのロープの両端に馬が繋がれているかのような状態にさらされることもある。いわゆるダブルバインドである。そうした状態においては、両側の壁が迫ってきて押しつぶされそうな感覚に陥るジレンマ状態と違って、身が引き裂かれるかのような思いに浸る。

図らずも、午前中に「行く道」のために「来た道」を見つめた今日は、夕方から宋さんにお目にかかる日になった。新しい学校づくりに取り組む宋さんから、リベラルアーツの中でもリーダーシップに視点を当てた講義群をつくりたいと相談をもちかけられたためだ。奇しくも今、私の所属は教養教育を推進する部署である。秋から冬にかけての講義群となるが、仲間たちと共にお引き受けをさせていただき、そこでもまた、来た道と行く道の両方を見つめていく機会としよう。

2014年4月1日火曜日

真実と物語のあいだ

今日はエイプリルフールである。言うまでもなく、年度の始まる一日だ。朝から應典院に向かい、新入職員の就任式に列席させていただき、私なりの歓迎と激励の思いをことばにして、お昼の食事の折に伝えさせていただいた。住職が就任式の式辞の折に、四摂法を説かれ、浄土宗の宗歌「月かげ」の意味にも触れておられたので、私は自らの経験から「師」を見つけることの大切さを話すことにした。

最近はエイプリルフールを「4月バカ」という直訳で語る人にはあまり出会わない気がするのだが、リアルタイムで「ドラえもん」の新作を読んでいた世代としては、この時期には単行本(てんとう虫コミックス)7巻の第1話で登場する「ウソ800」を思い出してならない。そもそも、この秘密道具「ウソ・エイトオーオー」が「嘘八百」にちなんだものであることは、随分後になって知った。同じ類のネーミングとしては「Yロウ」という蝋燭に着想を得た道具が挙げられる。ともあれ、この「ウソ800」を飲んだ(道具としては使った、と言うべきであろう…)のび太とドラえもんとのやりとり、またそこに至るまでの友人たちへの仕返しが痛快ながらも言いようのない寂寥を読者に与えるのだ。

奇しくもエイプリルフールの今日、理化学研究所が一連のSTAP細胞にまつわる論文についての調査結果を発表した。最早、どこまでが真実で、どこからがウソなのか、裏の裏に関心が向いてしまうような場の設定であったように思えてならない。去る2月6日、虚構新聞佐村河内守さんのインタビューと(仮構して)各種の報道に沿った記事をまとめたのは、なかなか機知に富むものであった。STAP細胞の問題に戻ると、阪神・淡い時代震災の後、『虚構の時代の果て』(増補版も刊行)を上梓された大澤真幸さんは、その後「ゴールが見えない」という意味で『不可能性の時代』を著しているが、自然科学の世界において、議論の「不可能性」が見えたようで、外野にいる私としては興味深い。

ちなみに今日、オフィスでの他愛のない会話の中で、血液型性格占いに触れられたときがあった。学生時代に安斎育郎先生の「自然科学概論」を受講し、草野直樹さんの『「血液型性格判断」の虚実』(新版は『血液型性格判断のウソ・ホント』)という本を知った私としては、「赤血球の型と性格を関連づけて考えること」と「赤血球の型と性格が関連づくと考えること」に対して、過敏とも指摘されても否定しないほど、敏感になっている。前者は社会科学の領域の議論である(いわゆる真実としての正解がない)のに対して、後者は自然科学の領域の議論(つまり複数の事実が併存し物語の多様性が担保されるもの)だ。オフィスの会話では笑って済まされることも、世界を相手に正解を導き出して新たな問いを生成し続けることが責務とされる自然科学者には許されないことがあることを、劇場寺院と掲げる應典院から、何か問いかけることができれば、などと、舞台芸術祭「space×drama」のオープニングパーティーから帰る道すがら思うのであった。


2014年3月31日月曜日

見られている

「ブログ、何かおもしろいって言って、見てるよ。」昨日の結婚式の後、ふと友人からそう言われた。中学時代に知り合い、高校時代を共に過ごした彼の奥さんが、このブログを見てくださっているという。誰が見ているかはわからないが、新規投稿時に記事ごとの閲覧数が表示されるために、誰かが見ていることはわかっていた。

気になったのは、ブログは「読むもの」のではなく「見るもの」なのか、という点である。ふと、「見ました」と「読みました」の違いを想い起こしてみる。それこそ学校では「書いたもの」に対して「見ました」という印が押されて戻されたこともあった。ちょうど、コメント欄がありながらも、積極的に残されないことがある、という点で、学校での日誌と、日常を綴ったブログとは似ている部分があるかもしれない。

転じて、執筆依頼をいただいた原稿を脱稿しえぬまま、年度末を迎えてしまった。それでも、朝からは保険代や会費の支払い手続きに行き、明日に迫った新年度の方針に関する打合せのために應典院へと向かった。加えて、定期点検に出していた自家用車を引き取りに行きつつ、翌日からのダブル増税(地球温暖化対策税と消費税)の影響を受けるガソリンを満タンにした。一瞬、立命館大学衣笠キャンパスに立ち寄って、四条高倉付近のお店で、通称で「MONの会」と呼んでいる会に出かけた。

「MONの会」というのは、NPOスクールと掲げたプロジェクトの仕掛け人である、立命館大学の中村正先生が「映画『2001年宇宙の旅』では、IBMの一歩先を行く、ということでHALという名前が付けられた」と仰っていたことに着想を得て、「NPOの一歩先を描いていこう」という願いのもと、それぞれのアルファベットを一文字ずつ前にずらしたものだ。「MONの会」のメンバーである3人は、かつて、東京の「NPOサポートセンター」のニューズレターで「京都の三羽がらす」と呼ばれた面々である。それぞれに現場があるために、一同に会することは多くはないが、しかし常に互いの動きを見合っている。自覚しているよりも、多くの人が自分を見ているということ、そして自分もまた多くの人を見ているということ、それを改めて感じつつ、32年の歴史の幕を下ろす『笑っていいとも』もまた、よく視てはいなかったが、その動向は見ていたな、と思う年度末であった。



2014年3月30日日曜日

向き合うこと・寄り添うこと


悪友の結婚式に招かれた。祝宴なので喜ぶべき機会なのだが、正直、ささやかな驚きを携えての出席でもあった。彼とは小学校から高校までの同窓である。しかし、単に同じ学校を卒業した、というだけに留まらず、多くの場を共にしてきた。

彼の立ち位置はある種、独特である。単純なリーダーでないが、かといって、漫然としたフォロワーでもない。今日の式でも「自転車、スキー、オートバイと、スピードを求めていった」と紹介されていたが、彼は「その先の世界」と、「その先への世界観」に浸ることができるよう、周りを巻き込んでいく。巻き込むというと良いイメージを抱かないかもしれないので、場を包み込んでいく、という表現を用いることにしよう。

彼の場の包み方は、ある種、独特である。例えば、小学校のときには給食用のエレベーターに乗りたいと言い、中学校のときには放送委員会の委員長として創りたい番組を創りたいと言い、私たちを巻き込んでいった。しかし、巻き込まれていった側には、いや、少なくとも彼が導く雰囲気へと包み込まれた私にには「させられた」感覚は残らず、むしろ「ちょっとした悪巧みに荷担した」ことの冒険心と罪悪感とが交錯し、思い出深い物語が遺ることとなった。今日の祝宴では、そんな挿話を交えつつ、高校時代の友人と二人で、当時の「塾の自習室から学び合う関係づくりをもたらしたい」という彼のやんちゃっぷりを紹介させていただいた。

折しも、式場に向かうまでは雨に降られ「雨降って地固まる」という常套句が似合う天候となったが、実は彼には「ぬかるみにこそつっこんでいく」性分がある。実際、報道の仕事を続けている彼の趣味の一つにオートバイがあるのだが、何かを伝える報道も、何処かに走らせていくオートバイも、自分を基点に何か(あるいは誰か)へと関心や行動が向けられる。要するに、何かを伝える、何処かに向かう、そうした「一方通行の矢印」の世界を生きてきた彼を悪友と思うからこそ、人生の伴侶となる方に、まるで「取扱説明書」のごとくに、「彼に向き合う」のではなく「彼と寄り添う」暮らしを送って欲しいとの願いをことばにさせていただいた。「私を見て」ではなく、「共に何かを見ていく」、そうした場を共にすることができれば、晴れの日の心地よさに浸るだけではなく、雨の日のぬかるみをもがくこともまた楽しめるのではいか、と思いながら、二人の末永い幸せを祈らずにはいられなかったのである。



2014年3月3日月曜日

finishしていないけどfinnishの国へ

年度末である。世の中は消費税増税前の駆け込み需要が高まっているというが、私にとってはいつものとおりの年度末である。思い出したかのように、いくつもの物事と出来事が動く。自ずと、電話やメールも多くなる。

そんな時期にもかかわらず、この1週間はフィンランドで過ごすことにした。立命館大学研究部による「研究高度化推進制度」による「研究力強化」事業「研究推進プログラム」の「若手研究」枠で支援をいただいたためである。「地域参加型学習におけるシチズンシップ涵養のためのインター・コミュニケーションモデルの構築」という大仰な課題を掲げ、採択を受けた。PISAによる国際比較により教育面で注目が集まったフィンランドだが、個々の能力の向上ではなく、個々が他者と共に展開可能性を高める合う関係づくりがなされているだろうという問いから、青少年支援についての視察を行うことにしたのだ。

今回でフィンランドは2回目の渡航である。前回は2008年で、同志社大学に在職していた。そのため、ソーシャル・イノベーションに焦点を充て、ヘルシンキ市内にてイルッカ・タイパレ博士へのインタビューと、フィスカルス村でのアートプロジェクトのフィールドワークを中心とした。その成果はささやかながら、同志社大学大学院総合政策科学研究科の紀要に「well-designedな生活スタイルの実現 : フィンランドにおけるソーシャル・イノベーションの源流を見つめて」と題して投稿している。

ちなみに今回の渡航では、もう一つ、エコヴィレッジへの往訪も盛り込んでいる。こちらは昨年度から取り組んでいる文部科学省による科学研究費基盤研究(A)「地域のまちづくりと連携した市街地型公的住宅団地の再生に関する研究」の一環で、である。2008年から英語力が飛躍的に向上していれば、ヘルシンキ大学のユーリア・エンゲストローム先生のもとを訪れたいところであるが、これは英語論文の1つでも書いた後にしようと決意しつつ、まずは手元のタスクリストを一つずつ片付けていかねばならない。ちなみに今回の調査は今年度末までは立命館大学サービスラーニングセンターの同僚である川中大輔先生と共に行うのだが、フィンランドまでのフライトでは何と電源が用意されていたという、何とも追い込みへの準備が行き届いた環境に驚いている。











2014年2月11日火曜日

建てられた記念日

敬語には尊敬語と謙譲語と丁寧語があってね、と習ったのはいつのことだっただろう。少なくとも学校ではそれぞれの分類を、そして複数の誰かから、その使い分けを教わってきたと思う。しかし、それらの場面を思い出すこととは性格の異なる話だが、敬語とは何かを人にちゃんと教えるのは簡単ではない。もちろん、「それはおかしい」ことを指摘することは比較的容易なのである、が。

今日は「建国記念の日」である。正確には「建国」を思って定められた休日である。こうした言い回しをすると、根性が曲がっているとお怒りが向けられるかもしれない。また、違う方面からお叱りをいただきそうだが、Wikipediaで「建国記念日」を検索すると、何に焦点を当てることが「建国」を思うことかの違いに触れることができ、なかなか興味深い。目立つのは独立国になったことを記念する日であり、その他、革命や解放や統一の記念の日にちなんで建国記念日とされている国もある。

そこで、日本の「建国記念の日」を「建国された記念日」と表現した場合、これは尊敬か、受身か、どちらの意味で用いられているのか、という問いを立てることができそうだ。というのも、日本の建国記念日は、『古事記』と『日本書紀』(あわせて記紀と呼ばれている)において辛酉年1月1日にちなんでいるためだ。いわゆる「紀元節」であり、新暦が採用されてからは2月11日がその日、とされている。という具合に「された」という表現を織り込むことができるゆえ、上記のような問いが浮んだのだ。

ともあれ、世間では休日の今日も、立て込んだ仕事に向き合う一日となった。朝からは会えば謝罪のことばばかりを重ねている依頼原稿を進め、昼からは参加しているプロジェクトの研究会へ。研究会では関心は同じでも専門外の「経営」と「歴史」の話題提供から学ぶというものだったので興味深かったのだが、ご自身の発表が終わると、あからさまに内職モードに入っているとお見受けする態度で、それを「ロの字」のレイアウトゆえに対面から見続けたことで、ほとほと疲れてしまった。ともあれ、敬うとは何かということを考える一日であった。

2014年1月25日土曜日

キャパシティーとホスピタリティー


木曜日の夜に妻の実家から連絡が入り、土日の予定が立てにくかった今日、結果として京都で一日を過ごした。少しだけ朝はゆっくりさせていただいて、食事もブランチとなった。ちなみに共働きながら、ほとんどの食事は妻が作ってくれている。なので、こうしたゆっくりした朝には、時々、私が台所に立つ。

確か2週間前もそうだった。食べるばかりになっている私、作ることも嫌いではない。よって、まずは冷蔵庫と対話し、何ができるかを考える。「まにあわせ」ではなく「ありあわせ」でつくりあげるところは、料理も、また活動も変わらない。

と言いながら、かつお出しの具だくさんの味噌汁、そして目玉焼き、そして何か、というパターンがほとんどである。時折、ごま油が多いと指摘されることもあるが、「まにあわせ」の名も無き料理への調理は、「美味しんぼ」などから知った断片的な知識による。今日の目玉焼きも、単行本7巻の「国際目玉焼き会議(International Fried Eggs Conference)」にて、山岡士郎が同時通訳ヘッドホンセットをしながら披露していた「蒸し焼き風」を試してみた。男の手料理、などと形容されるように、冷蔵庫と調理器具との「戦いの後」は、流し付近に残骸が残り、レンジには比較的大量の「戦利品」が残る。

ちなみに夜は現在参加している堀川団地(京都市上京区)の開発に関する公開トーク「『まちとアート&リノベーション』堀川ヨルトーク・堀川団地再生フォーラム」があり、そちらに参加する予定であった。ところが、てっきり堀川団地付近での開催と勘違いして、会場を間違えた上、複数の組織でのタイアップイベントだったため、開会から10分ほど遅れて到着すると、最早満員を通り越して、階段まで人があふれていた。Ustreamでの中継も行っているようで、大きなカメラが「客席側」にも向けられ、なんだか「参加」するよりも「存在」して居続けることに、小さな圧迫感を覚え、終了を前に自宅に戻ることにした。明日は家にこもって仕事をせねば、という日でもあるので、どうやら「数食」同じものを食べる機会が続きそうである。


2014年1月24日金曜日

集団で試されること


「で、何学部の先生なのですか?」とよく尋ねられる。今、立命館大学では学部に所属せず、13ある学部を横断した科目を提供する「共通教育推進機構」の教員として働いている。いわゆる「パンキョーのセンセイ」である。振り返れば、同志社で働いていた際も、学部ではなく「総合政策科学研究科」で任用されたため、この7年ほど、同じ質問を寄せられ続けていることになる。

そんな「学部に所属しない」私も、定期試験の際には学部の応援に駆り出される。試験日程が近づいてくると、昨年度まではBKCに所属とされたためスポーツ健康科学部から、今年度からは衣笠キャンパスの所属のため法学部から、日程調整の打診が入るのだ。そして今日も政治学の試験で監督補助をさせていただいた。にしても、「知識の量を試す」ような科目を担当することがなくなったため、久しく試験問題を作成していないのだが、限られた時間で穴埋めや論述をすることで評価できる内容とは何なのか、と、監督する立場になると、よく考えさせられる。

そんな季節の風物詩のような仕事の後は、朱雀キャンパスに向かい、立命館災害復興支援室の会議に出席した。複数のキャンパスで同時に物事が動く現在の立命館では、キャンパス間をつないだテレビ会議システムがあるのだが、やはり「メイン会場」にいた方が、議論の雰囲気に浸りやすく、参加への意欲が高まる。最近はskypeなどでも複数拠点を接続して議論をすることができるものの、個人の端末を接続するのと部屋が接続されるのとでは違いがある。とりわけ個人レベルでのskypeなどによるネット会議では、接続したい人たちが具体的な目的を持ってつながりあっているので、自ずから発言が促されるものの、組織レベルでのテレビ会議においては、通常の会議と同じく誰が発言していて誰が発言しないのかに配慮をして、集団での意志決定がなされたという実感を駆り立てなければならないのだ。

会議の後は、西の稜線が夕焼けに染まるくらいまで、朱雀キャンパスのデスクにて仕事をした。やはり、流行言葉で終わってしまったのかもしれないが、昨年の初頭まではよく聞いた「ノマドワーク」なのだが、やはり、チームのメンバーがいるところで仕事をすると、単なる作業にはとどまらない。何気ない会話の中から、新しい動きが出てくるのだ。朝に感じた「個人を試す集団」から、「個人が活きる集団」へ、同じ立命館の中でも、全く違う環境を行き来する一日となった。


2014年1月23日木曜日

なくしたものの埋め合わせ

注意が足りていない。とはいえ、目の前の何かに問われているわけではない。むしろ、目の前の風景の先にあること、つまりは次の予定や、終えられていない予定に囚われる傾向がある。そして、気づかぬうちに、何かを落としてしまうことがある。

そもそも、今日は終日、原稿に向かう予定であった。この予定も数ヶ月前に終えられていなければならないものであったが、午後に京都駅での打合せが入ったために、市バスの一日乗車券を購入して、気分転換の一日にしよう、そんなことを考えた。相棒としてデジタル一眼レフカメラを選び、鞄に入れて家を出た。妻の出勤時間にあわせて、である。

思えば、昨日、應典院に鍵束を忘れたことが、今日に響いている。妻には安眠を妨害するという不幸をもたらしたものの、昨晩は幸いなことに妻が枕元に電話を置いて寝ていたいたため、なんとか家に入ることができた。そこで、今日は京都方面に移動する應典院のスタッフに鍵を運んでいただき、京都駅で受け取らせてもらう、そんな手はずを整えた。そこに、小さな気のゆるみが出たかもしれない。

結果として、今日は愛用の帽子をなくしてしまった。こどもの頃に読んだ「ドラえもん」の「落とし物つりぼりとつりざお」があれば、などと思いながら、思い当たる場所に問い合わせてみるも、残念ながら見つからなかった。そこで、交番に向かい、遺失物届を出したのだが、警察官からは「どこで落としたんですか」と、「それがわかったら苦労しないよ」という問いかけがなされるのだが、私の隣では財布をなくした左京区在住の大学生が、同じような質問を投げかけられていた。「どう帰ったらいいのか」と途方に暮れていた彼を放っておけないと思った私は、「もう、この一日乗車券は使わないから、どうぞ」とやさしい嘘をついて、物をなくした悲しみを、物語で埋め合わせをして、妻に怒られに家路につくのであった。



2014年1月22日水曜日

still in immature

There was a English lesson today. My habit is to read the article in the The New York Times to be used in class today on the Keihan train. However, if I really want to master English, it is not a good way to ready just before the class. I should listen to English, read English, and write in English through my daily life.

So now, I'm using English to look back on today's events. Today's article in our class was "Sudan's Lost Boys Are Drawn Into War at Home" which is featured tribal dignity. In the discussion, our instructor Tad noticed the conflict from "the paradox of plenty". This phrase tells us to to bring the fight to us not only "shortage" also "rich".

After the English class, I went to Outenin temple. Because our chief priest is invited from the head quarter Jodo Shu in the tomorrow morning, I take a role to make slides for that time. Typically this role was for our senior priest, however, he is focused on his own temple, my role is expanding gradually. As my opportunity is increasing, I have gotten the hang of designing points.

The another purpose of going to Outenin temple was to confirm photo books which are ordered last week. At the beginning of this year, I decided to make a photo book as not to let my photos "neglected" after shooting. In fact, this is the second time to make a photo book, but I can't create it skillfully. Furthermore, tonight I have realized I'm still immature as a monk while eating Nepal dinner with our senior priest and my boss.


2014年1月21日火曜日

振り返りを語ることで振り返る


肌寒い一日だった。雪こそ降らないまでも、車のフロントガラスに薄い氷が張るような朝、妻を職場へ見送って、私も職場へと向かった。タイムカードがない仕事だが、朝一番からオフィスというのも、やはり身が締まる。そんな一日の終わりには、学内の研究会だが公開で開催される「教学実践フォーラム」が待ち構えている。今日は全学補講日ということもあって2人しか乗車しなかった午後のシャトルバスに乗ってメイン会場、立命館大学びわこ・くさつキャンパス(BKC)へと向かった。

今回出講させていただいたフォーラムのテーマは「Deepening Reflection〜現場から学ぶ学生の「ふりかえり」をどう深めるか」であり、昨年10月に行われた私大連盟での座談会「サービス・ラーニングの学びが学生にもたらすもの」(『大学時報』2013年11月号に所収)にも通じる話であった。ちょうど、前日の「ボランティア・サービスラーニング研究会」において、筑波大学の唐木清志先生が、日本の教育評価は「思考・判断・表現」、「技能」、「知識・理解」、「関心・意欲・態度」、と4つの観点別評価がなされているが、米国でのサービスラーニングにおいても、日本における4つ観点のそれぞれが、順に「探求と批判的思考」、「コミュニケーション」、「人間経験の多様性」、「倫理と社会的表現」に対応する、と紹介された。そうした議論を得ていたこともあり、既にレジュメは1週間ほど前に提出させていただいたものの、一夜漬けの試験勉強を終えたかのごとく、意気揚々と出向かせていただいた。ちなみに、私一人ではなく、私の発表には草津市での「草津街あかり・華あかり・夢あかり」のプロジェクトの受講生から2名、そして私の発表の前には金井萬造先生(経済学部)のゼミが、また2つの発表に対するコメントをサービスラーニングセンター長でもある坂田謙司先生(産業社会学部)が行った。

メイン会場がBKCということはサブ会場もあり、朱雀キャンパスと衣笠キャンパスと3拠点がIP通信によるテレビ会議システムで接続された。フォーラムでは冒頭に教育開発推進機構の河井亨先生から、「講義型ではなく経験学習型の取り組みにおいて、学習者が経験からの学びのために、どのような振り返りを教員は促し、どんな点に注意をし、なぜその点を意識したのかを深めたい」と趣旨が語られた。それらを受け、「着地型観光」をテーマとする金井ゼミからは、ゼミ長がまず発表し、まずは現場に出て講義を受ける、そして講義以外での交流機会を持つ、それが情報共有を容易なものにし、信頼関係の構築に功を奏していることが触れられた。そうした生の声に続き、金井先生から、長らくアルパックという現場で仕事を重ねてきた経験を大学に持ち込む上で工夫してきたこととして、文化・経済・まちづくりという観光が持つ3つの要素に引きつけて深い思考を促しているということ、またその際に一級のものを見せて評価の基準を定めていること、それは「なぜ」と問う心を養って欲しいため、と説明がなされた。

通常はスライドを作り、それを効果的に使って話をする私だが、今回はテレビ会議システムを使用するとあって、さしずめラジオ番組のような語りで進めることにした。まず、ライブ感を演出するが如く、金井ゼミとサービスラーニングセンターでの取り組みの共通点(現場での集団による学びで、評価観点を教員が提示し、低い到達点で満足しないよう精緻な洞察を促していること)と相違点(ゼミが同質的な学びのコミュニティであるのに対してサービスラーニングでは学部や回生が多様であること、また現場からの要請が受講ガイドに掲載された上で学生がプロジェクトを選択していること、そして教育評価においては成績評定よりも学習効果を重視していること[細かく言えばGPA評定ではなくP/F評定であること])を挙げ、レジュメと資料に基づいて、学生へのインタビューを盛り込み、30分の「生放送」(さしずめトークライブ)を行った。学生からは「進めていくうちに自己完結してしまい、プロジェクトがどういう理念だったのかを見失ないように、目標に沿って動いているかを確かめることができた」、といった声や、「いろんな違いがある中で、自分の役割を見いだすのに立ち止まって見つめる機会が必要だった」などと語られた。コメントでは「数値で示しにくい経験学習は客観的に評価できるのか」と「実践を盛り込んだ学習におけるリスクマネジメントはどうしているのか」などが寄せられたが、「自己評価と第三者評価と相互評価が一致するよう、物事・出来事へのまなざしの精度を上げること」と「責任感や正義感、使命感で始まった活動が義務感や強制に変化させないために、まずは学生から現場の方々に頼ることが大事」であることをテニスの比喩を用いて語ったのだが、実は今日のフォーラムに参加したことが、この間の学びの最大の振り返りになった、と打ち上げの席で学生が語っており、やはり「問われる場に身を置く」ことで「言語化」する機会をつくることが大切なのだ、と、私もまた振り返りを通じて振り返ることができた一日であった。

 

2014年1月20日月曜日

描画と見聞


應典院でのコモンズフェスタ三昧から一転、今日は大学デーであった。朝一番には、東日本大震災で被害を受けた地域へ全国の大学生が足を運ぼうというキャンペーン「きっかけバス」の京都府チームの一人と面談をすることになった。全国規模で、横並びの取り組みを重ねているこの取り組みには、参加者が「現地に行く」ことが目的となって、「現地に行った」参加者に運営者が満足して終わってしかわないか、小さな懸念を抱いている。当の本人にも伝えたのだが、多方面から注目と期待が高い中で、この取り組みが大きな被害を受けた地域に行き続ける「きっかけ」となったとき、そうした人たちとどう向き合う覚悟や決意があるのか、「きっかけ」づくりをした担い手たちが「多様な価値観がある」と横に追いやらないことこそ、被災地の支援を掲げる上では大切となるだろう。

サービスラーニングセンターでの面談の後は、「Service Learning I」という講義であった。科目名がカタカナではないところからも明らかなように英語による科目であり、2005年度に文部科学省の「現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)」に採択された「JWP (Japan and World Perspectives Program)」の一つである。私は2012年度から担当させていただいているが、昨年度は宗田勝也さん(難民ナウ!主宰)と大石尚子さん(BIMBI slow clothes代表)に、今年度は三田果菜さん(Happy Beauty Project代表)に、と、同志社大学大学院総合政策科学研究科のソーシャル・イノベーション研究コース時代にご縁をいただいた方々に非常勤講師をお願いし、共同担当という形で進めてきた。今日は15回目にあたる最終回ということもあって、この半年間のチームごとの活動内容が発表され、それらに対するコメント役として参加し、最後にYouTubeのトレンドマネージャー、ケヴィン・アロッカさん(Kevin Allocca)さんのTEDのプレゼンテーション「バイラルビデオが生まれるメカニズム(Why videos go viral)」から、新しいことで人に影響を与えるには、「Tastemakers」(流行仕掛け人)、「creative participating communities」(創意あるコミュニティ)、「complete unexpectedness」(全くの予想外さ)が鍵になるのとされる、と伝えた。

英語でのサービスラーニングの講義の後は、月1回のサービスラーニングセンターの運営会議、関係者との打合せ、そして公開での「ボランティア・サービスラーニング(VSL)研究会」と続いた。運営会議では次年度事業計画の立案に向けて、特に復興支援関係についての意見交換が主要な審議事項であった。その後の打合せでは、いわゆる課外活動(最近は正課外プログラム、と呼ばれている)のあり方と、わずかな時間でサービスラーニングセンターによる次年度のインターンシップの方向についてのすりあわせが行われた。そして、VSL研究会では筑波大学の唐木清志先生をゲストに、「アメリカ公民教育におけるサービスラーニングと日本型サービスラーニングの方向性」というテーマで議論を深めた。特に、学びの成果の「ふりかえり(リフレクション)」について問いを投げかけさせていただいたが、あいにく次の予定があって、豊かな討議の場に参加することは叶わなかった。

夕方には立命館から同志社へと向かった。週に1回、「母校」から「古巣」でのお役のためである。2006年から担当させていただいている「臨床まちづくり学」では、「時間と空間の設計概念〜「いま・ここ」 の場へのまなざし〜」と題して、状況論についての講義と、その理解のために、「自然科学だけが科学ではない」ことを菊池誠先生の「まん延するニセ科学」(NHK「視点・論点」、2006年12月18日放送)、チャイルド・ケモ・ハウスの取り組み(毎日放送「VOICE」、2013年9月10日放送)、マザーハウスにおける山口絵理子さんの姿勢(Eテレ「ようこそ先輩課外授業」、2012年10月27日放送)を使い、場づくりの特徴に迫った。何とも、充実した一日であったが、改めて「百聞は一見にしかず」そして「百書は一描にしかず」(文字で書くよりも、図や表で描くことで抽象化や系統化が図られるということ)を感じつつ、夜の懇親会は失礼させていただき、久しぶりに自宅で夕食をとることができた。


2014年1月19日日曜日

祭りの終わり


充実の日々を重ねた「コモンズフェスタ2014」の幕が閉じた。今年は12月8日から15日を「一の段」、1月11日から19日を「二の段」とし、そのあいだの12月25日から26日に「24時間トーク」を開催した。年明けすぐの2週間の祭りよりもよいだろう、という考えと、昨年度も行われた24時間トーク「如是我聞」を効果的に配置しよう、そういった工夫を通じた期間設定である。ただ、そこに「段」という名をつけたのは、統一テーマに「じゅうばこの隅」と掲げたためであり、重箱なら、文字通り、折り重なった一段目、二段目と数えるだろう、と考えたのだ。

2012年9月5日、藤浩志さんを應典院に招いて行ったトークサロン「美術家藤浩志が語る人をつなぐアート」の際、藤さんが「フォーマット」という概念を強調しておられたのが、今でも印象に残っている。フォーマットとは文字通り「規格」のことであるが、条件を設定することで一定の制約が生まれ、制約のなかから一定の創造がもたらされる、といった文脈で語られたように思う。正確な表現はともかく、具体的に藤さんの取り組みを例に挙げてみると、「かえっこ」(いらなくなったおもちゃを使って地域に様々な活動を作り出すシステム)にしても「部室ビルダー かえるぐみ」(その背景は着手前にご自身でブログにまとめられており、その後ご自身の解説する動画がYouTubeにアップされている)にしても、どこかで誰かが実施できる「規格」ができている。そして「規格」は「企画」へとつながるのだ。

今回のコモンズフェスタは、昨年から(再)導入した「企画委員の組織化→企画委員会の開催→実行委員会への移行→実行委員による運営」という「企画」からの流れを確かなものとし、同時にチラシの「規格」を定めたことで当面は18の企てを画していくことも定まった。雇われの身である私、いや、いのちあるものとして、いつか私が應典院を去る日が来る。よって、その日のために、企画の規格を定めていくことに、昨今は特に関心を抱くようになってきている。お寺(浄土宗應典院)の事業部門がNPO化(應典院寺町倶楽部)されているという、希有な「規格」が定まっている構図がある上、その構図が「お寺を開く」ためにあるということからすると、必然的に向き合わねばならない問いなのかもしれない。

期間の長短ではなく、とにかく濃密な時間を生んだ今年のコモンズフェスタも、最後は「クロージングトーク」で終えることになった。秋田光彦住職にも参加いただき、企画の段階から参加いただいた方々と共に言葉を交わしたのだが、stand flowerによる演劇『よぶ』(作・演出:勝山修平)の後の実施ということもあって、話は演劇の内容にも及びつつの語りとなった。必要以上に単純化させてしまって恥ずかしいのが、「正しいものが全てを失う」というヨブ記、それにまつわる吉本隆明さんの論考に立花裕介さんが触発されたことで原案がまとめられたお芝居からは、直接・間接を問わず、何らかのかたちで体験したものの印象が大きいと、それを他者にうまく表現することは難しい、ということが、口々に語られた。だからこそ、こうして集っているのだ、などと思いながら、来年のコモンズフェスタでは「阪神・淡路大震災から20年」という、「年ごとに想い起こす」という枠組みに向き合わねばならず、はてさて、どうしたものかと「規格」が落ち着いてきた今だからこそ、今から胸騒ぎをしている祭りのあとである。