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2016年12月31日土曜日

今年もまた・来年には

 今年もまた、ブログが続かなかった。ブログだけでなく、Twitterも、Facebookも、である。2015年に始めた「1日1枚」は、今日まで2年続いてきたが、それらを活かすところまではできなかった。ちなみに昨年12月に新しいギターを買ったので、今年は1ヶ月に1曲作ろうと思いつつ、3曲程に止まった。
 今年一番の変化は、2006年から勤めた應典院の主幹を退任したことである。研修制度のもとで大学院に行かせていただいた後、職場一本で奮起をと思ったところ、職場のボスが変わった2005年、その夏から秋にかけて「お寺で働かないか」と、秋田光彦住職に誘っていただいた。就任の折から10年の期待を寄せていただき、今年、その時がやってきた。十年一昔だ。
 退任直後から5月まで、そして秋口に再開したブログは、應典院寺町倶楽部の会報「サリュ」の編集後記の形式に添ったものだ。611字という限られた分量で、記事の内容と世相とを繋いで綴る趣向を取った。編集後記に「アトセツ」とコーナータイトルが付されたのは、本堂ホールを表現の舞台とされてきた劇団の方々へのオマージュである。城田邦生さんの知恵だ。
 来年、縁あって1年間、デンマークで学外研究に出る。春のブログが途絶えたのは熊本地震の支援の後だった。東北もまだ、復興の途上にある。そんな中で日本を離れるが、秋にブログが途絶えた日に東京で頂いた福島の飛露喜の味を、時に想い起こそう。

2016年10月12日水曜日

経験の価値と若さの価値と

 読書が苦手ながらマンガやラジオやテレビが好きだった私は、ことばに関心が向いてきた。読書では比較的長い表現が中心だが、マンガやラジオやテレビでは、単語や文節レベルで人々に何かが訴えかけられる。どうも、それが私の性に合ったらしい。日本語と同じ水準で多言語でも出来るといいが、それは難しい。

 水曜日の午前中は英語の時間である。以前、NHKラジオの「レッツスピーク」という番組にて、講師の岩村圭南先生による「英語の筋肉を鍛える」というフレーズが、今でも印象に残っている。ちょうど、仕事を始めて2〜3年、それまでの経験知だけでは底が見えると焦りを感じた頃に放送されていた。大学院に社会人入学をした時期と重なるのも無関係ではない。

 ラジオでの英語学習や大学院へと関心を向けて10年あまり、今日のお題は加齢と仕事がテーマだった。私も既に若者よりは中堅に位置づけられる年齢だ。今日の教材で、かつてAppleでモトローラ・IBMのプロセッサからインテルへの切り換えを担ったJ.K.シェインバーグ氏が、Apple Storeのジーニアスバーのスタッフ面接で落選とあった。要は、経験よりも優先される何かがある、ということだ。

 午後はBKCに向かった。先週リズムが取れなかった地域参加学習入門は、草津で活動するD.LIVE田中洋輔さんに参加頂いた。11月の街あかりイベントのチーム別会議では、今後の動きの見える化が行われた。自らの若く無さに向き合う今日この頃だ。

2016年10月11日火曜日

業を授けるということ

 授業とは業を授ける、と書く。業は「わざ」とも「ゴウ」とも読むことができる。今、教養教育の担当であることから、授けるわざとは知識ではなく認識、いわゆる物の見方である。転じて、ゴウを授けるとしたら、市民性を涵養する上での無知への気づきや、身体・発言・意志を通じた他者との交わりとなろう。

 そもそも大学の教員には免許状がない。その点でも、高校までと大学とでは、学校としてのあり方が違う。それゆえ、大学生らが自らを生徒と呼ぶことに相当の違和感を覚えている。だからこそ、学習者中心の教育を推進する立命館の教養教育を担う一人として、わざとゴウを授けていこうと、工夫を重ねている。

 今日の現代社会のフィールドワークは「教室に集まってもいいし、現地集合でもいいし、現地解散でもいいし、教室に戻ってきてもいい」と、グループでの判断を求める形態とした。先週、各グループで定めたテーマを掘り下げる時間としていたためだ。私は教室のデスクで、フィールドに行く、フィールドから戻る学生からの問いかけを待つ身である。そして、口を出す。

 6限のソーシャル・コラボレーション演習は、先週投げかけた問いに対して5名がプレゼンテーションを行った。言わば社会実験の計画案である。テキストに『イッシューからはじめよ』を指定しているので、そこに意識が向いている学生は、テーマの背景にある問題の根っこをつかもうと、リサーチを重ねている。授業後には美酒に浸った。

2016年10月10日月曜日

いざ研究モードへ

 再び九州大学に戻ってきた。日本グループ・ダイナミックス学会の第63回大会である。午前中のショートスピーチ「災害」に当たっていた。「被災地の定点観測における学習と活動の相即への身構え」と題した大阪大学の高森順子さんとの共同発表だ。

 この3年、グルダイ学会では「参加型学習を通じた災害経験の伝承に関する実践的研究」に通し番号を掲げて発表してきている。被災された方が遺した神戸の被災と復興過程の組写真に対し、その地を訪れて現在の様子を再撮影するという実践に、初年度は減災学習としての意義をまとめた。昨年度は当人が継続しえない活動を継承する意義に迫った。そして今年は、活動と学習の枠組みが定まる中でどのような工夫が求められるのかをまとめた。これらは私が筆頭者の共同研究発表であり、高森さんが筆頭の研究では別の観点が置かれている。

 今回、フロアから重要な示唆を得た。特に、京都大学の矢守克也先生から、である。端的には「語り部などのストーリーによらない伝承として、その深層に迫るべし」という具合に、だ。robustという単語も用いられた。また関西大学の近藤誠司先生からは「活動と学習の目的が共にハイブローなところにある」と前提の問い直しを頂いた。

 あいにく私大教員の宿命で夕方には授業で京都に戻っている必要があった。もっと示唆をいただけそうだったが、残念だった。とはいえ少人数だが深いセッションだった。いざ研究モードへ、である。


2016年10月9日日曜日

生まれる支え合いの輪

 学会を抜けて現場に、などと記すと、何か悪いことをしているようだ。しかし、今日は現場に行かねば、と決意して出張している。ちなみに立命館大学では出張命令決裁書を作成する必要があるが、資料収集、ゲストスピーカー、研究発表、学会一般参加、そして例に漏れず、その他がある。今回は資料収集と研究発表の合わせ技の出張である。

 今日の現場は熊本県西原村だ。熊本地震以降、概ね月1回の頻度でお邪魔してきた。とりわけ立命館災害復興支援室による支援として5月12日には7名、6月4日〜5日には17名、7月9日〜10日には5名でお邪魔し、農業を通じた生活再建のお手伝いを重ねてきた。大学院の後輩、兵庫県立大学の宮本匠先生の電話での呼びかけに応え、震源地の益城町の隣に通ってきた。

 今日は5月6日に開設された西原村農業復興ボランティアセンターを発展解消して立ち上がった西原村百笑応援団の設立にかかわり、農家さんらによるボランティア感謝祭が行われた。朝から芋掘り、午後からはパーティーだ。急な開催もあって、過去に参加した立命館の学生は1名に止まった。ただし、岡山大学におられる旧知の仲間、新潟・小千谷の塩谷に関わる学生、もとよりお世話になった農家さんたちと交流を重ねた。

 約半年、ボランティアは延べ2,500名を超えたという。前日には阿蘇山も噴火した。町長も農協の組合長も「負けない」と挨拶で述べた。これからも距離を越え、心を寄せて、支えの輪の中にいたい。

2016年10月8日土曜日

学会なる研究者コミュニティ

 研究者には学会というコミュニティがある。学術会議の略が学会であり、狭い意味では内閣総理大臣の所轄による日本学術会議の協力学術研究団体が学会に位置づけられる。要件を満たせば協力団体となるものの、全ての学会が協力団体となっているわけではない。むしろ、例えば江戸時代をはじめ町人学者という言葉で呼ばれる方々がいるように、市井の研究家らの類い希なる集団も多々ある。

 私もまた、いくつかの学会に所属している。初めて所属したのは日本環境教育学会であり、大学4回生の時に横浜国立大学で開催された第8回大会での発表が学会デビューであった。当時の指導教員である笹谷康之先生が「大学院に進学を希望しているなら、学会で発表せよ」という方針であったためだ。その時は学会の作法も知らず、ただただOHPを駆使して発表した。

 学会デビューから約20年が経った。発表もプロジェクターの使用が前提となり、国際学会などでは密な出会いと対話のためにポスター発表が効果的ではないかといった知恵もついてきた。今、国際ボランティア学会日本グループ・ダイナミックス学会の理事もさせていただいている。国際ボランティア学会では年次大会の長も経験した。

 今日は私のメイン学会、グルダイ学会の理事会だった。発祥の地、九州大学での年次大会を前に、である。院生の減少傾向ゆえ、財政は明るくないが、学会誌への関心の高さが明らかだった。終了後は一路、熊本へ足を伸ばした。

2016年10月7日金曜日

重い一日の終わりの晩餐

 昨晩は久しぶりに日付が変わる前まで懇親を重ねた。立命館災害復興支援室による旅費支援報告会の後、会場が以前の職場ゆえ、10年ぶりに近くのおでん屋さんにお邪魔した。口数少なくも愛想のいい大将から、愛嬌ある女将さんという印象をもたらしそうな方に変わっていた。カウンターだけの小さなお店だが、エイヒレを肴に酒を飲むといった嗜みは、このお店に連れてきていただいて覚えた。

 一夜明け、今日は災害復興支援室の定例会議だった。はからずも、今日は司会の役を仰せつかった。しかも今日は、建山室長と塩崎副室長も出席の上、この4月に公務研究科に着任した久保田崇先生が新たに参加、という日だった。会議は1時間、学園内の多くの部署をまたぐ会議ということもあり、普段よりも仕切りの緊張度が上がった。

 東日本大震災を契機に設立された立命館災害復興支援室は、当初の目途である5年が経過する中、この5月25日の常任理事会によって2021年3月までの継続が決まった。あわせて、平成28年熊本地震も支援の対象とされた。災害が相次ぐ中で、発災から時間が経過する東北、特に沿岸部にどう関わり続けるか。その道のりは、平坦ではない。

 今日の会議では「専門とする先生方のネットワークが重要だ」との指摘がなされた。正論である。一方で、その専門とは何で、どのような種類ネットワークを指しているのか。夜は近所のレストランでの夕食に舌鼓、ささやかな晩餐の中、重い一日を終えた。

2016年10月6日木曜日

今の若者でも

 「この人、散髪のとき、どんな風に言って切ってもらっているのっか」と考えてしまうときがある。もしかしたら私もその一人なのかもしれない。「いつもの」で通じる方とのつきあいを大切にしたいと思って、恐らく大学1回生のときから、同じ方にカットをお願いしている。振り返れば大学入学で実家を離れるまで、散髪は父親と同じ店に、ずっと通っていた。

 今日は朝から特別な予定がなく、出張明けに求められるいくつかの作業を重ねた。事務仕事もあるが、玄米の精米などにも出かけた。少しだけ贅沢な昼食を妻といただくことにもした。そして夕方を前に散髪に出て、京都駅で来週の熊本行の打合せとなった。

 夜はキャンパスプラザ京都にて、立命館災害復興支援室による夏の旅費支援の報告会だった。2014年度から実施している制度だが、支援対象者が一同に会する場づくりは初めてだった。大船渡、南三陸、女川、石巻、山元、郡山、楢葉、いわき、熊本で活動してきた面々、35人が集った。場の進行は今年度途中に起用したアシスタントスタッフが担った。前半は私が聞き手となって代表者のインタビュー、続いて5つのテーマでグループトーク、そして協定先の福島の物産を中心に交流会という流れとなった。

 報告会には来週お世話になる名門大洋フェリーさんにも参加いただいた。盛んに「今の学生は」との感嘆が重ねられた。通常は否定的に語られる言い回しである。が、倫理観の高い若者も多いのだ。

2016年10月5日水曜日

段取りと現場仕事のバランス

 先般、石巻の石ノ森萬画館の横で、遠藤興業さんの「段取七分で仕事が三分」という標語を見た。足せば1割なのだから、残りの9割は何なのか言いたくもなる。ただ「九分九厘、大丈夫」に、引き算すれば9割1厘はどうなのかと、下種につっこむのと同種のものでしかない。無論、大事なことは、実力の過信や慢心は禁物だということだ。

午前中、久々に英語のクラスに出席した。夏は東北への出張などが続き、参加が適わなかったのだ。今日の教材はフランスのビーチにおける1960年代のビキニと現代のブルキニ(イスラム教徒の女性が着用する水着)との対比だった。記事自体は通読していたが、フランスの文化に対しての理解が及んでおらず、学びを深めることができた。

 転じて午後、立命館大学びわこ・くさつキャンパスにて「地域参加学習入門」の授業だった。「近江・草津論」と呼んでいた2010年度から担当しているが、今期は239名の受講である。ただ、こちらの準備が至らなかった。授業資料印刷ルールの厳格化が図られ、先週の火曜日には印刷に出していたものの、事前準備の内容と当日の授業進行のリズムが合わなかったのだ。

 何より、一番前に座っていた学生の受講態度(スマホでゲーム、教職課程の内職…)に合点がいかず、注意を重ねのもペースを乱す要因となってしまった。ミニレポートへの指示もあいまいになってしまった。段取りと現場仕事の兼ね合いの難しさを痛感した。次週へ自省中である。




2016年10月4日火曜日

授業の勘を取り戻さねば

 前期と同じく、火曜日は立命館大学衣笠キャンパスで4コマの授業が続く。前期は4限が空きコマで、前半と後半というようなペースメイクができたが、後期は3限から6限まで、6時間ぶっ通しである。とはいえ、サービスラーニング科目ということもあって、ただただ語り続けるだけではない故、可能なのだ。

 3限と5限は「シチズンシップ・スタディーズI」という科目のチーム別会議である。これを立命館ではコアタイムと呼んでいる。学生たちには「部活動の部室のように活用を」と呼びかけている。学生が自らの立場を「学生」ではなく「生徒」と呼ぶことが多いのも、こうした比喩が響く理由なのかもしれない。

 一方で4限と6限は、教員の導きのもとで、受講生が主役となっていく授業である。4限は「現代社会のフィールドワーク」であり、15回のうちの半分を、グループで現場で問いを深めていくというものだ。6限は予め設定した課題から問題を抽出し、社会実験を重ねながら解決の糸口を探る「ソーシャル・コラボレーション演習」である。

 4限の講義の感想で、「話が長い」「抽象的」という批判が寄せられた。釈明するなら、「前回の代講内容を紐解きつつ、全体の流れを説明する必要があった」「方法論なら参考書に指定した本に書いてある」などだが、純粋に楽しんでもらえなかったのは、私の力不足である。そこで、6限は15人の連帯感を高めることに努めた。事実上の1週目、授業の勘をつかみたい。

2016年10月3日月曜日

○○としての最善を尽くす

 10月に入り、いよいよ下半期の授業が本格化する。立命館では後期、同志社では秋学期と呼ばれいる。立命館では先週に第1講を迎えたが、ニューオリンズ出張ゆえ、サービスラーニング科目の同僚に代講いただいた。そして同志社では今週が第1講で、昨年は未開講の「コミュニティ・デザイン論」の講師陣が揃い、話題提供を行った。

 先週はニューオリンズからの帰国後、自宅に1泊し、翌日は石巻で1泊、そして新潟に1泊した。災害復興学会に出席した後、新潟・小千谷での会議に出席のためだった。本来は石巻から大阪大学の渥美公秀先生と同行の予定だったが、ご家族の事情で石巻日帰りをなされ、新潟・長岡にて関西学院大学の関嘉寛先生と合流し、塩谷集落に向かった。会議では田植えと稲刈りに携わらせていただいた田んぼで、3大学あわせて9俵の収穫をどう扱うか議論した。

 朝の飛行機で新潟から戻ると、立命館で3つの会議が続いた。フィールドからデスクへ、モードの大転換である。夕方には朝の会議のフォローで、午後の会議のメイン会場とされた衣笠キャンパスから朱雀キャンパスへと戻った。そして15人が受講する同志社の講義へと向かった。

 同志社での講義の途中、災害復興学会で話題になった現場に関する議論に想いを馳せた。理論と実践のバランスを問われたためだ。研究者の存在と機能を鑑み「響く言葉を持つこと」と応えた。医者を例にすると『赤ひげ』の「としての最善」の姿勢である。

2016年10月2日日曜日

こういう状況でも働く

 石巻専修大学での日本災害復興学会で、改めて復興と言葉について考えている。特に昨日の分科会で話題提供をされた石巻日日新聞の武内宏之さんから、いくつか示唆を得た。例の6枚の壁新聞について「『ありがとう』ということばより、『見たよ、こういう状況でも働いている人がいる、私もがんばらないと』」という反応が意外で、うれしかったという。が、「資料的価値はあるが、今となって生活情報を中心に心をつなぐという方針がよかったか、むしろ現実とのギャップを広げてしまったのではないか?」と自問を重ねているという。

 初日の懇親会の前、武内さんと同じ分科会で話題提供された、せんだいメディアテークの北野央さんらと、武内さんが館長を務める石巻ニューゼにお邪魔した。6日わたり発行された壁新聞は、その後3セットが遺った。それぞれ米国の報道博物館に、横浜の新聞博物館に収められ、後の1つが石巻で常設展示されている。改めて自己紹介すると、ボランティアバスに向けて商店街の方々が掲げたボードをお持ちいただいた。

 「皆、ジャーナリストだった。」武内さんは言う。「メディアにはかっこいい言葉を言おうとする、しかしあのときは、時間をかけて正確に思い出す人たちばかりだった」と。自ずと記者も丁寧に聞き取る姿勢になったという。

 私の発表は2日目の午前に充てられた。果たして現場にうまく寄り添えているか。午後は新潟へ向かう。武内さんらの姿勢に背筋を糺したい。

2016年10月1日土曜日

凛とした姿に自らを省みる

 10月になった。20年余り前までは、再び学ランを着始める日だった。そうした衣替えという習慣も、徐々に薄れてきている気がする。気候の変化もあるが、そ個性や自己決定が尊重される風土が反映しているようにも思われる。

 夏、多くのまちにお邪魔した。8月中旬には、今の京都の暮らしでお世話になっている方のご縁で、北海道の当別町にも伺った。5月から7月には、毎月1回、熊本・西原村の農業復興ボランティアに学生らと参加した。同じく月1回のペースで、新潟県中越地震で被害を受けた小千谷市の塩谷集落にお邪魔し、8月の大船渡での盛町灯ろう七夕まつりでの支援活動に関連して7月中旬の奉納相撲にお招きいただくなど、伺うまちの多くは、何らかの災害に関係していることが多い。

 移動の多くが飛行機となって久しい。外国では、7月末にデンマークのオールボー、8月中旬には中国の内モンゴルに飛んだ。静岡県出身の私にとって、飛行機は遠い存在であった。9月の末日にアメリカのニューオリンズでの国際学会発表から帰った翌朝、石巻での学会発表のために、再び空港にいるなど、予想だにしていなかった。だからこそ、衣替えのその日、故郷の暮らしに想いを馳せている。

 小雨の大阪から仙台空港に向かう際、靴磨きに立ち寄った。これまた縁の遠いものだと思っていたが、身だしなみを整える大切さを学び、時折お世話になっている。今日は若き青年の手にかかった。凛とする姿に、自らを省みた。


2016年5月18日水曜日

知恵が結びあう広場に

 阪神・淡路大震災から10年の日、「智恵のひろば」という活動が発足した。「全国に散在している経験や教訓を集約し、今後災害に見舞われる可能性が高い地域の人々に使ってもらえるような形式に加工する」取り組みである。レスキューストックヤードの栗田暢之さんが準備室長を務め、2004年1月8日にはブログが運用されたが、2006年12月28日の投稿を最後に更新は止まっている。SNSを使えば、新たな展開ができそうだが、皆、多忙を極める。
 2006年、縁あってインドネシアのジョグジャカルタと京都とのコラボレーションによる産業復興に携わらせていただいている。「てこらぼ」と名付けられた取り組みである。元々は京都府国際課により、友好府州の関係にあったことから始まったプロジェクトだ。2009年にはNPO法人化され、2016年には一般社団法人へと体制を変えた。
 2016年5月18日から24日まで「てこらぼ」による企画「島々の染と織」が阪急うめだ本店で開催される。昨日の閉店後に準備がなされ、朝から皆さんをお迎えしている。私も朝の英語のレッスンからの流れで、昼にお邪魔した。ちなみに英語での話題は、トランプ候補への友人関係と知人関係の違いの記事だった。
 夕方からは立命館大学びわこ・くさつキャンパスで講義だった。1994年、私は真新しいこのキャンパスの一期生として入学した。時を経て、今や教える立場である。経験と教訓から得た智恵を、後輩たちに語り継いでいこう。

2016年5月17日火曜日

拍手を通じて承認する

 今年、私の講義では拍手の練習をすることにした。火曜日2限の地域参加学習入門において、である。この講義には話題提供者やゲストスピーカーが複数訪れ、時には受講生にマイクが向けられることもある。そうした発言の機会の後で、響きのよい拍手をして欲しい、との願いからだ。
 今日の授業でも、京都駅前の学生Place+から、一連の活動について話題提供をいただいた。主にはコーディネーターの興津慶さんが語り、昨年のプログラムの参加者として2回生の岡嶋輝くんにインタビューする形を取った。こうした機会に大きな拍手が寄せられたとき、語り手は「ああ、これでよかったんだ」と安心する。役目を果たした実感がこみ上げてくるためだ。
 よって、私が誰かに何かをお願いしたとき、誰かが何かの役目を果たしたときには、多くの拍手を送るようにしている。ちなみに多く、というのは回数だけを指さない。むしろ、音の響きが重要なのである。叩き方が肝なのだ。
 一方で、こうした拍手による他者への承認と真逆な位置にあるのが通信回線を使った顔の見えない相手とのやりとりとなろう。実際、今日は岡山におられる方とSkypeで、しかも互いにカメラなしの環境で、1時間ほどやりとりを重ねたのだが、間合いのつかみ方に困る場面が共に何度かあったように思う。無論、会わずして意見交換をする手段は、効率的かつ効率的となる場合が多い。ただ、顔見知りのあいだでは、少しのもどかしさを伴う気がする。

2016年5月16日月曜日

身近で弱さの情報公開を


 手帳を持たなくなって久しい。振り返ると2001年度に無印良品のレンガ色のリング手帳が最後のようだ。2002年度からはPalmというPDAを使い始め、職場のサイボウズやiSyncを通じて予定の共有や公開をするようにした。「山口は何をしているのか」と疑念に応える姿勢は、今はFacebookの位置情報によりアリバイの証明をしている。
 よって、携帯端末などに表示される通知により、予定は確認することになる。今日は朝から立命館の朱雀キャンパスで会議、その後は衣笠キャンパスで会議、夕方からは同志社の講義、夜は立命館サービスラーニングセンターの歓迎会と続いた。生憎の雨、移動には参った。ちなみに昼には鍼灸院で凝りをほぐした。
 「急いで出られますか?」今日、ふと、そう呼び止められた。なんとも言えない雰囲気を感じ、あまり他の人たちの声と混ざらないところで、呼びかけてくれた仲間と言葉を交わした。その場では、個人で抱えてきたことが言葉にされ、傾聴と言う程ではないが、耳を傾けることにした。
 2014年6月16日、應典院のプロジェクトの一環で、北海道浦河町の「べてるの家」にお邪魔した。当事者研究などの実践で知られるが、改めて「弱さの情報公開」と語られてきた現場を見学し、わかりあえないことから始めるコミュニケーションの作法とその意味をを学んた。夜の同志社でも、歓迎会でも、昼の対話で他者にやさしくなれた気がする。強がる弱さこそ、よい関係づくりに禁物なのだ。


2016年5月15日日曜日

アイデアとビジョンを結ぶ

 新潟からの夜行バスで、朝に京都に戻った。3列シートで比較的快適なはずが、やはり身体に堪える。きっと昨日の田植えによる筋肉痛は明日に出るだろう。若くはない。
 文字通り、ひとっ風呂あびて、立命館の朱雀キャンパスに向かった。朝からサービスラーニングセンター科目「全学インターンシップ」のプレセミナーのためだ。衣笠と草津と茨木の3キャンパス合同運営ゆえ、アクセスのよい場所で事前学習等を、との趣向である。今年度に着任の教員らのと相談で、昨年度とは役割分担を変えての展開とした。尚、シラバスは同じだ。
 料理に喩えるなら、レシピが同じでも、最終的な味わいは異なる。微妙な味付けが違う、盛る皿が違う、シェフが違う、味わう人の期待や関心や経験が違う、何より場の雰囲気が違う、これらの結果、受け止め方が変わってくるためだ。転じて、教育もまた同じ構図にあるのではと捉えている。今日の講義では「後出し負けジャンケン」や「相手を褒め続ける」等のワークを通じ、慣れ親しんだ規範には強い影響を受けること、また他者への承認と他者からの承認がよい関係づくりの手がかりになると、学びを促した。
 講義の後、近くの喫茶店で学生の相談に乗った。立命館大学では学生どうしの学びのコミュニティを重視し、集団的な活動への助成金制度がある。今日は昨年度、推薦した活動への継続支援が求められた。が、個人のアイデア先行で集団のビジョンが不明瞭だと、珍しく断ることにした。

2016年5月14日土曜日

のぞみの芒種を前に

 言葉はデスクでもフィールドでも得られる。中でも、現場での活動を通じて得た言葉は、発した人と受けとめた人の双方に響いた言葉である。新潟・小千谷の塩谷集落で得た言葉の一つが芒種である。芒種とは「種をまく」ことを意味する。太陰太陽暦による二十四節気の一つでもある。
 今日は「芒種庵を創る会」と福島県楢葉町の方々との交流会が行われた。芒種庵は新潟県中越地震により全壊判定を受けた築100年を越える古民家である。当初は集落として残す企図も、既に集落開発センターという拠点があるゆえ、住民以外も含めた有志の手による修復と保存と活用となった。そのため、当初の会の名前は「作る会」だったものの、修復・保存の手はずが整った今、活用への創造的な活動の担い手となるべく、「創る会」を名乗っている。
 塩谷集落と楢葉町との交流は、2015年5月に始まっている。当時、一般社団法人ならはみらいの任期付職員に就いた西崎芽衣さんが、立命館大学産業社会学部1回生の時から学びと交流を続ける塩谷とを結ぶことを考えたのだ。楢葉町は未だ、避難指示解除を待つ時期だった。今後、町に帰るか、あせらずに考えるか、新たな場所での暮らしを始めるか、そうした選択の上で先例を塩谷に求めたのだ。
 1回目は塩谷から高久第8仮設住宅で山菜などで交流した。2回目は昨年11月1日に楢葉が塩谷へと足を運んだ。3回目は田植えとなった。次は塩谷で盆踊りか稲刈りか、楢葉で何かか、思いは巡る。

2016年5月13日金曜日

「でん」してかえる

 地元の静岡よりも関西で暮らす期間の方が長くなった。そのほとんどが京都暮らしだが、大阪にも暮らしていた。大阪大学でも学びを得た。そして多くの言葉を得てきた。
 英語で言えばtouch and goといった意味の「でんして帰る」も、河内のご出身である渥美公秀先生との会話で得た表現である。今日は熊本からでんして、京都にでんして新潟へと向かった。12日の16時半過ぎに西原村を出て19時50分に新門司港から名門大洋フェリーで南港へ向かい、13日の朝8時30分に到着して、10時前に京都駅付近に到着、車を返却した。
 今回、フェリーで移動したことで、ボランティアの新しい形を見い出せた。ミーティングルームで研修、風呂に入る、横になって寝る、こうしたことは、バスの移動では難しい。なお、今回は住宅再建のための片付けよりも、作付けの時期を逃して生活再建の手立てを失わないように、農業復興に取り組んだ。「2人なら1週間はかかったところをありがたい」と7名の学生と教職員2名の活動を喜んで頂いた上で疲れを癒した。
 とはいえ、京都に到着後は慌ただしく、着替えの調達、車の返却、大阪へ印刷物の受け取り、立命館の朱雀キャンパスでの会議出席、印刷物のお届け、そして伊丹空港から新潟・小千谷へ向かった。熊本の後は塩谷集落で田植え交流会だ。今回は福島・楢葉の皆さんを迎える。レンタカー返却時、昨年度の小集団科目の受講生が窓口担当で、偶然の再会に力を得て向かった。



2016年5月12日木曜日

農ある暮らしの再建のため

 0泊3日の日程で、熊本県西原村での支援活動にやってきた。立命館災害復興支援室による、立命館大学生を対象とした平成28年熊本地震に対する災害救援ボランティアのパイロットプログラムの引率のためである。今回、4月15日と19日、それぞれに発した文書を評価いただき、名門大洋フェリーさんの協力を得た。それゆえ実現した支援プログラムの実施であった。
 19時50分に南港を出た船内で事前学習を行った。7名の学生は8時30分には新門司港に到着、新門司インターから九州自動車道をひた走り、益城熊本空港インターには11時30分ごろに到着、正午ごろにヒライ西原店のイートインスペースで昼食を取った。そして12時50分ごろに西原村農業復興ボランティアセンター河井昌猛さんと合流し、活動内容の説明を受けた。車で5分ほどのところまで移動し、13時15分ごろから唐芋の植え付けを始めた。
 今回の活動は、大阪大学の渥美研究室の後輩、宮本匠くん(兵庫県立大学准教授)からの4月26日の電話がきっかけとなった。「全然人が足りてないんです。」熊本〜大分から前日に戻ったばかりだったので「また行くね」と約束した。そして5日に訪ねた
 宮本くんは被災地NGO恊慟センターを通じて16日に西原村に入り、5月10日まで滞在した。4月26日と5月5日では状況も変わったが、その中で農業復興が課題に上ってきたという。その思いは河井さんと共鳴していた。二人がいて、今回の活動がある。

2016年5月11日水曜日

まちを弾丸のように飛び回る

 不健康や不摂生と見立てられる私にとって、かかりつけ医があるのはありがたい。ただ、実家を離れて以来、通算では京都暮らしが最も長いものの、お世話になっている病院は大阪ばかりである。内科も、歯医者も、だ。先般、荷物の整理中、「逸見政孝物語」と書かれたVHSテープが見つかり、少し再生してみたのだが、もし大阪出身の逸見さんが大阪の先生からセカンドオピニオンを早めに得ていたら、結果が違っていたのではないか、などと思う。
 思えば英語のクラスも大阪である。ただ、先生は京都にお住まいという。受講生ので京都から通っておられる方も少なくない。今日のテーマはジョージタウン大学が過去の奴隷制度に基づく人身売買に関わったことを受け、建物名称の変更や卒業生らによる支援プロジェクトが始まったという記事だったが、先生の博識と碩学に、関西一円から集う受講生は皆、圧倒された。
 英語のクラスの後は京都に戻った。途中、ニコンの大阪サービスセンターで修理が上がったカメラを受け取った。そして、トヨタレンタカーの京都駅前店でハイエースを借り受けた。その車で立命館の講義で草津へと向かった。
 昨日の衣笠の講義に続き、びわこ・くさつキャンパスでもサービスラーニング科目の事前学習を行った。そして、終わるやいなや、借り受けた車で南港へとひた走った。名門大洋フェリーさんの協力により、新門司の往復運賃に優待を得て、支援活動に取り組むためだ。弾丸の旅である。

2016年5月10日火曜日

天気が講義を左右する

天気のことを気にする大規模講義は珍しいだろう。私が担当する立命館大学サービスラーニングセンター科目「地域参加学習入門」は、毎回、何らかのグループワークを授業に織り込んでいる。通常、大規模講義は「聞いているだけ」の形式になるが、教員対学生の構図とならぬよう、学生らが語り合う機会を設けている。語り合うだけではなく共に動く場合も、時折ある。
 4月の開講から数えて5講目となる今回は、スマートフォンなどを携えて、大学周辺をフィールドワークするというお題を出した。しかしながら、あいにくの雨模様のため、来週の授業開始までの課題とした。元ネタは新潟「大地の芸術祭」のプレ事業「越後妻有8万人のステキ発見事業」である。日常生活で触れている風景から身近な魅力を再発見するのが狙いだ。
 加えて今日は6限の「シチズンシップ・スタディーズII」で、学生による自主企画の当日で、余計に天候には気を揉んだ。この授業ではプロジェクトの立案と実施と評価をセメスター内にやりきることで、チームワークでのリーダーシップを磨く狙いだ。毎年、開講から3回ほどで、まず何らかの企画実施を促す。今期は受講生は少ないが、「国際交友入門」なる留学生との語り合い企画となった。
 雨は人の足を鈍くする。それでも13名の学生が18時から集い、語った。雨でも来た参加者と企画者の壁は低く、あたたかい場だった。今回の手応えが次の挑戦への手がかりとなることを願っている。

2016年5月9日月曜日

事起こしは仲間づくりから

 気に掛けていただくことは存外の喜びである。大学の講義でも『ドラえもん』の「どくさいスイッチ」を取り上げて、まわりから気に掛けられることの意味と、まわりを気に掛ける意義を説いている。そう、自立と孤立は違うのである。過度な自立の促しは、結果として孤立を助長する。
 今期は毎週月曜日の夜、同志社大学大学院総合政策科学研究科での「臨床まちづくり学」に、都合が合う限り、寺谷篤志さんにお越しいただいている。全くのご厚意によっている。2006年度から担当させていただいている科目だが、今期からテキストを『地方創生から地域経営へ』に変更したことが背景にある。寺谷さんはこの本の著者のお一人なのだ。
 今日は講義開始前、近くの喫茶店にて、少しゆったりとお話をさせていただく機会を得た。寺谷さんは鳥取県智頭町での「日本ゼロ分のイチ村おこし運動」の仕掛け人の一人である。杉万俊夫先生も指摘されているが、「たった一人」ではなかったことが、重要なのだ。寺谷さんご自身も前掲書にて「2のn乗」とモデル化して論じておられる。
 寺谷さんが私に時間を割いてくださったのは、この「n乗」していく仲間を身近な環境でつくるよう気に掛けていただいたのだ。言うまでもなく、活動の現場には仲間がいる。転じて、職場ではどうかと案じてくださった。他者との信頼関係は信じて頼ることから始まる。若さが評価されてきた昔とは異なる今、私からの事起こしを始めよう。

2016年5月8日日曜日

量を減らし片を付けねば

 行きつけの店があることは小粋な大人の振るまいだ、と思うようになって久しい。とはいえ、今は新しい店を開拓することに、ささやかながら億劫になってしまっている気がする。気心知れた大将とのやりとりといった、映画の一場面に対する憧れよりも、期待を込めてお邪魔した店で気に障る何かに触れることを避けたいと考えてしまう。年をとってきた証拠だろうか。
 母の日ながら、夫婦とも実母と別に暮らしていることもあり、特に変わらぬ一日を過ごした。せめて近くで暮らしていれば、食事などを一緒にしよう、という運びになったのかもしれない。二人暮らしの我々は、行きつけの店で昼食を取ることにした。まるで大仰な物言いだが、行きつけのラーメン屋さんにて、だ。
 昼食のためだけに外出するのも何なので、貯まった新聞や雑がみをリサイクルステーションに持っていくこととした。以前は無人だったが、係員の方が構えていた。そのためかわからないが、雑然と捨てられていたものが、整然と並べられている気がした。「適当でいいや」ではなく、「きちんとせねば」という力が働くのだろう。言わば、割れ窓理論の逆適用である。
 整理と整頓は違う。常々、自分の片付けは整頓であって整理ではない、そんな自覚もある。何より、並べ替えや移動をするだけでは、文字通り片を付けることにならない。そんな申し訳なさから、今日の一日、紙と物の減量化に努めたのだが、体重の減量化にも勤しむ好機のはずである。


2016年5月7日土曜日

学びに貪欲になるように

 土曜日なのに火曜日としての振る舞いが求められた。この感覚は何に似ているのだろう。テレビで言えば特別番組の編成、そういう感覚だろうか。無理もない、大型連休の土曜日、連休が確保され、かつ、大学での2単位科目における1科目15回授業の徹底のため、立命館大学では5月7日が、前期セメスターの4回目の火曜日とされた。
 不思議なことに、いや、当然のことながら、こうした変則開講日は、職員の出勤体制が手薄となる。授業運営上、最低限の人員での事務体制が整えられる。そのため、学部の事務室等は開室しているものの、サービスラーニングセンターなど全学対応窓口は閉室という扱いなのだ。そのため、授業準備で訪れるオフィスは静寂に包まれていた。
 変則日程ということもあって、授業に出席する学生も、通常よりは少ない。せっかく出席した学生たちが、より授業に参加できるようにと、2限の「地域参加学習入門」ではカードの絵合わせでペアワークをした。米国ジョージア州のメイコンで行われた地域通貨の社会実験からの着想だ。そして、1999年に滋賀県草津市で始めた地域通貨おうみの事例に引きつけた。
 出席と参加も違うが、参加と参画は異なる。理工学部の経験計画研究室に在籍した約20年前、シェリー・アーンスタインの「住民参加のはしご」を説明され、合点がいった。決して真面目な学生ではなかったが、学ぶことには貪欲だった。母校で働く今、後輩らの成長を切に願う。

2016年5月6日金曜日

共創への知

 二項対立の図式に置かないようにと人に言いながら、対になる概念から事の本質に迫る癖がある。例えば、内橋克人『共生の大地』にもあるように、競争と共生、などだ。こうした思考の癖は、渥美公秀先生に指導を受ける中で、確かとなった気がする。まさに、脱構築そのものである。
 いくつかの組織に身を置いているが、リーダーの振る舞いに戸惑う場面が増えてきた気がする。年齢的に、いわゆる中間管理職というか、リーダーとフォロワーの板挟みになることが増えてきたからかもしれない。特に、統制型・コントロール型の方と出会うと、悪い意味で身構えてしまう。逆に、調和型・コーディネート型の言動に心地よさを覚える傾向があるようだ。
 今晩は代表理事を仰せつかっている「てこらぼ」の例会だった。この会は同志社大学に在職していた折、京都府国際課からリエゾンオフィスを通じてジャワ島中部地震に対する効果的な支援を考えるプロジェクトが提案され、副委員長を務めたことが端緒である。発足から3年が経ち、自治体事業終了の審議の折、委員長の細尾真生さんが「別組織で継続」と提起され、現在に至る。ちなみに昨年度、NPO法人から一般社団法人へと体制が変更された。
 「てこらぼ」は京都とインドネシアの染織の協演を目指している。そのため、完全なる異業種ではなく、同業異種混交の事業体だ。そこで、調和とコーディネートに努めている。強制でなく共創への知のための役目である。

2016年5月5日木曜日

連歌のように言葉が続く

 昨晩の宿も博多だった。2011年8月に大船渡に立命館大学スポーツ健康科学部の田畑泉・学部長らと大船渡に伺った際の宿が一関にだったの思い出す。今回もご一緒している深尾昌峰さんのゼミ生らと、龍谷大学と立命館大学の合同によるボランティアバスで山田町で活動した際、花巻まで3時間の往復をすることに「コスパ悪い」等の感想が残されたことも思い出す。初動期はそういうものだ。
 博多からは南阿蘇へと向かった。立命館大学サービスラーニングセンターで同僚だった小林政夫さんが駆けつけた南阿蘇ケアサービスにお邪魔した。株式会社による着実な地域福祉の展開が、非常時には営利法人という組織形態が外部の支援の壁になることもある、改めての学びを得た。何より、周辺地域とを結ぶ主要ルートである橋とトンネルが絶たれた南阿蘇は、3年ほど工事が続くとされる。
 午後は西原村にお邪魔した。熊本から南阿蘇へ抜けた広域農道のグリーンロードを再び戻り、昼食は「ヒライ」でお弁当を求めた。そして、被災地NGO恊働センターを通じ一早く現地入りした宮本匠くんを訪ねた。大阪大学の渥美公秀研究室の後輩だが、見識と実直さに敬服する。
 西原村では災害ボランティアセンターの運営に携わる河井昌猛さんと出会いを得た。話が弾み、連歌のように言葉が続く感覚を得た。また来週お邪魔する。明日は雨でお休みらしく、差し入れた焼酎純米酒赤酒を楽しんで頂けたか、思いを馳せている。

2016年5月4日水曜日

「ジェロニモ現象」を想定して

 10日ぶりの熊本である。前回お邪魔した際、再訪を約束した方々と再会した。私たちは、救援から復興への移行を見据え、支援者支援の構えで行っている。長く続く復興のプロセスをよりよいものにするための仕組みと仕掛けを考えて見せ方を工夫する、その仕込みに伺っているのだ。
 前回は九州新幹線、今回は熊本空港を利用した。ふと、東日本大震災の後の仙台空港を思い出す。2011年4月30日、再開から2週間余り、回転台が使用不可のため、預け荷物が手渡しで戻されていたのだ。不便さを詫びる係員の皆さんだったが、手渡しのあたたかさに感謝を重ねた。
 今回も前回も、熊本で小・中・高と過ごした深尾昌峰さんの一行なので、思い出の店で昼食をいただいた。その後の、各々の10日前の約束を確かめ合った。熊本市北区から益城に足を伸ばした後、県庁の会議室で、NPO連携の現状について、お話を伺う機会を得た。そして夜は毎晩19時から開催の「火の国会議」を陪席した。
 「火の国会議」は内閣府と救援団体のネットワークと地元NPOの連絡調整の場である。外部者、特に専門家の関わりにあたり、過剰な期待や力量の注入が当事者に受け入れられない構図を、漫画『キン肉マン』に着想を得て、私は「ジェロニモ現象」と呼んでいる。超人は超人であることを前提とする。漫画の中では超人パワーは人間には入らない場面が描かれるが、人間どうし、言葉にできない気持ちも大切にしていきたい。

2016年5月3日火曜日

物好きな者の舵取り

 都市生活者だが、自家用車を持っている。公共交通が充実している中での所有を思えば、贅沢や無駄と言われるだろう。若者の車離れのことを思えば、なおのことである。加えて、初年度登録から13年が経過した自動車には増税という、買い換え需要を喚起させる政策の真っ直中で、車齢28歳の車に乗っている。
 車好きは輸送機器メーカーに勤めていた父の影響もあろう。そこに多趣味な母の影響も重なり、物事や出来事に対して、スペックだけではなくストーリーに関心が向く。その結果、今乗っている車は4ドアハードトップのマニュアル車だ。爆発的に売れた車種のはずだが、エコカー減税などの甲斐あって、最早、絶滅危惧種だと確信している。
 今日、烏丸今出川の交差点で、横断歩道からの視線を感じた。車好きと思われる方が、携帯電話で私の車を撮影しようとしていたのだ。ちなみに以前、東寺の交差点で信号待ちをしていると、オートバイに乗った方が、助手席側から声を掛けてこられた。短い時間の出会いと関わりながら、えもいわれぬ雰囲気が生まれ、なんとも物好きとはよく言ったものである。
 少し時間があいたので、まちなかから遠回りして帰宅することにした。ノーマルな装備へのこだわりゆえ、私の車にはカーナビがない。道路標識と勘を頼りに舵取りを重ねて、まだ見ぬ風景を楽しむことができた。憲法記念日の今日、健康で文化的な暮らしを送ることができていることに感謝する一日となった。

2016年5月2日月曜日

動きながら養う

 5月2日、カレンダー上は平日である。しかし、世の中は大型連休に入った、とされている。そして、それは既に先週、4月29日「昭和の日」から始まったもようである。事実、あの日、伊丹空港から花巻空港まで向かった際、朝6時台の移動にもかかわらず、道路は渋滞していた。
 29日からを連休とするなら、そろそろ中日である。最近、特に私立大学では15回授業の厳格化が定着し、今日もまた、立命館大学では授業日となっている。加えて、7日の土曜日は火曜日の授業日という変則開講だ。ちなみに同志社大学は休日である。
 そうした中、夕方に朱雀キャンパスに向かい、立命館災害復興支援室への協力を申し出ていただいた方との打合せだった。熊本地震に対する組織的な動きを評価いただいて、30日の夜にメールをいただいたのだ。連休の谷間なものの、通常授業日ということもあって、間を空くことなくお目にかかった、という具合である。こうしたお申し出と、34万人の卒業生がうまく重ねれば、などと思いが膨らむ打合せとなった。
 夜は混み合う連休の京都に福島県楢葉町から遊びに来られた方を、楢葉で活動する学生たちが迎え入れることとなり、その宴席にお邪魔した。「アイリッシュパブでビールをご一緒しましょう」という積年の約束を叶えることもできた。こどもたちの絵が並ぶ近所のスーパーで気が和らいだ昼、夜は学生らの話を楽しんだ。動いてばかりの休日だが、休養の場を重ねている。

2016年5月1日日曜日

フォーマットを定めて続けること

 5月になった。そもそもブログは、大学コンソーシアム京都に在職時に内藤裕紀くんらと出会い、後に彼らが開発した「マイプロフィール」が面白そう、と始めた。卒業研究の際、指導教員の「右手にインターネット、左手にワークショップ」の方針もあり、自分のホームページを作っていたが、更新が大変だった。一方で後に「ドリコムブログ」となるシステム(さらにその後、ライブドアに事業譲渡)の手軽さに圧巻だった。
 この1ヶ月、ブログが続いている。iPhone以前はmixiに、その後はTwitterが主となった。今は、複数のサービスを効果的に使えている気がする。仕事と暮らしの両面で道具としての使いこなしに、身体が慣れてきたと、言える気がしている。。
 昨晩、盛青年商工会の皆さんと懇談した。立命館大学生も4年にわたりお世話になっている「灯ろう七夕まつり」の打合せであった。「俺の意見は変わらないよ、後は会長の判断だ」など、いわゆるガチンコの議論の場に身を置いた。そこではFacebookでつながりあい、縁を深めた。
 この1ヶ月のブログは、應典院寺町倶楽部の会報「サリュ」の56号から102号まで担当した「アトセツ」の形を借りている。写真は1ヶ月間、同じカメラで縦横を統一して撮るという、昨年続けた習慣を踏襲している。今日の写真は朝見た大船渡の防潮堤の写真だ。時は流れ、技術は進化するが、果たしてそれが幸せを導くか、堤の上の鳥の佇まいから思いを馳せた。

2016年4月30日土曜日

人とまちの自慢を巡る

 立命館大学による大船渡での「学びにきゃっせん!」を受け、今日は朝からまち歩きが行われた。ただ、大船渡は広い。人が歩くだけでは済まず、車で回ることとなった。巡るコースは、前日のワークショップにて、7つのテーマでの議論を通じて示された地域の誇りを紡いだものだ。昨夕、終了直後に編み上げた。
 まずは毎月5と0のつく日に催されている盛の木町市場にお邪魔した。100年ほどの歴史があり、以前は列車で行商の方が、今は軽トラックなどで、海や山の幸、また手作りの荒物、その他、服や靴も売られている。観光ではなく生活の市の賑わいに浸った。
 今回は泊まりが大船渡プラザホテルだったので、盛にはBRTで往復した。市で買ったものを携え、更に買い物をするサン・リアに立ち寄り、一旦、大船渡駅まで戻った。そして5回目の百縁商店街で賑わう、おおふなと夢商店街にお邪魔した。各店舗の企画に加え、いわて銀河鉄道のミニSL・電車や、釜石の陸上自衛隊などに、おひとりさまも、家族連れも興じていた。
 まち巡りは大船渡市役所から佐々木さんと佐藤さんに加え、キャッセン大船渡の臂さんとご一緒だったので、濃密な1日となった。昼食は綾里の「たんぽぽ」でドラゴンラーメン、そのまま気仙大工による入母屋造りの家々を散策、名工による気仙丸を間際の岸から眺め、対岸の丸森まで足を伸ばし、寿限無の森にて童心に帰った。大船渡温泉で疲れを癒し、盛青年商工会の方々との懇談と続いた。

2016年4月29日金曜日

復興ムードからまちづくりモードへ

 2016年4月29日、岩手県大船渡市・立命館大学の包括連携協定が結ばれた。2012年4月24日に締結した「災害復興にむけた連携協力に関する協定」が満了したことによる。当時、現地のお祭りなどへの参画、仮設住宅での傾聴活動に加え、「狭い空間での持久力・筋力・柔軟性トレーニング」研究等が評価されての協定だった。以来4年、包括協定への移行となった。
 協定締結を記念して、「学びにきゃっせん!」と題した記念企画をリアスホールにて開催した。「きゃっせん」とは「いらっしゃい」という意味である。既に大船渡市により設立が進められたまちづくり会社「株式会社キャッセン大船渡」にちなんでいる。今回は塩崎賢明先生の「復興と減災―東日本大震災の5年とこれからー」と題した講演、私が進行役でまちの誇りを語り合うワークショップ「大船渡の○○自慢」を行った。
 ちなみに締結式後の懇談会では、戸田市長吉田学長がそれぞれ言葉を述べたが、共にまちづくりに力点を置いた展開を展望として語った。実は、今回の「学びにきゃっせん!」は、今後の「まちづくり勉強会」(仮称)の試行的実践である。実際、ワークショップで紡ぎだされた「誇り」を、明日、立命館のメンバーが実地で追体験する。成果はフォトブックにする。
 震災から5年が経ち、いつまでも被災地ではない。よって、被災者の立場に追いやってはならない。にしても今日はよく笑った。共に笑い合える仲間を大事にしていこう。


2016年4月28日木曜日

支援のパッケージ化・支援者の消費者化

 熊本や大分での揺れが止まらない。震源域の移動も続くことから、沖縄や四国、あるいは関西や関東までの広がりを指摘する声もある。地震の発生原理については理学的にも工学的にも解明できる。しかし、地震の予知は科学的な命題として成り立つものの、果たして法則を導き出しうるのか、定かでははない。
 地震が続く中で求められることは、新たな被害を抑えるための支援だ。事実、自治体や自衛隊はもとより、民間団体も懸命に動いている。一方で行方不明者の捜索が継続中で、度重なる余震、断水、宿泊場所の限りなどから、ボランティアを抑える声が今もある。そんな中、立命館大学では旅費支援を開始し、本日のサービスラーニングセンターボランティアガイダンスには合計57名の参加を得た。
 阪神・淡路大震災の際、ボランティア元年と言われた。東日本大震災では組織的な支援が際立った。個人的な行為に加えて組織的な行動に視点が集まった。クラウドファンディングが活用されたことからも、市民公益活動元年という言い方もできよう。
 あれから22年が経つ。その間、市民社会の担い手を育てるはずが、育てる主体が固定化し、育てられる対象が主体にならない構図が生まれているのではなかろうか。言わば、支援のパッケージ化と支援者の消費者化が進んでいるのだ。今日の夕方、きょうとNPOセンターの役員コア会議があったのだが、ここでも熊本地震への支援についての議題が上がり、痛感した。

2016年4月27日水曜日

準備時間における反比例の原理

 現在通っている英語のクラスでは、3ヶ月に1回程度、発表機会が設けられている。あくまで自主性なので、発表しなくてもよい。その場合はTad先生から受講生に多くの問いが投げかけられる。逆に発表者となると、受講生側に多くの気づきをもとにして問いを投げかける役を担う。
 今週は私が発表する回だった。回ってきたのではなく、自ら志願しての回である。ただし発表内容は2週間前に、Tad先生が直近のニューヨークタイムズから選んだ記事に投票することで決められる。今回はパナマ文書にまつわるジャーナリズムが扱われた。
 以前、ラジオのパーソナリティーの方だったか「3時間番組は3分の準備でも可能だが、3分番組には3時間の準備が必要」という類の話をされていた。同感である。英語の発表は15分だが、この原則にのれば、15時間くらい準備してよいだろう。感覚的だが、1時間を境に、持ち時間に対して必要とされる準備時間は短くてよい気がする。
 午後には立命館大学BKCで学生たちの対話を見守り、中京区役所での「マチビトCafe」に急いだ。サービスラーニングセンター科目の中京区での活動に参加する受講生らに参加が呼びかけられたためだが、そこでは約2時間の議論に、相当の準備が重ねられていた。その後は、福島から立命館大学に着任した教員らと福島で活動する学生らの懇談・懇親会に向かった。1時間を超える場への準備には、それまで積み重ねた日数が問われると確信した。

2016年4月26日火曜日

開かせず開くように

 「楽勝科目」などと言われる立命館大学サービスラーニングセンター科目「地域参加学習入門」だが、シラバスは緻密に設計され、内容も硬派である。回を重ねるごとに、受講生らには世の中への態度や見識が問われる。何より大講義にもかかわらず、毎回グループワークが入る。しかもグループのメンバーや人数は固定されず、毎回お題の趣向も異なるため、「ぼっち」を好む学生は苦痛でしかない。
 先週は選挙制度から自治を問うた。毎回、地域参加学習入門では、落語でいうマクラの部分で、前回との接続を感想用紙と映像で行う。そのため、今回は2007年の東京都知事選挙における外山恒一候補の政見放送を用いた。大爆笑となる年があるのに対し、感想用紙には「怖かった」と文字が多々あったことからも、合わなかったとみえる。
 そもそも立命館大学のサービスラーニングは「社会で学ぶ自己形成科目」の位置づけである。よって、地域参加学習入門以外でも、毎回、他者と関わる。他者を通じて自分を見つめるのだ。そのため、2限は「気になっていること」を、3限は「熊本地震の報道でわからないこと」を、4限は「自分にとってのインターンのイメージ」を、5限は「時代祭への構え」を、6限は「国際交流とは何をすることなのか」が問われた。
 殻に包まれる方が楽なときもあろう。安心もできよう。しかし、周りに閉ざし続けるのは楽ではない。無論、開かせるよりも、開くよう促すこともまた、楽ではないのだ。

2016年4月25日月曜日

風土への配慮

 別府で朝を迎えた。昨晩、博多経由で移動したのだ。しかし、特急ソニックの車内にショルダーポーチを置き忘れた。晩ご飯をご馳走いただいた立命館大学アジア太平洋大学(APU)の今村正治副学長は「またか」と苦笑した。
 そして朝、8時30分には、APUのキャンパスに足を運んだ。この日、熊本地震による休講があけ、スチューデント・オフィスのスタッフらの呼びかけで、学長・副学長・学部長をはじめ、多くの教職員が「welcome back!」や「おかえり!」と、声を掛け合って学生らを迎え入れることとなった。立命館大学と同一法人なのだが、長年にわたり織りなされた組織文化が、こうした気風を生み出していると確信する。実に温かく、そしてうらやましい。
 心地よい雰囲気に浸りつつ、午前中はスチューデント・オフィスの皆さんと、今回の地震に対する支援で意見交換を行った。既に立命館大学の学生オフィスから、休講中の学生対応のため、英語対応な可能なカウンセラーが応援にやってきていた。意見交換では学生たちの「したい」を支える枠組みをどうするかが論点となった。APUの風土もあり、学園の意向を無理強いしない、学生に押しつけない、今後の支援に余波を出さないことを基軸に据えた。
 余震も続く。しかしAPUの気風を受けた学生らがいち早く始めた募金活動は、新たな行動を生み出そうともしている。大地の揺れは、多様な面で思いも揺さぶる。支援者をどう支援するかが鍵だ。

2016年4月24日日曜日

避難生活の先の新しい日常を

 4月24日、熊本へ向かった。全国コミュニティ財団協会の深尾昌峰会長(龍谷大学政策学部准教授)と、石原達也事務局長(岡山NPOセンター副代表理事)によるヒアリングに同行させて頂いた。4月14日の地震発生から10日、朝8時の時点で震度7が2回、震度4以上が93回、震度1以上となると850回を超え、支援の長期化は確実である。この数字は移動中にラジオ同時中継のNHK「日曜討論」で紹介されたものだ。
 思えば、阪神・淡路大震災では1週間後、立命館大学の緊急調査チームの学生随行として芦屋などを訪れた。各種の支援で多忙な中、言葉を失う風景に現地の自治体の方に説明をいただくなどしたが、土木工学や都市計画の専門家らが専門用語を重ねて解釈していた。その姿に違和感を抱いた。結果、専門を変えた。
 前日の正午頃に博多〜熊本間が運行再開となった九州新幹線は1時間に1本の臨時ダイヤだった。熊本駅で九州環境サポートセンターの宮原美智子理事長と合流し、くらしデザイン研究所MAMの方々と北区の一般社団法人「ココロの学校オルタナ」にお邪魔した。続いて熊本市東区の一般社団法人フミダスにて濱本伸司代表と意見交換をした。そして西区の肥後計量器に、上土井章仁さんを訪ねた。
 縁はありがたい。ヒアリングでは避難場所と避難所の違いを痛感した。生き残った方が死を選ばぬよう、ミクロな支援拠点が非日常の暮らしを支えていた。避難生活のその先を、共に展望したい。


2016年4月23日土曜日

故郷で文化の担い手を

 故郷に錦を飾る、という成句がある。錦の御旗、などと言えば、権威を張った卑しい振る舞いとしても語られる。ともあれ、今朝は故郷に向かった。始発ではないが、新幹線で浜松に降り立った。
 今年2月から、浜松市役所文化政策課による「みんなのはままつ創造プロジェクト」の審査員をさせていただいている。この3年、アートNPOリンクの樋口貞幸さんが務めてこられた部分を引き継ぐかたちとなった。共に大阪でのアーツカウンシルに関する勉強会などでご一緒してきたこともあり、自治体文化政策の推進にあたり、機微をうがつことが出来ている気がしている。にしても、大役である。
 かつて、どの漫画か忘れたが、故郷に帰った偉人が幼少の頃のあだ名で呼ばれて、やりにくそうにしている場面が描かれていたことをよく覚えている。なぜ立命館大学の教員が審査員を引き継いだのかと疑問が抱かれたとき、肩書きの上では京都から来たという点しか共通項がないと思われるだろう。しかし、私が磐田の出身であることを告げると、確かに反応がある。大阪アーツカウンシルの構想設計に携わっていた等、経歴を紹介すれば、更に反応がある。
 今日、新旧採択団体の顔合わせ会で、地域の創造的な活動とは「存在を伝えていく喜び」だと樋口さんは語った。続けて、それが「一人でも伝わることで、一人の主体者が生まれる」と述べた。文化の消費者を生むのではないという主張である。確かに、と思いつつ、博多へと向かった。

2016年4月22日金曜日

情緒的な拒否感や理性的な批判に

 月曜日の会議の欠席にかかわっての、立命館大学の教学部長と面談から一日が始まった。2点、会議を軽視せずに緊急の案件があればこそ手続きを踏むように、活動ばかりでなく教育・研究にも勤しむようにと導いていただいた。 改めて、自分がこれまでもこれからも向き合うであろう復興支援、また今まさに動いている緊急時の救援活動は、否定や批判をしにくいものであるからこそ、押しつけに対しては情緒的な拒否感や理性的な批判を生むことを肝に銘じねばならないと痛感した。
 昼前には朱雀キャンパスに向かった。まず、全国要約筆記問題研究会の皆さんとの打合せとなった。阪神・淡路大震災当時からの盟友、谷内博史くんの仲介で、6月に大阪で開催される研修会の講師を依頼頂いたのだ。音声情報のバリアフリーを掲げる会の基礎力を見つめ直す場に、だ。
 昼食は名古屋からお越しいただいた全要研の方とご一緒して、昼からは立命館災害復興支援室の定例会議だった。熊本・大分への支援についての情報共有と意見効果が行われた。週明け、大きく動くこととなる。そのため、週末に現地入りすることとなった。
 夜はBKCで、5がつの連休に岩手県大船渡市に行く学生団体の事前研修を担った。途中、悲鳴をあげていた身体をほぐしに、行きつけの鍼灸治療院に行った。少しだけ楽になった身体で臨んだ研修の最後は「恩送り」の言葉で結んだ。無自覚のうちに壮大な贈与のリレーが重ねられることで、復興はもたらされる。

2016年4月21日木曜日

共に感じ苦しむ現場でのたたずまい

 労働(labor)と仕事(work)と活動(action)は違うことを、ハンナ・アーレントが『人間の条件』で示している。労働は嫌でも対価を生み、仕事は自ずと成果を生み、活動は後に物語を生む、という具合である。このことは既に2011年10月7日に「活動的生活」で動くより、考える「観照的生活」を増やしたい、とつぶやいた。この思いは今も変わらない。
 昨晩、塩谷集落の住民らによる活動団体「塩谷分校」の定例会では、活動の話よりも生活の話が多く語られた。それも日常生活ではなく、新潟県中越地震の際の避難生活が中心となった。渥美公秀先生が熊本の状況を報告されたのが契機となった。始めて触れる話に関心が向いたが、11年経った今もよく覚えておられることが印象的だった。
 長岡から京都に戻る途中、東京で降りた。久々に、八重洲ブックセンターに立ち寄ったのだ。立命館の広報課を通して、フジテレビの番組への電話出演の依頼をいただいたためだ。聞き手が国際政治学者の三浦瑠麗さんと聞き、何冊かを求めたのである。
 京都に戻ると、衣笠キャンパスにて、立命館大学サービスラーニングセンター科目の「全学インターンシップ」のオリエンテーションを担当した。その後、今後の打合せをして、番組出演に備えた。三浦さんの著書の冒頭で「コンパッション」が語られていたので、熊本や大分の支援でも共に苦しむことが大事、と示した。何をするかより、たたずまいを大事にしたい。

2016年4月20日水曜日

四角い部屋を丸く掃く

 本音と建て前、両者は対置されて語られる。水曜日ゆえに、朝は英語のレッスンだった。今日のお題はドイツ・メルケル首相の難民支援についてであった。小説家、ダニエル・カールマンによる記事では、国を危機に追いやったと中傷する人がいるものの、良心(conscience)に基づく行為が、結果としてヨーロッパを救った、と示された。
 午後からは新潟・小千谷の塩谷集落へと向かった。先に入っていた大阪大学の渥美公秀先生と長岡駅で合流した。このところ、共同研究者のあいだで経費分担をする流れがあり、今回は渥美先生の研究費にお世話になった。車中、先週末の熊本の様子を伺い、私からはインターネットの世界でどういう言説が重ねられているかを紹介した。
 塩谷では来月の田植え交流会の段取りを詰め、収穫後のお米の扱い方について意見交換を行うことになったが、住民の皆さんから、熊本の話をぜひ、という流れになった。2004年の新潟県中越地震で大きな被害を受けた皆さんゆえに、何かしたい、という思いが根差している。実際、塩谷では集落を出る選択をした方々が役職者に就いている団体「芒種庵を創る会」が、刈羽村や南相馬市、さらには楢葉町との交流を重ねている。今回も、何か動くだろう。
 渥美先生によれば、現地は「四角い部屋を丸く掃いている感じ」という。度重なる地震が続き、支援拠点の整備も容易でない。時間の経過にあわせた支援はいかに可能か。経験知が問われている。

2016年4月19日火曜日

今日の漢字

 火曜日は立命館大学衣笠キャンパスでの講義が続く。2限、3限、5限、6限と4つである。加えて今日は合間の4限に「全学インターンシップ」という、時間割に固定されない科目の説明会を兼ねた初回講義が行われた。食後のコーヒーを飲む位の余裕はあったランチは、2限の講義補助にあたる大学院生と、今日のサービスをいただいた。
 2限の講義「地域参加学習入門」では、毎回のキーワードを漢字一文字で示すようにしている。当然、シラバスにも漢字一文字が15個並んでいる。毎年、暮れに清水寺で発表される「今年の漢字」に触発されての趣向である。この一風変わったシラバスから興味を持って受講を希望したという学生に時々出会う。
 今日の漢字は「風」であった。和辻哲郎さんの風土論などを下敷きにしつつ、地域に変化をもたらす「風の人」となって欲しいと期待をかける構成とした。まずは先週のコミュニケーションカードから質問や紹介希望のコメントを示し、短い動画へとつないで本題に入る。約20分、落語で言うマクラの出来次第で、受講生がテーマに引き込まれるかどうかが左右される。
 今日は時代の語られ方がテーマだった。2010年の無縁社会、2014年の極点社会など、だ。統計も駆使して関心を訴えた。最後はマイケル・ムーア監督の作品「The Choice」を観て、2人組の対話とした。終了後、教学部長から呼び出しのメールが届き、自らに吹く風を感じた。

2016年4月18日月曜日

悪い連鎖

 昨晩は唐桑御殿つなかんにて、笑いの絶えない夕食会となった。唐桑・鮪立のツリーハウスで行われたピクニックのスタッフの皆さんの反省会にご一緒させていただいたのだ。台湾からワーキングホリデーで手伝いに来ているソウさんの創作料理に舌鼓、そして女将の一代さんの軽妙な語りに大爆笑となった。桜咲く東北にお邪魔してよかった。
 しかし、京都への帰路で誤算が続く。まずは朝食の後、発災当初に結んだ支援プログラムに関する相談に乗った。加えて、今回の熊本地震に支援したい人への文書を作成することになった。既に立命館災害復興支援室として15日の朝に記し、夕方に発表したものがあるのだが、それに続く第2報である。特に大分にも被害が広がったためだ。
 結果として、気仙沼を出る時間が遅くなり、さらには仙台空港への移動中にも、複数の相手とのやりとりが重ねられた。レンタカーで向かったこともあり、結局は三本木パーキングエリアに停車してのやりとりで、当初の便で戻ることは断念、後の便を取り直すことにした。よって14時からの会議はやむなく欠席となった。その分、文書作成に集中させていただいた。
 熊本・大分への支援は長期に及ぶ。NHKのラジオ第1放送での衆議院のTPP特別委員会の中継で、早期の激甚災害の指定に議論が及んでいた。途中、日本国内で唯一稼働中の九州電力川内原子力発電所の停止の話題は出なかった。夜の同志社の講義を終えると、しばし脱力感に浸った。


2016年4月17日日曜日

桜が咲くころ

 昨日から今日へと日付が変わるころ、東京から夜行バスで仙台に向かった。仙台には東日本大震災の前から何度も訪れているが、この旅程では初である。大熊由紀子さんの「えにしの会」に参加し、これまた初となる居酒屋懇親会まで参加して、八重洲南口からバスに乗車した。5時間30分あまりの旅であった。
 仙台駅東口到着後、いわゆる漫画喫茶で休憩した。シャワーを浴び、飲み物をいただき、マッサージチェアで身体をほぐした。そして看板どおり、漫画に手を伸ばした。ただ、伸ばした先が高校時代に週刊の少年誌で発売日ごとに読んでいた『スラムダンク』の22巻から23巻だったことが災いして読書に熱中、見事に予定の列車に乗り遅れた。
 結局仙台駅からは大船渡行きの高速バスで気仙沼に入った。あいにくの天気だが、つばきマラソンのこの日、一般社団法人リアス観光プラットフォームの企画で「ちょいのぞき気仙沼」が市内各地で開催されていた。私は昨年8月7日にお披露目となった唐桑の鮪立にあるツリーハウスでのピクニックにお邪魔した。どのように活用されているかのフィールドワークである。
 馴染みの皆さんとの再会を楽しみながら、多くの来場者が楽しむ様子を垣間見、心は穏やかになった。ツリーハウスの上に咲く山桜も愛でた。住宅建設などで地形が変わったためか、18時を告げる防災無線システムでの放送の声が、以前とは違ってこだましたように思えた。熊本も大分も安らぎの日の訪れを願う。

2016年4月16日土曜日

えにしの留め金

 熊本のことが気になりながら、朝から東京へ向かった。年中行事の一つ、「ことしもまた、縁を結ぶ会」に参加のためである。今は国際医療福祉大学にお勤めの大熊由紀子さんが呼びかける会だ。私は2002年度から2004年度まで、大阪大学大学院の人間科学研究科に社会人院生で学んだことが縁となっている。
 私は大阪大学も母校の一つである。渥美公秀先生のもと3年間、地域共生論と掲げられた研究室で学び、修了し早11年になる。入学当初、全院生・教員の合同合宿「チャンプール」でのラウンドトークで、「さん付けでどうぞ」と、隣に座られた由紀子さんはソーシャルサービス論の担当だった。そんな多彩な院生・教員・職員・研究テーマが並んだボランティア人間科学講座は、既にない。
 「カメラが得意なら、記録のお手伝いを」と投げかけられ、撮影にお邪魔して10年になる。毎年、300人程が内幸町の日本プレスセンタービルの10階に集う。阪大時代に圧倒された多彩さを追体験しているようで、実に学びと気づきの深い場である。中でも私は福祉と医療の分野での挑戦者たちの気迫とファインダー越しに向き合えている。
 同志社では4期にわたりゼミを担当したため、明確に弟子がいるが、立命館では教養担当ゆえ、それは叶わない。ただ、こうした場に参加すると学界での親戚のような方々とつながりあえる楽しみがある。先輩や後輩との再会もある。由紀子さんが留め金の縁、来年への期待も大きい。

2016年4月15日金曜日

行くことを妨げぬよう・行くことで妨げぬよう

 「天災は忘れた頃にやってくる」とはよく言ったものだ。寺田寅彦のことばと言われている。同じ場所で忘れたころにやってくるだけでなく、思いもよらない場所で突然やってくるものである。それは昨日、2016年4月14日、熊本での地震でも痛感した。
 春の夜、家では晩酌を、まちでは宴席を、場合によっては残業をしている方も、こどもたちは塾で勉強を、など、それぞれの時間を過ごしていたことだろう。震源の浅い内陸型の大規模地震であった。行方不明者の発表がないが、亡くなった方のお名前が程なく伝えられることになった。今後も余震に見舞われることで、家屋倒壊はますます増えるだろう。物的被害だけでなく、精神的な不安が体調不良をもたらすと推察できる。
 今日は後輩とランチを一緒にする予定が入っていたが、「延期しましょうか?」という伺いのメッセージが真夜中に届いていた。私の振るまいを察してのことである。しかし、これまでの災害でも即座に駆けつけることはしてこなかった。むしろ、長期にわたる支援に備える姿勢である。
 午前中、京都よりは震源かつ被災された地域に近い別府から、立命館アジア太平洋大学のスチューデント・オフィスの方から電話が入った。土日に現地で活動したいという学生たちがいるので、何らかの助言が欲しいのと、指針となる文書はないか、という問い合わせだった。ちょうど昼から災害復興支援室の会議ゆえ、学生らを思い起草した。長い散文に思いを込めた。

2016年4月14日木曜日

一穴

 今日は「針の一穴」にやられた。何のことはない、自転車の前輪がパンクしたという話である。パンクの修理をお願いしたところ、どこかで7mm程度の金属片を踏んでいたようだった。このところ空気を入れても徐々に抜けてしまう傾向にあったが、刺さった金属片と小さく空いた穴と、チューブ内の空気圧とが絶妙なバランスを保ったとき、何とか事なきを得て走ることができていたのだった。
 自動車、二輪車、自転車、多くの乗り物を持っている。身体は一つなのに、だ。輸送機械メーカーに勤務していた父の影響もあろう。ともあれ、乗り物が多い環境ゆえ、社会運動の担い手について、その主体の有り様に対して自転車型(自由度の高い任意団体)、二輪者型(小回りの利くNPO法人等)、トラック型(多彩な事業を展開していく株式会社等)と、乗り物の比喩を用いて語る時もある。
 ともあれ、どんな乗り物でも、原始的な技術が延々と使われ続けていることがある。航空機の操縦席も雨よけはワイパーである。多くの自動車はチューブレスタイヤになってきてはいる。が、今回「千丈の堤も蟻の一穴から」の如く、チューブがやられた。
 夕方、空気漏れのない自転車で立命館大学の衣笠キャンパスに向かった。まず、楢葉に関わる「そよ風届け隊」の会議に陪席した。続いてサービスラーニングセンター「全学インターンシップ」オリエンテーションだった。そして夜、楽しい宴席の中、熊本のニュースに思いが揺れた。

2016年4月13日水曜日

電気の力に頼る虚しさ

 今週も水曜日は朝の英語のレッスンから始まる。わざわざ大阪まで行くのは、自分に合うクラスに出会えたためである。時事問題を通じて英語に触れるという趣向なのだ。話題とするテーマは2週間前に投票で選ぶこととされ、今週はオバマ米大統領のキューバ訪問に関わるものだった。
 英語のレッスンの後は、立命館大学びわこ・くさつキャンパスへと向かった。サービスラーニングセンター科目である「シチズンシップ・スタディーズI」のガイダンスのためである。BKCで担当しているのは、2010年に始まった「草津街あかり華あかり夢あかり」でのプロジェクトだ。例年、過年度の受講生がサポート役を買って出ていて、今年度は一昨年の受講生が公式に、昨年の受講生が非公式に支え役に就いた。
 BKCに向かう途中、日曜日に修理に出していた車を引き取った。モーターの異常で運転席側のパワーウインドウが動かなくなっていたのだ。車齢28年になる愛車ゆえ、既に純正パーツは払底、リンク品もなく、頼りは中古部品なのだが、モーター単独はもとよりレギュレーター一式で探しても、皆が求めるのか、運転席側は見つからない。今回は助手席用のパーツを解体し、モーター内のブラシとギアの移植をいただいた。
 約4ヶ月のあいだ、運転席の窓が開かない状態が続いていた。手動のハンドルであれば、こうした悩みは生まれない。便利さの見返りだ。ものを長く愛するなら、非電化製品に限るのかもしれない。

2016年4月12日火曜日

前期セメスターの始まり

 今日から立命館の前期セメスター担当科目が始まった。変わらず、火曜日と水曜日が出講日である。特に火曜日は4コマを担当させていただいている。集約型の労働などと言うとお叱りの言葉もいただきそうだが、こうして出張できる余裕をいただいてきた。
 2限「地域参加学習入門」は、今、担当している唯一の大講義である。そもそも小集団科目を重視する傾向もあって、多様な教授法を磨くためには貴重な機会をいただけているように思う。後で知ったことだが、今年は400人の定員に対して1155人が受講登録をしたとのことである。一方で、学生たちには「時間の無駄」「楽単」「カモ」などと評されることもあり、その結果が受講希望数を押し上げ、履修の機会を奪っているように思い、恐縮の限りだ。
 続く3限と5限は、サービスラーニングセンターの中核をなす「シチズンシップ・スタディーズI」である。年6回は講義形式で行うが、その他の時間は「コアタイム」と称して受講生たちが自らの学びのコミュニティを豊かにするための場としている。学校の比喩を使うなら「部活動」の時間だ。そうして深まった縁は、講義終了後も続くことがあり、今晩も中京区役所で活動した学生らの懇親会が催され、遅れて駆けつけた。
 6限は「シチズンシップ・スタディーズII」である。その名の通りIの発展版だ。今年度はわずか4名の受講である。が、企画力とリーダーシップを、共に磨いていく。